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February 25, 2018

羽生選手の言葉 ~ささいな言葉に人柄が出る~

(1)金メダリストの羽生選手は、そのコメンもすばらしくて、人々を魅了する。
 たとえば、スポーツライターの青島健太氏が、次の言葉が取り上げていた。

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 乱暴を覚悟で敢えて言えば、彼のコメント(考え方)はどんな時でも、以下の2軸で成り立っている。

◾他者に対しては寛容で、常に感謝の念を抱いて発言する
◾自分のことに関しては、揺るぎない自信を持つと同時に安易に評価しない

 羽生結弦のそうした価値観と姿勢が見事に出たのは、次のコメントだろう。男子シングルの開幕を翌日に控え、記者に日本選手団「金メダル1号」の重圧について聞かれた時の返答だ。
羽生結弦は、言った。

 「誰が取ろうが、僕も取ります」
 
 私は、この言い方に一瞬のうちに魅了された。平易な物言いの中に、強い意志が込められている。
 「僕が」でもなく「僕は」でもなく、「僕も」であることが最高だ。
 「僕が」や「僕は」には、自分を押し出す強い主張がある。

 一方、「僕も」には、過剰な力みや強引さがない。強い思いがありながら、どこかに謙虚さがある。他者の活躍を期待しつつ、僕も頑張りたいという気持ちが素直に表れている。
ここに羽生選手の素晴らしさ(競技への姿勢と考え方)が、見事に出ている気がする。
 どんなコメントをするか、どんな話し方をするかは、競技者にとっても仕事をする私たちにとっても、言えば2次的なものだ。まずもって大事なのは競技におけるパフォーマンスであり、仕事の内容そのものだ。
 しかし、その自分を向上させてより良い選手(人物)になっていくためには、何を考え、どんなことを口にするかということが重要になってくる。
 なぜなら、その人の話やコメントは、その人の内面そのものだからだ。輝かしい五輪連覇は、「コメント力がもたらした」などと言う気は毛頭ない。それは、彼の人間性と競技力そのものの成果だ。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/122600093/022300057/?P=3
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 ささいな言葉にも人柄が出る。
 羽生選手のコメントは、他への配慮と自分への強い自信とを併せ持つすごいものだが、一瞬に出る言葉だから、日頃の思いが結実されたものだと言える。
 まさに「流れ星の願い事」みたいなものだ。いつどこで聞かれても答えられる内容は、日々の強い思いの現れなのだ。

 青島氏が書いているように、どんなコメントをするかは、本業からすれば2次的なものだ。仕事の成果が最優先されることは当然である。

「しかし、その自分を向上させてより良い選手(人物)になっていくためには、何を考え、どんなことを口にするかということが重要になってくる。
 なぜなら、その人の話やコメントは、その人の内面そのものだからだ。」

(2)昨年のことになるが、児童会選挙の立会演説会で、ある子の言葉が印象に残っている。


 「私は今まで執行委員(児童会役員)は無理だと思っていました。
 でも何事もやってみなければ変わらないと思い、立候補しました」


・・・「やってみなければ分からない」だったら何もひっからなかった。
 「やってみなければ変わらない」だったので、心に響いた。

 その通りだ。
 「やってみなければ変わらない」の精神を大事にしたいと、児童に教えられた一場面だった。

 よいコメントを言おうと言葉を磨くのは本末転倒で、コメントの背景となる人間力(生き方)そのものを磨くことが大事なんだと思う。

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February 19, 2018

「東大教授の父が教えてくれた頭がよくなる勉強法」永野裕之著(PHP)

この本は、さまざまな引用が印象に残る1冊だった。


(1)◆ガンジー 
 「明日死ぬつもりで生きなさい
  永遠に生きるつもりで学びなさい」

・・・対句表現である。
 「A - B   A’ - B’」
の構造で「学びなさい」を考えさせると、格好の「類推」の訓練になる

(2)◆東大生は一般学生よりも「勉強しなさい」と言われた割合が少ない
 2014年8月号「プレジデントファミリー」の集計結果(過去十年1064人の東大生)より。
 
 もともと成績が良かったから」と考えれば相関関係。
 「勉強しなさい」と言われなかったから成績が伸びたと実証できれば因果関係。

・・・ところが、筆者は、ここで何の実証もなく次のように、自分の「思い」を述べる。

「それはもともと成績が良かったからでしょ」という声が聞こえてきそうですね。もっともです。
 でも私は、成績が良かったから「勉強しなさい」と言われなかったのではなく、「勉強しなさい」と言われなかったから成績が伸びたのだと思います。

・・・そして、その後

「勉強しなさい」というセリフはそれだけ、子どもから勉強ができるようになるために必要なものを奪いかねない危険なセリフなのです。

と、因果関係であることを規定事実にすりかえたかのような表現をしている。
 このような「主張」と「事実」の巧妙なすり替えには十分注意しないといけない。

 
(4)◆アインシュタインの言葉
「調べればわかることを覚えるほど僕の脳は暇じゃない」


(5)◆MITメデイアラボ伊藤穣一
「世界の変化のスピードがこれだけ速くなると『地図』はもはや役に立たない。必要なのは『コンパス』です。
そして素直で謙虚であり続けながら権威を疑わないことなのです」

