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January 31, 2021

日々の授業で悩んでいる先生方に届けたい思い 〜教え方セミナーの方針〜

長谷川博之先生は「成功する生徒指導」の原則』(学芸みらい社)の中で、授業について次のように書いています。

 

◆たとえば、教科書もノートも出さない生徒に対し、端から喧嘩腰に迫るのでなく、やる気が出ればノートだって出すはずだと信じて発問・指示・対応を繰り出していた。


やる気がないことを生徒のせいにしていては、いつまで経っても事態は変わりません。 
もちろん授業中の態度点を成績に入れることで脅しても何も事態は変わりません。

「成績なんてどうだっていいよ」と開き直った生徒からほころび始めます。


今、私は中学校で教えた時のことを思い出して、自戒を込めて書いています。

自分の授業もうまくいかないことの連続で、生徒を熱中させる授業など、年にほんのわずかしかありませんでした。

うまくいった原因やうまくいかなかった原因を探ることで一進一退を繰り返してきました。

だから、やる気を見せない生徒を前に困惑したり怒鳴りたくなる先生方のお気持ちがよく分かります。


かつて、ある中学校向けの教育雑誌に「楽しい授業をしましょう」と提言があったとき、
「楽しいことが授業の目的ではない」
「世の中には楽しくなくても我慢してやらねばならないことがある。生徒を甘やかしてはいけない」
「生徒のご機嫌を取る必要はない」
といった現場教師からの批判が載っていました。


そもそも授業とは、そんなにつまらないものなのでしょうか。
「たとえつまらなくとも大事なことならば」と仮定する人がいますが、教える内容の重要さと魅力を提示するのが教師の仕事ではないでしょうか。

「将来のためだ、つまらない内容だがしっかり覚えてくれ」と思いながら授業をしている方が、よほど生徒に対するご機嫌取りではないでしょうか。


自分も未熟だからこそ、日々授業に悩む先生方に敬意を表します。
ともに学びましょう。
我々教師が「がんばる」とは、「学び続けること」しかないのです。
私たちのメンバーの学びの一端をお伝えします。ぜひ明日の授業の参考にしていただければ幸いです。

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できない子に寄り添う教師でありたい(2)

私たちのサークルでは、小学校中心の教え方セミナーをずっと続けてきたが、講師陣は、中学や高校の先生にもお願いしてきた。
自分自身、教員生活の中で13年は中学校であった。
中学校でも、もっともっと私たちの活動が広がって、困っている先生方の支えになればと思う。

大変失礼な言い方になるが、本を読まない中学教師、セミナーに参加しない中学教師がいる。
大学まで専攻していた各教科担任の先生にとって、中学の教科内容など楽勝だろう。本や指導書に頼る必要もない。
でも、各教科の専門知識があることと、それを教える授業力とは別ものだ。
そこを分かっていない先生も多い。


自分も漢字を覚えることは苦手ではなかったので、「何回か練習すれば漢字は書けるよ」と根性論で教えてきた。
何度書いても漢字を覚えられない生徒や、ぜんぜん作文が書けない生徒に対して「なぜ、そんなことができないのかな」という思いに駆られることがあった。
自分の指導力のなさを、その生徒の「やる気」のせいにしたこともあった。
名選手が名コーチになれるわけではない。
自分ではできてしまう教科担任は、意識して「できない子に寄り添う」という教師修行を課さねばならない。

授業に困っている先生や、生徒指導で困っている先生がいるなら、私たちのノウハウで何とか支えたいと思う。
悩んでいる先生に我々の活動と願いを伝えたい。

オンラインでの研修が可能になり、これまで時間の都合がつきにくかった中学高校の先生でも、その気になれば参加可能なセミナーが増えてきた。逆に言うと,部活や生徒指導を理由に学びを怠ってきた先生は,サボる理由がなくなったわけだ。

各教科に中学の優れた実践家はおみえだが、教科をメインにするとどうしても人数が分散するので、教科を問わない生徒指導・学級活動・道徳をメインにしたオンラインセミナーを実現したい(続く)

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できない子に寄り添う教師でありたい(1)

同じサークルの先生の学校(高校)の職員アンケートで、期待されているのが「分かりやすい授業」という結果になったと言う。

かつて自分が勤務していた中学では、授業研究は教科部会が中心だった。

各教科で年度の研究目標を立て、教科部会で研究協議を行った。

学校訪問(主事訪問)は全校体制だから、全職員が割り当てられて参観するが、他教科の先生は、その教科の論理がよくわからないから一歩下がって意見を言うことが多かった。

今なら、このやり方に反対する。

他教科の先生、つまり第三者がその授業をどう評価するかを研究協議の中心にすべきだと思う。

この高校の先生には、以下のように返信した。

 

