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September 19, 2020

Google for Education 事務局主催の「GIGA スクール構想実現に向けたオンラインセミナー」

Google for Education 事務局主催の「GIGA スクール構想実現に向けたオンラインセミナー」

  〜愛知県春日井市の事例から学ぶ,クラウド活用を点から面に広げる教員研修と授業実践〜  

 
9月19日(土)に開催された。

今日はZOOMではなく、YOU TUBEライブ配信(Google主催だからZOOMのはずはないか)。

発表された先生方、お疲れ様でした。

13:15 - 14:00 愛知県春日井市 事例紹介
14:00 - 14:15 Q&A セッション
14:15 - 14:45 まとめ  東京学芸大学 教育学部 准教授 高橋 純 氏
 

同じ春日井市でも、先進校は


◆1人1台環境が整い、
◆各自がGoogleアカウントを入手し、
◆G Suite、クラスルーム、チャット機能、グーグルフォーム、スプレッドシート、Jamboardを活用している

という様子が報告された。

先進校とはいえ、勤務するのはフツーの先生方だ。手探りで1つずつ実践を積み上げてきたことがよく分かる。
ただ、今後、先進校の実践報告や市の指示を待つのではなく、「できることから学校が独自の判断で進めていく」ことが大切なのだと実感した。先進校を羨ましく思ったって、仕方ないのだ。

市内の通常の小学校は、10月に5・6年生の全児童分のクロームブックが配付される。
どうせ全員分ではないのだからと、他学年の担任が気を緩めていると手遅れになる。
Googleの機能について、できる先生とできる先生の格差が小さい今だから、みんなで、手探り状態を助け合うことが可能になる。

子どもが活用する前に、職員が少しでも触れておき、先進的に取り組んだ先生の実践を共有していければと思う。

ちなみに、ZOOMの職員研修以外には何もアクションを起こしてこなかった本校だが、まずは、「後期児童会役員選挙の立会演説会をオンラインで行う」という企画をきっかけに、職員全員の意識改革を進めていく動きがある。来週、各教室での動作環境を確認することになっている。

「子どもに活躍の場を与えたい」が、職員を動かす格好のモチベーションになっている。

さて、今日の高橋純先生の総括で印象的だったのは、

①「たまに」ではなく「日常的に」
②「1人の先生」「1校」だけ先進的にすることよりも、地域全体での活用を
③高度なICTが日常に溶け込むかどうか、だから「使うか使わないか」の問題ではない。

「トケコミ」というカタカナ表記の言葉に、重みがあった。

一番の学びは、

◆GIGAスクール構想は本来「個別最適化」のためだ。

しかし、すぐに実践で使えそうなのは、「共同作業、共同編集、チャットによる意見交換(感想の添付)」などだ。

ということ。
互いの意見を交換する速度、互いの意見を取り入れて一つにまとめる速度が、圧倒的に変わる。

つまり「集合知」の効率化だ。

1人1台のパソコンが配付されると、ますます他者交流が深まるというのは、逆転の発想だった。

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ITソリューション 堀田龍也先生の講演

9月18日(金)14:00から、幕張メッセで行われたITソリューションの堀田龍也先生の講演に、オンラインで参加した。

ELMO主催の講演であったので、実物投影機の有効活用がメインになった。

この実物投影機の活用を主とした堀田先生のお話は、「IT技術と教育技術の融合」「アナログとデジタルの融合」という点で、すごく良かった。
ただし、翌日視聴した高橋純先生の言葉で言うと「擬似一人一台活用」の産物という点で、実物投影機というツールは、いずれ時代遅れになるかもしれない。
 

「ITの技術と教育の技術の融合」
 

実物投影機の使用注意でよく言われるのが「MAX ズーム=できるだけ大きく見せよ(余分な部分は見せるな)」だ。

教室の最後尾から見ると文字が小さくて見えない・画面が歪んでいるというのは、いくらITの技術があっても、教育の配慮はない・授業として成立していないことを象徴的に表している。「子供から見たらどうか」の配慮は、ICTの性能云々の問題ではないのだ。

若い先生は、ICTのスキルは高いが、教育的配慮の足りないことが多い。
ベテランの先生は、ICTスキルは低いが、教育的配慮の高いことが多い。
だから、職員研修を深めることで、若い先生がベテランの配慮を学ぶ絶好の機会になる。

