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December 08, 2021

「教えて考えさせる」が授業の基本


2005年以降、中教審答申では「教えて考えさせる授業」を提言している。

かつて勤務する春日井市内で、堀田龍也先生が教育アドバイザーとして研究指定校の助言をしてくださっていた。

当時のキーワードは「習得と活用」。

ちまたでは「活用が大事だから、教師はできるだけ教えない」という誤解もあった。しかし、堀田先生は、「教えることはきちんと教えてから手放す」「先生は手放すタイミングが早すぎる」といった助言をされた。

算数の授業モデルは、

「例題をきちんと教え、類題をみんなで解き、練習問題を自力で解く」

といったパターンで、参観する先生の中には教え込みのイメージをもつ人もいたし、練習問題を解くことが活用だと誤解する人もいた。
通常の算数の1時間の中に習得と活用の要素があると感じた先生もいたが、練習問題が「活用」では、活用レベルとしてはあまりにお粗末だ。
当時、参観した教務主任でも、どの部分が「活用」なのかで誤解がうずまいていた。

 市川伸一氏の著書の言葉で言えば、

「教えて考えさせる授業」の挑戦 ―学ぶ意欲と深い理解を育む授業デザイン―

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-062028-9
 

「はじめに」の部分がネットでも閲覧できる。
学び合いや問題解決的な学習=教えない授業の欠点を指摘している。ちょっと長いが奥が深い。

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私は当初、授業がわからないというのは、教師が一方的にどんどん教え込んでいく授業をするからだと思っていました。ところが、子どもたちの言うことがどうも違うのです。「先生が教えてくれないからわからない」と言うのです。では、いったい授業では何をしているのかと聞くと、「さあ、自分で考えましょう」「みんなで話し合って考えましょう」という自力解決や協同解決の時間がやたらに長くとられ、教師がわかりやすく説明してくれる時間がほとんどないと言います。

 その後、私自身、授業見学をする機会が増えるようになり、そうした授業を多く見かけるようになりました。「確かに、これでは子どもたちは、わからないだろう」と思わざるをえませんでした。時代の風潮というのは怖いもので、当時は、そういう授業がよいものとされ、皆でめざしていたのです。「教える」「指導」「知識」などの言葉は極めて悪いイメージをもたされ、「子ども中心」「指導より支援」「問題解決」「自力解決」などの言葉がとびかいました。そして、この傾向は、まだ根強く残っています。

 正直なことを言えば、私自身も、一九九〇年代は、学習相談の実践研究をする一方で、探究型、創作型の授業を提案したり、実践を紹介したりしていました。ただし、それは、あくまでも基本的な知識・技能は手堅く身につけることを前提としての話です。その前提が、もはや全国的にかなりくずれていたわけです。

 公教育で、最も大切なのは、バランス感覚であろうと私は思っています。ところが、現実には、振り子が振れるように、極端から極端へと方針が振れやすいのも教育界の特徴です。一方の極の方針で実施してまずいことが起こると、マスコミも教育学者も徹底的に批判し、まったく逆の方向に行こうとするのです。

 少なくとも、知識・技能の習得をめざした授業では、教師が基本的なことをわかりやすく教え、子どもたちが共通の知識をもった上で、クラス全体で問題解決や討論を行って理解を深めるというのが「教えて考えさせる授業」です。これを聞くと、「何をアタリマエのことを言っているのだろう」と思う方も多いでしょう。それがアタリマエでなくなってしまったのが、一九九〇年代以降の学校教育なのです。

 この一〇年あまり、「教えて考えさせる」というフレーズは、ずいぶん広まったようです。私も、中央教育審議会にはいってから訴えてきましたし、講演、雑誌、書物などで主張してきました。二〇〇五年以降、中教審答申では、「教えて考えさせる」という表現が使われるようになりました。しかし、それに伴う誤解や反発もあります。誤解・反発の代表例は、「教師が先に教えてしまったら、子どもは考えないではないか」というものです。私は、これまで関わってきた三〇校を超える学校の生徒の様子や先生方の声から、そんなことはないと自信をもって言えます。むしろ、そういう反論をする方は、教師が教えたあとに、何を考えさせるか、という発想がないのでしょう。教師の教える知識はゴールではありません。むしろ出発点なのです。知識があるからこそ、新たな疑問や興味も生まれ、さらにすすんだ問題解決や話し合いができるのです。
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・・・教務主任の頃、堀田先生が提言していたのは、まさに、この「教えて考えさせる授業」のことであった。

