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October 31, 2021

身体の「超回復」と、心の「トラウマ後成長」

大学時代に「超回復」という言葉を知った。
今はネットで検索するとたくさんヒットする。効果的なトレーニング・負荷と休養のバランスを知る重要なキーワードだ。

ブリタニカ国際大百科事典
◆運動前よりもエネルギーを増加させ大きな回復力を示す現象をいう。一般的に,運動することで筋肉のグリコーゲンは減るはずであるが,休養と栄養補給で逆にふえることがある。こうした反応を利用することで,ゲーム前にエネルギーを大量に貯蔵したり,筋肉を効率よく増強することができる

大辞林
◆強い運動後疲労がたまった筋肉が、休養により運動前より高い筋力を得ること。

「知恵蔵」の1行目のみ。
◆運動で消費された筋肉のグリコーゲン量が、休息と炭水化物補給によって運動前の貯蔵量を大幅に超えて回復を示すこと。

https://kotobank.jp/word/%E8%B6%85%E5%9B%9E%E5%BE%A9-163344

当時、理解した内容も、およそ、こんなところだ。

ただ、今になってネット辞書後半を読むと、ちょっと違うニュアンスが含まれている。
自分は陸上部に所属していたが、体育科ではなかったので、この部分の理解が不足していた。

デジタル大辞泉の解説
強い負荷をかけることで傷つき衰えた筋肉細胞が休息によって回復し、さらに負荷を受ける前よりも筋力が強くなる現象</op:b>。過負荷から2~4日間が超回復の期間といわれ、その期間に過負荷運動を行い、次の回復を待つということを繰り返すことで筋力を合理的に増強できると考えられている。

他のサイトでは、もっとはっきり書いてある。

トレーニングを行うと、筋繊維が破壊される。筋線維が破壊されると、人間の身体は、壊れた組織を修復しようとする。この修復にかかるのが、一般的に24~48時間と言われている。筋線維が壊れてから修復するまでのプロセスを、超回復と呼ぶのだ。
https://moneytimes.jp/sense/detail/id=2827

・・・知っている人にとっては当然のことだ。

トレーニングを行うと、筋繊維は破壊される。
我々は、筋トレと称して、筋繊維・筋肉細胞を傷つけている。
そして、その回復のメカニズムをうまく活用することで、傷ついた筋力を前よりを強くしている。

これが、身体的な回復と成長のメカニズム。

心理的なストレスやトラウマに対して、ポジテイブ心理学の研究では「トラウマ後成長=PTG」と呼ばれる現象があると指摘されている。

以下「トラウマ後成長と回復」ステーヴン・ジョゼフ著 筑摩選書より、


◆現実に研究結果が示しているのは、トラウマになりかねない出来事に直面した多くの人たちのが相応の回復力を持ち、ストレスに屈しないか、屈したとしても急速に回復でき、その後も比較的高レベルの機能を維持できるということだ。p19

◆こういった変化は「ベネフィット・ファインデイング」「逆境後の成長」「自己変革」「ストレスに伴う成長」「スライビング」など様々に表現されてきた。
なかでも、1990年代半ばに二人の臨床心理学者リチャード・テデスキとローレンス・カルホーンが考案した「トラウマ体験後の成長posttraumatic growth」という言葉はもっとも関心を呼び、現在では、トラウマがどのように幸福感を高める足がかりになるかを探求する新たな研究領域を示すものとして広く用いられている。P39

・・・筋トレと異なり、好きで不幸な状況に身を投じる人はいない。
それでも不幸が過ぎた後、それまでの自分より、どこかポジテイブな生き方ができるようになる人は一定数の割合でいるという(無論、苦難に打ちひしがれてしまう人もいる)。

「トラウマ体験後の成長=PTG」は、トラウマ体験前のレベルを超えるという点で、筋トレの「超回復」と同じなのだ(という解説は見られなかったが、自分はそう思っている)

 筋トレは筋肉を傷つけていると知った衝撃
 筋肉の超回復と、心のPTGが酷似していると知った衝撃

 だから勉強はやめられない。

 

PTG関連書籍
①「トラウマ後 成長と回復―心の傷を超えるための6つのステップ」 (筑摩選書)
②「悲しみから人が成長するとき―PTG 」(風間書房)
③「PTG 心的外傷後成長: トラウマを超えて」 (金子書房)近藤 卓

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October 29, 2021

黒柳徹子 「小さいときから考えてきたこと」(新潮文庫)

最近の自分の読書は教育書・ビジネス書が多いが、自分の知らない世界に触れるという意味では小説やエッセイも大事にしたい。

星新一のショートショートは今の中学生にも人気があるとのことだったが、まずはエッセイや短編で読書の基礎体力を付けさせたい。最近は重松清も恩田陸も読んでいないけど、「これではいかん」という気になった。児童生徒に読ませたい作品をしっかり把握できるように読書の方向を調整したい。特に朝読書という短時間でそこそこキリがつかないようでは、授業中に続きが読みたくなって困るので、エッセイは都合がいい。

 黒柳徹子の「小さいときから~」は、ユニセフ親善大使として訪れた紛争地域での子どもたちの様子と自身の戦争中の体験とが重なる部分があり、中学生にも読ませたいと思う章が多かった。
 特に「黄色い花束」は、中学校定番の「字のないはがき」や「大人になれなかった弟たちに」よりも、生徒の心に響くかなとも思ったくらいだ。太平洋戦争だけではあまりに遠い過去だが、現在の紛争地域の話題があるので、戦争や紛争にリアリティがあるのだ。
 少しだけ引用する。

