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April 25, 2020

国語の学習は「テキストを正確に詳しく読むこと」

TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室⑧学テ・PISA型読解力を育成する授業づくり」で、向山洋一氏の巻頭論文が見ることができる。

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 さて、国語の学習での「読み」とは、「テキスト」(教材)を「読む」ことが中心となる。
 正確に読むことである。
 一字一句にも、心を配って読むことである。
 深く読むことである。
 国語の学習とは、いかなる国においても「テキストを正確に、くわしく読む」ことが中心なのである。
 教材を紙芝居にして発表するなど、信じられない学習である。
 ある県の公開発表では、「野菜」についての説明文の授業で、「野菜の気持ちになってみよう」という「芝居」を発表していた。
 これでは、「文を読む力」がつくわけがない。
 PISA型テストとは、国語学力テストB問題とは、つまり「テキストを正確に読みとる」という問題である。
 これまでの日本の国語授業の常識を超えて「さまざまな文」「さまざまな表現」「長文」からも、「正確に読みとりなさい」ということなのである。
 それを基本にして、「自分の考え」を問うているのである。
 これは向山型国語が一貫して追究してきたことである。
 「テキストを正しく深く読む」授業をすすめよう。

(教室ツーウェイ2007年9-10月39号)
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 教師が、問いと答えに敏感でなければ、子どもの言語感覚は育たない。
 このような細部にこだわった指導が「向山型一字読解指導」だと理解している。
 以下、『向山型一字読解指導』東田昌樹先生の著書より引用する。
 

私は「問い」と「答え」の基本を学ばせるために、学期に一、二度は「一字読解」という指導法をする。

というのが、『向山型国語教え方教室」(2000年10月 呼びかけ号)の巻頭論文での主張だ。
もう少し詳しく引用する。

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子どもの行ノートに、番号をつけさせる。
一行に一問を答えさせるのである。
通例は、ノートには答えを書かせるが、時として「問い」を書かせる時もある。
「問い」について、まるで習っていない子どもたちには、最初は「問い」も書かせる。
教科書のタイトルから読み始めて、イチイチ問題を出し、ノートに書かせ、答を言い、丸をつけさせるのである。
説明は簡単にして、テンポよく進める。
話し合いなどはさせない。
最初は、例えば「この作品の題は何ですか」あるいは「作者は誰ですか」ということになる。
簡単だ。簡単でいいのである。
こういう問題を20問、30問と続けて出して、基礎体力をつけるのである

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・・・「イチイチ問題を出し」という表現、がたまらない。「基礎体力をつける」という主張にゾクゾクしてしまう。
 『教室ツーウエイ』1994年10月号では「国語のテストの答え方」について、次のように述べているとある。

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「どんなこと」と聴かれたら、答えは必ず「こと」で終わること。
「どんな気持ち」と聞かれたら、答えは必ず「気持ち」で終わること。
このようなことは、基本中の基本だ。

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・・・ 向国の呼びかけ号には「テストの解き方の基本パターン15」が示されている。
東田氏は「向山型一字読解指導10の原則」の原則9として「テストの解き方15パターンを意識せよ」を挙げている。

 テストの解き方と一字読解はセットだというと、必ず受験テクニックの指導だという批判があるが、そうではない。
 目的は「問い」と「答え」の基本を学ばせ、基礎的な読解力をつけることである。 
 だから、新井紀子氏の主張する「基礎的読解力の保証」が可能になる。
 教科書の内容が正しく読み取れない子をなくすには、一字読解のような取り組みが最適だ。
 しかも、テンポよくやれば、1時間で作品全体の内容を網羅できる。
 場面に分けて当たり前のこと当たり前の言葉に置き換えるフニャケタ授業から脱却できるのだ。
 
 授業時間が不足する中で指導内容の厳選が求められる。向山型国語・一字読解の指導が威力を発揮する!

