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January 31, 2019

大坂なおみ選手 ~思うように物事が進まなかったときでも受け入れる~

 大坂なおみ選手の全豪の決勝が土曜日だったため、土日月とたくさんのニュースをはしごして解説を聴いた。
 試合の生放送は見られなくて、ダイジェストを見たが、勝ったと分かっていても「このままズルズルと負けるんじゃないか」と心配したりもした。
 あと1手という状況から逆転されて第2セットを落として涙を流していた大坂選手。流れは圧倒的に不利だ。
 ところがトイレットブレークを終えたら、非常に落ち着いていて、第3セットはほぼ無表情。勝っても負けても淡々とプレーに徹していた。
 この時の様子をあるインタビューでは、勝ち負けを感情に出すと無駄に消耗するから、感情を表に出さないようにしたと語っていた。
 あるインタビューでは、最高の舞台で最高の選手と戦っていることに感謝して、存分に楽しもうと気持ちを切り替えたと語っていた。どちらもすごいことだ。

 さて、1月28日月)のNHKクローズアップ現代でも特集があった。
 その特集の中で一番印象に残ったというか、初耳だったワードが「マチュア」だった。

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武田:皆さん、本当に印象的だったと思うんですけれども、涙も流していた大坂選手が、第3セットが始まったときには全く表情が、むしろなくなって。なぜ、ああいうふうに切り替えることができたのでしょうか?

杉山さん:あそこまで短い時間で切り替えられるのは、私も今、信じられないと思うぐらい、ものすごいことなんですけど。ただやはりトイレットブレークを取ったことによって、相手のことを認めるといいますか、相手は世界一強い選手なんだ、もっと自分は謙虚になって、そして相手のいいところも、自分のいいところも全部受け入れようという、そういう気持ちでコートに戻って来れたんですね。

武田:これまではラケットを投げようとして止めるとか、そういうしぐさを見せることもあったんですけれども、何か大坂選手の気持ちを切り替えるための様子、変化は感じましたか?

杉山さん:すごく発言を聞いていても、何か受け入れることであったり、あとは負けたとしても、自分のやるべきことを全部やろうっていうふうに、なんだか考え自体、根本が変わってきたなと思うんですね。

武田:自分ができないことに怒ったり、嘆いたりするのではなくて、それを受け入れるということですね。

杉山さん:すごく難しいことだと思いますけれども、それをやってくれましたね。

田中:今おっしゃった「受け入れる」ということ、大坂選手自身も意識していたようなんです。今月(1月)21日、準々決勝を前にした会見では、自分の課題について、こんなことを言っていました。「マチュア=成熟したさま」「思うように物事が進まなかったときでも受け入れること。私はまだうまくできていないけど、とても大事なこと」というふうに言ってたんですね。

武田:まさに今、成熟しつつあるということなんですね。

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4237/index.html
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・・・NHKの公式HPなのに、放送通りの言葉が書き起こしてあって助かった。

「マチュア=成熟したさま」
「思うように物事が進まなかったときでも受け入れること」

 なるほど、思うようにいかない時でも受け入れることが、成熟の証であり、大人の対応か。確かにラケットを投げつけて怒りを表すのは、情けない行為だ。
 一喜一憂しない。
 淡々とやるべきことをこなす。
 そのような「マチュア」の境地に自分も立ってみたい。

 大坂選手は自分を3歳児から5歳児くらいには成長したと語っていたが、あの3セット目ですっかり大人=大選手になったと思う。

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January 27, 2019

「アカデミックライテイング」というキーワード

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 英検から学校に届けられた「英語情報2019winter」に「アカデミック・ライテイングの内容と指導」の記載があり大変参考になった。

 認知心理学から提案されている文章算出モデルが次の2つ。

(A)知識伝達モデル
(B)知識変形モデル

 先に日本の作文指導が「行事作文と読書感想文というガラパゴス状態」にあるという記事を紹介したが、根っこが同じだ。

東洋経済オンライン1月11日配信記事。
https://toyokeizai.net/articles/-/259129

 (A)は、一人称型・個人体験の表出で主観的
 (B)は、問いに答える型ですすめる「問題解決型」
   三人称で書き進められ、抽象概念を扱った客観的な文章
   
  (A)は、自然に習得できる能力レベル・議論につながらない。
 (B)は、習熟によって得られる高度なレベルの能力・複雑な取り組みのなかで発展していく能力

◆したがって、(A)から(B)に変異するには学校での指導が必要であるということなのです。
◆ライテイングそのもののプロセスによって得られる認知的な能力を養成する。