◆私が子どものとき、何も知らないで、日の丸の旗を振って送り出した兵隊さんは帰ってこなかった。自由が丘の駅に行って、出征する兵隊さんに旗をふると、スルメの足を焼いたのを一本もらえた。私は、それが欲しくて、時間があると、行っては旗を振った。スルメなんて、あの頃、めったに食べられるものではなかった。知らなかったとはいえ、私は、あのとき、スルメが欲しくて送り出した兵隊さん達が帰って来なかったことを、今も申しわけなく、私の心の傷になっている。あどけなく手を振っている子ども達(注:コソボの子ども達)を裏切っては、いけないのだと、私は子ども達が手を振るのを見るたびに思う。あの女の子から貰った黄色い花は、ノートに挟んで押し花にした、コソボの記念に。

・・・心の傷は、小さいときに生ずるものもあるが、大人になってから「知らなかったとはいえ申し訳ないことをした」と生ずるものもある。
 大人の入り口にあたる中学生にも、そんな「心の傷」の存在に共感してもらいたい。
「知らなくてもよかったことまで、知ってしまうのが大人なのだ」と言えば、ちょっと格好良すぎるか。

 

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文章理解の三段階

手元に「総合教育後術」2020年3月号がある。特集は「『読解力』を育てる!」。

埼玉県戸田市教育長戸ケ崎勤氏のインタビュー記事の中で着目したのが、文章理解の三段階の解説だ(意図的に改行を加える)。

===========

「文章の理解について、3段階あると私は言っています。

まずは、アイ、シー(I see)の段階。これは『なるほど』くらいの理解でしかなく、一般的にはここで止まってしまっていて、意味の取り違いも起こりやすい。

次がアンダースタンド(understand)で、『本当の意味が分かる』。ここまでくると、意味の取り違いは起こりにくい。

最後がアプリシエイト(appreciate)で、『本質の意味まで深く分かる』段階になります。ここまでくれば、次へ転用していくことも可能になります。」

==============

 

・I see

・understand

・appreciate

 

と英語で説明されると、はぐらかされたような気にもなるのだが、理解のレベルを自分なりに設定することは大事なのだと思う。

LINEのようなSNSのコミュニケーションツールは、まさに「I see」レベルでとどまっているような気がする。

短い言葉のやりとりは「阿吽の呼吸」である分、誤解を招き、トラブルを引き起こす。

冗長でまわりくどい説明は要らないが、本質の意味を相互で共有するには、それなりのボリュームの言葉のやりとりは必要だと思う。

 

そのことは2年前にも書いた。ますます深刻化しているか。

LINEによって阻害される「文脈形成力」


愛知教育大学の丹藤博文氏は、スマートフォンの普及と「ライン」によるコミュニケーションについて、「想像力・識字能力」「文脈形成力」の問題があると指摘された・・・。
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2019/08/post-b1a411.html

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人を動かす条件、最後は「情熱」

『横井軍平ゲーム館』~「世界の任天堂」を築いた発想力~

 

この本を読んで、人を動かすのは、最後は「情熱」だと納得した。
 
 任天堂の世界進出のきっかけになったのが、「ゲーム&ウオッチ」。

後のゲームボーイにつながる「ゲーム&ウオッチ』誕生のエピソードがすごい。

(1)横井氏は、新幹線の中で退屈しのぎにできるゲームを作りたいと思っていた。
(2)たまたま社長の外車の運転手を頼まれた(ほかに左ハンドルの車を運転できる人がいなかった)。
(3)車中でゲーム企画の話をした。
(4)その日の会合で、社長の隣にシャープの佐伯社長が座り、電卓サイズの液晶ゲームの話を伝えた。
(5)数日後、シャープ側から、ゲーム開発の打診があった。

 これが「ゲーム&ウオッチ」開発のスタートだと言う。何と偶然だらけであることか。

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◆私としては、あくまで開発課長なんだというプライドで、アイデアの一つとして話しただけなんですね。ですから、その後、何事もなかったら、私自身も半年もしたら忘れてしまっていたかもしれない。ですから、世の中はタイミングなんですね。たまたま社長が佐伯さんと隣り合わせじゃなかったら消えていたし、その日、運転手が風邪を引かなければ消えていた。P107
======================

 しかし、たまたまの繰り返しで世界的な大ヒットが生まれるのは、偶然を引き寄せるだけの必然があったのだと思う。

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◆当時、私は開発部長で、やっぱりプライドがあるでしょ。私は運転手なんかじゃないんだというね。で、社長を乗せているときに、何か仕事の話をしなければというわけで、新幹線の中で退屈しのぎの話をしたんですね。「小さな電卓のようなゲーム機を作ったら面白いと思うんですけど」と。ま、社長はフンフンと聞いていましたけど、さほど気にしている様子でもなかった。P106
===============

 偶然を引き寄せたのは、アリストテレスが人を説得するのに必要だと述べた3つの要素だ。

「エトス(信頼)」
「バトス(共感)」
「ロゴス(論理)」

 パトスは、パッションだから「熱意」と言い換えてもよい。

 横井氏はそれまでも数々のヒット商品を生み出していたから任天堂社長の「信頼」があり、ヒット商品に対する「ロジック」があった。
 それを「熱意」で語り、「共感」をもたらしたから、たまたま隣席のシャープの社長に話題を振ることになった。
 シャープの社長にとってみても、「信頼」できる任天堂社長が話す開発商品の説明には「ロジック」があり、語る言葉に「パッション」があったのだろう。

 さて、自分の言葉と行動に「エトス・パトス・ロゴス」の3要素はあるか。
 人は「ロゴス」だけでは動かない。最後の決め手は「パッション」だと言うが、自分の言葉にはパッションがあるか。
 「〇〇に取り組んでいます」だけでは、人に伝わらない。誰の心も揺さぶらない。
 熱のある文章、毒のある文章にもチャレンジしていこう。

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October 28, 2021

「テイーチング」と「コーチング」の一考察

(1)教師はコーチングに注力すべきなのか?