高校教師にとって、自分の専門教科は「できて当たり前」だから、本気にならない限り、できない子・苦手な子の気持ちに寄り添えません。自分だって漢字を覚えられない子の気持ちには正直寄り添えてなかったと思います。そんなの練習するだけじゃんと思っていましたから。

だから教科部会で授業検討するのではなく、他教科の先生に授業公開して、「専門以外の教師から見た授業の感想」を共有することが大事だと思いますね。

「俺、英語苦手なんだよね」という先生にこそ、英語の授業を見てもらって正直な感想をもらう校内研修のシステムです。


・・・「中学校の時、こんな国語の授業を受けてたら、自分も国語嫌いにならずにすんだかも」と同僚教師に言われたら、まさに最高の賛辞だろう(言われたことはなかったが)。

そして「教科は違うけど、あのような授業をすれば生徒が熱中するのだとよく分かりました。自分の教科でも工夫してみます」と言われたら光栄だ(言われたことはなかったが)。

 

生徒は正直だから「○○先生の授業、つまらんよね」とも言うが、「○○先生の授業よくわかるよね。面白いね」とも口にする。
つまらないと言われたり、授業中に他ごとをされるのは辛いが、その原因を生徒に押し付けていては何の解決にもならない。
「俺はこんなに一生懸命授業しているんだから、聞かない生徒が悪い」と、授業に集中しないことを生徒のせいにしているようでは永遠に授業力は上がらない。もちろん仕返しに態度点を減点して溜飲を下げているようでは話にならない。

「俺が悪いんじゃない、やる気のない生徒が悪い」と豪語する中学の先生を何人も見てきた。
「楽しい授業を目指すなんて言って、生徒にご機嫌とってどうするんだ。楽しくなくたって授業はしっかり聞くべきなんだ」と、あたかも授業はそもそも苦行だと言わんばかりの先生も見てきた。
一方で、態度点を減点されたら困るからと我慢して授業を受けている生徒を山のように見てきた。

生徒のやる気を喚起することも、他ごとさせないことも含めて、教師の力量なのだということをT、私たちは日々の課題として教師修行をしている。

耳に痛い指摘だから、拒否する教師もいるだろう。
しかし、心ある教師(A先生の授業では言うことを聞く生徒たちが、自分の授業では騒然とするという経験を持つ心の折れそうな教師)は救われると思う。

私たちの教育サークルは、そのように苦しんでいる先生たちの味方なのだ。

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「評価の3観点」の理解が怪しい!

2学期には成績を出して通知表を保護者に配ってしまったが、実際のところ学習評価についての職員の共通理解が不十分であったと反省している。

従東京書籍の「教師の窓」一月号に、市川真一氏の論稿が掲載された。

https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/ten_download/2021/2021017255.htm

市川氏のお名前は椿原先生に著書を教わるまで知らなかった。

椿原先生に教わっていなければ、この論稿もスルーしていただろう。

これを見ると、正直、「かなりヤバいな」と思った。
 

◆まず「知識・技能」はあまり変わっていないと言われますが、評価の方法に目を向けてもらうとそうではないことがわかると思います。

・・・一番大丈夫だと思っていた「知識・理解」でさえ、従来通りではダメだというのだ。

 

◆「知識・技能」とは、丸暗記で対応できるペーパーテストで評価するような、断片的な知識だけではなく、記述式問題や実演などを通して、知識同士が関連付いた状態、例えば原因や理由等の理解を伴った知識を評価することが求められています。

 

・・・原因や理由の記述は「思考・判断・表現」の評価になると考えるのが誤りなのだ。

すみません、今頃こんなこと言っていて。

 

算数、数学であれば、公式を暗記するだけでなく、その公式がどうやってできてきたかや、他の公式との関係まで理解する。歴史であれば、年号を覚えるだけでなく、その出来事が起きた原因や全体の流れまで理解する。従来よりも、知識の高度化が求められているともいえます。
 

・・・市販テストに記述式問題があるか、記述式問題を評価する力が教師にあるか、繰り返すがそもそも記述式問題が「知識・理解」の評価観点なのだという認識が教師にあるかを考えると、2学期に通知表を配ってしまったとはいえ、再検討する必要があるのだ。

 

「思考・判断・表現」では、それ以上のことを、自分で考察するとか、まとめ直して発表するとか、討論するとか、レポートにするといった活動が求められます。レポートにするとは、時間をたっぷりかけて自分なりに考えを深めて論述することです。このような活動をもっと学校でも取り入れてほしいと思います。そこでその子なりの何か考えたことを表現する姿が見られれば、それを「思考・判断・表現」として評価してください。つまり「知識・技能」と「思考・判断表現」も、これまでと全く同じではないということを押さえてほしいと思います。

 

・・・「思考・判断・表現」は、ほぼペーパーテストでは測れないということなのだが、担任は個々のレポートや討論の様子から、個々の能力を適切に評価できるだろうか。担任の職員の評価能力を上げないと(というよりは評価の仕方をみんなで学習しないと)、担任によって、つまり年度によってその子の評価がバラバラになるおそれがある。評価の客観性が担保できない。