という記述にしびれた。

 最後に日本の学校の授業で求められる「アカデミック・ライテイングの内容と指導」について10の概要を示している。
 むろん、英語の指導内容だが、国語の作文の観点として受け止めることができる。

1)アカデミックな文章は、当該分野の書式の要件を満たし、その様式に従う。
2)そのなかで展開されている議論が明示的なものでなければならない。
3)論旨の展開が演繹的であることが望ましい。
 文章のテーマと筆者の主張が冒頭部分にあらかじめはっきりと提示され
 (topic setence、thesis statement)、文章を通じて、それが一貫してサポートされていること。
4)読み手が議論の展開を正しく把握できるように、書き手は文章の構成を考え、文章中に適切な「道票」      (therfore、however、thesis statement)、文章を通じて、それが一貫してサポートされていること。
5)独りよがりの主観的な書き方から脱却し、書かれた内容が客観性を持つようにする
6)文体に関しては、口語体を排し、フォーマルな文章を要件であるいくつかの様式に従う。
7)文法的に正しい文を書かねばならない。
8)等位接続詞(and、but、so)で結ばれた稚拙な印象を与える文を避け、縦続接続詞を中心に、愛唯施設や、副詞節、そして形容詞節などを多用し、より複雑な構文を使う工夫をする。
9)口語表現とは異なる洗練された抽象度の高い語彙を使用する。
10)スペリングは正しくしなければならない。

・・・分析批評の評論文が、いかに主観的な作文指導からの脱却に寄与していたかがよく分かる。

※一人称で書く内容に偏らない。
※敬体でなく、常体で書く。

 この2点だけでも、フォーマルな文章に近づける。

 国語の作文指導の脆弱さを「数学の証明教育」と「英語のアカデミックライテイング」で補うのではなく、数学の証明や英語のアカデミックライテイングの基礎となるような作文指導を国語科が担っていくべきだ。
「アカデミックライテイング入門 レポートの書き方」と題した文書がネットで見られる。大阪府立大学の制作資料だ。
 はしがきを見ると、高校までの作文教育が「随筆系」であったため、課題レポートを書くにはどうすればいいかということで手引書を作成したという事だ。

http://www.vet.osakafu-u.ac.jp/osakafu-content/uploads/sites/180/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%99%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%99%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%83%AC%E3%83%9B%E3%82%9A%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8D%E6%96%B9.pdf

 参考文献に「理科系の作文技術」「日本語の作文技術」も含まれていて、安心する部分もあるが、新たな文献もあって自分の学びの狭さがよく分かった。

 もう少し、「アカデミックライテイング」というキーワードで調べてみたい。
 分析批評の評論文にチャレンジしてきた子ども達はまさに「アカデミックライテイングの指導を受けていた」ということを証明するためである。

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January 14, 2019

「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然

「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然
なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか

