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January 08, 2018

教師は「教える」をやめたら何をすればよいのか?

 SAPIOの1月号で、大前研一氏がこれからの教育や教師の有りようについて述べている。

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 さらに教師もいらなくなる。今の小学校・中学校・高校の先生は文部科学省が定めた学習指導要領に従って教えている。ということは、学習指導要領に準拠した「AI先生」が登場すれば、それで事足りるし、自宅でパソコンやスマホなどを使って勉強することもできるので、わざわざ学校に行って授業を受ける必要はない。
 ただし、そもそも学習指導要領に基づいた画一化教育は、日本が世界に羽ばたいて活躍できる人材を生み出せない最大の原因になっている。20世紀の大量生産・大量消費時代は画一化教育で均一的な人間を作っていればよかったが、それではボーダーレスな厳しい世界競争の中で生き残ってくことはできない。均質的な人間が使いこなせるような仕事はすべてAIやロボットに置き換えられていき、それ以外の領域で能力を発揮できる人間しか富を創出することができなくなるからだ。にもかかわらず、日本の場合は依然として時代遅れの学習指導要領に従って、スマホがあれば答えが分かるようなことばかり教えている。
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・・・現行の学習指導要領が時代遅れだとの指摘はやむを得ない
新学習指導要領は次世代を念頭に置いており、AIに代替えされない人間を育てるためには、暗記型学力では通用しないことを主張しているが、まだ移行段階だ。
 それにしても、大前氏が述べるような危機感を現場の教師は共有できているかどうか、新学習指導要領の意味を共有できているかどうかが問われている。目先の授業準備に埋没するのではなく、日本の未来を見据えてもらわなくては困るのだ。
 大前氏の論はさらに続く。

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 一方、世界の先進国の多くは、とっくの昔に21世紀に対応した教育システムに移行している。たとえばデンマークは、約20年前に「ティーチ(教える)という概念を教室から追放した。
 なぜか?
 教えるという概念の前提は、教える人が答えを知っているということであり、教えられる人はその答えを覚えるだけになってしまうため、自分で考える能力がなくなる。答えを覚えることは人間よりコンピュータのほうが得意だから、コンピュータにできないことができる人間を育てなければ、国際的な競争力を失ってしまう。そう気づいたからである。
 そしてデンマークは、先生を「ティーチャー」と呼ぶこともやめた。生徒が自分で考えることを助けるという意味の「ファシリテーター(促進者)」に変えたのである。
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・・・「ファシリテーター」という語は知っていたが、「ティーチャー」に置き換わる概念だとは思っていなかった。
 教師は「教える」だけでなく「示唆する・導く」の度合いが強まってくる。
 しかし、だからといって「教えない=丸投げ=学び合い」を推奨することはあり得ない。
 いくら知らないことはAIが教えてくれるとしても最低基準の知識技能さえも身に付けていなければ、それはそれでAIの下請け人間にしかなれない。
 そこを注意しておかないと、以下の大前氏の文を読んですぐに「学び合い」の授業と結び付けてしまうだろう。

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 21世紀は答えのない時代である。そこで生き抜いていくためには、自分で質問して答えを予測し、他人議論する中でリーダーシップをふるって答えに至る道筋を見つけられるようにならねばならない。
 しかし、今の日本の教育制度では、そういう人間を育てることはできない。逆に言えば、21世紀の世の中で通用しない人間=AIやロボットに置き換えられる人間しか育てていないのである。
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・・・新学習指導要領は、この危機意識に立って作られている。
 「主体的・対話的で深い学び」が象徴的なキーワードになっていることからもそれが分かる。
 総則解説に書かれた「改訂の経緯及び基本方針」等を読めば、AI時代を見据えていることも分かる。

◆こうした変化の一つとして、人工知能(AI)の飛躍的な進化を挙げることができる。人工知能が自ら知識を概念的に理解し、思考し始めて言われ、雇用の在り方や学校において獲得する知識の意味にも大きな変化をもたらすのではないかとの予測も示されている。このことは同時に、人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても、その思考の目的を与えたり、目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みであるということの再認識につながっている。(後略)

・・・新学習指導要領の総説は、よく書かれている。
 改訂の理念をしっかり共有できる1年でありたい。

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