そして、そもそも授業を変えないといけない。
 

静かに先生の話を聴く授業
黙々と板書を書き写す授業

では、「思考、判断、表現」を評価しようがない。

単元の最後に書かせたり発表させたりすることは多い。
しかし、それだけでは「思考、判断、表現」の場の設定はしても、「思考、判断、表現」を鍛えることにはならない。「活動あって指導なし」になるから、元々できる子はよいが、できない子は教わらなければレベルアップできない。

教師の「思考、判断、表現」を鍛える指導力が問われている。

 

最後に「主体的に学習に取り組む態度」

従来の「関心意欲」は違うんだよねと分かってはいても、結局、挙手発言の量、授業態度、ノート点検などで評価している現状をどうすればいいか、残念ながらよく分からなかった。

 

◆「主体的に学習に取り組む態度」は、粘り強く取り組む側面と自己調整を行う側面から評価することが求められます。粘り強いというのは、学習に長い時間取り組むといったような量的なものです。ただし、それだけではなくて、自己調整、つまり自分なりの工夫をして、学びを質的に高めようとしているかどうかを評価することが必要です。

 

・・・市川氏の指摘を読んでも、量的質的な取り組み態度を把握するためにはどうしたらいいのか、結局、従来通りになるのかどうか、そこは分からないままだった。

学習指導要領が変わっても学校現場に混乱がないのは、これまで通りで進めているからだ。

 

次年度から意識改善と授業改善を進めるには、年度末反省が大事になってくる。
自分だけ焦っていても仕方ないのだ。

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「いかにして問題を解くか」 Gポリア著

12月に高橋純先生(東京学芸大)の講演動画を視聴した。
「算数を広げる視点」という画面が印象に残った。


◆別の解き方をしてみる。
→もっと簡単な方法を見つける

◆数値や形、場面などを変えてみる
→いつでもいえることを見つける。
◆問題や答えの見方を考える
→何に使える事柄化を考える視点を増やす
◆同じ考え方が使える場面を見つける
→どんなことに活用できるかを考える



この部分が、指導要領のどこかに書いてあるのかと探したが見つからなかった。
何しろ算数の指導要領は分厚い。

関連しているのが、次の箇所だ。P28,29

◆よりよく問題解決するということは、一つの方法で解決したとしても別な方法はないかと考えを進め、本質的に違う方法でも解決することであり、二通りの方法を見いだしたら、ほかの場面にそれらの方法を適用し、それぞれの方法の可能性を検討することでもある。
このように、数学的に表現・処理したことや自らが判断したことを振り返り、状況によってはそれを批判的に検討するなどして、考察を深めたり多面的に分析したりすることが、よりよい問題解決の実現につながる。

・・・さて、たまたまある本を読んでいたら、「あの部分と同じだな」と思った。

もしも与えられた問題がとけなかったならば、
何かこれと関連した問題を解こうとせよ。
もっとやさしくてこれと似た問題は考えられないか。
もっと一般的な問題は?
もっと特殊な問題は?
類推的な問題は?
問題の一部分を解くことができるか(後略)



これは、

「いかにして問題を解くか」Gポリア著 
昭和29年発行で、手元にあるのは平成23年第11版。

 「問題解決学習」というだけで批判的な人もいるが、この本の中身は極めてシンプルで、決して無理難題を説いているわけではない。(ただし、読みにくい)
 本書の主張は、本の表裏に掲載するほどの念の入れてある。
 漢字表記や言い回しに難解な部分もあるので、ナンバリングなどを含め自分なりに少し変えて以下に示す。
「~せよ」「ねばならない」「~できるか」「~できないか」の文末も揃えてみた。

1「問題を理解すること」
① 未知のものは何か、与えられているもの(データ)は何か、条件は何かを明らかにせよ。
②その条件は未知のものを確定するのに充分か・不十分か・余分はないか、矛盾していないかを明らかにせよ。
③図を描いたり、適当な記号を使って明らかにせよ。
④条件の各部を分けられるか、それを書き表すことができるかを明らかにせよ。

2「計画をたてること」
①前に見たことがあるか、
②同じ問題を少し違った形で見たことがあるか。
③似た問題を知っているか
④役に立つ定理を知っているか。
⑤未知のものと「同じ」「よく似ている」「見慣れた」問題があったか。
⑥既に解いたことのある似た問題の結果や方法を使えないか、
⑦それを利用するためには、何か補助要素を導入すべきではないか。
⑩問題を言い換えることができるか、
⑪定義に戻れ

⑫もしも与えられた問題が解けなかったら、
・関連した問題を解こうとせよ。
・これと似た問題は考えられないか?
・もっと一般的な問題は?
・もっと特殊な問題は?
・類推的な問題は?
・問題の一部分なら解くことができるか、
・条件の一部を残し、他を捨てよ。
・どの程度まで未知か定め、どんなデータがあれば役立つかを考えよ。
⑬データを全て使ったか、条件の全てを使ったか、問題に含まれる本質的な概念は全て考慮したか。

