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July 17, 2019

「道徳的発問」と「哲学的発問」

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 道徳の授業が、哲学的なのは、ごく自然なことだと思う。

「本当の友情とは?」
「本当の思いやりとは?」
「本当の平等とは?」

のように、ものの本質を考える機会になるからだ。

 ただし、道徳の授業は、無理な問いに答えさせたり、無理な議論をさせることがあって、それはイカンと思う。
『はじめての哲学的思考』苫野一徳 ちくま新書

を元に書いてみる。

「一般化のワナ」
・・・自分の経験ではこうだから、それが正しいのだと「一般化」すると収拾がつかなくなる。
 あなたにとっては正しくても、みんなが納得するとは限らないのだ。

「問い方のマジック」=「ニセ問題」
・・・究極の2択。「教育は子供の幸せのためにあるのか、国家の存続・発展のためにあるのか」と問われても、必ずしもどちらかが正しいわけではない。それを2択で迫ることに無理がある。

 最近は、こういう2択の道徳「モラルジレンマ」が「議論する道徳」と共に脚光を浴びてきており、時に、不毛な議論をさせている。
 ただ、究極の2択も問い方を変えれば、話し合いが可能になると言う。

◆教育は子供の幸せのためにあるのか、国家の存続・発展のためにあるのか?

→教育は、どのような意味において子供たちのためにあり、またどのような意味において国や社会のためにあるのか?

◆人間は生まれながらにして平等な存在か、不平等な存在か?

→僕たちは、お互い何をどの程度平等な存在として認め合う社会を作るべきだろう?

◆人間が生きている絶対的な理由はあるのか、ないのか?

→人間は、いったいどんな時に生きる意味や理由を感じることができるうのだろう?

・・・2択に比べると、問い方がシャープでないので答えづらい。しかし、逆に、その答えやすさに甘んじてしまうと、不毛な議論にはまってしまう。そこを注意して発問を吟味する必要がある。

 苫野氏は「人を殺してはいけない」という絶対的なルールでさえ時と場合によるのだから、「~すべき・~してはならない」と簡単に言い切れるケースは少ないと言う。
 だから、例えば、モラルジレンマの授業例として扱われる「門番のマルコ」。王様が急病なので門を開けるように家来が命じても、門番のマルコは「誰が何を言っても開けてはならない」と言いつけられているので門を開けないという話。
 これなどは、頑固に規則尊重を譲らないおバカな話だと思うのだか、これをまじめに開門派と閉門派で意見を戦わせるというので、あきれてしまったのだ。味方の王様を見殺しにする規則を尊重することに意味があるのかどうか。

 しかし、モラルジレンマに怒りを感じていた自分を驚かせたのが、以下の一節。

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2500年の哲学の歴史は、ニセ問題との戦いの歴史でもあった。「砂のかたまりは何粒から砂山か?」もそうだし、「生きる絶対的な理由は何か?」もそうだ。
 こうした問題に、哲学者たちは何百年も挑み続け、そしてその結果、これはもしかしたら答えの出ないニセ問題なんじゃないかと気が付くようになった。とりわけ過去の偉大な哲学者は、ほぼ例外なく、ニセ問題をニセ問題と喝破して、これを問うに値する問いへと直した人たちなのだ。P71
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 「問いが悪い」と切り捨てるのではなく、ニセ問題を喝破して問うに値する問いへ直すのが賢者だ。
 自分がいかに愚者であるかを思い知らされた箇所だ。

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