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May 31, 2020

「言葉」が足りないのは「愛と感謝」が足りない証拠

ある古い文庫に、『冷えた天丼』と題した短いエッセイがあった。

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夜遅く夫が帰宅すると食卓に「冷えた天丼」が置いてあった。
夫は、疲れて帰って来たんだから、せめて温めてほしいと思っている。
でも、そんなことを口にするのはプライドに関わるから、口にしない。
口にはしないが、不満をくすぶらせている。

この男の愚痴に付き合った筆者が「冷えた天丼」が嫌なら「『温めて』と言えばいいのに」というと、
彼は、次のように怒る。

「言わずとも分かれ。言って分かられたってそれがなんなんだ、ってことなんだよ」

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・・・『男がいてもいなくても』久田恵(講談社)という1996年初版の文庫だ。

「言わずとも分かれ」という気持ちはすごくよく分かる。言われる前に自分で気づいて行動してほしいと思う。
この「やってほしいなら、ちゃんと言えばいいじゃん」と「言わずとも分かれ」の対立は、実はとても根が深い。

かつて、学年集会でも、集合してから静かになるまで教師は黙っているようにした。
「『〇〇しなさい』と注意されなくてもできるはずだから」というように話をした。
ただし、このやり方はハードルが高いので、意図が伝わらないと、いつまでも静かにならない。
結局、最後に大声で怒鳴るという失態に陥ることがある。
そもそも「注意したくないから注意しない」では、指導の放棄にすぎない。

上記のエッセイの場合は、男と女のすれ違いだが、次のような対立に置き換えると、上司と部下のすれ違いになる。

◆「分からないなら聞けばいいじゃん と「困っているんだから察して下さいよ」
◆「やる前に一言相談してよ」と「やられて困るなら事前に一言いっておいて下さいよ」
◆「そんなの常識だろ」と
「常識と言われたって困ります。どこにも書いてないですよね」

上司と部下が、互いに一歩を踏み込まないと、ぽっかり穴が開いて大惨事を引き起こすことになる。

「忖度」や「あうんの呼吸」に依存すると、痛い目に合う。

久田氏のエッセイには、次のような場面も出てくる。
 会社から書類を持ち帰って夜遅くまで仕事をしていた夫が、受験生の息子の夜食を食べてしまった。
息子が怒り、妻が夫に「謝れ」と言ったという週刊誌の記事を読んで、久田氏は次のように書く。
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夫は家族のためにつらい思いで働いているのにと思い、
妻は家族のために自分のやりたいいろんなことを我慢してやってあげているのにと思い、
息子は親のために受験勉強をしてやっているのだぞと思い、
お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていったのだろう。(P23)

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・・・「言わずともわかれ」のトラブルも、「お互いに感謝が足りない、愛が足りない、と不満だけをくすぶらせてどんどん関係を悪くさせていった」とリンクする。

「言葉が足りない」は、単に言葉の有無の問題ではなく、要するに「感謝や愛の有無」の問題だ。
部下に対して「困っていないかな・分からないことはないかな・初めてだけど大丈夫かな」という配慮があれば「分からないことがあったら聞けばいい・聞かない方が悪い」という横柄な態度にはならないはずなのだ。

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アボガド・・・見事な比喩には「知性」が表れる

「サンデー毎日」2020・5・3号『対談 阿木燿子の艶もたけなわ』

ギタリストのMIYAVI氏が日本の音楽文化を世界に伝えるためのポイントを「アボガボ」「カリフォルニアロール」に喩えていた。

◆一度お寿司を食べた人に「もう一度食べたい」と思ってもらうには、どんな工夫が必要か、ですよね。相手に理解してもらいたいなら、こちらも理解してもらう努力をしなければいけない。で、いろいろ考えた結果、気付いたんですが、僕に足りなかったのは、カリフォルニアロールで言えば、アボガド。そのアボガドを探しにアメリカにいったんです。
 
・・・このMIYAVI氏の真意を阿木燿子が補足している。

◆お寿司は日本の誇るべき食文化ですが、そのまま世界に受け入れられにくい。生魚を食べ慣れない外国人には、多少のアレンジが必要だと。そこでカリフォルニアロールが出てきた。それを音楽に当てはめるところが、MI YA VIさんの凄いところで。
◆アボガドって、マグロに近い食感がありつつ、生臭くない。だから、わさびやお醤油に合う。アボガドを入れることで、お寿司がインターナショナルになった。ポイントはそこですね。

・・・MIYAVI氏は、国連難民高等弁護官事務所の親善大使をしている。言葉では通じ合わない世界中の人々とも、音楽なら一つになれるという深い思いがある。
 MIYAVI氏は「哲学」という言葉を用いて、自分の思いを語っている。

