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July 23, 2020

子どもたちは「あきらめること」を学んでしまったのか?


先週、「運動会にかわる平日の体育の授業公開」と「修学旅行実施」の案内文書を保護者に配付した。

運動会は中止だけど、低中高学年で時間を分けてそれらしい種目を公開する。ただし、例年のように長い練習時間を割いての表現はやらない。接触の多い組み立て体操や騎馬戦などはやらない。

修学旅行は、様々な配慮をして実施する予定。例えば宿泊ホテルでも大食堂では食事せず、各部屋で食べる。大浴場も使用せず部屋のお風呂を使う。お土産は宿泊ホテルで並べてもらうというように。

5年生の野外学習については、6月に中止決定の案内を出したが、修学旅行については、これまで実施するとも中止にするとも話していなかった。
そんな状態でようやく保護者向けの正式な文書を配付したわけだが、あるクラスでは驚くほど反応が悪く、安堵も歓喜もなかったという。

「修学旅行は実施予定です」という文書を出したところで、今度の状況によってはどうなるか分からない。
そういう条件付きであることを子供も理解している。

春休み自粛、GW自粛、学校行事中止、プール中止、夏休み短縮

この後も、何が起きてもおかしくない状況であり、予定通りにならなくても文句を言えない状況。
文句を言っても仕方ないし、そもそも誰に文句を言っていいのか、その相手も定かでない。

「予測不能な世界を生きる」とは、

◆過度に期待しないことなのか。
◆あきらめが肝心だと悟ることなのか。
◆「楽しみ」を奪われるということなのか。
◆「夢」を持つなということなのか。
◆「万が一」に備えるために、「九九九九」を我慢することか。


コロナ後の子供たちが、「あきらめること」「期待しないこと」に慣れてしまうとしたら、それはすごく残念だ。
アフターコロナの時代に明るい希望が持てるよう、こんな時期だからこそ「明るい未来」を語る材料をストックしたい。

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