※向山氏の向国呼びかけ号巻頭論文は、TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室❶」で見られます。

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April 11, 2020

リスクコミュニケーションの基本的なスタンス

安全など事業活動にかかわるリスクは、少ないことが望ましいのですが、リスクをゼロにすることはできません。このため、上手にリスクとつきあっていくことが重要になります。(中略)そのためには事業者が地域の行政や住民と情報を共有し、リスクに関するコミュニケーションを行うことが必要になってきます。これがリスクコミュニケーションです。

https://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/law/risk-com/r_what.html

・・・これが「リスクコミュニケーション」についての経済産業省の解説。

「 地域から信頼される企業をめざして」の「企業」を「学校」に置き換えてみると、「リスクコミュニケーション」の重要性が分かる。
現在、学校は「3密」のリスクを背負っている。地域からは学校再開に対する不安の声も強い。
できる限りの「安全」を配慮し、正しく情報を公開することで「安心」を提供することが大事だ。

よく言われる「説明責任」「情報公開」にも近いが、ワンウエイの説明責任でなく、ツーウエイの「対話」を重視した用語なのだと思う。

年度当初、学校・学年から様々なお便りを発行する。ついつい例年のものを上書きしたりコピーペーストして使い回すことが多いのだが、とりわけ今年は「例年通り」の文面では、今の危機的状況には全く合わない。のんきな文面は保護者の怒りを誘発する。

コピーペースト=使い回しの言葉では「対話」は成立しない。何も考えていないからだ、

自分の言葉で今の状況にあった言葉を発信しないと、コミュニケーションを図るつもりが逆効果になることを、よく自覚したい。

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リスクマネジメントの基本的なスタンス

古い話題だが、2月16日に有本香氏がツイッターで次のように発信していた。

◆お化け屋敷がなぜ怖いか。暗くて見えない中を進むうちに、あちらに一つ、こちらに一つお化けが出て来るから恐怖心を煽られる。
国民の心理を考えたら、こういう「お化け屋敷」発信は最悪のやり方。日本人だから世論が荒れないだけのこと。広報のプロを入れたほうがいい。

◆初めに「全員検査」とアナウンス ⇒ 現実的でないので体調不良者のみ ⇒ 感染拡大 ⇒ 全員検査へ。
これも「お化け屋敷広報」+「戦力逐次投入」という最悪のパターン。

https://twitter.com/arimoto_kaori/status/1228839893368881152


 「お化け屋敷広報」は初耳。「戦力逐次投入」は、少しだけ記憶があるが理解不十分。

 ツイッターを検索したのは、「虎ノ門ニュース」2月20日(木)の有本香氏の話で、開始43分頃に「リスクマネジメント」に関する指摘があったからだ。以下は私の責任でまとめたメモ。

◆最初に、大きく網をかけてだんだん小さくしていくのがリスクマネジメントの基本。
「大きすぎる蓋で押さえ込め。」大丈夫だったら徐々にだんだん蓋を開けていけばいい。
徐々に危機管理レベルを上げていくのが心理的に一番まずい。これが、「お化け屋敷」理論。
お化け屋敷では一番怖いお化けは最初から出てこない。この、ちょっとずつ悪い情報・だんだん悪くなってくる情報を提示するのが心理的に悪い企業広報のパターン。投資家が信用しないのは、ちょっとずつ悪い情報が出てくること。

・・・司会の居島一平氏が、ガダルカナル島の戦いのようだと評したが、これが「戦力の逐次投入」の典型例。

◆ガダルカナル島の戦いでは、「戦力の逐次投入」の愚かさも『失敗の本質』で指摘されました。問題の大きさを正しく把握せず、小出しに解決策を出して自滅していくことです。
https://diamond.jp/articles/-/98447?page=2