◆一番大事なのは「哲学、道徳観だと思うんです。知識や教養より先に、他人と共存する、共存するために必要なことを、まず学べる環境を与えてあげたい。
◆音楽って別に無くても生きていけるじゃないですか。だけど、音楽にしかできない役割があると信じています。音に乗せてメッセージを届ける。これも教育につながっていきます。教育を通じて学んでいく道徳観や共有の意識は、水や食料などのライフラインと一緒で、命の根源に関わっていますから。

・・・「アボガド」「カリフォルニアロール」という比喩表現ができる背景にはMIYAVI氏の知性と哲学、ポリシーがあることがよく分かる。教育に対する彼の強い信念が以下の部分によく出ている。

◆僕達はなぜ、言葉で話し合うことができるのか、そもそもお互いにどこが違うのか、肌の色、文化、言語、なぜ違うのか、なぜわかり合う必要があるのか、そういうことについて十分に学べる環境を作ってあげたいです。これは難民キャンプだけの問題ではなく、日本も含め、先進国の問題でもあるんです、押し並べて教育の水準を上げなきゃ駄目だと強く感じています。それは学問ではなく、もっと人間の本質に近いような部分というか。

・・・冒頭の引用箇所の前に次の言葉がある。

◆挫折して折れかかった僕の心を救ってくれたギターに、僕は恩返しをする義務もある。

・・・だから、「インポート」された洋楽文化に日本的な価値を加えて「エクスポート」していきたいと言う。

世界的なギタリストMIYAVIさんの熱い思い・深い人生哲学に心を打たれました。

相手に理解してもらいたいなら、こちらも理解してもらう努力をしなければいけない。

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国語読解法〜「物語の型」「一文の要約」〜

久しぶりに、石原千秋著の「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書)を読んだ。1999年出版だ。
「国語(特に物語)」の授業ってギリギリ何を教えればいいのかを考えていて、書棚から引っ張り出した一冊だ。

P178に、では「国語」の勉強を始めよう とあり、次のページから第二部「入試国語を考える」の第一章「『国語』の基本型」が始まる。
久しぶりに目を通して、冒頭の数行だけでしびれてしまった。

まず「物語の型」をつかめ
フランスの批評家ロラン・バルトは、「物語は一つの文である。」という意味のことを言っている。これが、これから僕が「国語」について解説する立場である。
「物語は一つの文である。」ということは、物語が一文で要約できるということである(これを物語文と呼んでおこう)。たとえば、『走れメロス』(太宰治)なら「メロスが約束を守る物語」とか『ごん狐』(新美南吉)なら「兵十とゴンが理解し合う物語」とかいう風に要約できる。これが物語文である。もちろん、もっと抽象的に「人と人とが信頼を回復する物語」(走れメロス)とか、「人間と動物が心を通わす物語」(ごん狐)でもいい。ここで気づいてほしいのは、こんな風に物語文を抽象的にすればするほど物語どうしが互いに似てくるということだ。この共通点が「物語の型」なのである。 P179


・・・「桃太郎」の要約が重要な意味を持つことを、この箇所で知った時の衝撃が蘇ってくる。

それはさておいて、「これはどんなお話ですか」を端的に答えることが、第一段階だという。これをやらずに次へ行くなという意味だ。

一文で言うとどんなお話かをノートに書かせることを6年間(9年間)続けたら、ずいぶん手慣れてくるだろう。
石原氏は、次のように補足している。

基本型は二つある。一つは「〜が、〜をする物語」という型。これは主人公の行動をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが恋をする物語」といったものになる。もう一つは、「〜が、〜になる物語」という型。これは主人公の変化をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが男になる物語」といったものになる。両方とも「たっちゃん」が成長するわけだが、そのことはもう分かっているわけだから、ここでは「どうやって成長したのか」「何が成長なのか」というレベルで一文にまとめるといい。

・・・be動詞「〜になる」でまとめるパターンと、一般動詞「〜をする」でまとめるパターンがあるということだ。

一文で書けない子に「このお話の場合は、どっちが書きやすいかな」と2つのパターンを示したり、書けた子に「あなたは、どちらのパターンで書きましたか」を考えさせたりすることで、物語文をまとめる作業に慣れさせていく。
 キーワードをきっちり指定しなければ「桃太郎」の要約のようにドンピシャにはならないから、個々で書いた要約文(物語文)を互いに見せ合って、情報交換すると、より完成度の高い一文になるだろう。