 

『教育新聞』2019年1月1月号に、以下の記載があった。

 

「テイーチングはICTに任せて、教員はコーチングに注力すべきだ」

 

 通信高校「N高校」のポリシーだそうだ。

 Edtechの第一人者佐藤昌宏氏がインタビューで次のように答えていた。

 

◆教育は「人間がやる領域」、経験や感覚が重視されてきました。経験を積んだ教員の職人的な技が発揮され、伝達は難しい。約150年、日本で続きました。

  世界では「教育の科学」がテーマになっています。教育の再現性が一層進めば「機械で再現できる部分」「人間にしかできない部分」が分化する。教育は大きく変わるでしょう。

 

◆機械には不可能なのが4象限の「コーチング」「ファシリテーション」。教員には「教える」ではなく、寄り添いながらモチベーションを上げる「導き」が求められます。

 

     教える

 Tutor  |  Teacher

     |

個別 ――――――大人数

     |

 Coach   |  Facilitator

     導く

 

佐藤教授が作成した「教師の役割4象限」は、「教えるー導く」の縦軸と「大人数―個別」の横軸による4象限だ。

 

確かに、進学塾のサテライト授業や、「スタデイサプリ」など、ICTの活用により、優れた授業コンテンツが作成され、個々の理解度や反応に応じた学習プログラムが組み立てられている。中途半端な教え方の教師では到底かなわない。特にその子の苦手分野やつまずきを分析するのはICTの方が長けている。

 しかし、だからといって、テイーチングをICTだけに任すのは難しい。

 

(2)教師の理想は「教えない」のか?

『最高のコーチは教えない』(デイスカバー21)という一冊がある。

 メジャーリーグでも活躍した吉井理投手がピッチングコーチになってからの学びをまとめたもの。タイトルだけ見ると「教えないことが美徳」と思えるが、中身はそうでもない。

 

 第一ステージ(初心者・新人)に該当する選手は

◆「技術の基本を細かく教えていく」

◆「自らの状況を把握できないうちは、まず基礎を徹底させる」

◆「一人前と認めるまでは、このステージで二年から三年は過ごさせる」

 

とある。技術の基本は細かく教えていくものなのだ。

最初から「教えないで任す」では、初心者は何も身につかない。

 

コーチの仕事は「教えること」ではなく、「考えさせること」であると吉井氏は言う。

 「考えさせること」はコーチの仕事であることに異論はない。

ただし、氏の「コーチング」の主張を「テイーチャー」である教師が全部受け入れる必要はない。

 

 「究極のコーチ像は、コーチングの結果、相手が何でも一人でできるようになり、はた目から見るとサボっているようにしか見えないコーチだ」と吉井氏は言う。

 

 「サボっているように見える」は「サボっている」とは違う。吉井氏はコーチングの3つの基礎として「観察」「質問」「代行」を挙げている。この3つを怠る教師はコーチングを理由にサボっているだけだ。

 

(3)コーチングできるのが、優れた教師では?

 

「体育科教育」201912月号にコーチングの話題があった。

 

 「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」

  菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)

 

 ◆テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。

 ◆コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。

・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだと言う。

 すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。  子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。

  だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードだ。

 

コーチングに関する次の一節がとても興味深い。

 

◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。

 (中略)しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。

  そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」

 「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。

 

◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。

 

とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念にはならない。

我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が分かるようなすぐれた発問づくりに邁進してきた。

つまり「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいる。逆に言えば「劣った教師」は「問いかけ」がない。

 「問いかけることで、教える」が、我々がいつも取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。

 

※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それを担うのが教師です。

 

  「これからはコーチングの時代だ」という言葉を切り札にして、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それはサボっているだけだ。

 「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。

 「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。

 

  何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる

 

  菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。

 

平凡な教師は、ただしゃべる

 よい教師は、説明する

 すぐれた教師は、やってみせる

 偉大な教師は、やってみようという気にさせる。

 

 

 しゃべる < 説明する < やってみせる < やる気にさせる

 

 「しゃべらない教師・説明しない教師・やってみせない教師が望ましいとは、どこにも書いていない。

「教えない」教師を理想とする根拠など、どこにもないのだが、「コーチング」=「教えない」=「説明しない」=「何もしない」という不自然な等式を勝手に作り出してしまう。

 

4)「丸投げ」では、力をつけられない。

 

『総合教育技術』11月号で田中博之氏が、学テ問題対策の「丸投げ」を批判している。

 少々長いが引用する。

==================。

 丸投げというのは、教員は机間指導で見て回ってアドバイスはするものの、基本的に「はい、これを解きなさい」と言って、子どもに自力で解かせるやり方です。 

 子どもたちが活用問題を解けない理由は二つあります。一つは論述して書く力が弱いことです。これは決定的な問題ですから、問題解決の過程や根拠を文章で書く練習をしなければなりません。もう一つは、どんな既習の知識や技能を使えば解けるのかを、正しく思い出せないことです。既に学習した知識や技能を活用せず、やみくもに解こうとしてもできませんから、「難しくてできない」と言い出すのです。

