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February 20, 2022

伊坂幸太郎 「逆ソクラテス」



伊坂幸太郎の『逆ソクラテス』は、小学生を主人公にした5つの短編集。
2020年4月初版だから、多くの人が読了していると思う。
何と無く読む機会を逸していたが読んでみれば、イッキだった。
◆僕はそうは思わない
◆敵は先入観
◆世界をひっくり返せ
というキャッチフレーズが示す通りで、いじめを誘発する「社会の構図」を再認識させられた。
・彼が才能がないとは限らない。
・彼女が足が遅いとは限らない。
・身なりの貧相な彼が、貧乏とは限らない。
・挫折した彼が、そのまま活躍の場を失うとは限らない。
・頼りない先生が、頼りないとは限らない。
・彼の体のあざが、虐待のせいとは限らない。
・犯罪者を厳しく罰する事排除することが正しいとは限らない。
といったどんでん返しの話題が満載で
◆最終的には、威張らないやつが勝つよ。
◆真面目で約束を守る人が勝つんだよ。
◆相手によって態度を変えることほど、格好悪いことはない。
◆今僕を馬鹿にしている人は気まずくなるなるだろうね。
◆人間関係にとって重要なのは評判だ」
「評判がみんなを助けてくれる。もしくは、邪魔してくる」
◆もしわたしがいじめられたら、いじめてきた相手のことは絶対に忘れないからね。
というような道徳的なアドバイスも、すんなり入ってくる。
 職業柄、ずしんときたのは、「逆ソクラテス」の
「何をやっても駄目みたいな言い方はやめてください」
という教師への毅然とした訴えだ。
多くの子供が、教師の何気ない決めつけで自分への自信を失っているだろう。この場面では、友達に対する度重なる教師の侮辱に心を痛めた少年が怒りをぶつけている。
一方、「アンスポーツマンライク」の感情的なコーチの場合は、
「恫喝じみた指導に成果があるとは、 限らない」ではなく、
「恫喝じみた指導に成果があることは、ありえない」を強調していた。
◆「いい大人が怒鳴りつけないと教えられないっ、て時点で恥ずかしいんだよな」
◆「怖がらせる以外に指導方法を持っていない、そのコーチ、詰みじゃん。」
◆「子供の気持ちを引き締めるためなら、それに相応しい叱り方をすればいいだけだよ。感情的にならずに、毅然と。相手の自尊心を削ったり、晒し者にしたり、恐怖を与えたりする必要はない。」
そして、怒鳴り散らすコーチの代わりとなった礒憲先生は、次のような対応をした。
声を荒らげることもなく、常に落ち着いて僕たちを指導した。試合の際も、「どうしてお前はそうなんだよ」であるとか、「早くやれよ」であるとか、「どうしたらいいか考えているのか」であるとか、抽象的な上に威圧感を与えるような、無意味な大声を上げる事は一切なく、具体的なプレイ、走るラインや立つべき位置の指示を分かりやすく出してくれた。大幅に点差のついた負け試合となれば、「点差を忘れよう。次にやったときには勝つように」と相手の弱点を探りながら、連係プレーを何度もトライさせてくれた。
格言や名言、テンポの良い会話、散りばめた布石の回収によるどんでん返し(仕返し)がお見事で、どれも読後感が良い。
かつて、「水戸黄門」や「遠山の金さん」のように、立場逆転のテレビドラマが好まれたのは、外見や立場で人を見下す社会への戒めだったもかもしれない。

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太陽光パネルの廃棄問題

先月のNHKの朝の特集で太陽光パネル廃棄の問題を扱っていた。朝の特集なので反響は少なかったかもしれない。

原子力発電の核廃棄物だけは処理問題で大騒ぎになるが、

太陽光パネル

EV自動車のバッテリー

風力発電の装置

などの処理も、十分、環境問題だ。

CO2も処理問題の1つ。

今朝も、静岡で盛土の規制を強化すると報じていたが、これも「処理」の問題だ、

処理(ゴール)を不明にして物事を進めると後で困る。

人災が発生する。

「今さえ良ければいい」「自分が良ければいい」という道徳心の問題でもある。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220114/k10013430051000.html

