「遊び」と「勉強」は対立しない
昨日、中公新書の『知的好奇心』を取り上げたが、元々は「遊びの効用」についてメモしていたからだ。
子ども科学教室に参加してる子どもたちは、遊びと学習を区別していなかっただろう幼児は、遊びと学びを区別することなく日に日に知識や生活能力を獲得していく。
◆もともと「遊び」は、新しい技能の獲得や習熟と結びついている。遊んでいる人間や動物にとっては、それは自己目的性を持つのだが、結果として能力がのびていないかぎり、遊びの楽しさは急速に失われれいくらしい。
たとえば、人間の幼児に新しい技術を獲得するたびに、その技術を用いること、自分の能力を示すことに喜びを感じるかのように、あるいはそれによってもたらされる新しい情報を楽しむかのように。それをあきることなく繰り返す。これは、それに関係した機能にとって、絶好の練習の機会となる。というのあ、この繰り返しが、喜びを持って行われるからだ。
はじめて自転車に乗れるようになった子どもは、それがうれしくて、どこにでも自転車に乗っていきたがる。これは一つには、人に見てもらいためであろうが、それ以上に自分の獲得したばかりの能力を発揮したいからなのである。だれに注目してくれなくとも、自転車に乗って走ること自体が、その子どもにとっての遊びであり、新しい感覚と有能さの自覚を通して大きな喜びをもたらす。そして、同時に、その子どもの自転車乗りの技術は、いっそう確実な、安定したものになっていく。
(中略)人間が遊ぶ能力を失わない、というのは、こう考えると大変すばらしいことといえる。一方ではそれは、人間が一生涯学習能力を持ち続けることを意味している。また逆に、人間は遊ぶおかげで、種々の能力をますますのばしていく機会を持つことになる。(P73/74)
◆子どもは、適度に新奇な物に出会うと、積極的にそれに近づいていってくわしく調べてみようとする。疑問に感じたときには、それを解決してくれそうな人をさがして質問したり、本をしらべてみようとする。これらは、いいかえれば、知的好奇心をみたしてくれるものへの「好み」といえるだろう。こうして接近した対象が、その後も同じような場面で、いつも知的好奇心をみたしてくれることが多ければ、その対象への「愛着」もあいてこようというものだ(P55/56)。
・・・「遊び」には義務はない。それでも夢中になれるのは、「楽しいから」あるいは「自分の役に立つからか」だ。
しかし、学校に通い「学び」が義務になってしまうと、とたんに意欲がなくなっていくことが多い。
「趣味」を「仕事」にした途端、楽しさが奪われてしまったという大人も多い。
内発的動機付けの要素で言えば、
(1)そもそも、与えられた「学び」は、「自律性への欲求(自己決定したい)」が満たされない。
(2)自分の興味のない分野で、何かができるようになったとしても「有能感」を自覚できない。
本来「遊び」と「勉強」は対立しないのだから、子どもたちが遊びの中で「面白そうだな」「もっとやってみたいな」と夢中になる要素を分析し、それを授業に生かしていかないといけない。
と、ここで先のダイアリーの最後に引用した部分と重なってくる。
。
◆指導するおとな自身が知的好奇心の強い存在になることが必要だ。子どもにいくら新しい物に積極的に取り組むことをすすめても、その当人が、未知の場面、不慣れな場面を避けてばかりいては困る。
おとなのそうした態度は、いつのまにか子どもに伝わってしまうからだ。(P110)
教師自身が、さまざな事象に挑戦し「面白そうだな」「もっとやってみたいな」という意欲を持っていないと、子どもを夢中にさせる術は持てないということだ。
教師は「知りたがり・やりたがり」であるべきなのだ。
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