 中日新聞の2月23日の「視座」の欄。宇野重規氏が「危機に備える哲学」と題した論考の中で、災害対応の経験がある自治体首長の話を紹介されていた。同じような意味だ。

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(前略)その首長は言った。「危機を管理することはできないが、対応することはできる。」管理と対応はどう違うのだろうか。
 災害などの危機にあたって、その危機を完全に管理することはできないとしても、「追い抜かれない」ことが大事だという。言い換えると、初動において、なるべく「大風呂敷を広げる」ことが求められる。迅速に、可能な限りの対応を取るべきで、その決断が重要である。なるほど、多くの場合、そこまでの対応は不要だったという結果になるだろう。とはいえ、そのような対応は、来るべき大災害に対する良い訓練になる。
 逆に、初期の段階で小出しに対応すると、」危機が深刻だった場合、取り返しがつかないことになる。いったん後れをとると、対応は後手後手になり、災害に「追いつく」ことができないからだ。

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・・・「初動において大風呂敷を広げる」は、有本氏と同じ主張だ。

 宇野氏の論考の中で、もう1つ印象に残ったのは、次の箇所だ。
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 その首長がまず指摘したのは「危機を管理する」という発想そのものが、人間の傲慢さを示しているということであった。「危機管理」という言葉には、危機は予測可能であり、ゆえにコントロールできるという発想が込められている。しかし、予測できない事態だからこそ危機なのであり、完全に予測することなどできるはずがない。
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・・・すべての危機を管理できると思うことが傲慢なのだろう。「自然の営み」は少なくとも現代は、予測不可能であり、制御不可能なのである。

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抽象化と具体化の往復で思考が深まる

例えば、自分の好き嫌いを分析する場合は、具体化して考えてみる(実話ではありません)。

①カツ丼いいなあ。
②ラーメンもいいなあ。
③チャーハンもいいなあ。

その後、①②③の3つの具体例から共通項を見出す。

◆ということは、俺って脂っこいものが好きなんだ。
◆色々あるけど、要するに俺って脂っこいものが好きなんだ。

これが「抽象化」である。

キーワードは、「ということは」「つまり」「要するに」などだ。

その後、「抽象化」から再度「具体化」を導く。

◆ということは、俺って天ぷらも好きかな。うん、確かにそうだ。
◆ということは、俺って魚より肉が好きかな。うん、確かにそうだ。

具体と抽象の往復活動・・・それが「論理化」である。

さて、日常的な例で書いたが、教育実践で言えば、次のような理屈になる。

①実践Aがうまくいった。
②実践Bもうまくいった。
→ ということは、ABに共通する△△の指導が成果をもたらしたということだ。

これが「具体例から抽象化」である。
その後、「抽象化」から再度「具体化」を導く。

→ならば、次の実践でも△△の要素を取り入れたら、うまくいくかもしれない。


具体と抽象の往復活動が「論理化」である。

そして、これが「教育技術の法則化運動」の肝であった。

「授業の腕をあげる法則」の10原則は、いわば「抽象化」だ。

授業の原則は、向山洋一氏の挙げた具体例が身に染みるから腑に落ちる。
教職体験のない学生よりは、数年、学級がうまくいかない体験をした先生の方が、具体例に共感できるから、抽象化された原則の意味や価値に気づくことができる。

そして、10の原則が、自分のふだんの授業行為、指導場面どう生かせばよいかを具体的に考え実行してみることで、その原則の意味や価値にさらに気づくことができる。
これが「抽象と具体の往復」だ。

「抽象から具体」が弱い人は、書籍に載った実践場面でしか追試できない。原則を自分の実践に応用できずに終わってしまう。いわば「ないものねだり」だ。

「具体から抽象」が弱い人は、自分がうまくいったとき・自分がうまくいかなかったときの原因を、共通化できない。
 ビキナーズラックのようにうまくいった実践があったとしても、「たまたま」のまま終わる。
 あるいは、うまくいかなかった指導の原因が分からず、その後も繰り返したりする恐れがある。

 授業の腕を上げる10原則を暗記するだけで成果が上がらないのは、それを具体的な指導の場に降ろせないからだ。
 楠木氏の「経営センスの論理」(新潮選書)の6章は「思考の論理」ということで、「抽象」と「具体」の往復運動について数ページ書いてある。

