道徳「泣いた赤おに」を学ばせるということは・・
道徳の授業は1つの価値観を押しつけるものではないし、心情の読み取りに終始するべきものではない。宇佐美寛先生の著作を参考にすれば、そもそも1つの価値観で切り取る授業そのものに問題があることになる。
それはそうなのだが、あえて1点。
たとえば 「泣いた赤おに」を題材にして「信頼・友情」を考えさせる授業ということは、赤おにや青おにのどんな点をピックアップしたいのかを明確にしないといけない。
赤おにを苦しませてしまった青おにの行動には賛否両論あるが、とりあえず、道徳モデルとして
◆「人間と仲良くありたい赤鬼の希望をかなえるために、自分を悪者になることを申し出た姿が、青おにの『友情』」
ととらえてみる。
これを、一般化してみると
◆「友達のために、自分の得にならないことでも惜しみなく協力できることが『友情』の1つ」
たとえば友達のために、自分の持ち物を分けてあげる
たとえば友達のために、自分の時間を割いてあげる
(たとえば友達のために、自分が身代わりになる・損をする・嫌われる)
といったあたりになるだろうか。
そういう「無償の行為・自己犠牲」に触れることが、「泣いた赤おに」で道徳の授業を行うことの意味だ。
そこを押さえないで、ただ「困っていたら助ける」「やさしくする」といった漠然とした「友情」で子どもの発言が終始しているとしたら、それではあまりに深まりがないということなのだ。
「自分が痛い目にあっても、傷ついても、それでも友達が喜んでくれるならかまわない」という友情モデルのすごさを想像できれば、たとえ実際に自分が真似できなくてもとそれでいい。
もし、赤おにを批判的に考えさせたいなら
◆いくら自分が人間と友達になりたいからといって、青鬼の悪者に仕立てるような芝居に同意すべきではなかった。
であり、これを一般化すると
◆いくら相手が承諾していても、相手が不利益になるような行為は望まないのがお互いの友情
ということになる。
親友の献身的な行為に心を打たれるというのは、道徳資料の1つのパターン。
また、自分の利益を優先するあまり、相手の心を踏みにじってしまうというのも、道徳資料の1つのパターン。
この資料で学ばせたいモデルは何か、、そこをはっきりさせておかないと、授業の「めざす子供像」があいまいになる。決して1つの価値観を押し付けるつもりはないが、本時で学ばせたいモデルは明確にしておく必要がある。
ちなみい「思いやり」と「友情」は、線引きが難しい。資料によっては「思いやり」か「友情」か分からなくなることがある。広義には「友情」は「思いやり」に含まれると自分は解釈している。
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