「いかにして問題を解くか」 Gポリア著
12月に高橋純先生(東京学芸大)の講演動画を視聴した。
「算数を広げる視点」という画面が印象に残った。
◆別の解き方をしてみる。
→もっと簡単な方法を見つける
「算数を広げる視点」という画面が印象に残った。
◆別の解き方をしてみる。
→もっと簡単な方法を見つける
◆数値や形、場面などを変えてみる
→いつでもいえることを見つける。
◆問題や答えの見方を考える
→何に使える事柄化を考える視点を増やす
→何に使える事柄化を考える視点を増やす
◆同じ考え方が使える場面を見つける
→どんなことに活用できるかを考える
この部分が、指導要領のどこかに書いてあるのかと探したが見つからなかった。
何しろ算数の指導要領は分厚い。
関連しているのが、次の箇所だ。P28,29
◆よりよく問題解決するということは、一つの方法で解決したとしても別な方法はないかと考えを進め、本質的に違う方法でも解決することであり、二通りの方法を見いだしたら、ほかの場面にそれらの方法を適用し、それぞれの方法の可能性を検討することでもある。
このように、数学的に表現・処理したことや自らが判断したことを振り返り、状況によってはそれを批判的に検討するなどして、考察を深めたり多面的に分析したりすることが、よりよい問題解決の実現につながる。
・・・さて、たまたまある本を読んでいたら、「あの部分と同じだな」と思った。
もしも与えられた問題がとけなかったならば、
何かこれと関連した問題を解こうとせよ。
もっとやさしくてこれと似た問題は考えられないか。
もっと一般的な問題は?
もっと特殊な問題は?
類推的な問題は?
問題の一部分を解くことができるか(後略)
これは、
「いかにして問題を解くか」Gポリア著
昭和29年発行で、手元にあるのは平成23年第11版。
「問題解決学習」というだけで批判的な人もいるが、この本の中身は極めてシンプルで、決して無理難題を説いているわけではない。(ただし、読みにくい)
本書の主張は、本の表裏に掲載するほどの念の入れてある。
漢字表記や言い回しに難解な部分もあるので、ナンバリングなどを含め自分なりに少し変えて以下に示す。
「~せよ」「ねばならない」「~できるか」「~できないか」の文末も揃えてみた。
1「問題を理解すること」
① 未知のものは何か、与えられているもの(データ)は何か、条件は何かを明らかにせよ。
②その条件は未知のものを確定するのに充分か・不十分か・余分はないか、矛盾していないかを明らかにせよ。
③図を描いたり、適当な記号を使って明らかにせよ。
④条件の各部を分けられるか、それを書き表すことができるかを明らかにせよ。
2「計画をたてること」
①前に見たことがあるか、
②同じ問題を少し違った形で見たことがあるか。
③似た問題を知っているか
④役に立つ定理を知っているか。
⑤未知のものと「同じ」「よく似ている」「見慣れた」問題があったか。
⑥既に解いたことのある似た問題の結果や方法を使えないか、
⑦それを利用するためには、何か補助要素を導入すべきではないか。
⑩問題を言い換えることができるか、
⑪定義に戻れ
⑫もしも与えられた問題が解けなかったら、
・関連した問題を解こうとせよ。
・これと似た問題は考えられないか?
・もっと一般的な問題は?
・もっと特殊な問題は?
・類推的な問題は?
・問題の一部分なら解くことができるか、
・条件の一部を残し、他を捨てよ。
・どの程度まで未知か定め、どんなデータがあれば役立つかを考えよ。
⑬データを全て使ったか、条件の全てを使ったか、問題に含まれる本質的な概念は全て考慮したか。
3「計画を実行すること」
①解答の計画を実行するときに、各段階を検討せよ。
②その段階が正しいことをはっきりと認められるかを確認せよ。
4「振り返ってみること」
①結果を試すことができるか
②議論を試すことができるか
③結果を違った仕方で導くことができるか。
④他に問題にその結果や方法を応用することができるか。
・・・・はしがきでは、「教師としての心構え」を説いている。
◆もしも彼が授業時間に決まりきったやり方で詰め込もうとするならば、それは学生の興味を失わせ、彼らの知能の発達を鈍らせてしまい、折角の機会を逃すことであろう。しかし反対にもしも教師が学生の知識にふさわしい問題を与えて興味をそそり、適当な質問によって問題を解く手助けをしてやるならば、学生に自分自身でものを考える意欲と方法と与えられ与えることができるであろう。
◆しかし彼が数学を単に資格を取るために学ぼうと思ったり、試験が済んだらできるだけ早く忘れてしまおうと思ったりしては、その機会を失ってしまう事はもちろんである。(中略)一度数学の楽しみを味わうならば、それは容易に忘れがたいものとなり、楽しみにせよ、あるいは職業の助けとなるにせよ、あるいはまた職業それ自身であり大きな野心の目標となるにせよ、とにかく彼にとって何か意味のあるものとなるに違いない。
・・・ポリアは学生だった頃、次のように感じたそうだ。
◆この解法うまくて間違いがないように見えるけれども、どうしたらそれを思いつくことができるだろうか。
この実験はうまくて事実を示すように思われるが、どうしたらそれが発見できたであろうか。
どうしたら私は自分でそれを思いついたり発見したりできるであろうか。
・・・教師の見事な解法を教わるだけでは、自分が新たな課題に向き合った時に解決できないこと、つまり、どうしたら汎用的な学習スキルが身につくかを意識していたのだ。
だから、第一部「教室にて」では、目標として「学生を助けること」を筆頭に挙げ、
◆「彼(学生)が充分助けてもらわないで捨てて置かれるならば、ほとんど進歩しないであろうし、また教師が助けをしすぎるならば学生は何も得るところがないであろう。教師は手を貸さなければならないが、それは多すぎても少なすぎてもいけない。」
と指摘した。ちょうどよいレベルの支援が必要なのだ。
「仏様の指」のエピソードような指摘もある。
◆「教師は学生に1人で仕事をしているかのように思わせるべきである。そのためには教師は時たま、目立たぬようにそっと助けてやらなければならない。」
学生を助ける第一手として、「わからない事は何であるか」を問えと言う。
①「分からないことは何か」
②「与えられているものは何か」
③「条件は何か」
「問題解決」の流れは、いわばプログラミング的にシステム化している。
・関連した問題を知っていますか?