 作品を読み終えたら「どんなお話か」を一文でまとめさせる

・・・何回も繰り返せば、自動化できる。

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May 13, 2020

ウイルスより怖いのは「人の心」

◆4月28日 市教委の指示で学校HPに以下の動画を紹介した。

日本赤十字社作成『ウイルスの次にやってくるもの

https://youtu.be/rbNuikVDrN4

動画を公開した日本赤十字社は

「この感染症の問題の一つは、嫌悪や差別が『人』に向かっていくことだ。本当に戦わなくてはいけない相手は『ウイルス』であり、『恐怖』なので、団結し、励ましあうことにより、『恐怖』を乗り越えられると伝えたい」

としている。
「人が傷つけ合うのはウイルスよりも恐ろしい」と自分もそう思う。
 

◆4月1日に神戸市外国語大学学長のメーセージが配信された。

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(前略)病気という目に見えない脅威は、人々を不安にし、その不安に何らかの説明を求めようとします。この不幸の原因は自らにあるとして、病を神から下された懲罰と考えることもありました。その反対に、自分は何も悪くないのに、病気が迫ってくることは理不尽であると考え、他人に原因を求めることもありました。そのため、パニックに陥った人々が、悪魔や魔女といった邪悪な存在によって脅威が引き起こされているのだと思い込み、何の罪もない弱者を魔女とみなして処刑する、といった不幸な出来事もありました。また、社会で疎外されている人々--宗教的マイノリティや抑圧されている少数民族など--が病気の原因をもたらしたのだ、といった「陰謀説」にとらわれて、迫害するといった例も数多くあります。

 遠い歴史の話ばかりではありません。身近な例では、2009年に新型インフルエンザの流行があった際に、流行が始まった神戸・大阪の高校生、というだけで偏見の目を向けられるということがありました。不安のあまり、理性的な対応ができなくなってしまうのです。
http://www.kobe-cufs.ac.jp/news/2020/20547.html

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・・・同じ大学だというだけで京都産業大学の生徒たちが非難を浴び、差別を受けたことなどが話題になっていた頃だ。

「魔女狩り」という言葉がずっと気になっていた。
人は誰しも「魔女狩り」の素地を持っているのかもしれないからだ。
感染していながら歩き回った、感染地域から慌てて帰国した、感染地域へ旅行に行ったという話を聞くたびに、自分も腹立たしいと思った。自分だって同じような怒りの感情がある。

 GW中に「自粛警察」という言葉を知った。通報したり、脅迫したり、ネットで拡散したりと、自分たちは正しいことをしていると信じて「私刑」を行う人たちだ。「やりすぎだ」と思うが表立ってはやらないが、自分も腹立たしいと思うことがあるから、同罪だ。
 そもそもマスコミは、散々「自粛警察」みたいなことを報道しておきながら、一般人の「やりすぎ」をとがめる。マッチポンプだ。

 正しいを貫いて鬼になってしまった神を「阿修羅」と言う。
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怠けている人間、遅刻した人、それぞれに事情があり、理由があるはずです。
その事情・理由を斟酌(しんしゃく)することなく正しいことを言う人は、じつは、ー正義という名の魔類ーになっているのです。
仏教では、その正義という名の魔類をー阿修羅ーと呼びます。
阿修羅というのは、本来は正義の神であったのですが、自分だけが正義だと思って、他人に対する思いやりがないために、神界から追放されて魔類になった存在です。

2006年中日新聞7月18日付の朝刊に「ひろさちやのほどほど人生論」 より
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 若い先生は知らないだろう。永井豪の漫画「デビルマン」。
これも、悪魔と化した人間が誰か分からず「人間が人間を殺し合う」という壮絶なシーンが出てくる。
「悪魔狩り」と「人間狩り」がイコールになってしまうという含蓄のある作品だ。
愛蔵版というのを所有していて、今日もまた読み耽ってしまった。

「人が傷つけ合うのがウイルスよりも恐ろしい」と自分もそう思う。


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May 02, 2020

情報リテラシー 「非常事態」を疑う発言が封じ込められていない

4月15日、西浦博氏(疫学理論の専門家)が発表したのは、次のシミュレーションである。

 「感染拡大の防止策を実施しなかった場合、重症患者が累計85万3000人になり、その49%(41万8000人)が死亡する」

今や「8割おじさん」とも言われる西浦氏は、当初から複雑な計算も示されたが数値の意味は自分にはよく分からなかった。
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①新型コロナウィルス感染症は、R0=2.5である。

②「人と人との接触」には「削減可」のものが75%、医療者と患者等「削減不可」のものが25%ある。

③2.5×0.75×(1-0.8)+2.5×0.25=1で、「削減可」の部分を80%削減すれば感染は収束する。

ここで、①②③を全体としてみたロジック自体は、結局のところR0=2.5×(1-0.6)=1.0という間違い様の無い事を言っているのであり、当然ながら合理的なものといえます。

