胸にしみる向山先生の文章
『新訂 教育技術入門』(明治図書)向山洋一著 2009年初版
しっかり視写します。
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技術は現場から生まれる
教育の技術はいかなるとき誕生するのだろうか。
ある教師は教育技術を求める。
ある教師は教育技術を求めない。
この差はどこから生まれるのだろうか。
これは、次の点に由来する。
できない、わからない子どもにどう対処しようとしているか。
目の前に跳び箱が跳べないで悩んでいる子がいる。
漢字ができないで胸を痛めている子がいる。
こうした教え子を前にして、教師としてどうするかである。
こうした現状に痛みを感じなければ、教育技術は必要ない。
もっと、のん気な教師は、責任を自分以外のところに持っていく。
A「教科書が悪いのだ」とか、B「跳び箱など教えなくていいのだ」とか、C「子どもに力がないからだ」とか、それぞれ、民教連の教師、宿題ばかり出している教師、研究授業をほとんどしない教師、教えないで叱ってばかりいる教師のよく言う言葉である。
これらの言葉は、どれもこれも、責任を他のせいにするという点で共通している。
私たちは、そのような立場をとらない。
「できない」「わからない」子どもを前にして、まず自分自身の力の弱さを感じる。
自分が至らないから、子どもに痛みを感じさせてしまったのだと思う。
むろん、「その他への批判」をすることはある。しかしそれは自分自身へまず批判をむけてから後のことである。
そして、私たちは「教育技術」を求めるのである。
「跳び箱は誰でも跳ばせられる」という教育技術は「全員を跳ばせたい」という教師の思いとそのための具体的努力なしには誕生しなかった。
およそ、いかなる教育技術も、それが誕生するには、「分からない・できない子」を「分かるようにさせたい、できるようにさせたい」という「教師の想い」と「教師の努力」が存在する。
教育の技術を求める教師こそ、一人一人の子どものことを思い、自らの弱さを省みつつ具体的努力をする教師なのである。
教育の技術を求めない教師は、「跳び箱が跳べない子」がいても胸の痛みを覚えず、平気ですごすことができる教師なのである。
P43/44
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「教育技術を求める」という気概を周囲の教師からあまり感じない。
不真面目ではない。まじめに日々の授業準備に邁進している。
ただ、引用個所の、以下の部分の意識は弱いと思う。
できない、わからない子どもにどう対処しようとしているか。
だから、前にも書いたように「WOW ファクター」を感じないことが多い。
「楽しい授業かどうか」という観点ではなく、「教えたい内容を着実に盛り込めたかどうか」が優先されているのだ。
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