子どもの理屈は「帰納的」ではなく「演繹的」
(1)A君もスマホを持っている
(2)B君もスマホを持っている
(3)みんなスマホを持っている
※ だからの僕にもスマホを買ってほしい。
という「みんな持っている」型の子どもの理屈がある。
これは個別事例を列挙して一般的な法則性を主張する「帰納的論証」の論法である。
しかし、この「帰納型」の特徴は「反例(例外)」が1つ出てきたら、もう成り立たなくなる点にある。
したがって、この場合、「自分はスマホを持っていない」という事実がある以上、「みんなスマホを持っている」という主張は成り立っていないことになる。
この「子どもの理屈」は「帰納的論証」で考えると破たんしている。
では「演繹的論証」として考えたらどうなるか。
演繹的論証は、いわゆる「三段論法」で、
(1)確定的な事実や一般的法則に
(2)個別的な事案が含まれる場合
(3)個別的な主張は、その正しさが保障される
いう流れになっている。
今回の例で言うと
(1)今の日本の小学生は全員スマホを持っている。
(2)私は日本の小学生である。
(3)ならば、私はスマホを持っている。
ということになるが、それでも「みんな持っているよ」というならば、私は既にもっていなくてはならないわけだから、論理が破綻してしまう。
ただし、少し譲歩して、「子どもの理屈」を支援すると、結構いけそうなのだ。
(1)今の日本の 多くの 小学生は全員スマホを持っている。
(2)私は日本の小学生である。
(3)ならば、私はスマホを持ってもおかしくない。
(1)私の周囲の友人は 全員スマホを持っている。
(2)私は周囲の友人と何ら変わりのない人間である。
(3)ならば、私はスマホを持っていてもおかしくない。
というように、「自分を含まない『全員』がスマホを持っている」ことを示すために限定表現を加えてみると
◆「多く」が「5割」だったり「9割」だったりと、数値で実証できれば主張が説得力をもつ。
◆「私の周囲の友人」という指定範囲が相手を納得させるものであれば主張が説得力をもつ。
ということにある。
子どもの理屈」は、帰納的ではなく演繹的な論法に基づいている。
ただし包含関係にあるべき「一般的事実」と「個別事案」が含みきれていないので、演繹型論証としては正しくはないのだが、
(1)「ほとんどは・大半は」といった付帯条件iに説得力があれば、親は認めてもいい。
(2)演繹的な論証に挑戦しているその努力を親は認めてもいい。
論理トレーニングの一環として、子どもの説得力を見極めて応対してやればよいと思う。
ただし、大人になって「普通は〇〇ですよ」」「いまどきの誰でも持ってますよ」といった、あたかも全員が含まれるような演繹的なセールストークを展開してきたら、数字的根拠を要求するなどしっかり突っ込んでロジカルに応対したい。
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