 かといって、「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまうのではないか」と懸念する先生方もいることでしょう。それは正論ですが、活用問題は難しいのです。丁寧な指導が必要です。(中略)

 授業中に補助輪付きの時間を、5分でもいいのでとってほしいと思います。活用問題はテクニックを覚えればできるわけではありません。一種のひらめきが必要であり、低位層の子どもがひらめくためには、どの知識が使えそうなのか、どんな公式が使えそうなのかなど、問題を解くために手がかりになるような既有知識を想起させることが重要です。例えば、必要になる既習の計算の技をヒントカードにして「ヒントが欲しい」子どもに挙手させて配るなど、見通しレベルの既有知識の想起をしてほしいと思います。

    「新学習指導要領を反映し活用問題を重視へ」より

===================

 

・・・田中氏の言う「丁寧な指導」は、子どもにヒントを与えて既有知識の想起を促すという意味では極めて「コーチング」的だ

 このコーチング的な丁寧な指導の対局が「丸投げ」だ。

 「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまう」とある。

 ダメなのは「教えすぎる」であって、「教える」ではない。

  教師の重要な仕事である「見通しレベルの既有知識の想起」を怠ってはいけない。

 

 蛇足で書くが、「教師が教える」代わりに「子ども同士の話し合いに委ねて、教師が何もしない」は、もっとタチが悪い。

 教師でも難しい「既有知識の想起を促すヒント」を子供に出せるわけがない。

 もし、利発な子が「そうだ、○○を使えばいいんだ」と発言して、みんなが納得したとしたら、それは「ヒント」ではなく「教え込み」だ。

 

 配慮のない教師、見通しのない教師、子どもに任せっぱなしの教師は、次の①②③を起こす。

 

①みんなの前で恥をかかせる

②意味の分からないこと・嫌なこと・難しいこと・失敗しやすいことをやらせる。

③つまらないことを我慢させる

 

 コーチは本人のやる気を促すべき存在だ。 だから、「テイーチ」より「コーチ」と言いながら何も教えない教師は、まさにコーチの真逆の存在だ。「テイーチ」より「コーチ」「ファシリテート」などと格好のいいことを言いながら、何も教えない教師は、何の価値もない。

 

※過去のブログを加えて再構成しました。

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October 27, 2021

どの学級にもいる発達障害の子への対応

発達障害の子についてADHDとかアスペルがーとか分けると、先生方は、その病名にこだわってしまう。


「あの子はADHDだから・・・」とADHDの特質にいくら配慮しても、本人に、その症例が見られないなら意味はない。
「あの子はアスペルがーの診断は下りていないから」と言っても、 実際にそのような症状があるなら、支援するしかない。
 そもそも、医者にかかっていなければ診断名などあるはずもない。

 レッテルに目を奪われて、目の前の本人の実際の様子を見ないのは愚かなことだ。

 発達障害の専門的な知識を得ることでレッテル張りだけ得意になっては本末転倒だ。

「目の前の子の、今の様子」から対応策を練ること。
 それは、授業でいうところの「瞬発力」である。

瞬時の対応ができるようになるために、多くの事例や多くの対応策をインプットしておく。
目の前の子の奇怪な行動に冷静に対応するために、多くの事例や多くの対応策をインプットしておく。
インプットがあるからアウトプットができる。
しっかり学んで、しっかり対応していきたい。

例えば

「教科書の○ページ、△番の×をやりなさい」と言われて、メモリーが足りず「え、先生どこやるの?」と口にする子。

このような子の存在は、これまで何回も聞いてきた。
大事なことは、 


◆「その子たちは、やろうとしている」
「やる気があるから尋ねている。だから叱ってはいけない」

という視点だ。

この子たちはやる気のある子たちなのだから、そこは認めていかねばならない。

A:やることをきちんと聞いていないのだから、叱る
B:やろうとして聞いているんだから、やる気をほめる

毎日、小言のシャワーになるか、褒めことばのシャワーになるかは、教師の意識次第である。
ということは、やる気のない教室になるか、やる気のある教室になるかも、教師の意識次第ということだ。

「あれができない、これができない」と子どもの出来の悪さだけを愚痴る先生がいる。

しかし、できない子を教えるのが我々の仕事だ。
最初からできる子ばかりだったら、仕事にならない。

「できない、できない」と愚痴っているだけでは、子どもはできるようにはならない。
自分の対応法を変える気がなければ、子どもはできるようにはならない。

 子どものやる気になるための、支援の一歩は「励ましの言葉かけ」である。
 励ましの言葉がすんなりと出るようにするは、教師の意識の大改造が必要になるかもしれない。

「教師の意識改革なしに、子どもの学習成績は向上しない」という観点で、教師の力量向上策を考え直したい。

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October 26, 2021

セレトニン5 プラスワン 「手をふる」

癒し感や安心感を増やすための5つのスキル「セロトニン5」

1 見つめる
2 ほほえむ
3 話しかける
4 ほめる
5 ふれる


これにプラスワンするなら「手をふる」だ。


前から感じていたが、子どもは、よく手を振ってくれる。
外掃除をしていると、子どもたちが校舎から手を振ってくれる。

校区の公園の近くを通ると子どもたちが手を振ってくれる(一般人の前で「先生」と呼ばれるのは、本当はやめてほしいのだが)。

授業中に廊下から各教室を覗いて回っていると、小さく手を振ってくる子がいる。
この場合は、授業への集中がきれて担任に迷惑がかかるので、できるだけ手を振らないようにしている。