◆もちろんビジネスの現場で抽象的なことばかりでは「じゃあ結局どうするんだ」という話になる。どんな仕事も最後は具体的な行動や成果での勝負である。ただし、具体のレベルを右往左往しているだけでは具体的なアクションは出てこない。抽象度の高いレベルでことの本質を考え、それを具体のレベルに降ろしたときにとるべきアクションが見えてくる。P218

◆抽象的な思考がなければ具体についての深い理解や具体的なアクションは生まれない。P211

◆実務経験がある人でも、具体的な経験はしょせんある仕事や業界の範囲に限定されている。抽象と具体の往復運動ができない人は、いまそこにある具体に縛られるあまり、ちょっと違った世界に行くとさっぱり力が発揮できなくなってしまう。また、同じ業界や企業で仕事を続けていても、「抽象化や論理化ができない人は、同じような失敗を繰り返す。ごく具体的な詳細のレベルでは、ひとつとして同じ仕事はないからだ。必ず少しずつ違ってくる。抽象化で問題の本質を押さえておかないと、論理的には似たような問題に直面したときでも、せっかくの具体的な経験をいかすことができなくなる。P217


・・・抽象度が高い典型は「算数」の授業で、例題と違う数字にして練習問題を解く。文章題の場合は、数字はもちろん状況設定が変わる。

これが「数学」になると、数字を抽象化して、NやXなどの記号で数式を表すようになる。
 社会科でも、たとえば「トヨタの自動車工場」で学んだことを、別の「工場」に応用して考える。これが「具体から抽象」だ。

 これに対して、通常の国語は、授業で「ごんぎつね」で扱い、事後のテストでも「ごんぎつね」を扱う。
 「ごんぎつね」で学んだ読みの力が、「おじいさんのランプ」の読みになかなか直結しないから、抽象的な(汎用的な)国語の力が付かないと言われる。
 「汎用的読解力」というワードが注目されるのは、具体的な作品を読み取る授業だけに没頭していては、別の作品を読む力が身につかないからだ。

 まさに「具体から抽象」が課題になっているのだ。

 

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「言いました」だらけの作文じゃつまらない

少し古い光村図書の「国語教育相談室(小学校)」98号に、達富洋治氏の面白い実践紹介があった。
https://www.mitsumuratosho.co.jp/material/pdf/kyokasho/s_kokugo/kohoshi_s_kokugo_all.pdf

「    。」と言いました。ばかりじゃつまんない ―「お手紙」(二年)―

セリフ中心のこの作品で「言いました」で終わりそうな箇所に、別の表現を入れてみようという試みだ。
語彙の少ない2年生には難しいかもしれないが、やってみる価値はある。

「がまくん」
①呼びました。 ②声をかけました。 ③近寄りました。

「ひょっとして・・」
①こっそり言いました 。
②思いなおすようにせつめいしました。
③かおをのぞきました。

「でもね」
①もういちど言いました。
②ちかくに言いました。
③あきらめません。
④がまくんが言うまえに言いました。

「きょうは・・」
①本当はしっているのに言いました。
②じしんをもってなだめました。
③いっきに言ってからがまくんを見ました。
などなど。

でも、この実践を知るだけではもったいなので、自分でモデル化する。

◆「言いました」を書き換えるというのは

A:どんなふうに「言いました」の、「どんな」を加えるタイプ
B:「言う」に近い動詞を使うタイプ
(説明する・叫ぶ・つぶやく・うったえる・どな る等)
C:「言う」の場面に応じた別の動詞を使うタイプ
(近寄る・あきらめない等)

という ABCのタイプがある。
これは「語彙」の訓練だけではなく、セリフを発する人物の心情理解につながる促す問題でもある。
月並みに言えば「どんな気持ちで言ったのですか」なのだが、それをひねった形で思考させている。

◆さらに、この実践の応用を考える。「言いました」以外の場面にも応用しないともったいない。
①「そして」以外の接続語を考えて作文を修正させる実践。
②「楽しかったです」以外の感想を考えて作文を修正させる実践
③「がんばります」 以外の決意の言葉を考えさせる実践
④「すごいです・上手です」以外の褒め言葉を考えさせる実践
などが考えられる。

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