・未知のものは何でしょう?
・未知のものが同じな他の問題を知っていますか?
・未知のものが似ている問題を知っていますか?
・既に解いたことがあるよく似た問題があります。それを利用することができるでしょうか?
・よく似た問題を利用するために、何か補助の要素を導き入れることができますか?
学習指導要領の「数学的な見方・考え方」の大元は、ここにあるのだなとよく分かった。
※大日本図書の「中学校教育フォーラム」2015年秋号のコピーを読むたびに、ポリアの指摘にうなってしまう。
続・先生のためのMathful
日常の「説明」と数学の「証明」 近藤裕氏
◆ポリオは「なぜ証明が必要か」について「任意の三角形の内角の和は二直角である」ことの証明を例にあげ、「このような証明を教室で教わらなかった学生は学校と教師に文句をいってしかるべきである」といっています。そして、次のように続けています。「幾何学の証明というものを学ばなかったとしたら、真実というもののいちばん簡単で、いちばんよい実例を見逃し、厳格な推理というものを知る機会を逃したことになる。このような考えなしには、現代の生活で彼に襲いかかるあらゆるものごとを判断する基準をもちえないからである」
https://www.dainippon-tosho.co.jp/newsletter/filedownload.php?id=154&num=1
→どんなことに活用できるかを考える
この部分が、指導要領のどこかに書いてあるのかと探したが見つからなかった。
何しろ算数の指導要領は分厚い。
関連しているのが、次の箇所だ。P28,29
◆よりよく問題解決するということは、一つの方法で解決したとしても別な方法はないかと考えを進め、本質的に違う方法でも解決することであり、二通りの方法を見いだしたら、ほかの場面にそれらの方法を適用し、それぞれの方法の可能性を検討することでもある。
このように、数学的に表現・処理したことや自らが判断したことを振り返り、状況によってはそれを批判的に検討するなどして、考察を深めたり多面的に分析したりすることが、よりよい問題解決の実現につながる。
・・・さて、たまたまある本を読んでいたら、「あの部分と同じだな」と思った。
もしも与えられた問題がとけなかったならば、
何かこれと関連した問題を解こうとせよ。
もっとやさしくてこれと似た問題は考えられないか。
もっと一般的な問題は?
もっと特殊な問題は?
類推的な問題は?
問題の一部分を解くことができるか(後略)
これは、
「いかにして問題を解くか」Gポリア著
昭和29年発行で、手元にあるのは平成23年第11版。
「問題解決学習」というだけで批判的な人もいるが、この本の中身は極めてシンプルで、決して無理難題を説いているわけではない。(ただし、読みにくい)
本書の主張は、本の表裏に掲載するほどの念の入れてある。
漢字表記や言い回しに難解な部分もあるので、ナンバリングなどを含め自分なりに少し変えて以下に示す。
「~せよ」「ねばならない」「~できるか」「~できないか」の文末も揃えてみた。
1「問題を理解すること」
① 未知のものは何か、与えられているもの(データ)は何か、条件は何かを明らかにせよ。
②その条件は未知のものを確定するのに充分か・不十分か・余分はないか、矛盾していないかを明らかにせよ。
③図を描いたり、適当な記号を使って明らかにせよ。
④条件の各部を分けられるか、それを書き表すことができるかを明らかにせよ。
2「計画をたてること」
①前に見たことがあるか、
②同じ問題を少し違った形で見たことがあるか。
③似た問題を知っているか
④役に立つ定理を知っているか。
⑤未知のものと「同じ」「よく似ている」「見慣れた」問題があったか。
⑥既に解いたことのある似た問題の結果や方法を使えないか、
⑦それを利用するためには、何か補助要素を導入すべきではないか。
⑩問題を言い換えることができるか、
⑪定義に戻れ
⑫もしも与えられた問題が解けなかったら、
・関連した問題を解こうとせよ。
・これと似た問題は考えられないか?