学校沿いの通学路を掃除中、教室の窓ふきをしている子に、フェンス越しに手を振ったら、返してくれた。
2階のベランダから、昇降口で整列している子たちに手を振ったら、何人かが返してくれた。

「見つめる」「ほほえむ」「話しかける」「ほめる」「ふれる」

ではないのだが、手を振ったり、振ってもらえたりすると、「セレトニン」が出ているような心地よさを感じる。

オンラインミーテイングの最後も、やはり、手を振って退出すると気分がいい。

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October 25, 2021

「学習とはシンプルな繰り返し」 ~算数も国語も同じはず~ 

手元に「教育トークライン」2016.7月号、向山洋一氏の巻頭論文のコピーがある。

「向山洋一の授業実践と授業理論」185
学習とは、シンプルな繰り返しである。



池谷裕二氏の『最新脳科学が教える 高校生の勉強法』を踏まえての主張だ。
ここでは、「問題解決学習」を比較して、繰り返しの原則を踏まえた「向山型算数」の良さを述べている。


======================
算数の問題解決学習は、なぜ駄目なのか。「学習は繰り返し」であるという古来言われてきた経験則と、最新の脳科学の知見を全く無視し、それとは正反対の授業をしているからである。
算数の問題解決学習は、日本中に「算数嫌いの子」をつくり、「算数が分からない子」を大量生産し、軽度発達障害のある子を何万人、何十万人とスポイルしてきた。

======================

・・・算数についての主張であるが、どの教科にも通じる汎用的な主張でもある。

======================
国語の〇〇学習は、なぜ駄目なのか。「学習は繰り返し」であるという古来言われてきた経験則と、最新の脳科学の知見を全く無視し、それとは正反対の授業をしているからである。
国語の〇〇学習は、日本中に「国語嫌いの子」をつくり、「国語が分からない子」を大量生産し、軽度発達障害のある子を何万人、何十万人とスポイルしてきた。
======================

と批判されるような国語の指導法はなかっただろうか。
自分の国語の授業は大丈夫だっただろうか。

再度、向山氏の文章を引用する。

=========================
向山型算数は「繰り返し」のシステムである。同じような流れ、同じような展開によって、授業が進む。
シンプルである。分かりやすい。算数って簡単だということになる。
算数の授業で「説明」は、シンプルなほどいい。
シンプルな繰り返しで「解き方」を「自然に身に付ける」のがいい。
反対に、長い説明、くどい解説は、多くの子どもを落ちこぼれにしてしまう。
教師の長い説明は、ほとんど悪いのだ。同じ話でも「説明」と「語り」は、全く違う。語りで子供をひきつけられる教師はすばらしい。
教養が豊か、体験がいっぱいある教師にしかできない指導なのである。知性がシンプルさをもたらすのである。

=========================

・・・あえて「国語」に置き換えてみるまでもない。
国語の授業だって、「シンプルな繰り返しで、分かりやすくて、国語って簡単だ」となるべきなのだ。

シンプルな繰り返しで「解き方」を「自然に身に付ける」のがいい。

国語においても(他教科においても)、心しておくべき指摘だと思う。
単なる「分析批評の授業」と「向山型分析批評の授業」の決定的な違いはここにある。
そして、椿原正和氏の「学テB問題の指導法」「図読法」が、シンプルな繰り返しで「解き方」を「自然に身に付ける」という点で「向山型」であることもよく分かる。

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October 22, 2021

「安全運転の授業」は、教師のレールの上の授業

手元に、元文科省道徳調査官の永田繁雄氏の論稿のコピーがある。「道徳授業」2011年9月号(明治図書)だ。
論考のタイトルは

「安全運転」の授業から「冒険運転」へ

永田氏は「『安全運転』型の授業」を次のように示した。

==================
①全員が授業という電車に乗り込む。
②資料の場面ごとに停車して問い掛け、子どもは主人公の思いをその都度考える。
③全員がゴールにたどり着き、自分たちのことを振り返る。
④教師の話などをまとめる。


(中略)そこでは、子どもが方向付け、子どもが運転し、自ら新たな発見をするということが少ない。
だから、予測外のとも生じにくく、何度繰り返しても運転力(学ぶ力)はつきようがない。
===================

・・・「予定調和」の授業というか、「詰将棋」の授業というか、教師主導の授業のデメリットが強調された授業スタイルだ。
だからといって、その反動ですべてを子どもに任せる授業が推奨されるわけでもない。
永田氏は次のように続けている。

◆子どもが学ぶ安心感と、年間にわたる計画的な指導のために、「安全運転」は必要な面もある。しかし、その繰り返しばかりで、子どもは本当に授業の面白さを感じることができるだろうかと不安に感じるのである。

そして「『冒険運転』型の授業」を勧めている。

①子どもが気になることや考えたいことを明確にもつ。
②それぞれが地図をもって運転するような思いで話合いが進められる。
③途中で議論が巻き起こったりして、道に迷うこともある。
④一人一人が自分の納得を見つける。


①・・・自分なりの気づきや疑問、つまり「わ・き・お」を大事にするから「主体的な学び」が可能になる。
②③・・主体的で対話的な学び(議論・討論)を通して
④各自が「深い学び」に到達する。