東洋経済オンライン1月11日配信記事。

https://toyokeizai.net/articles/-/259129

執筆は、上智大学の奈須正裕氏。
奈須氏の講演を聴いたことはあるが、総合的な学習や教育課程の話が中心で、これほど作文教育を歴史的に語ってくれるとは思わなかった。

特に「読書感想文と学校行事の作文は『教育のガラパゴス』」とは痛快だ。

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◆アメリカの作文指導はというと、説明文を書く「エッセー・ライティング」を中心に、物語や日記の形式で創作的な文章を書く「クリエーティブ・ライティング」をバランスよく行うのが一般的である。
ところが、日本の作文指導では、エッセー・ライティングもクリエーティブ・ライティングもほとんど行われず、ただただ読書感想文と学校行事の作文なのである。俳句や短歌や詩を書く機会は結構あり、これがクリエーティブ・ライティングに当たるとも言えるが、物語を書く機会はあまりない。さらに不可思議なことに、読解では説明文も物語文も、小学校からきちんと指導されている。
つまり、日本の国語教育は、読解と作文が十分に呼応しておらず、読解での学びが作文にしっかりと生かされる構造になっていない。何とももったいないことである。
(中略)
読書感想文と行事の作文は、日本でのみ熱心に取り組まれてきた、いわば教育のガラパゴスである
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◆高度成長期に入り、生活が豊かになっていくにつれ、個々人の生活現実を赤裸々に綴ることで自らの境遇や社会の矛盾に気づく「生活綴り方」は、その時代的使命を終える。これに代わって1960年代以降に定着したのが、読書感想文と学校行事の作文である。
指定された課題図書の登場人物に思いを寄せ、読書体験によって子どもが自己変革を遂げることを期待する読書感想文と、学校行事という共通体験を通しての人間的成長を一人ひとりが個性的に描写する行事の作文は、基盤となる経験自体は全員に共通のものである。と同時に、そこに何を感じ、どう表現するかは、個々の子どもに委ねられている。
「一億総中流」社会と呼ばれた時代の風潮を背景に、共通の経験を基盤としつつ、そこにおけるその子ならではの独自な心情や表現を大切にしようとする当時の作文教育にとって、読書感想文と学校行事の作文は格好の題材だったのである。そして、これが今日まで半世紀にわたり、脈々と受け継がれてきた。
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・・・衝撃度としては(向山先生の著作を除いて)斎藤美奈子氏「文章読本さん江」(筑摩文庫)に近いものだった。
この「文章読本さん江」は、明治以降のいくつかの文章読本を批判した後、日本の綴り方教育・作文教育の歴史を示し、学校で課す作文課題も批判している。

①谷崎潤一郎「文章読本」(谷崎読本)
②三島由紀夫「文章読本」(三島読本)
③清水幾太郎「論文の書き方」(清水読本)
④本多勝一「日本語の作文技術」(本多読本)
⑤丸谷才一「文章読本」(丸谷読本)
⑥井上ひさし「自家製 文章読本」(井上読本)

今、「文章読本さん江」が見つからないので、奈須氏の論稿に絞るが、両者の主張はかなり似ていると思う。

「読書感想文」や「行事作文」では、生きる力にならない。それは「主張」や「対立」を伴わないからだ。

「僕はこの本を読んで〇〇と思いました」では、「あなたがそう思うのは分かった」というそれだけのことだ。
「今日〇〇がありました。楽しかったです」では、「それで何?」とか「それはよかったね」と突っ込みたくなるだけのことだ。

国語を専門とする一部の先生は「論理的思考」や「論証」に力を入れているが、多くの先生は「ガラパゴス」のままだ。
この状況を何とかしなくてはいけない。

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January 04, 2019

「知的好奇心」は、波多野氏と稲垣氏の造語!

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以前、夕方のニュースで、子ども科学教室のようなイベントの紹介があって、楽しく学ぶ子供たちの様子を流していた。
 『知的好奇心』(波多野誼余夫・稲垣佳世子著 中公新書1973初版)を久しぶりに読んで「楽しく学ぶ」についてメモしていたところだったので、タイムリーな映像だった。

 自由な探索の過程で自分の能力に合わせて挑戦することが興味を維持し学習効果を高める。
 その一例として「磁石」の学習場面が挙げられている(P104~107)。
 
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 たとえば、磁石を使って、どういう物がすいつき、どういう物がすいつかないかを子どもに知らせる場面を考えてみよう。このとき、どういう性質の物が磁石につきやすいかがよくわからないうちに砂鉄や石(磁鉄鉱)を出して、「さあ、おもしろいですよ。これもすいつきますよ」といった導き方はあまり好ましくない。子どもにとっては、そのおもしろさがわかりにくい。彼のそのときに持つ「知識」に挑戦する対象として砂鉄が示されたのではないからだ。
 このようなときには、まず最初のうちは、子どもに自由に磁石をいじらせる。彼は自分のまわりの物に対して手あたり次第磁石をつけてためしてみようとするだろう。多くの場合、磁石にすいつくか否かに関して典型的な事物が試されるだろう。そうしているうち、木製の物はすいつかない、つくのは金っ気のあるもの、ピカピカ光る物らしい、という予想が形づくられるだろう。
 しばらくいろいろためしていて興味がやや低下したとみられるところで、彼らの予想に「挑戦する」事物を与えてみるのである。
たとえば、メッキされたアルミニウム製の物と、メッキされた鉄製の物を準備したり、磁鉄鉱や砂鉄を用意したりする。あるいは、棒磁石、大小のU字型磁石、電磁石などを用意するのである。
 みかけはピカピカに光っていても、磁石につく物もあれば、つかない物もある。石や砂など磁石につくものか、と思っていたらすいついた。これらは、子どもを驚かせ、さらに探究することを動機づけるだろう。また磁石を近づければ、近づけるほどそれからはなれようとすることがある。スイッチを押すと磁石のようになるが、スイッチをはなすとそうでなくなる物がある・・・。これらはさらに事物のいろいろな側面を綿密に探索することを動機づけるかもしれない。」
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(1)自由試行させる(飽きるまでの体験させる)。
(2)予想させ、自我関与させる。
(3)固定概念を崩すような難しい課題に挑戦させる。