(6)◆ルソー
「ある真実を教える事よりも、真実を見出すにはどうしなければならないかを教える事の方が重要である」

(7)◆筆者
「なぜ?」と思いながら勉強する姿勢こそが本質にたどり着く最短の思考法なのです。

(8)◆『学びのイノベーション事業実証研究報告書」
小学校就学以前から子供が主体的に学ぶような教育へ転換していく必要性

(8)◆音楽家レナード・バーンスタイン
「自分は音楽家になるべきでしょうか、と訊ねられたら私はノーと答える。なぜならそう質問したからだ.
質問する限り、答えはノーだよ。『禅』問答みたいだけどね。音楽家になるのは、音楽家になりたいと願うその人自身なんだ」
「良い音楽家になりたいのならまずはそう思うことから始めなければ。なぜならそれはとても難しいことだから」

(9)◆デカルト
「困難は分割せよ」

(10)◆アルバート・バンデユーラの「自己効力感」(自分はやればできるんだ)の4つの要因
・達成体験(成功体験)
・代理体験(他人の成功)
・言語的説得(励まし)
・生理的情緒的高揚(気分)

(11)◆暁星小学校の碑文
 「困難や欠乏に耐え、進んで鍛錬の道をえらぶ気力のある少年以外はこの門をくぐってはならない」

・・・暁星小学校の建学の精神は、キリスト教の理念に基づく教育により、人格の完成をめざすとともに、社会の福祉に努める人物を育成することです。それは、「自分を大切にする」「他者を尊重する」「神を愛する」という教育理念として示されています。
 「自分を大切にする」とは、自分のよさに気づき、個性を大切にして能力を伸ばす努力をする姿です。また、「他者を尊重する」とは、さまざまな考え方や個性・能力をもった人たちと学び合い、支え合い、育ち合う生き方を表しています。そして、「神を愛する」とは、イエス・キリストが神と人を愛する生き方が人間にふさわしい自己実現の道であると教えてくださったことを示しています。
 変化の激しい社会にあって、どのような状況の中でもたくましい「心と体」で生きていく力を身につけるように学校全体で取り組んでいます。「真・善・美」を愛する豊かな感性、知的好奇心と学びを探究する心、困難に対しても進んで挑戦する実行力、そうした力を支える基礎学力をしっかり身につけさせること、それが暁星がめざす教育です。
 本校には、「困苦と欠乏に耐え、進んで鍛錬の道を選ぶ、気力のある少年以外はこの門をくぐってはならない」ということばが伝えられています。この精神を、望ましい形での「鍛える教育」として大切にしていきます。そして、次代を担うリーダーにふさわしい「心と体」を培っていきます。暁星小学校 学校長   吉川 直剛


(12)◆夏目漱石 長塚節の「土」の序文 
  「面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたい」

 余はとくに歓楽に憧憬しょうけいする若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、此「土」を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募つのる時分になったら、余は是非此「土」を読ましたいと思って居る。娘は屹度きっと厭いやだというに違ない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えて呉くれというに違ない。けれども余は其時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思って居る。参考の為だから、世間を知る為だから、知って己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる為だから我慢して読めと忠告したいと思って居る。何も考えずに暖かく成長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心ぼだいしんや宗教心は、皆此暗い影の奥から射して来るのだと余は固く信じて居るからである。

 適切な引用があると、説得力が増す。
 いや、違う。
 適切な引用ができるほど博学な人の文章だから、説得力があるのだ!

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February 18, 2018

国語科と数学科のコラボレーション

大日本図書の「中学校 教育フォーラム2015年秋号」の中に次の記事があった。

http://www.dainipp
on-tosho.co.jp/newsletter/kyoiku/pdf/j15autumn.pdf
◆日常の「説明」と数学の「証明」 近藤裕(奈良教育大学准教授)◆P18/19

 冒頭、朝日新聞の記事からの引用がある。

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 「泣いたり騒いだりせずに自分を説明し、相手を説得するには論理しかない。算数・数学はそれを学ぶものです」
 数学者新井紀子氏の言葉
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 相手を説得する・納得させるために必要なのが「論理」である。
 それは国語ではなく算数・数学で教えられるのだと数学者は言う。
 確かに「証明教育」は数学のジャンルだ。
 しかし、国語を読解したり、相手に伝えるにも「論理」が必要なのだから、数学と国語はきちんとコラボしていかないと犠牲になるには子供たちだ(証明教育に熱心なインドがIT大国であることを考えれば、証明教育や論理指導の軽視は国家的なの損失とも言える)。
 
 数学で「証明」を学ぶ意義について、前掲書では次のように紹介している。

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 「まず、証明の述べ方がていねいになり、使われる論理が厳密になってこよう。なぜなら、他人がどう考えるかに無関係に、要素を残らず見落とさないように拾い上げることが大切なことであるので、読み人に補って読んでもらうという甘えが許されなくなるからである。」
 (中略)
 数学を学ぶ目的の1つの側面に、「数学は、公理を前提として論理だけに従って考えることができ、他人の考えや権威によって判断する必要がない。このような数学の特質は、自らを律しながら考えたり批判的に考えたりするということに有用である」(長崎ら2007)という点があります。
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・・・まさに「数学愛」にあふれた文章であると思う。
 でも、その論理の指導や証明教育の意義を「国語」にも背負わせてほしいと思う。国語科にも「公理を前提として論理だけに従って考えることができ、他人の考えや権威によって判断する必要がない」という側面があるはずだからだ。

 「分析批評」や「科学的な読み」「言語技術教育」の提唱、宇佐美先生のような「論理的思考」の提言などを踏まえれば、論理の指導は国語科にとって必須事項である。文科省だって、ちゃんと「論理思考・ロジカルシンキング」の重要性について書いている。
 特に「テスト」の正解は、論理的整合性によって導かれなければならない。

 国語の指導に数学的な要素(つまり「論理的思考」「プログラミング的思考)を加えないと、テストのような客観的な読解力をつけられない。
 そのような意識で、国語科の指導を整理していきたい。

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