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September 10, 2020

子どもが熱中する場面を設定できるかが、教師の技量

「子どもたちの自立・自律・自動化」について、モンテッソーリは次のように述べている。

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教師にとって成功した最高の証は…

こう言えることです

「子どもたちは今, まるで 私などいないかのように夢中になっている」

つまり,教師の威厳などいらないのです。教師は学習の場そのものとなり,その子が黙々と何かに集中できていれば,それが理想の教育なのです

The greatest sign of success for a teacher...

is to be able to say,

“The children are now working  as if I did not exist.”


くしくもこれは,老荘思想でも

 
   最高の教師は教えない  ただそこにいるだけだ
 

とされているのを想わせます

https://tsuputon7.hatenablog.com/entry/2018/06/15/134541
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・・・教師がいなくても「夢中になっている」=「集中・熱中している」、そのような場を設定できるかどうかが教師の腕の見せ所だ。
だから、自作のワークも、子どもたちはシーンとして取り組んでいるかどうかが、一つの評価基準になる。

ただし「最高の教師は教えない」と結び付けてしまうと、疑問がある。

マリアは「教える」のではなく「引き出す」ことが教師の役割と考えているのです

という記述もある。


「引き出す」ための何らかの指導がなければ、ただそこにいるだけで、何も始まらない。

「最高の教師は、教えてほめて、本人のやる気に火をつける」の後なら「何も教えない」という言葉の意味も分かる。

「最高の教師は教えない」という言葉だけが独り歩きしないでほしい。

 


関連するのが、昨年11月のダイアリー 「コーチングできるのが、優れた教師!」を再掲する。

「体育科教育」12月号にコーチングの話題があった。

 「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」
  菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)

 (1)テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。
 (2)コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。

・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだという言い分。
  テイーチングとコーチングの方向性が真逆だという菅原氏の次の一節がとても興味深い。

◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。
 (中略)ガルウエイも、練習プランの作成から、スイングの仕方まで手取り足取り、こと細かに生徒に教えました。しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。
  そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」
 「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。

・・・「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいることが分かる。
 我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が変わるようなすぐれた発問づくりに苦心してきたからだ。

 そもそも菅原氏は「教える」と書けばいいところを「教え込む」とネガテイブに表記して、イメージ操作している。

 すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。
 子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。

だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードなのだ。

◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。

とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念だろうか。

 「問いかけることで、教える」が、我々が取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。

※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それをになうのが教師です。

  

宇佐美先生が主張した発問の「間接性の原理」は、まさに「教えないで教える」であったのだと理解している。

ところで。
  
「これからはコーチングの時代だ」と、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それでは「コーチ」の仕事をしていないことが分かる。

「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。

 「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。
 コーチングには、その「気づかせる」が求められているというのに、「教え込む」よりもはるかにレベルの低い「教えない(何もしない)」をやろうとしている教師がいるとしたら、それは、まさに「コーチング」とは真逆だ。


  何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる

 「コーチング=教えない」を口実に、ただサボっているにすぎない。まさにコーチングの歪曲だ。


  我々がめざすべき「すぐれた教師」は、子どもの能力を最大限に引き出すために努力と工夫を続けるのだから、「コーチ」を含む存在だ。

というのが、今回の自分の結論だ。

  部分的に抜粋したので菅原氏の真意とはズレるかもしれないが、「コーチ」よりも「教師」の方が求められているのだという思いを強くした。

  菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。

◆平凡な教師は、ただしゃべる
 よい教師は、説明する
 すぐれた教師は、やってみせる
 偉大な教師は、やってみようという気にさせる。

 しかし、自分の都合のよい解釈をする怠け者教師は、教師とは「しゃべらない・説明しない・やってみせない」が望ましいのだと豪語する。
「やってみようという気にさせる」=「教えない」とは、どこにも書いていない。
「教えない」教師を理想とする意味はどこにもないのだ。

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