「アナログとデジタルの融合」

「テクノロジーは変わっても、学習は変わらない」という指摘も腑に落ちた。

◆「お隣同士でノートを見せ合って話し合う」という学習が、今後PCになるだけのこと。
◆分かりやすくノート(アナログ)でまとめる学習が、今後PCになるだけのこと。

子どもが説明する(言語化する)スキル、人に分かるようにまとめるスキルは変わらない。
ノートや話し合いなどの「学び方習得の指導」は、デジタルになっても変わらないということなのだと理解した。

学び方を身につけさせることは、自分で行動できる子を育てる。まさに「主体的・対話的で深い学び」のできる子の育成だと堀田先生が言われた。
堀田先生が言われた「学び方が身についていれば、オンライン授業が成立する」というのは、裏を返せば「学び方が身についていなければ、オンライン授業が成立しない」という意味でもある。
堀田先生がTOSSを応援する理由がここにある。


※おまけ   過去ダイアリーより抜粋

昨年12月に名古屋で行われた堀田龍也先生の講演。
テーマは「AI時代の学校教育」。
以下、自分の文責でまとめる。

「手書きで書けなくはないよね」「紙でもできるのになぜICTを使わなければならないのか」「ICTを使わなくてもできるよね」と言ってしまったら、何も変わらない。

スマホで利用しているグーグル検索も地図アプリもオンライン予約も、昔はスマホがなくても可能だった。スマホがなくてもできるけど、あると便利。
ICTは、今までできなかったものがやりやすくなるための「道具」だ。

ICTが導入されたから、いきなりスキルが身につくわけではない。
ICTが学力を上げるわけでもない。
タブレットを見ながら相談する授業が成立するには、その前にお隣同士でノートや教科書を見合う授業が成立していないと無理だ。
スクリーンのデータを示しながら説明する授業が成立するには、黒板で説明する授業が成立していないと無理だ。
ICTは道具にすぎない。しかし、それでもICTに取り組む意義がある。

授業のまとめで毎時間PC入力させる学校があったが、もし、入力に不慣れなままなら、5文字打ってチャイムが鳴ってしまう。いつまでも、そのレベルではPCを使う意味はない。
でもやり続けているうちに授業のまとめが打ち込めるようになる。そうなったら、手書きノートとは全く違うさまざまな可能性が出てくる。時間はかかっても慣れてくれば、能力として活かせることができる。それが基盤能力。

使いこなせないうちは、基盤能力にならない。
やっていくうちにリテラシーができる。仕事ができるようになる。生活が便利になる。
だから、「紙でできることも、あえてICTで取り組む」には意味がある。

◆「『これからの教室』のつくりかた」で、堀田龍也先生の見解が示されていた。

こういうタブレットなどについて、「別に紙でもいいじゃないか」という議論は当然あります。もちろん、紙でもいいです。でも、やり直しができなかったり、色が付けにくかったり、あるいは、どのグループがどういう書きぶりで今書いているかを一瞥できなかったりします。タブレットだったら、授業支援システムでパーっと見られたり、ログに残ったり、再利用できたりということができる。そういう意味で、現在は「紙でできることを、何でICTでやるんだ」というひとがいるけれど、これからは逆に「ICTでできることを、何で今も紙でやってるの?」と、そうなると思うんです。(中略)

お互いの情報や考えていることを共有する。これは、ちょっと前まではこのように紙でやっていたわけですね。だから何も変わらないんですよ。この画像の左奥の子はタブレットでやっているんです。つまり、どっちでやってもいいんですよ。
ただ、タブレットでやると記録が残り、再利用ができるということですね。「前の理科の実験でも似たようなことがあったな」って言って、それを探して、「あのときこうだったよね、今回もこういうふうにやればいいと思います」みたいなことを、子どもが仮説的に言ったりするようなことが出てくる。「一人一台タブレットを持っていた方がいいんじゃないの?」と言われる所以は、過去の学習内容と今の学習をつなげて考えていくことがしやすくなるからです。
p82~84

・・・自分のうまく伝えられなかったことを、こんなにきちんと表現していてスッキリする。次ページには次のような発言もある。

ICTのほうが全然便利なのに、それをしないことを良しとするみたいなことがある。このことは若干、罪ですよね。だって子どもたちは日頃、デジタルコンテンツをたくさん触っているのに、学校に来たときだけ昭和のやり方をしなきゃいけないんですから。p86

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September 18, 2020

教育における「父性」と「母性」のバランス

 

