道徳の発問を哲学で考える
苫野氏は「はじめての哲学的思考」の中で、「~せねばならない」「~してはならない」という「命令の思想」から脱却せよと言う。
「人を殺してはならない」という命令でさえ、実際にはケースバイケースなのだから、絶対に正しい命令など存在しないという考え方だ(いついかなる時も絶対に守らねばならない命令を「定言命法」と呼ぶそうだ)。
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「いつ、いかなる時も、困っている人に手をさしのべよ」
「命令の思想」はそう主張する。
それに対して次のように考えてみよう。
「どのような条件を整えたなら、人は困っている人に手をさしのべようと思うのだろう?」
このような考え方を、ここでは「条件解明の思考」と呼ぶことにしたいと思う。
P142
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だから、次のように発想を変えよという(私が改作した)。
◆人に思いやりを持つべきだ
→「どうすれば人は人を思いやれるだろう?」
◆苦しんでいる人に関心を持つべきだ
→「どうすれば人は無関心が関心に変わるんだろう」
◆震災ボランテイアをやるべきだ
→「どのような条件の時に人は震災ボランテイアをしたくなるんだろう」
◆いじめは絶対にダメだ
→どんな時に人はいじめをしてしまうんだろう
どんな条件を整えたら、いじめをなくすことができるんだろう
「命令の思想」ではなく「条件解明の思考」の方が、現実的な力強い哲学思考だと苫野氏は言う。
「すべき」かどうかを問うよりも、どうすればよいか条件を考えさせるアプローチの方が、道徳的であることが分かる。
※「命令の思想」を持つ人は、自分の正義を振りかざして、それに従わない人を「なぜ、○○しないのだ」と断罪する。
ヘーゲルは、そうした人を「徳の騎士」と呼んだそうだ。
◆でも、それはかえって非道徳的な行為になりかねない。「徳の騎士」、それは、正義を笠に着て他者を傷つける。ひどく独善的な人間なのだ。P143
・・・道徳的であろうとするあまり、独善的になることのないよう注意したい。道徳の授業で「徳の騎士」を育ててはいけない。
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