3「計画を実行すること」
①解答の計画を実行するときに、各段階を検討せよ。
②その段階が正しいことをはっきりと認められるかを確認せよ。

4「振り返ってみること」
①結果を試すことができるか
②議論を試すことができるか
③結果を違った仕方で導くことができるか。
④他に問題にその結果や方法を応用することができるか。


・・・・はしがきでは、「教師としての心構え」を説いている。

◆もしも彼が授業時間に決まりきったやり方で詰め込もうとするならば、それは学生の興味を失わせ、彼らの知能の発達を鈍らせてしまい、折角の機会を逃すことであろう。しかし反対にもしも教師が学生の知識にふさわしい問題を与えて興味をそそり、適当な質問によって問題を解く手助けをしてやるならば、学生に自分自身でものを考える意欲と方法と与えられ与えることができるであろう。

◆しかし彼が数学を単に資格を取るために学ぼうと思ったり、試験が済んだらできるだけ早く忘れてしまおうと思ったりしては、その機会を失ってしまう事はもちろんである。(中略)一度数学の楽しみを味わうならば、それは容易に忘れがたいものとなり、楽しみにせよ、あるいは職業の助けとなるにせよ、あるいはまた職業それ自身であり大きな野心の目標となるにせよ、とにかく彼にとって何か意味のあるものとなるに違いない。

・・・ポリアは学生だった頃、次のように感じたそうだ。

◆この解法うまくて間違いがないように見えるけれども、どうしたらそれを思いつくことができるだろうか。
この実験はうまくて事実を示すように思われるが、どうしたらそれが発見できたであろうか。
どうしたら私は自分でそれを思いついたり発見したりできるであろうか。

・・・教師の見事な解法を教わるだけでは、自分が新たな課題に向き合った時に解決できないこと、つまり、どうしたら汎用的な学習スキルが身につくかを意識していたのだ。
だから、第一部「教室にて」では、目標として「学生を助けること」を筆頭に挙げ、

◆「彼(学生)が充分助けてもらわないで捨てて置かれるならば、ほとんど進歩しないであろうし、また教師が助けをしすぎるならば学生は何も得るところがないであろう。教師は手を貸さなければならないが、それは多すぎても少なすぎてもいけない。」

と指摘した。ちょうどよいレベルの支援が必要なのだ。

「仏様の指」のエピソードような指摘もある。

◆「教師は学生に1人で仕事をしているかのように思わせるべきである。そのためには教師は時たま、目立たぬようにそっと助けてやらなければならない。」

学生を助ける第一手として、「わからない事は何であるか」を問えと言う。

①「分からないことは何か」
②「与えられているものは何か」
③「条件は何か」

「問題解決」の流れは、いわばプログラミング的にシステム化している。

・関連した問題を知っていますか?
・未知のものは何でしょう?
・未知のものが同じな他の問題を知っていますか?
・未知のものが似ている問題を知っていますか?
・既に解いたことがあるよく似た問題があります。それを利用することができるでしょうか?
・よく似た問題を利用するために、何か補助の要素を導き入れることができますか?

学習指導要領の「数学的な見方・考え方」の大元は、ここにあるのだなとよく分かった。

※大日本図書の「中学校教育フォーラム」2015年秋号のコピーを読むたびに、ポリアの指摘にうなってしまう。
続・先生のためのMathful 
日常の「説明」と数学の「証明」 近藤裕氏


◆ポリオは「なぜ証明が必要か」について「任意の三角形の内角の和は二直角である」ことの証明を例にあげ、「このような証明を教室で教わらなかった学生は学校と教師に文句をいってしかるべきである」といっています。そして、次のように続けています。「幾何学の証明というものを学ばなかったとしたら、真実というもののいちばん簡単で、いちばんよい実例を見逃し、厳格な推理というものを知る機会を逃したことになる。このような考えなしには、現代の生活で彼に襲いかかるあらゆるものごとを判断する基準をもちえないからである」
https://www.dainippon-tosho.co.jp/newsletter/filedownload.php?id=154&num=1