問題は、①、②、③の個別の事項にあります。

R0J=1.7だと「55%削減」で収束

まず、①ですが、新型コロナウィルスは新しいウィルスであり確定的な事は言えませんが、WHOが公表しているところでは、そのR0は1.4~2.5とされており(参考)、R0=2.5は実は最も大きい(感染拡大速度が速い)推計です。
 さらに「ウィルスの性質」という意味で世界共通のR0を使うことは、純粋な計算の前提としては分かりますが、これを日本での対策の前提とした場合、例えば「日本人は欧米人にくらべて『ハグ』をしない」というような、日本社会においてはすでに社会的・文化的に削減されているものも「新たに削減するべき人と人の接触」に入ってしまうことになります。

日本での対策における削減率を考えるのであれば、「日本におけるR0(日本における対策前のRt)」を前提として計算すべきですが、この「日本におけるR0(R0J)」は4月1日に発表された「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の見解等(新型コロナウイルス感染症)」(参考)において、R0J=1.7と推定されています(この推計は他ならぬ西浦教授自身が行ったものと考えられます。この推計が誤っていたという事になると、シミュレーションの前提が全てひっくり返ってしまいます)。
従って「4月1日の日本の現状からの削減率」を考えるなら、①´R0J=1.7を前提として計算すべきで、①´②③で計算すると、
1.7×0.75×(1-0.55)+1.7×0.25=0.99
なので「4月1日の日本の現状からの削減率55%」で感染は収束することになります。漠然と感じたのは「確率の変数を変えれば、結果としての数値がいくらでも変動する」ということだ。

コロナ対策で人と人の接触「8割減少は折れてはいけない数字」は本当か?
2週間後に感染者がピークに達した後、減少に転じるというシミュレーションを検証


https://webronza.asahi.com/politics/articles/2020041200003.html

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・・・数式はともかく(としてはいけないのだが)、国語の教師からすると、1点、素朴な引っ掛かりがあった。

「感染拡大の防止策を実施しなかった場合」

というそもそもの前提だ。

ウイルス感染が本格的になった3月から学校は休校になり、多くの国民がマスクを求めて奔走した。
大学の卒業式も中止となり、たくさんの宴会や会合がキャンセルになった。首長は、それぞれにメッセージを発し、みんな我慢してきた。わずかに気を抜いたのが春分の日の3連休だった。
4月15日以前のそうした措置は、このシュミレーションに加味されているのかが分からなかった。

A  今程度の自粛を続けた場合なのか。
B  最初から防止策を実施しなかった場合なのか。
C   今後全ての防止策を実施しなかった場合」なのか。

を明らかにしないでマスコミは「41万人以上に死者が出る」という最悪の数値を強調した。
確率変数を変えればいくらでも数値は変わる。あくまで最悪のシュミレーションで41万人だという補足はなかった。41万人死亡というショッキングな数値だけが一人歩きした。ちなみに、池田信夫氏は「シミュレーションではなくフィクション」と批判している。

後出しジャンケンで「今になってそんな事を言うな」と批判されるかもしれない。
しかし、実際には、41万人は大袈裟だと疑うことを許さない「同調圧力」がある。
ここに記すことさえ勇気がいったのだ。

ゼロリスク」の病だ。

ゼロになるまで「まだまだ油断してはならない」と警告し続けるなら、もう非常事態宣言はいつまで経っても解除されない。いつまでも休校にしないといけない。

医者は患者ゼロや医療崩壊ゼロを目指した対策を提言する。
政府は経済的な死者ゼロを目指した対策を考える。
双方が歩み寄らないと、日本は崩壊する。

「命か経済かの2択はない。当然、命だ」という人もいるが、経済でも人は死ぬ。
「学校再開は後回し。教育の遅れは後で取り戻せる」という人もいるが、教育力は将来の国力だ。

5月末まであと1か月。東京や大阪といった一番の危機的な都市以外で、早々と休校宣言を出す必要があったのかどうか。

こういう疑問自体が「不謹慎だ」と思われるかもしれない。
しかし、入手した複数の情報を、自分自身で咀嚼して、自分なりの判断をアウトプットすることが大事だと思う。
もちろん一方的な過剰報道に飛びつく態度も戒めねばならないが、思っていながら反対意見を発しない態度も、情報社会にはそぐわない。

 

※以下の参考HPは、自分の都合のいい情報だけを引用する「確証バイアス」の証拠になるかもしれませんね。

◆緊急事態宣言前夜? 「感染者数」速報で不安を煽るメディアが全く報じないデータと発言

https://news.yahoo.co.jp/byline/yanaihitofumi/20200406-00171775/

◆「新型コロナで42万人死ぬ」という西浦モデルは本当か

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60207

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