授業の評価は「子供の振り返り」で可能なのか?
ある研究授業の終末の場面で、お約束の「振り返り」があった。
プリントに今日の授業の振り返りを記入する。まあ授業の感想を書かせたといってもよい。
振り返りのヒントとして、本時のプリントには、次のようにヒントが書いてある。
◆できるようになったこと、わかったこと、
◆楽しい面白いと思ったこと、うれしかったこと、
◆次がんばりたいこと、むずかかったこと、
◆そのほか気づいたこと
・・・しかし、子どものプリントを見ると、次のような一言感想ばかりだった。
◆○○ができるようにがんばった。
◆いい○○ができてうれしかった。
◆今度も、もっといい○○を作ってみたい
・・・さて、授業者は、この振り返りで「良し」とするのだろうか。
授業への取り組みが活発なら、振り返りが一言感想でもかまわないのだろうか。
そもそも振り返りプリントとはいったい何の意味があるのか。
春日井市の研究推進に堀田先生が関わっていた頃、教務主任だった自分も何度かお話を聞いたし、資料も読み込んだ。
その推進校の研究成果が2015年に教育同人社から書籍としてまとめられた。
その中に指摘がある。
◆感想やわかったことを書かせるだけでなく、めあて、課題に対しての振り返りとなるように問いかける。
◆「振り返り」として、何が書けたり言えたりすればよいのかを、教師がしっかりと捉えておく。
◆例えば高学年の実際の授業では、授業の終末に、教師がまとめとして振り返る際のキーワードを伝えます。すると子どもがノートに学んだことを自分の言葉で速やかに書き始めます。教師はその様子を把握し、まとめが終わった頃に全体のまとめにつながる数人を意図的に指名し、その発言について、指名した理由や必要なキーワードなどを伝えながら学級全体にの学びについて確認していきます。
・・・個々に振り返りをさせてプリントを回収するだけの授業では、子供同士の相互作用がない。
そういうことを書けば良いのだというモデルが示されないと、振り返りの質が上がらない。
にもかかわらず、「各自、書いて終了。後で先生が見ておきまーす」というケースが多い。
そもそも、教師に「どんな振り返りを書かせたいのか」の明確なイメージがなければ、評価のしようがない。
それは指導と評価が一体化していないという課題につながっている。根が深い問題だ。
ところで、かつての研究授業では、授業者の反省は子どものノートや振り返りプリントを踏まえて語ることが多かった。
協議会の場では子どものノートや振り返りプリントを回したものだ。
それは、本時の授業の評価は「授業者の思い」ではなく、「子どもの事実」によってなされるべきものだからだ。
今回の研究協議会も振り返りプリントの提示がなかった。
振り返りプリントにどんな書き込みがあったら本時のねらいが達成されたと判断するか、そのような観点で授業が組み立てられていないので、回覧したところで意味はないのだが、「子供の事実」で授業を評価するという意識を失ってはいけないと思う。
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