「共通解」と「納得解」の区別
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クラス全員が同じ方向を向いて道徳的な問題を追究するためには、最初に明確な学習テーマを共有しておくことが必要です。子ども達が明確な学習テーマを自覚しつつ、友達との協同学習をしていく中で目指すことは、まず、「人に優しくすることは大事なんだよ」というような、多くの人が納得するような「共通解」を持つことです。しかし、そこで終わってはいけません。では、「共通解」をもとに自分に立ち返って考えたときに、「自分は人に優しくしているか」「友達にどう接しているか」「もう少し友達に手を差し伸べなくてはいけないな」などという自分自身の「納得解」をつくっていくというところまでいかないと不十分です。 授業の最後に2分でも3分でもいいから、「共通解」に対して自分は普段どうしているのか、どう考えているのかということを、もう一度投げかけて問い直す時間を設定することが大切です。P18,19
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国語の解釈の授業場面と重ねてみると、同じだなと思った。
だれもが理解できる「読解=共通解」のレベルは最低限押さえておく。
しかし、解釈は個々の判断に任せるべきで、それが各自の「納得解」になる。
・・・というわけで、この部分も「道徳」としてだけ受け止めてしまうともったいない。
この箇所は、「共通解・納得解」についての汎用的な意味を持っている。
できるだけ原文を生かしながら加筆修正して示すと、次のようになる。
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クラス全員が同じ問題を追究するためには、最初に明確な学習テーマを共有しておくことが必要です。
明確な学習テーマを自覚しつつ協同学習をしていく中で目指すのは、まず、多くの人が納得する「共通解」を持つことです。
しかし、そこで終わってはいけません。
「共通解」をもとに自分に立ち返って考える「納得解」までいかないと不十分です。
授業の最後に2分でも3分でもいいから、「共通解」に対して自分はどう考えているのかということを、もう一度投げかけて問い直す時間を設定することが大切です。
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一定水準の理解が維持されているからこそ、それ以上の部分を個々の解釈に任せられる。
「共通解⇒納得解(A→B)」という授業の流れに対して
Aの共通解を疎かにする教師もいれば
Bの納得解を疎かにする教師もいる。
①共通解を疎かにする教師は、教えることを放棄した「手抜き型」
②納得解を疎かにする教師は、考えさせること放棄した「詰め込み型」
とでも言えるだろうか。
①個々の解釈に任せずに、一定の理解を授業内で保障せよ
②一定の理解をさせて終わりではなく、「自分はどう解釈するか」を考えさせよ。
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