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小説を読まないと方法論は語れない ~宇佐美寛氏の助言~

書店で小説コーナーに行くと、読むかやめるか、買うかやめるか迷うことが多い。
小説を読むとなれば何日か時間がかかるが、その時間を確保する自信がないからだ。

久しぶりに宇佐美寛氏の『新版 論理的思考』(メディカルフレンド社)を開いてみて、やはり小説を読まねばと思った。

第5章「読書」には、論説や教育・医療のジャンルのほかに、小説のリストがたくさん並んでいる。
「記録」というのは「ノンフィクション」のことのようだ。

172ページに次のように書いてある。太字は私。

====================
 おそらく、皆さんの中で、かなりの数の人は、このリストではまず1-1 (つまり「論説」の「言語・論説・思考」)や、1の2(「論説」の「読書・作文」)の項に挙げられている本から読もうとするでしょう。特に後者、例えば『論文の書き方』『文章読本』などを読もうとするでしょう。
 その気持ちはわかります。つまり、文章の書き方を直接論じている本を読めば、ずばりと大事なことがわかると思うでしょう。端的に早く書く書き方のコツをつかみたいと思うのでしょう。また、本の読み方について書いてある本を読んでから、他の本を読もうと思うのでしょう。
 しかしそれはいけません。今するべきことは、読むのを楽しむこと、本に慣れること、書くためのたねをたくさん蓄えることなのです。まずたくさん読んで、文章についていろいろ感じておかないと、文章の読み書きについての本を読んでみても、本当にはわからないのです。ちょうど、水に入って何とか泳ごうとし、ある程度泳げるようになってからでないと、泳ぎ方の本を読んでも、わからない(むしろ、わからないということが意識できない)のと同じです。とにかく、慣れて好きになるための実践をある程度多量にするのが1番です。読み書きの方法について理解するのは、この第一の段階で得られたことを材料に指定でなければ不可能なのです。
 だから、「小説」や「記録」の項に挙げてある本から読み始めてください。それによって読書体験を増やしてからでなければ、方法について書いた抽象的な本を読んでもダメです。
====================

・・・小説の読書体験を増やさないと方法論は語れないとは、具体論がなければ抽象論は語れないという意味なのだと思う。
「経験がないと言葉を理解できない」と主張する宇佐美氏の意図が、ここからも伝わってくる。

重松清・伊坂幸太郎・東野圭吾を読み漁ったころの蓄えが切れてきた。
「急がば回れ」で腰を据えて小説も読んでみよう。

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学校の存在意義が問われている 


1月中旬、オンラインで行われた岐阜聖徳学園大学の玉置嵩氏の講演の中で、いくつか興味深い指摘があった。

「意味の喪失」

・・・これは『ビジネスの未来』山口周氏の引用だそうだ。

• 人間は意味をエネルギーにして生きている。
• 意味も意義も感じられない営みに携わって生きることはできない。
• 社会が大きな危機を迎えるには、間違いなく「意味の喪失」という問題から引き起こされる。
• 何のために?という問いに答えられない状態になる。

・・・様々な行事が削減された学校においても「意味」が問われ、「意味」が喪失し、エネルギーが喪失した。
これは「社会的な大きな危機なのだ」と言う。

このところ気になっていたキーワードが

「祝祭性」


「祝祭性」というワードを落合陽一氏は使う。

たとえば、次の番組
◆落合陽一「テレビに出るのは社会科見学」|日テレNEWS24
https://www.news24.jp/articles/2020/12/18/07788583.html

向山先生が使う「ハレ」と同じ意味なのだと思う。

================
「飲み会をリモートでやろうとしても、身体性がないから“祝祭性”や“共時性”が足りない。
(中略) 冠婚葬祭ができないので祝祭感が盛り上がらない」

「祝祭」の意味とは何だろうか。

「入学式や卒業式など、コミュニティを維持するために、その一員として認められるためのイベントというのは祝祭と呼ばれることが多い。例えば、オリンピックだったら、“日本”とか“世界市民”だとか。祝祭がなくなると、社会に対する帰属意識やお互いにとっての共通基盤、コミュニティに属しているという感覚がなくなる。そうするとマナーが悪くなったり思いやりがなくなったりすることは起こるんじゃないですか」
================

・・・自粛ムードが高まると何でも中止になるが,エンタメや祝祭は「こんな時だから必要」という側面がある。
冠婚葬祭は、多くが自粛されている。では冠婚葬祭はもう必要ないのか?
冠婚葬祭は「不要不急」なのか?

そのような観点で、学校行事を考える。
コロナ禍で中止になったということは、しょせん「不要不急」だったのか?
何が必要で何が不要なのか、そこをあいまいにして年度をまたぐと、さらに混乱が起こる。
意味の喪失が起こり、職員や子供の気力も喪失する。

ちなみに玉置氏の講演で指摘された「学校の存在意義」は、次の3つ。
知・徳・体の三要素と考えれば、ごくごく常識的な私的であるだけに、きちんと受け止めておきたい。

(1)学力保障(学習的機能)
(2)関係保障(社会的機能)
(3)健康保障(福祉的機能)


「ポストコロナ」を見据えた新しい時代の初等中等教育の在り方について 
参考資料2 岩本委員提出資料より
https://www.mext.go.jp/content/20200702-mxt_syoto02-000008445_10.pdf