「学校でもっと厳しくしてほしい」と保護者から言われることがある。
 
「父性」と「母性」の発揮の仕方が問われているのだと思う。
 
父性度の高さは例えば次のような傾向に現れる。
①妥協しない。簡単に許さない。
②ルールは厳正に守らせる。
③子供が乗り越えるための壁になる。
 
母性度の高さは例えば次のような傾向に現れる。
①まずは受け止める。受け入れる。
②厳しく叱らない。
③教師の穏やかで優しい対応が、しなやかな学級を育てる。
 
それぞれ短所もある。
 
父性的な先生は、大声で叱責し、威嚇するから、子供が怖がっている」というような苦情を受ける。
母性的な先生は「優柔不断で結局許してしまうから、しまりがない。子どもがわがままになってきた」というような苦情を受ける。
 
自分の傾向を知り、両方を使い分けることが大事だと言われているが、どの先生も自分の逆の立場からの批判を受ける可能性があると覚悟しておくとよいのかもしれない。
教師がチームになって、父性と母性の役割分担をすることが大事だと言われるが、学校の傾向としても、我が校が父性的か母性的か、分かれるのではないだろうか。
 
子供を受け入れて安心させる母性型の指導は、子供に嫌われることもないので実行しやすい。しかし子供が好き勝手するようになると歯止めがきかなくなる。
 
小学館の「小三教育技術」2017年10月号では次のような注意事項が述べてある。
 
【父性タイプの教師】
×強すぎる大声は子供を委縮させる。
×厳し過ぎるとクラスのムードがピリピリすることも。
×最近の子供は忍耐力がないので要注意。
× 干渉しすぎも子供が嫌う。
 
【母性タイプの教師】
×まずルールの守れないような子供にしてはならない。
×見守りすぎて手遅れにならないように。
×ときには理屈も出さないと、信用されない。
×許してはいけないことを見逃さない。
 
・・・バランスの問題ではあるが、今回は、保護者から担任の対応が「甘やかし」との批判を受けた。
「父性」の指導が足りなかったのだ。
 
厳しい保護者が求めるような「力の指導」をしろということではない。
 
向山洋一氏の言葉で言えば

「子供の中に権威を打ち立てよ」

だ。

「権威である。権力ではない。権力(たとえば腕力で)打ち立てた力は弱くもろい」と但し書きがある。
 
◆アドバルーンを叩く
◆ダメな場合はきちんとやり直しをさせる
 
といった指導の一貫性をこころがけ、子どもに不安や不信を抱かせないようにする。
その程度の「父性」を発揮しなくては、教室を統率することはできない。
なめられるような行為を繰り返せば、子どもが「この先生は、なめてかかってもいい」と誤学習するのは当然なのだ。

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September 15, 2020

あらためて「PISA読解力」を考える

2000年から始まったPISA学力調査
読解力の樹には2000年が8位、2003年が14位。
大きくダウンしたことで「PISAショック」と呼ばれた。
2005年に文科省が「読解力向上に関する指導資料」を作成した。それが前回の学習指導要領にも反映された(はずであった)。

国語雑誌もマスコミも「PISA読解力」を話題にした。

20年経ってみて、どうなのだろう。
読解力向上プログラムの時代に子どもだった先生もたくさんいるはずだが、それ以前の先生と指導に明らかな違いはあるのだろうか。

あらためて「PISA読解力」=「リーデイングリテラシー」を振り返ってみる。

(1)情報の取り出し
(2)解釈
(3)熟考・評価

「思考・判断・表現」という3点セットの学習指導要領の理念は、読解力の3つのプロセスに重なるところがあると判断できる。

PISAの読解力は、文章に内容を正確に読み取ったうえで「自分はどう思うか」の意思表示まで求められているというのは、カルチャーショックであった。
ただ、その後の学テの記述問題は、自分の意見を求めてはいたものの、それほど高度でもなかった。
また、市販の国語テストを見る限り、記述型の問題はなく、相変わらずの「読み取り問題」に終始している。

私学や中高一貫校など一部の入試では、情報を読み取り自分の意見を述べるような問題が出され、話題になった。

次年度より、満を持して大学センター入試でも記述式の問題が出題予定だったが、土壇場で延期(未定)になった。

採点の難しさなどが問題視されているが、要するに「読み取った内容に関して自分の言葉で意見を述べる」という指導をしてこなかったから、大学入試に出されたら困るというのが、現状なのだ。

