「テイーチング」と「コーチング」の一考察
(1)教師はコーチングに注力すべきなのか?
『教育新聞』2019年1月1月号に、以下の記載があった。
「テイーチングはICTに任せて、教員はコーチングに注力すべきだ」
通信高校「N高校」のポリシーだそうだ。
Edtechの第一人者佐藤昌宏氏がインタビューで次のように答えていた。
◆教育は「人間がやる領域」、経験や感覚が重視されてきました。経験を積んだ教員の職人的な技が発揮され、伝達は難しい。約150年、日本で続きました。
世界では「教育の科学」がテーマになっています。教育の再現性が一層進めば「機械で再現できる部分」「人間にしかできない部分」が分化する。教育は大きく変わるでしょう。
◆機械には不可能なのが4象限の「コーチング」「ファシリテーション」。教員には「教える」ではなく、寄り添いながらモチベーションを上げる「導き」が求められます。
教える
Tutor | Teacher
|
個別 ――――――大人数
|
Coach | Facilitator
導く
佐藤教授が作成した「教師の役割4象限」は、「教えるー導く」の縦軸と「大人数―個別」の横軸による4象限だ。
確かに、進学塾のサテライト授業や、「スタデイサプリ」など、ICTの活用により、優れた授業コンテンツが作成され、個々の理解度や反応に応じた学習プログラムが組み立てられている。中途半端な教え方の教師では到底かなわない。特にその子の苦手分野やつまずきを分析するのはICTの方が長けている。
しかし、だからといって、テイーチングをICTだけに任すのは難しい。
(2)教師の理想は「教えない」のか?
『最高のコーチは教えない』(デイスカバー21)という一冊がある。
メジャーリーグでも活躍した吉井理投手がピッチングコーチになってからの学びをまとめたもの。タイトルだけ見ると「教えないことが美徳」と思えるが、中身はそうでもない。
第一ステージ(初心者・新人)に該当する選手は
◆「技術の基本を細かく教えていく」
◆「自らの状況を把握できないうちは、まず基礎を徹底させる」
◆「一人前と認めるまでは、このステージで二年から三年は過ごさせる」
とある。技術の基本は細かく教えていくものなのだ。
最初から「教えないで任す」では、初心者は何も身につかない。
コーチの仕事は「教えること」ではなく、「考えさせること」であると吉井氏は言う。
「考えさせること」はコーチの仕事であることに異論はない。
ただし、氏の「コーチング」の主張を「テイーチャー」である教師が全部受け入れる必要はない。
「究極のコーチ像は、コーチングの結果、相手が何でも一人でできるようになり、はた目から見るとサボっているようにしか見えないコーチだ」と吉井氏は言う。
「サボっているように見える」は「サボっている」とは違う。吉井氏はコーチングの3つの基礎として「観察」「質問」「代行」を挙げている。この3つを怠る教師はコーチングを理由にサボっているだけだ。
(3)コーチングできるのが、優れた教師では?
「体育科教育」2019年12月号にコーチングの話題があった。
「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」
菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)
◆テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。
◆コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。
・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだと言う。
すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。 子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。
だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードだ。
コーチングに関する次の一節がとても興味深い。
◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。
(中略)しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。
そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」
「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。
◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。
とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念にはならない。
我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が分かるようなすぐれた発問づくりに邁進してきた。
つまり「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいる。逆に言えば「劣った教師」は「問いかけ」がない。
「問いかけることで、教える」が、我々がいつも取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。
※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それを担うのが教師です。
「これからはコーチングの時代だ」という言葉を切り札にして、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それはサボっているだけだ。
「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。
「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。
何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる
菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。
◆平凡な教師は、ただしゃべる
よい教師は、説明する
すぐれた教師は、やってみせる
偉大な教師は、やってみようという気にさせる。
しゃべる < 説明する < やってみせる < やる気にさせる
「しゃべらない教師・説明しない教師・やってみせない教師が望ましいとは、どこにも書いていない。
「教えない」教師を理想とする根拠など、どこにもないのだが、「コーチング」=「教えない」=「説明しない」=「何もしない」という不自然な等式を勝手に作り出してしまう。
(4)「丸投げ」では、力をつけられない。
『総合教育技術』11月号で田中博之氏が、学テ問題対策の「丸投げ」を批判している。
少々長いが引用する。
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丸投げというのは、教員は机間指導で見て回ってアドバイスはするものの、基本的に「はい、これを解きなさい」と言って、子どもに自力で解かせるやり方です。
子どもたちが活用問題を解けない理由は二つあります。一つは論述して書く力が弱いことです。これは決定的な問題ですから、問題解決の過程や根拠を文章で書く練習をしなければなりません。もう一つは、どんな既習の知識や技能を使えば解けるのかを、正しく思い出せないことです。既に学習した知識や技能を活用せず、やみくもに解こうとしてもできませんから、「難しくてできない」と言い出すのです。
かといって、「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまうのではないか」と懸念する先生方もいることでしょう。それは正論ですが、活用問題は難しいのです。丁寧な指導が必要です。(中略)
授業中に補助輪付きの時間を、5分でもいいのでとってほしいと思います。活用問題はテクニックを覚えればできるわけではありません。一種のひらめきが必要であり、低位層の子どもがひらめくためには、どの知識が使えそうなのか、どんな公式が使えそうなのかなど、問題を解くために手がかりになるような既有知識を想起させることが重要です。例えば、必要になる既習の計算の技をヒントカードにして「ヒントが欲しい」子どもに挙手させて配るなど、見通しレベルの既有知識の想起をしてほしいと思います。
「新学習指導要領を反映し活用問題を重視へ」より
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・・・田中氏の言う「丁寧な指導」は、子どもにヒントを与えて既有知識の想起を促すという意味では極めて「コーチング」的だ
このコーチング的な丁寧な指導の対局が「丸投げ」だ。
「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまう」とある。
ダメなのは「教えすぎる」であって、「教える」ではない。
教師の重要な仕事である「見通しレベルの既有知識の想起」を怠ってはいけない。
蛇足で書くが、「教師が教える」代わりに「子ども同士の話し合いに委ねて、教師が何もしない」は、もっとタチが悪い。
教師でも難しい「既有知識の想起を促すヒント」を子供に出せるわけがない。
もし、利発な子が「そうだ、○○を使えばいいんだ」と発言して、みんなが納得したとしたら、それは「ヒント」ではなく「教え込み」だ。
配慮のない教師、見通しのない教師、子どもに任せっぱなしの教師は、次の①②③を起こす。
①みんなの前で恥をかかせる
②意味の分からないこと・嫌なこと・難しいこと・失敗しやすいことをやらせる。
③つまらないことを我慢させる
コーチは本人のやる気を促すべき存在だ。 だから、「テイーチ」より「コーチ」と言いながら何も教えない教師は、まさにコーチの真逆の存在だ。「テイーチ」より「コーチ」「ファシリテート」などと格好のいいことを言いながら、何も教えない教師は、何の価値もない。
※過去のブログを加えて再構成しました。
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