・もっと一般的な問題は?
・もっと特殊な問題は?
・類推的な問題は?
・問題の一部分なら解くことができるか、
・条件の一部を残し、他を捨てよ。
・どの程度まで未知か定め、どんなデータがあれば役立つかを考えよ。
⑬データを全て使ったか、条件の全てを使ったか、問題に含まれる本質的な概念は全て考慮したか。
3「計画を実行すること」
①解答の計画を実行するときに、各段階を検討せよ。
②その段階が正しいことをはっきりと認められるかを確認せよ。
4「振り返ってみること」
①結果を試すことができるか
②議論を試すことができるか
③結果を違った仕方で導くことができるか。
④他に問題にその結果や方法を応用することができるか。
・・・・はしがきでは、「教師としての心構え」を説いている。
◆もしも彼が授業時間に決まりきったやり方で詰め込もうとするならば、それは学生の興味を失わせ、彼らの知能の発達を鈍らせてしまい、折角の機会を逃すことであろう。しかし反対にもしも教師が学生の知識にふさわしい問題を与えて興味をそそり、適当な質問によって問題を解く手助けをしてやるならば、学生に自分自身でものを考える意欲と方法と与えられ与えることができるであろう。
◆しかし彼が数学を単に資格を取るために学ぼうと思ったり、試験が済んだらできるだけ早く忘れてしまおうと思ったりしては、その機会を失ってしまう事はもちろんである。(中略)一度数学の楽しみを味わうならば、それは容易に忘れがたいものとなり、楽しみにせよ、あるいは職業の助けとなるにせよ、あるいはまた職業それ自身であり大きな野心の目標となるにせよ、とにかく彼にとって何か意味のあるものとなるに違いない。
・・・ポリアは学生だった頃、次のように感じたそうだ。
◆この解法うまくて間違いがないように見えるけれども、どうしたらそれを思いつくことができるだろうか。
この実験はうまくて事実を示すように思われるが、どうしたらそれが発見できたであろうか。
どうしたら私は自分でそれを思いついたり発見したりできるであろうか。
・・・教師の見事な解法を教わるだけでは、自分が新たな課題に向き合った時に解決できないこと、つまり、どうしたら汎用的な学習スキルが身につくかを意識していたのだ。
だから、第一部「教室にて」では、目標として「学生を助けること」を筆頭に挙げ、
◆「彼(学生)が充分助けてもらわないで捨てて置かれるならば、ほとんど進歩しないであろうし、また教師が助けをしすぎるならば学生は何も得るところがないであろう。教師は手を貸さなければならないが、それは多すぎても少なすぎてもいけない。」
と指摘した。ちょうどよいレベルの支援が必要なのだ。
「仏様の指」のエピソードような指摘もある。
◆「教師は学生に1人で仕事をしているかのように思わせるべきである。そのためには教師は時たま、目立たぬようにそっと助けてやらなければならない。」
学生を助ける第一手として、「わからない事は何であるか」を問えと言う。
①「分からないことは何か」
②「与えられているものは何か」
③「条件は何か」
「問題解決」の流れは、いわばプログラミング的にシステム化している。
・関連した問題を知っていますか?
・未知のものは何でしょう?
・未知のものが同じな他の問題を知っていますか?
・未知のものが似ている問題を知っていますか?
・既に解いたことがあるよく似た問題があります。それを利用することができるでしょうか?
・よく似た問題を利用するために、何か補助の要素を導き入れることができますか?
学習指導要領の「数学的な見方・考え方」の大元は、ここにあるのだなとよく分かった。
※大日本図書の「中学校教育フォーラム」2015年秋号のコピーを読むたびに、ポリアの指摘にうなってしまう。
続・先生のためのMathful
日常の「説明」と数学の「証明」 近藤裕氏
◆ポリオは「なぜ証明が必要か」について「任意の三角形の内角の和は二直角である」ことの証明を例にあげ、「このような証明を教室で教わらなかった学生は学校と教師に文句をいってしかるべきである」といっています。そして、次のように続けています。「幾何学の証明というものを学ばなかったとしたら、真実というもののいちばん簡単で、いちばんよい実例を見逃し、厳格な推理というものを知る機会を逃したことになる。このような考えなしには、現代の生活で彼に襲いかかるあらゆるものごとを判断する基準をもちえないからである」
https://www.dainippon-tosho.co.jp/newsletter/filedownload.php?id=154&num=1
「教育」カテゴリの記事
- 行動を価値づけする(2024.09.12)
- 人々が画一化しないために(2024.09.08)
- 「原爆裁判」については、ほとんど知りませんでした!(2024.09.06)
- パラリンピックの理念(2024.09.02)
- 先生が子離れしないと、子どもは自立できない。(2024.09.02)
Comments