ということなのだと理解できる。
永田氏の主張は道徳の授業改善に限らない、汎用的な意味を持った授業改善の指摘である。

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October 21, 2021

「共通解」と「納得解」の区別


手元にあるコピー『総合教育技術』2018年6月号道徳の特集の中の、國學院大學の田村茂紀氏の論稿の続き。


======================
クラス全員が同じ方向を向いて道徳的な問題を追究するためには、最初に明確な学習テーマを共有しておくことが必要です。子ども達が明確な学習テーマを自覚しつつ、友達との協同学習をしていく中で目指すことは、まず、「人に優しくすることは大事なんだよ」というような、多くの人が納得するような「共通解」を持つことです。しかし、そこで終わってはいけません。では、「共通解」をもとに自分に立ち返って考えたときに、「自分は人に優しくしているか」「友達にどう接しているか」「もう少し友達に手を差し伸べなくてはいけないな」などという自分自身の「納得解」をつくっていくというところまでいかないと不十分です。 授業の最後に2分でも3分でもいいから、「共通解」に対して自分は普段どうしているのか、どう考えているのかということを、もう一度投げかけて問い直す時間を設定することが大切です。P18,19
=======================

 

国語の解釈の授業場面と重ねてみると、同じだなと思った。
だれもが理解できる「読解=共通解」のレベルは最低限押さえておく。
しかし、解釈は個々の判断に任せるべきで、それが各自の「納得解」になる。


・・・というわけで、この部分も「道徳」としてだけ受け止めてしまうともったいない。
この箇所は、「共通解・納得解」についての汎用的な意味を持っている。
できるだけ原文を生かしながら加筆修正して示すと、次のようになる。

 

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クラス全員が同じ問題を追究するためには、最初に明確な学習テーマを共有しておくことが必要です。
明確な学習テーマを自覚しつつ協同学習をしていく中で目指すのは、まず、多くの人が納得する「共通解」を持つことです。

しかし、そこで終わってはいけません。
「共通解」をもとに自分に立ち返って考える「納得解」までいかないと不十分です。

 授業の最後に2分でも3分でもいいから、「共通解」に対して自分はどう考えているのかということを、もう一度投げかけて問い直す時間を設定することが大切です。

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・・・正しい読み取りがあいまいなままでは、「今日の授業は意見がいろいろ出て盛り上がったね」とは評価できない。
一定水準の理解が維持されているからこそ、それ以上の部分を個々の解釈に任せられる。

「共通解⇒納得解(A→B)」という授業の流れに対して

Aの共通解を疎かにする教師もいれば
Bの納得解を疎かにする教師もいる。

①共通解を疎かにする教師は、教えることを放棄した「手抜き型」
②納得解を疎かにする教師は、考えさせること放棄した「詰め込み型」


とでも言えるだろうか。

①個々の解釈に任せずに、一定の理解を授業内で保障せよ
②一定の理解をさせて終わりではなく、「自分はどう解釈するか」を考えさせよ。
の双方向の留意が必要だ。

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主体的・対話的で深い学び ~他者対話と自己内対話~

手元にあるコピー『総合教育技術』2018年6月号道徳の特集の中で、國學院大學の田村茂紀氏が次のように書いている。

 

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「他者と語り合うことで自己内対話を促進する」

 

 道徳的な学びはスタートフリーでゴールフリー。スタートもゴールもみんな違います。同じ学習テーマで話し合っても、スタートする段階が高い子も低い子もいることが前提です。

 一緒ではないのに、なぜクラスみんなで話し合うのでしょうか。例えば、「思いやり」が必要な経験をして「思いやり」についていろいろなことを考えますが、その道徳的な経験や認識は個人のものです。そこで、道徳の授業では教材を通して共通の追体験をして、それについての個々のものの見方、感じ方、考え方を披瀝し合うことによって、自己内対話を促進させるわけです。他者との対話をすることで今まであたりまえだと思っていたことがあたりまえでなかったことに気づく。授業のはじめに思っていたことが最後の方では変わってきた、友達の意見を聞いているうちに自分の道徳的な捉え方に自信を深めたということが起こってきます。それが道徳化の「協同し合う学びの時間」です。十人十色の学びが1時間の中で展開され、個々の道徳的な成長につながります。 P18 

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・・・・このような記事を「道徳」として受け止めてしまうと、もったいない。

この箇所は、「主体的・対話的で深い学び」についての汎用的な意味を持っている。

できるだけ原文を生かしながら私なりに加筆修正して示すと、次のようになる。

 

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今求められている「今日的な学び」はスタートもゴールもみんな違います。

同じ学習テーマで話し合っても、スタートする段階が高い子も低い子もいることが前提です。例えば、あるテーマでいろいろなことを考える場合、その経験や認識には個人差がありますが、それでかまいません。個々のスタートラインから出発することが「主体的な学び」です。

授業の中では

①教材を通して共通体験をさせて、

②それについての個々のものの見方、感じ方、考え方を披瀝し合うことによって、

③自己内対話を促進させます。

 

つまり、他者との対話をすることで、結果として自分自身との対話を深めます。

 

①今まで自分にとって当たり前だったことが他者にとっては当たり前でなかったことに気づく。

②授業のはじめに思っていたことが最後の方で変わってくる。

③友達の意見を聞いているうちに自分の捉え方に自信を深める。

 

ということが起こってきます(いわば化学反応です)。

「対話的な学び・協働的な学び」を通して、十人十色の学びが1時間の中で展開され、個々の「深い学び」につながります。

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田沼氏の元々の論稿が参考になっているが、本当は、自分の選んだ言葉でスッキリ主張してみたい。
 

