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December 19, 2020

「スキーマ」の理解を深める(その2) 宇佐美寛氏の文献に戻る

スキーマという用語は、椿原正和先生の講座で何度も出てくる。

私も、先日のブログで自分なりの具体例で「スキーマ」を解説してみた。


「大造じいさんとがん」には、野口芳宏先生が、はやぶさとガンの大きさやくちばし、足の爪などの違いを提示してみせた実践がある。
学会の壇上で剥製を子供に見せたのは波多野里望先生だっただろうか。ガンとハヤブサの生態の違いを実感しなければ、ハヤブサに立ち向かった残雪の態度に感心しようがない。

作品を理解する上で必要な情報という意味で「前理解」と聞いたことがあるが、これもスキーマと同じ意味だと理解している(違うかもしれない)。

宇佐美寛氏も何か書いていたはずだと思い、書棚を探ってみた。
『国語科授業批判』(明治図書1986年)の第八章「言葉と経験」。説明文の「ありの行列」を例にした内容だ。
「スキーマ」とは書いてないが、前提となる予備知識・経験が必要だとある。
表紙裏に八章からの引用部分が紹介されている。

まず、ありの行列を観察する経験をさせるべきである。
言葉は経験と対応するからこそ解釈できるのである。そして経験は言葉よりも広いのである。
なぜ、教師は、子どもが何を経験し、何を知っているのかを、きちんと確かめようとしないのだろうか。


・・・「スキーマ」がないと、この引用だけでは何のことか理解できないので、もう少し引用する。(P126~129)

◆なぜ、国語教育(学)者は、学習者の<言葉ー経験>の関連構造を推測する方法を研究してこなかったのだろうか。また、実際に経験させるという教授方法が、なぜろくに研究されてこなかったのだろうか。

◆このように、<あり>の経験があれば、「行列」という語の意味の範囲まで意識されてくるのである。言葉ではなく、<言葉ー経験>の連関構造こそが重要問題なのである。

◆言葉が解釈できるとは、その言葉がどんな経験に対応しているかがわかるということである。そのためにはある種の経験をすでにしていなければならない。

◆ありの「行列」を見る経験は、言葉では置きかえきれない。ありの小ささ、それに比しての列の長さ、列の乱れの無さ等は見なければ知られないし、したがって意識されない。また、見た経験が無い者に言葉で伝えることも出来ない。

・・・だから、こころある教師は、作品に応じて、戦争に関する資料、昔の暮らしに関する資料、海外の文化に関する資料などを用意して、子どもたちの予備知識・前提知識を共有させてきた。
2学期に行う「やまなし」を理解させるために、1学期のプールの時間に「水中から水面を見上げてキラキラした様子を体験させる」ことも布石として行われた。

同じ作品を読んでも、大人と子供で感想が異なるのは、その作品を読み解くための前提情報や経験値が異なるからである。

ちなみに、外部情報を与えずに書かれた言葉の範囲の中だけで考える方法を「言語主義」と書いてある。「文章から離れてはいけない」「書いてないことは分からない」としたら、一切の「想像」ができないから、「言語主義」では国語の授業が成り立たなくなるというのが宇佐美氏の主張である。

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