コロナ禍では、「対話的で深い学び」が難しい
本年度から新学習指導要領が全面実施になったのに、「主体的・対話的で深い学び」が難しい現状について、先日も書いた。
7月16日の中日新聞の「学ぶ」の欄に、同じような趣旨の取材記事が掲載されていた。
◆本年度から小学校で全面実施された新学習指導要領は「主体的・対話的で深い学び」(アクティブラーニング)を掲げている。授業では子供同士の対話を重視するが、新型コロナウィルス対策で思うようにできないのが現状だ。そんな中、工夫して対話的な学びと感染防止を両立している学校もある。
◆「対話は禁止。子供対教師の古典的な授業が進んでいる。」アクティブラーニング元年となるはずの本年度、準備をしていた直後のコロナ禍で出鼻をくじかれた愛知県内の小学校教諭の男性はため息をついた。
◆本誌が実施した中部地方の教育委員会に対するアンケートでも「子供同士が密着する授業内容は避ける」「学習の遅れを解消するために授業の効率化を進める」などの回答が並んだ。この中で詰め込み型に逆戻りしているような状況となっている。
・・・このあたりは、自分の実感と同じだ。
「習得」には、「詰め込み」「教え込み」「古典的な授業」「受信型」「教師主導」というマイナスイメージが伴うが、「習得」の過程が大事であることは間違いない。ただし、全ての授業がそれだけでは子どもに「主体的・対話的で深い学び」「創造的な思考力」「発信力」をつけられない。
ところで、記事では「そんな中、『主体的・対話的で深い学び』を実現しようと工夫する教員もいる」と、ある先生の実践紹介がされている。
◆「書く」と「読む」による対話は、国語に限らない。図工の作品には、児童同士で感想を付箋に書いて貼り付ける。教室内には大小さまざまなホワイトボードを用意。小さなマイボードに書き込んで声を出さずに意見を伝えたり、円形のボードを4人で囲み、距離を保ちながらグループで対話を行ったりする。
・・この記事だけでは詳細はわからないが、「習得」と真逆の「学び合いの授業」を推奨する人もある。
したがってこの特集記事の裏には、せっかく推奨してきた「学び合いの授業」が今、進められなくなくなっていることへの苛立ちがあるのかもしれない。
「対話・学び合い・教え合い」の場面は大事だ。しかし、全ての授業がそれだけでは子どもに確かな学力をつけられない
「指名なし討論」に憧れる先生も多いと思うが、ステップも踏まず指導もせずに「指名なし討論」だけを繰り返すなら、それもまた「教えない授業」のカテゴリーに含まれてしまう。「指名なし討論」だって手順を踏まなければ「這いまわる」のレッテルを貼られてしまう。
「確かに教える場面」「子どもたちに任せる場面」の双方のバランスで、日々の授業を組み立てることが、新学習指導要領の本意なのだと思う。
「確かに教える場面」「子どもたちに任せる場面」の双方のバランスで、日々の授業を組み立てることが、新学習指導要領の本意なのだと思う。
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