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January 10, 2021

「葉桜の季節に君を想うということ」

2004年のミステリーだから「何を今更」という読書。
たまには小説を読もうということで、「ミステリー」で検索したらヒットした作品。全く予備知識のないままに手にとってみて、どんでん返しのトリックにまんまとやられた。それはともかく「咲き終わった桜も精一杯生きている」というメッセージは60歳目前の自分には心に響いた。題名の割に、文章はちょっと軽いけど。
ところで、読むまで全く知らなかったが、実家の清洲町が出てくる(今は清須市)。「名古屋の市場にある飲み屋」を探すくだりで、金山や納屋橋を探して最後に見つけたのが清洲町の「市場」。先週も歩いたJR清洲駅付近の描写にビックリした。なお、作者が同じ1961年生まれであることもビックリした。
Image_20210110232501 

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January 04, 2021

「人はいかにして学ぶか 日常的認知の世界」(中公新書)

「人はいかにして学ぶか 日常的認知の世界」(中公新書1989)

稲垣佳代子、波多野誼余夫の共著という点では、あの1973年の「知的好奇心」と同じだ。
学ぶところが多く、たくさん付箋を貼った。厳選すると以下の箇所。

経験と知識の獲得との関連については、第二章の「現実的必要から学ぶ」が深い。

◆金魚の飼育経験のある子どもは、金魚についての概念的知識を獲得しただけではなく、この知識をもとにして、他の似た動物について類推することもできた。(中略)彼らは、その動物の生態について、大人も顔負けするほどの知識を獲得していることが珍しくない。(中略)これらの事実は、伝統的な学習の説くところとは違って、人は、能動的に環境と交渉し、そこから自分なりに知識を構成していける存在であることを示唆しているといえよう。p32


興味関心の高さが、知識獲得を促す点については「第三章 知的好奇心により学ぶ」

◆子供たちが磁石遊びを終えた時点で、どんな事物が電磁石に吸い付くかを、いろいろな仕方で聞いてみた。すると、探索を熱心にあった子供ほど、そこから学んでいることが多かった。どんなものが、どんなふうに磁石に出かに関して、正確に答えることができたのである。

・・・「角砂糖が水に溶けた時の重さ」について集団討論の効果について説明した次の箇所も興味深い。仮説実験授業を参観したのかなと思わせる場面だ。

◆観察後には、討論群もそうでない群も、ひとしく「砂糖は水中で溶けても重さは変わらない」と答えることができるようになった。しかし、なぜ変わらないのか、その理由を聞いてみると、討論群の子どもでは十分な説明を述べることができたが、ただ観察しただけの群の子どもでは、それができなかった。51ページ

◆彼らは、得られた結果だけに満足せずに、どのようにしてその結果が生じたのか、自分たちの行為と結果との因果的な関連を理解しようとしているのである。53ページ

・・・因果関係を自分で考え、自分の中で生じた事象に整合性を持たせたい(自力解決したい)というのが、「知的好奇心」であり「学ぶ意欲」であるのだと理解した。


また、文章の読み取り=イメージ確定についての次の箇所も印象に残った。

====================================
書いてあることがわかるだけで満足するのではなく、そこに直接書いてないことを推測し、書いてあることに照らしてその推測が正しいかどうかを吟味していく。こうすることによって、書いてある事を超えてより深く理解することができる。54ページ
====================================

◆人は、たえず自分なりに納得のいく、整合的な世界のイメージを構成しようと努めている存在なのである。

◆理解するためには、新しく入ってくる情報を既有の情報と関連づけ、そこに整合的な関係を見出すことが必要である。

・・・「AとBの事態を理解するには、Cという解釈をしないとつじつまが合わない」といった思考過程だろうか。

子どもは「整合性」なんて言葉を知らなくても、整合性のある解釈をする。
それが「知性」だ。

ちなみに、何の根拠もないが、子どもは「穴うめ」問題が好きだ。
空欄を見ると、前後の内容からの類推で埋めてみたくなる(「文字数指定」があると類推もさらにやる気になる)。
それは「整合的に物事を理解したい」という知性の表れなのだと思う。

 

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「語彙力を鍛える」(7) 言葉にこだわる

品のない論争の場合は、悪意のある同義語を駆使して、イメージダウンを図る。これを「攻撃用語」と呼ぶ。
例えば、昨年12月30日の中日新聞の社説。

今年大統領選が行われた米国では現職大統領が自国民を威圧、分断し、投票結果にも難癖をつけて覆そうとしています。

・・・「威圧、分断」はトランプ陣営だけの問題なのか、「難癖」とあるが全ての投票結果に不正はないと確定したのか、そう思うと、明らかに攻撃用語を駆使しているなと思う。

追求する野党議員に対し、安倍氏はこう強弁し続けました。これらがすべて虚偽だったわけです。
(中略)安倍氏が首相任期在任中、国会審議の中で行った虚偽答弁は百十八回に上ります。

