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August 06, 2020

単純な対比の読み取りでは、飽きてしまう

「分析批評」の定番の授業の1つが「対比」であった。
「対比の授業」については、先にダイアリーで書いた。
 
 「文学のトリセツ」小林真大著(五月書房新社)の最終章は、文学批評の実例として「異邦人」を分析している。
 
「構造主義の問い」 P246
①作品にはどのような二項対立が存在しているか?
②作品における二項対立は私たちの社会の構造をどのように示しているか?

これが、大人向けの問いだとすると、入門期には
 
①この作品にはどのような対比の言葉(対になる言葉)があるでしょうか?
②作品における対比を大きくまとめると、何と何と言えますか?
    作品におけるこれらの対比から何が言えますか?
 
などが使われると言えるだろう。
 
   ①だけでなく②が必要なのは、①に終始してしまうと「分析のための分析」あるいは「分解」などと批判を受けてしまうからだ。
   意味のある分析であるためには、分析したことが「主題・テーマ・作者の意図」の解釈につながらないといけない。
 
「やまなし」では、「五月と十二月」の場面構成が対比されている。
「一つの花」では、「戦時中と戦後」の場面構成が対比されている。
 
この場面構成の対比を見つけて満足している場合ではない。

「だから何?」
「その対比構造にどんな意味があるの?」
「その対比によって強調されるものは何?」
 
などが明らかにされなければならない。

たとえば、「やまなし」は、「生きることと殺すことの表裏一体」が浮かんでくる。
たとえば、「一つの花」は、「戦争が家族を引き離す悲しさ」が浮かんでくる。

むろん、ほかの意味づけでもかまわない。何か自分で「意味」を決めてしまえばよいのだ。
 
 
さて、『文学のトリセツ』によれば、「脱構造批評」として、次の問いがある。
 
③物語を通して二項対立は脱構築されているか、どのように脱構築されているか。

これは、入門期には

③矛盾する対比はないか。通俗的な対比が否定されることはないか。

とでもなるだろうか。

理解不十分なのだが、この③の問いに挑戦してみた。
 
「やまなし」は、「五月と十二月」の場面が対比されている。
しかし、よく読むと通常の「夏ー冬」「明るいー暗い」「生ー死」のイメージではない。
だから、この作品では通常の対比のイメージと真逆になっている。

「一つの花」は、「戦時中は不幸、戦後は幸福」とごくごく当たり前の対比構造になっている。
しかし、よく読むと「戦時中は貧しいが父親が生きている」と「戦後は豊かだが父親がいない」の対比だから、どちらが幸福な暮らしかは一概に言えない。
だから、この作品では「戦中は不幸で、戦後は平和・豊か」という通常のイメージと異なっている。

 そうか、これが「アイロニー(皮肉な結果)」という分析の指標なのかもしれない。
 
◆「五月は残酷だけど、生き物同士の戦いがあり躍動感があるね」なのか
◆「五月は明るくて躍動感があるけど、殺されるから怖いよね」なのか、

受け止め方が真逆になる。
 
◆「戦後は父親はいないけど、暮らしが豊かになってよかったね」なのか
◆「戦後は暮らしはよくなったけど、父親がいないから悲しいね」なのか

受け止め方が真逆になる。
 
◆「ごんぎつねは撃たれてしまったけど、つぐないの主だと伝わってよかったね」なのか
◆「ごんぎつねがつぐないの主だと伝わったけど、兵十に撃たれてしまったから悲しいね」なのか

受け止め方が真逆になる。

真逆な解釈が成り立つから討論にもつながっていく。
 
小学生版の「対比」だから、通例通りの二項対立にあてはめて満足しているだけでは子供は退屈してしまう。
対比をつくった後の「意味の解明」にエネルギーを注ぎ、討論につなげないと思考が活性化しないのだ。
 

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