「教えずに考えさせる授業」を理想モデルにしてはいけないという指摘だったのだ。

問題解決の授業を否定するスタンスはもっていたが、その理論背景を持っていなかったことが悔やまれる。

今なお、「教えて考えさせる」がスタンダードになっていない。
 

◆2005年以降、中教審答申では、「教えて考えさせる」という表現が使われている。
少なくとも、知識・技能の習得をめざした授業では、教師が基本的なことをわかりやすく教え、子どもたちが共通の知識をもった上で、クラス全体で問題解決や討論を行って理解を深めるというのが「教えて考えさせる授業」である。

 

ということを今更ながら、しっかり意識、拡散していきたい。

 

※教えない授業のマイナスもあるが、今のコロナ禍の授業は、教師の一方的な詰め込み授業が復活しているという危惧もある。

めざすべき「主体的、対話的で深い学び」が封印状態の学校もある。

※市川伸一氏の講演記録
https://edupedia.jp/article/587d8d73fa57e2282a83c7c0

基調講演「第3回創価大学教育フォーラム」 習得・活用・探究の学力を育てる ―小・中・高・大を見通した授業づくり― - CORE Reader
https://core.ac.uk/reader/230429450


※2014年7月の「堀田龍也先生のご指導」の覚書も再掲しておく。
「教えて考えさせる授業」について、ぼんやり学んでいたことがよく分かる。

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 春日井市立出川小学校の公開授業研究に、堀田龍也先生が今年も助言者として参加される。
 今年度1回目の研修会が7月2日に、行われた。
 指導助言の最後の言葉が印象的だった。

①「教える」場面での教師の話し過ぎ
②「考えさせる」場面でのつっこみ不足
③広い視野での教材研究  
   

①「教える場面」で、
 ・教師がしゃべりすぎない。
 ・やたら説明しない。
 ・「入れ食い」みたいに、子どもから出た正解に飛びつかない。
というような意味合いだ。
 「教師の一方的な説明で教えた気になるな」と自分にも、いつも言い聞かせているが、まだまだだ。

 「教えた」と「伝えた」は、まさに別次元なのである。

②「考えさせる」場面で、
 ・「本当にそうかな」
 ・「それだけかな」
 ・「○○の場合はどうなんだろう」
と問うのが「つっこみ」。
 きちんと立ち止まり、安易に次へ進まないための、「つっこみ」の基本が「良質な発問」である。
 (「ゆさぶり」も、「つっこみ」の1つだ。)

 最近、活動型の授業が優先され、「発問の吟味」がされなくなった。
 今回の公開授業も、「めあて」はあるが、主発問で盛り上がる授業は見られなかった。
 「わかった」と「わかったつもり」は別次元である。
 質のよい発問が、子どもの思考を活性化させることを肝に銘じたい。
 
③広い視野での教材研究は、
 この教科で、
 この単元で、
 この1時間の授業で、
何を学ばせたいかを明確にせよ、というような意味でもある。
 各教科の6年間・9年間の系統性を自覚して、授業に臨んでいるかが、問われている。


 さて、この「広い視野での教材研究」が不足していると
①のように、教師が説明で教え込もうとしてしまう。
②のように、「ここぞ」という場面での突っ込みが不足してしまう。

 やはり、大事なのは「授業準備」である。
 授業準備が足りないと、、説明で押し切ろうとする。
 教具の工夫もなく、鋭い発問(つっこみ)で、思考に迫ることもない。
 教科書1冊、チョーク1本の授業で押し切ろうとする。
   
 教師の授業準備が雑になり、子どもも我慢ができなくなれば、荒れは目に見えている。
 そのような授業にならないよう、日々、研さんに努めたい。
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