・・・安倍氏本人は「結果として、答弁の中には、事実に反するものがあった」と述べている。
「事実に反する答弁」と「虚偽答弁」は意味が違う。「虚偽答弁」は意図的なものだ
相手を貶めるために「虚偽答弁」という表記を使い、フラットな「答弁」を。悪意ある「強弁」に置き換えて「傲慢さ」を印象付けた。
私は冷静に読んでいるが、この社説を読んで「安倍氏はとんでもない」と思う人もいるわけだ。

言葉にはフラットなものと、感情を加味したものがある。
野球の試合の「勝利」がフラットなら、「快勝」「大勝」「楽勝」「辛勝」は感情が入っている。
「勝利」の反対語は「敗北」。「敗北」と言った時点で感情が含まれている気もするが、「惨敗」「惜敗」「大敗」などが感情の入った表現だ。スポーツ新聞の見出しは、語彙の宝庫である。

前にも書いたが「言いました」は、場面に応じて様々に言い換えることができる。
言い換えることで、その場に応じた感情を加味することができる。
だから「要約・大意・ストーリー」にこだわると、些細な言葉の違いにこめた感情がスポイルされる。

若い頃、「何が書かれているか(内容読み)」と「どう書かれているか(表現読み)」の双方の指導が必要だと教わってきた。
時々そのことを思い出して、内容に偏りがちな自分の読み方を戒めている。

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「語彙力を鍛える(6) ~ワーキングメモリーが弱い子ども~

手元に「読み理解を促す語彙学習」の資料がある。

「実践障害児教育」2019年1月号・2月号「学習困難な子に効く ワーキングメモリー活用術」河村暁氏の論稿だ。

冒頭に「語彙はなぜ大事なのか」の章がある。

◆「今年の柿は 豊作で、安い価格で おいしいものが 出回っている」

子供に馴染みがない太字の単語を「実在しない非単語」に置き換えると、例えば次のようになる。

◆「のけさの柿は くみぬらで、安いそめらで おいしいものが どみらみもいる」

知らない単語に出会った子は、たとえ文字は読めても意味が分からないことを、このように非単語を用いた文例で示している。

河村氏は「ワーキングメモリーの言語領域が弱いと、語彙量が少なくなりがちである」と述べる。

①初めて聞く音を覚えられない
言語領域のワーキングメモリーが弱い子どもの中には、初めて聞く言葉を正しく認識できない子がいる。
「へいこうしへんけい」のような長い言葉を「へい・・」としか復唱できなかったり、「テレビ」を「てびれ」にように覚え間違えたりして、効率的な語彙学習が難しくなる。

②情報を処理しながら覚えられない。
文章を読むことは子どもの語彙の大きな供給源になっている。しかし言語領域のワーキングメモリーが弱い子どもは、言葉の意味を学ぶ学習(情報の処理)をしている間に言葉を忘れたり、言葉の意味を思い浮かべられなかったりして、効率的な学習が難しくなる。



定型発達の子は1年間におよそ7500語(1日に20語)の言葉を覚えていく。
語彙量が多い子は、読んだ内容を理解できるので読書量が増え、ますます語彙量が増える
一方、語彙量が少ない子は、読んでも理解できないので読書量が増えにくく、語彙量も増えない。各教科の「れき岩」「前方後円墳」「直方体」などの単語の意味を覚えにくい。
しかも、「読めない」「書けない」に比べて、語彙量が少ないことは発見されにくい。

・・・このように「語彙の少なさ」が抱える課題は多いのだ。

①その言葉を知っているかどうか・・「既知度」
②どういう意味か・・・・・・・・・「辞書的定義」
③どんな風に使うか・・・・・・・・「文脈的定義」

の3つの質問で子どもの語彙量を把握せよと述べているが、この①②③は語彙習得のステップである。
ステップ③までいかないと、語彙は自分のものとして活用できない。

部屋の整理をしていたら、息子の大学入試問題集が出てきた。
数学や物理の問題は、まさに「宇宙語」で書いてあるように思える。

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January 02, 2021

テキストを鵜呑みにしないために、「拡散的思考」で読む。

一読総合法では、教材文のシートに「書き込み」をしながら読ませていく。
宇佐美寛氏は「ケンカ読み」と言って一文ずつ疑って読むことを勧めた。

ずいぶん前の「ウミガメのはまを守る」(小四 東京書籍)の授業メモが出てきた。

第一段落は次の通り。

静岡県御前崎町のすなはまには、毎年五月から九月にかけて、アカウミガメがたまごを産みに上陸します。その数は百頭以上、多い年は五百頭を超えます。毎年これだけの数のアカウミガメが上陸するすなはまは、それほど多くはありません。

・・・最初は、要約で授業を進めるつもりだったが、本文を見て、ここは導入でもあるし、一文ずつ疑問を出させていきたいなと思った。
 「収束的思考」よりも「拡散的思考」を狙ったと言える。
テキストを鵜呑みにしない「情報リテラシー」の態度の育成とも言える。
「主体的に読む」ということになるかもしれない。
 