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October 14, 2021

『ごんぎつね』は、「人間と狐」だからこその悲劇

「ごんぎつね」は、「人間と狐の対比」と子供が発言したらどう思うだろうか。

「人間と狐」という対比は、「いたずらと償い」「憎しみと親しみ」「孤独と通い合い」のようなキーワード的な対比に比べれば、幼く思うかもしれない。

 

しかし、この作品の中で「人間と狐」という違いは極めて根本的で奥が深いと思う。

しょせん人間と動物だから、分かり合えるはずはないのだという諦めにも似た「両者の深い溝」を表しているからだ。

(ただし、人間と狐では言葉が通じ合うわけないのだとあまり厳格に考えると、物語の存在そのものの否定になってしまう)。

誤解によってごんが銃で撃たれてしまう結末は、本来分かり合えるはずのない2人にとっては必然であったかもしれない。

「ごんぎつね」の主題を冷ややかに考える大人バージョンで列挙すると例えば次のようなものか。

むろん、子どもにはここまで読ませようとは思わない。あくまで持ち駒だ。

 

◆他人と分かり合うというのは、実に難しいものだ。

◆他人の気持ちは分からないものだ。

◆言葉で伝えないと思いは伝わらないものだ。

 

◆人生は誤解とすれ違いの連続だ。

◆わかり合うのは難しいが、だからこそ分かり合えた時の喜びは大きい。

 

◆本当の幸せは、繋がり合うことだ。分かり合える仲間がいることだ。

◆本当の幸せは愛されることだ。

◆孤独に生き続けるくらいなら死んだ方がマシだ。

◆孤独の反対は愛だ。

◆孤独の反対は仲間だ。

◆死の危険を冒しても、己の存在は伝えたいものだ。

◆思いが伝わるなら、死んでも本望だ。

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「ごんぎつね」の解釈

「いたずら」を後悔して「つぐない」をするようになったごん。
大人が読んで気になるのは、神様のせいにされては引き合わないと不満を漏らしているところだ。

「償い」は、本来「無償」でありたい。
だが、「気づいてほしい、認められたい、感謝してほしい」と思うのが多くの人の本心だ。
現実の人間はそんなに高尚ではない。我欲を抑えるのは難しい。
「引き合わないなあ」とぼやくごんは、主役が決して純粋無垢な存在ではなかったことを示している。

◆ひっそり償っていればいいのに、気づいてほしいなんて思うから、本当に気づかれて撃たれてしまったのさ。
・・・人の心の弱さへの批判と読むのは、さすがに意地悪だ。

ただし、

◆人は、他人に認められたいという気持ちを抑えられないものだ。
・・・こんな風に考えると、人の心の弱さへの共感として読むことができる。

根拠はないが、
「他人に認められたい・評価してもらいたい」というごんの気持ちは、愛知県の田舎で代用教員をしながら執筆活動をしていた南吉の当時の心境と重なるのかもしれない。
当時の南吉が「いつか世の中に認められたい」と思っていたとすれば、「ごん」は作者自身なのだということになる。
純粋に好きな気持ちだけで童話を書いていたいが、認められたいという思いが強くなったということはないだろうか(勝手な推測に過ぎないが)。

村で代々言い伝えられる「ごん」のような存在になりたいと思う南吉の願望が込められているのだと読める。
「死んで名を残したごん」のように、後世に名を残す(作品を残す)存在でありたかったのかもしれない。

この解釈をするには、『ごんぎつね』冒頭の「わたし」の語りの部分が欠かせない。
逆に言うと、冒頭の「わたし」の語りの部分を踏まえると、こんな解釈も可能になるのだ。

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 『ごんぎつね』の主題を「分かり合える仲間」だとすると・・・

井関義久氏の「入門『分析批評』の授業」(明治図書)を読んでいて、複数の記載部分がつながってきた。


(1)文学作品の「主想語」については、「幸福、平和、希望、努力、正義」などのよくある「主想語彙指導」をしておくと良い(というようなことを書いている)。p191

(2)「幸せ」や「平和」が、「不幸」や「戦争」といった暗い面を併せ持っていること(二項対立)を考えさせると良い(というようなことを書いている)。p60

(3)「孤独」の対立語として「有隣」がある。
「論語(里仁編)」の「徳不孤必有隣(徳は孤ならず必ず隣あり)」
「徳を行っていれば、決して孤立しない。いつかきっと共鳴してくれる人が現れる」という意味。
隣人・・共鳴者がいる、ということは「幸福」の条件でもある。
「孤独」というのは、この隣人の現れるまでの一時的な姿にすぎない、と「論語」は語る。p155.156