2000年にPISA調査が始まってから20年。
2007年に全国学力テストが始まってから13年。
国語の授業は、世界標準の読解力に対応してきたのか、疑問なのだ。


さて、フェイクニュースに惑わされないという点で、「読解力」は、今まで以上に重要な能力になってきた。

OECD教育・スキル局長アンドレアス・シュライヒャー氏のコメントが昨年12月4日の中日新聞に掲載されていた。
見出しは「読解力はより重要な能力」。

 ========
 読むという行為の性質は大きく変わっており、今回の調査ではデジタル世界における読解力に焦点を当てた。
従来の紙の書物は専門家が内容を精査し、書いてあることは正しいと信じられていた。
しかし、インターネット上の情報は真偽が分かりにくく、答えも一様ではない。
複数の出所の情報を比較し、事実か違憲かの区別をつけることも求められる。
こうした意味での読解力を付けるには、デジタル機器をただ使うのではなく、どう使えばいいのかを教えることが大切だ。
フェイクニュースが広がる世界で読解力はより重要な能力になっている。
 ========

・・・そんな高級なことは望まない。たとえば、2007年にベネッセから出た「子どもの読解力がぐんぐん伸びる本」の中に、次のようなアドバイスがある。

 

◆単語でやりとりせず、主語と述語を盛り込んだ会話を

「わたしは、牛乳が飲みたい」


◆自分の意見に理由を加えさせる。

「どうして、そう思ったの?」

◆根拠と意見を文の形で言わせる

「太陽は東から昇るから、あっちが東だ」

◆比べることで違いに気づかせる

「比べてみようよ」

◆気づいたことの理由を確かめさせる

「どうしてだと思う?」

◆自分の経験を元に考えさせる

「同じような体験はあった?」

◆よく似た事例が使えないか考えさせる

「似たような例で考えてみよう」

◆考えてわかったことを言葉にさせる

「どんなことがわかった?」

◆わからなかったことも言葉にさせる

「何がわかって、何がわからなかった?」


このような「言語トレーニング」が常識になっているか。
2007年のこのアドバイスが今なお新鮮に受け止められるとしたら、「言語活動の充実」を目玉にした前回指導要領の10年間は、十分な結果を残さなかったということなのだと思う。

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September 10, 2020

子どもが熱中する場面を設定できるかが、教師の技量

「子どもたちの自立・自律・自動化」について、モンテッソーリは次のように述べている。

======================
教師にとって成功した最高の証は…

こう言えることです

「子どもたちは今, まるで 私などいないかのように夢中になっている」

つまり,教師の威厳などいらないのです。教師は学習の場そのものとなり,その子が黙々と何かに集中できていれば,それが理想の教育なのです

The greatest sign of success for a teacher...

is to be able to say,

“The children are now working  as if I did not exist.”


くしくもこれは,老荘思想でも

 
   最高の教師は教えない  ただそこにいるだけだ
 

とされているのを想わせます

https://tsuputon7.hatenablog.com/entry/2018/06/15/134541
=========================

・・・教師がいなくても「夢中になっている」=「集中・熱中している」、そのような場を設定できるかどうかが教師の腕の見せ所だ。
だから、自作のワークも、子どもたちはシーンとして取り組んでいるかどうかが、一つの評価基準になる。

ただし「最高の教師は教えない」と結び付けてしまうと、疑問がある。

マリアは「教える」のではなく「引き出す」ことが教師の役割と考えているのです

という記述もある。


「引き出す」ための何らかの指導がなければ、ただそこにいるだけで、何も始まらない。

「最高の教師は、教えてほめて、本人のやる気に火をつける」の後なら「何も教えない」という言葉の意味も分かる。

「最高の教師は教えない」という言葉だけが独り歩きしないでほしい。

 


関連するのが、昨年11月のダイアリー 「コーチングできるのが、優れた教師!」を再掲する。

「体育科教育」12月号にコーチングの話題があった。

 「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」
  菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)

 (1)テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。
 (2)コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。

・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだという言い分。
  テイーチングとコーチングの方向性が真逆だという菅原氏の次の一節がとても興味深い。

◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。
 (中略)ガルウエイも、練習プランの作成から、スイングの仕方まで手取り足取り、こと細かに生徒に教えました。しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。
  そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」
 「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。

・・・「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいることが分かる。
 我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が変わるようなすぐれた発問づくりに苦心してきたからだ。

 そもそも菅原氏は「教える」と書けばいいところを「教え込む」とネガテイブに表記して、イメージ操作している。

 すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。
 子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。

だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードなのだ。

◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。

とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念だろうか。

 「問いかけることで、教える」が、我々が取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。

※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それをになうのが教師です。

  

宇佐美先生が主張した発問の「間接性の原理」は、まさに「教えないで教える」であったのだと理解している。

ところで。
  
「これからはコーチングの時代だ」と、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それでは「コーチ」の仕事をしていないことが分かる。