などのポイントが読み取れる。
 
◆磁石は、他の物にくらべ、環境の「応答性」を増幅する。子どもの反応に応じて、つまり、子どもが磁石を事物に近づけるのにしたがって、事物がすいついたり、すいつかなかったり、はっきり「応答」してくれるからだ。(P107)

◆子どもの疑問に、はじめからていねいに答えすぎない、ということだ。もちろん、子どもの疑問を無視したり、適当に答えてその場をやりすごしてしまうことは好ましくない。しかし、あまりに完全な答えを与えすぎるのも問題だ。むしろなるべくヒントを与えるなどして、まず子ども自身に自分で考えさせようとすることが大切である。(P108)

◆自由な雰囲気の中で、子ども同士の積極的な相互交渉を奨励することも大切である。(P108)

などの記述を元にすると、以下のポイントも読み取れる。

(4)「応答性」のよさを心掛ける。
(5)教えすぎない。
(6)子ども相互の関わり合い(集合知)を活かす。
 

そして、「おしえる側の役割」について述べた次の指摘は耳に痛い。知的好奇心のない者には知的好奇心の旺盛な子どもは育てられないということなのだ。

◆子どもの遊びや学習上の困難の解決に援助を与える、あるいは、たえず気を配って、子どもが次の活動のために必要としているらしいものを周到に準備しておく、集団での話合いの司会をする、これらが彼らの役目である。
 この場合、指導するおとな自身が知的好奇心の強い存在になることが必要だ。子どもにいくら新しい物に積極的に取り組むことをすすめても、その当人が、未知の場面、不慣れな場面を避けてばかりいては困る。おとなのそうした態度は、いつのまにか子どもに伝わってしまうからだ。(P109/110)。


 さて、『教育トークライン』1月号(東京教育研究所)で板倉弘幸氏が「知的好奇心」について触れている。
 「知的好奇心」は、自分にとって、もはや普通名詞のようなものであったから

◆「知的好奇心」は波多野誼余夫氏・稲垣佳世子氏の両氏によって命名された

という板倉氏の指摘は全くの驚きであった。
 そういう経緯も知らず、当然のように「知的好奇心の喚起」などと口にしてきた。
「モチベーション」関連の書籍には「内発的動機付け」は出てくるが、「知的好奇心」との異同がよく分からなかった。
「内発的動機付けのことを、若い研究者は知的好奇と呼んだ」と知り、納得というよりも唖然としてしまった。

「お金がもらえるからやる」「合格できるならなる」「出世するからやる」という理由は、「外からのモチベーション(外発的動機付け)」。
「自分が好きでやる」「やりたいからやる」というのは「内からのモチベーション(内発的動機付け)」
「モチベーション3.0 」 (講談社+α文庫)の著者であるダニエル・ピンクは、内的な動機付けによるアプロ―チについて、次の4つの項目を提示している。

①because they matter, 重要だからやる
②because we like it, 好きだからやる
③because they're interesting, 面白いからやる
④because they are part of something important. 何か重要なことの一部を担っているからやる

 この「内的な動機付けによるアプロ―チ」=「知的好奇心」と理解していたわけではなかった。「重なるなあ」という程度であった。

 板倉氏の論稿の中に、向山洋一氏の「知的好奇心」に関する記述もあった。

◆「知的好奇心は、今まで何気なく見過ごしてきたことに対する違和感から生じる」

 有田和正氏の「はてな帳」の発想に通じるし、向山洋一氏がよく言われる「あれども見えず」に通じることがよく分かる。
「あれども見えず」を浮き彫りにする発問こそが、授業を知的好奇心の渦に巻き込むことがよく分かる。

〇梅棹忠夫氏の「知的生産の技術」(岩波新書)1969年初版
〇川喜多二郎氏の「発想法」(中公新書)1966年初版
〇木下是雄氏の「理科系の作文技術」(中公新書)1981年初版

なども、めちゃくちゃ古いが、もう1度読み直してみる価値があると思う。

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