「幸せとは、共に喜びを分け合える人がいることだ」
「分かり合える隣人のいることが、本当の幸せだ」


・・・井関氏は『白いぼうし』の主想を解説する場面で「有隣」という語を持ち出したが、『ごんぎつね』の主想も、まさに、この「有隣」じゃないか。

浜上薫氏は、『ごんぎつね』のテーマを「『ひとりぼっち』からの脱却」とした。

「『ひとりぼっち』からの脱却」を言い換えると「有隣」になるのだろう。
ただし、「ひとりぼっち」を「孤独」と置き換えるほどには、「有隣」は馴染みがない。

「孤独」の反対語として「連帯」「隣人」を持ち出しても、子どもは納得しない。
提示する主想語は、「仲間」ぐらいがちょうどいいのかもしれない。


「幸せとは、共に喜びを分け合える仲間がいることだ」
「分かり合える仲間のいることが、本当の幸せだ」


ごんの「幸せ」は、仲間を得ることだった。
だから、分かり合えた仲間が見つかり、うなずくラストは、もの悲しくはあるが「ハッピーエンド」なのだということになる。

ごんが銃で撃たれて死んだかどうかは不明だが、

孤独に生き続けるよりも、分かり合える仲間と出会って死ぬ方が幸せだ

と読める(孤独に生き続けるって、辛いなあ)。

モチーフに戻ると、

ごんは孤独で生き続けるよりも、たとえ命を落としても分かり合える仲間と出会う道を選んだ。

ということになる。

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October 12, 2021

『ごんぎつね』の構造は、「起承転結」ではなく「序破急」


『ごんぎつね』を起承転結の四部構造で分けようとするとうまくいかない。

◆ごんが撃たれて終わるから「転」で終わる作品。
◆ごんが撃たれて「転」、ごんがうなずいて青い煙の漂うラストの三行が「結」

なのかなと思いながらも、スッキリしなかった。
起承転結で説明しない方がいいかなとも思っていた。

三部構造といえば「序破急」がある。
歌舞伎などの構成に用いる用語で、

・出来事が起こるのが「序」
・事件が起こるのが「破」
・急転直下で結論が出るのが「急」

と理解していたが、最後の「急」は「結」に該当するのだと勝手に決めていた。

以下のサイトも参考になるが、そうと読める。「破」は「承転」、「急」は「結」と書いてある。
https://www.choeisha.com/column/column29.html

久しぶりに井関義久氏の「入門『分析批評』の授業」を見て驚いた。

◆クライマックスというのは、昔から物語の真ん中あたりにあったもののようですが、だんだん、近代といってもかなり前から、日本では後ろの方に後ろの方にときてしまいましてね。一番最後にそれを持ってくるような時代が、もうずっと続いています。日本では、後ろの方に持っていくというのが、かなり前からあって、室町時代からあるんですね。能にそういうのがあります。序・破・急といって1番最後にクライマックスの頂点を持ってきて、もうそれでおしまい、というわけです。216ページ

・・・そうか、ということは、「ごんぎつね」は、無理やり「起承転結」にあてはめなくても、「序破急」の三部構造で考えればすんなりいく。
むしろ、クライマックスで終わる典型的な「序破急」のパターンの作品なのだと言ってもよいわけだ。

ただ、自分には断定する権限もないので、ここは、そういう考え方もあるということにしておこう。

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October 11, 2021

令和の三読法? 「構造読み」「精査・解釈」「考えの形成と共有」

「国語」の指導内容については「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に取り組む態度」の3区分がある。

その「思考・判断・表現」の「読むこと」の内容(1)は、学習過程に沿って、次のように構成されている。

①構造と内容の把握
②精査・解釈
③考えの形成
④共有

 

文科省HPの学習指導要領では探しにくいので、こちらをご覧ください。

https://cosnavi.jp/js2017/201_kokugo/2-2-3-c.htm

 

①「構造と内容の把握」とは,叙述を基に,文章の構成や展開を捉えたり,内容を理解したりすることである。

②「精査・解釈」とは,文章の内容や形式に着目して読み,目的に応じて必要な情報を見付けることや,書かれていること,あるいは書かれていないことについて,具体的に想像することなどである。

③「考えの形成」とは,文章の構造と内容を捉え,精査・解釈することを通して理解したことに基づいて,自分の既有の知識や様々な体験と結び付けて感想をもったり考えをまとめたりしていくことである。

④「共有」とは,文章を読んで形成してきた自分の考えを表現し,互いの考えを認め合ったり,比較して違いに気付いたりすることを通して,自分の考えを広げていくことである。

 

・・・従来の読みの指導過程の多くは三読法であった。

 

石山修平の三読法・・・「通読」「精読」「味読(鑑賞)」
わが国の国語教育史の上で、解釈学を集大成したのは石山修平である。
石山はその著「教育的解釈学」(1935)の第三篇「解釈の方法」第二章「解釈の実践課程」において、読みの学習指導を、「通読段階の任務」「精読段階の任務」「味読(鑑賞)段階の任務」「批評段階の任務」として示した(後に「批評段階」は削除された)。
「国語教育指導用語辞典(第四版)」(教育出版)より

 

・・・三読法には、そのほかの流儀もあるが省略する。
あえて、1つ選ぶなら、次の「読み研」方式だ。

 

三読法(構造よみ,形象よみ,吟味よみ)

物語の新三読法では、「構造よみ―形象よみ―吟味よみ」という三つの段階で作品を深堀りして読み込んでいきます。
まず、「構造よみ」で作品の全体構造を読み解き、「形象よみ」では作品のレトリックに注目しながら形象を読み解きます。そして「吟味よみ」で、作品を主体的に評価していきます。

https://kokugonote.com/monogatari_shin3doku01/

 

・・・学習指導要領では、従来の「三読法」に対して、4つの学習過程が示されている。

しかし、内容的には、③④を合体して考えれば、従来の三読法と大差ない。

①構造と内容の把握
②精査・解釈
③考えの形成と共有

 

・・・今は「主題」という用語は使わないが、③は「主題読み」と同義だ。自分の考えの形成が、要するに自分にとっての「主題」にあたるからだ。


それにしても、①構造と内容の把握、②精査・解釈、③考えの形成、④共有の4つの学習過程は、どこから来たのだろう。
学習過程の解説は見つかるが、その元々の由来についての記述がなかなか見つからない。
しっかり調べてみたい。

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