「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然
「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然
なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか
東洋経済オンライン1月11日配信記事。
https://toyokeizai.net/articles/-/259129
執筆は、上智大学の奈須正裕氏。
奈須氏の講演を聴いたことはあるが、総合的な学習や教育課程の話が中心で、これほど作文教育を歴史的に語ってくれるとは思わなかった。
特に「読書感想文と学校行事の作文は『教育のガラパゴス』」とは痛快だ。
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◆アメリカの作文指導はというと、説明文を書く「エッセー・ライティング」を中心に、物語や日記の形式で創作的な文章を書く「クリエーティブ・ライティング」をバランスよく行うのが一般的である。
ところが、日本の作文指導では、エッセー・ライティングもクリエーティブ・ライティングもほとんど行われず、ただただ読書感想文と学校行事の作文なのである。俳句や短歌や詩を書く機会は結構あり、これがクリエーティブ・ライティングに当たるとも言えるが、物語を書く機会はあまりない。さらに不可思議なことに、読解では説明文も物語文も、小学校からきちんと指導されている。
つまり、日本の国語教育は、読解と作文が十分に呼応しておらず、読解での学びが作文にしっかりと生かされる構造になっていない。何とももったいないことである。
(中略)
読書感想文と行事の作文は、日本でのみ熱心に取り組まれてきた、いわば教育のガラパゴスである
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◆高度成長期に入り、生活が豊かになっていくにつれ、個々人の生活現実を赤裸々に綴ることで自らの境遇や社会の矛盾に気づく「生活綴り方」は、その時代的使命を終える。これに代わって1960年代以降に定着したのが、読書感想文と学校行事の作文である。
指定された課題図書の登場人物に思いを寄せ、読書体験によって子どもが自己変革を遂げることを期待する読書感想文と、学校行事という共通体験を通しての人間的成長を一人ひとりが個性的に描写する行事の作文は、基盤となる経験自体は全員に共通のものである。と同時に、そこに何を感じ、どう表現するかは、個々の子どもに委ねられている。
「一億総中流」社会と呼ばれた時代の風潮を背景に、共通の経験を基盤としつつ、そこにおけるその子ならではの独自な心情や表現を大切にしようとする当時の作文教育にとって、読書感想文と学校行事の作文は格好の題材だったのである。そして、これが今日まで半世紀にわたり、脈々と受け継がれてきた。
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・・・衝撃度としては(向山先生の著作を除いて)斎藤美奈子氏「文章読本さん江」(筑摩文庫)に近いものだった。
この「文章読本さん江」は、明治以降のいくつかの文章読本を批判した後、日本の綴り方教育・作文教育の歴史を示し、学校で課す作文課題も批判している。
①谷崎潤一郎「文章読本」(谷崎読本)
②三島由紀夫「文章読本」(三島読本)
③清水幾太郎「論文の書き方」(清水読本)
④本多勝一「日本語の作文技術」(本多読本)
⑤丸谷才一「文章読本」(丸谷読本)
⑥井上ひさし「自家製 文章読本」(井上読本)
今、「文章読本さん江」が見つからないので、奈須氏の論稿に絞るが、両者の主張はかなり似ていると思う。
「読書感想文」や「行事作文」では、生きる力にならない。それは「主張」や「対立」を伴わないからだ。
「僕はこの本を読んで〇〇と思いました」では、「あなたがそう思うのは分かった」というそれだけのことだ。
「今日〇〇がありました。楽しかったです」では、「それで何?」とか「それはよかったね」と突っ込みたくなるだけのことだ。
国語を専門とする一部の先生は「論理的思考」や「論証」に力を入れているが、多くの先生は「ガラパゴス」のままだ。
この状況を何とかしなくてはいけない。
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