◆静岡県御前崎町のすなはまには、毎年五月から九月にかけて、アカウミガメがたまごを産みに上陸します。
①ウミガメが上陸するのは御前崎町だけか。
②なぜ五月から九月なのか。
③アカウミガメってどういう亀なのか。
④アオウミガメはいるのか。
⑤なぜアカウミガメと言うのか。


◆その数は百頭以上、多い年は五百頭を超えます。
⑥最近は減ってきているのか。
⑦今年は何頭来たのか。
⑧五月から九月で上陸する数は違うのか。


◆毎年これだけの数のアカウミガメが上陸するすなはまは、それほど多くはありません。
⑨「多くはない」ということは、他にどこに上陸するのか。
 

・・・一段落、三文しかないのに、たくさん疑問が出たね、と感心してみせた。
ここで出した疑問について教材の後半で答えが出ることもあるし、教科書だけでは最後まで分からないこともある。
それでも「疑問を出させる」ことは「細部にこだわる」ことである。
確かな意味を確かに読みの力を育てるには細部にこだわるよりも必要であると思う。

この時は「疑問」を用いた。
今なら「わ・き・お」を使って、まずは拡散させるだろう。

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January 01, 2021

受験学力は、情報処理能力である。

受験学力、受験対策、受験テクニックと言うと、マイナス評価で受け止められることが多い。

しかし、一定の時間で解答を求められる「入試」は、情報処理能力を鍛えている。
国語の入試問題は、聞き慣れない用語も多く、語彙力を鍛えている。

テスト対応の授業は「受験テクニック」という言い方をされることもあるが、いいかげん、そのようなレッテルを貼るのはやめて、「情報活用・情報処理」という視点で評価すべきだ。
そのためにも、そもそも高校入試・大学入試等を、「情報活用・情報処理」という視点で評価すべきだと思う。

「受験学力=暗記力が高くたって、そんなの将来の役に立たないよな」と言われがちだが
「受験学力=情報処理能力の高い人は、将来役に立つよね」と評価すべきだ。受験を勝ち抜いた学生の情報処理能力は素晴らしいのだ。

国語の入試問題では「本文を読まなくても、設問を読めば、およそ解答は検討がつく」と言われることがあるが、これも受験テクニックではなく、情報処理能力だ。

なお、「選択肢の中で、断定して書いてあるものは疑った方がよい」と言われることがあるが、これは情報リテラシーの能力として考えた方がよい。
そういう意味では、文章の全体をパッと把握する処理能力も大事だが、文末表現の細部の違うを見抜くリテラシー能力も極めて大事だ。

集合で言えば

A・全て 「事実」である。
B・一部は 「事実」である。
C・一部は 「事実」でない。
D・全て 「事実」でない。

の4つをきちんと区別し、次のようなさまざまな否定のニュアンスもきちんと把握できる能力を育てたい。

A:必ずしも「事実」ではない。
B:「事実」と言えないことはない。
C:「事実」が決して少なくない。
D:「事実」が少ない。
E:全て「事実」でない

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簡単だから難しい

市の教員会から干支にちなんだ原稿を書くように依頼があった。

退職予定の校長の中で自分に回ってきた仕事だ。

 

少しの違い               

「丑」という漢字は十二年に一度しか意識しないから、すぐ忘れてしまう。「五」や「互」に近いから、かえって覚えづらい。

 先日、二年生の子が漢字の間違い直しで苦労していた。「来」が書けなくて「半」と書いていた。「惜しいね。」と声をかけると「米」と書き直した。なるほど、確かに「半・米」と「来」はよく似ている。「丑」が覚えられない自分には、よく似た漢字で苦労するこの子の気持ちがよく分かった。

 「恕(じょ)」という漢字がある。「ただ一言で生涯行うことができるものは?」と問われた孔子は「恕」を挙げ、その意味として「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と説いた。「怒る」と「恕す(ゆるす)」は「又」と「口」の違いだけなのに意味は真逆だ。

 ストレスマネジメントのアドバイスに「辛い気持ちを乗り越えると幸いになる」とあった。「辛」と「幸」が一画違いというのも意味深い。

 日々の生活も「怒と恕・辛と幸」の繰り返しであるが、禍福は表裏一体だから「辛・怒」がなければ「幸・恕」は味わえない。残る一年は「辛・怒」を受け入れる自分でありたい。

 

・・・よく似ているから簡単なのではない、よく似ているから混同しやすいから難しい。

「簡単だからすぐ覚えられるよね」などとアドバイスしてはいけないのだ。

自分も、ハングル語の1から10の漢数詞は、到底、覚えられないと思う。

数字・ひらがな・カタカナ・アルファベットで、つまづく子たちに優しい教師でありたいと、今更ながら思う昨年だった。まだまだ教師修行は続く。

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