「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。

 「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。
 コーチングには、その「気づかせる」が求められているというのに、「教え込む」よりもはるかにレベルの低い「教えない(何もしない)」をやろうとしている教師がいるとしたら、それは、まさに「コーチング」とは真逆だ。


  何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる

 「コーチング=教えない」を口実に、ただサボっているにすぎない。まさにコーチングの歪曲だ。


  我々がめざすべき「すぐれた教師」は、子どもの能力を最大限に引き出すために努力と工夫を続けるのだから、「コーチ」を含む存在だ。

というのが、今回の自分の結論だ。

  部分的に抜粋したので菅原氏の真意とはズレるかもしれないが、「コーチ」よりも「教師」の方が求められているのだという思いを強くした。

  菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。

◆平凡な教師は、ただしゃべる
 よい教師は、説明する
 すぐれた教師は、やってみせる
 偉大な教師は、やってみようという気にさせる。

 しかし、自分の都合のよい解釈をする怠け者教師は、教師とは「しゃべらない・説明しない・やってみせない」が望ましいのだと豪語する。
「やってみようという気にさせる」=「教えない」とは、どこにも書いていない。
「教えない」教師を理想とする意味はどこにもないのだ。

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September 09, 2020

2つ以上の例を調べないと、科学ではない。

算数の授業参観ダイアリーの続き。

平行四辺形の特徴を調べるために、教科書には2つの図形が示してある。
計測結果を書き込みできるようにと準備したプリントにも2つの平行四辺形が載せてある。
子どもには2つの平行四辺形について取り組ませていたが、教師がまとめる段階では1つの図形しか扱わなかった。

「そうだね、向かいあった辺の長さは同じだね。」
「向かい合った角の大きさも同じだね。」

・・・これは科学的におかしい。

1つの図形の辺と角を調べて、平行四辺形の普遍的な特徴を断定できるはずがない、
たまたまその図形だけに言える特徴かもしれないからだ。
2つの図形で計測するから、共通した特徴を見出すことができる。

「あ」の図形で言えた特徴を、「い」の図形でもあてはまるかを検証するから、意味があるのだ。
「あ」と「い」の2つの図形でも信じられなかったら、別の図形を持ってきて検証すればいい。

教科書にある「2つの図形」には意味がある。

時間の都合で1つで終わらせてはいけないのだ。

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「調べる」を「見える化」する

4年生の算数の授業を参観した。

「平行四辺形の辺や角の大きさを調べ、性質について理解する」

本時の目標は「辺や角に着目して、平行四辺形の性質について調べたり説明したりしている」

黒板に書いた本時のねらいも「辺の長さや角の大きさを調べて、平行四辺形のとくちょうを見つけよう」

2つの平行四辺形の載ったプリントを配付して作業を促した。

プリントの図形に計測した数値を書き込むものと思っていたが、多くの子は、その書き込みがなかった。

指導案では「特徴を調べる」「特徴についてみんなで話し合う」とあり、「計測する」と明記してない。

つまり、先生自身も「計測させる・計測した数値を書き残す」という強い意志がなかったのではと思う。

辺の特徴を調べるのに、定規ではなくコンパスを使わせていたが、これは、数値の計測より、どこが等しいか調べることが主眼だったからだ。

この授業における「調べる」は、次の3点が主になる。

①計測する 

②計測した数値を見比べる 

③計測した数値から言えることを考える 

 記入された数値をみれば、同じ数値があるから、色分けしたり丸で囲んだりすれば、個々の「気づき」を促すことができる。

 

本時の「調べる」行動を「見える化」するには、まずはプリントに「計測した数値を書き込む」が必要だった。

全員に数値を記させて、全員に気づきを考えさせる・・これが、本時の「全員の原則」だ。

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学習のまとめは「わかったこと」しかダメなのか?

ある学年の理科の学習プリントを見たら、実験の後に「わかったこと」を書くことになっていた。

記入内容は「わかったこと」でなくてもよいのでは? と思う。

①分かったこと。

②分からなくなったこと。

③疑問に思ったこと・解決してみたいこと。

④家で調べてみたいこと。

⑤今度の授業で実験したいこと。

などを書いても良いことにすればいい。

 

「分かったこと」だけを書かせると、お利口さんしか活躍できない。

「分かったこと」以外に、面白い疑問や課題を書いた子がいたら、みんなの前で発表してあげれば、他の子にも波及する。

 

せめて 記入欄を「分かったことなど」にして、思ったことも含めて自由に書かせると、人と違った発想をする子が活躍できる。

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