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February 16, 2022

ICT活用は手段であって、目的ではない。

この2年間、新学習指導要領が求める「主体的・対話的で協働的な学び」の具現化が、「タブレット端末の有効活用」という手段の問題にすり替わってしまいましたね。

最近の研究授業の実践報告も「タブレット活用・ICT活用」をメインにしたものが多いです。

 

◆付箋機能(ジャムボード)を使って他者の意見を知り、対話しよう。

◆一覧表(スプレッドシート)に自分の疑問や一言感想、俳句や短歌を書きこもう。

◆自分の学びをスライドにまとめてプレゼンしよう。

 

これらのICT活用によって「主体的・対話的で深い学び」が実現されることも実感できますが、目的と方法を混同してはいけません。

ともすれば、参観する側が、最先端のICT活用の実践を期待してしまっています。

ICT活用を加えないと研究授業として見劣りがする」わけではないのだと、研究授業(研究発表)を見る側も自覚しないといけないですね。

 

※人前で堂々と意見を言う力は、あった方がいいです。

でも、ジャムボードやスプレッドシートに各自で書き込むことが主流になると、意見を言えない子は活躍できますが、率先して意見を言える子の活躍の場は減ります。その子たちの活躍の場も保障してあげたいです。

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February 12, 2022

何も見ないで授業をするのが信頼の基本

先日、愛知合同例会に参加した。
真剣な授業検討の場に立ち合い、準備の整った授業の心地よさを再認識した。
「何も見ずに授業を展開する」は検定授業では当然の所作だが、現場の教室ではなかなかそうはなっていない。
帰宅して過去の記録を探ったら、松藤司先生の講座の感想が見つかった。
2012年12月9日の岐阜での親学セミナー。
「江戸しぐさ」のことを詳しく知らない人が多いと判断された松藤先生は急きょ解説をされた。
予定外の解説だったが、松藤先生は何も見ないで、いくつかの江戸仕草をスラスラと語られた。
見ないで言えるほど自分のものになっている。
見ないで授業するから、授業のリズムとテンポが崩れない。
資料を見ないで授業するから、逆に子どもの表情と教室の空気を見ることができる。
だから、
①指導案を見ながら授業する
②教科書本文から目を離さない
③板書ばかりで、ずっと黒板を見ている
などは論外なのだ。
何を見なくとも、よどみなく語れる授業=万全の準備をした授業は
①発問も指示も授業の流れも頭の中にインプットされている授業であり、
②何を聞かれても大丈夫だという自信のある授業である。
③授業に対する圧倒的な自信が、オーラとなって現れる。
④自信を持った授業が、教師への信頼につながっていく。
「何をどう突っ込まれても大丈夫」と思える万全の準備を日常的にするのは難しい。
しかし、年に何回かはそのような授業をし、成功体験を積むとともに、子供への信頼を勝ち取ってほしい。

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「できる・分かる」を目指す授業は、永遠の課題

◆「できる・わかる」を目指した授業
◆事前・事後アンケートによる子どもの学習意欲の高まり
◆子どもが意欲的に取り組む授業の工夫
などが、今年度の授業研究で話題になった。
考えてみれば、30年前と変わっていない。授業研究の永遠の取り組みでもあると思う。
「できる・わかる」を目指す授業(単元)を教師が求めるならば、
評価項目の中には、
◆授業中、子ども自身から「できた!分かった!」という言葉が出たか。
◆授業終末の振り返りで「できた・分かった」という満足感を示しているか。
を設定すべきであろう。
先生たちが取り組んだ【つもり】では意味がない。指導と評価の一体化だから、子ども自身が「分かった・できるようになった・好きになった・得意になった」という実感がないと、授業評価が教師の自己満足に終わってしまう。
野口芳宏先生が言われた「向上的変容のある授業」だ。
子どもの「振り返り」をエビデンスにした、教師自身の「振り返り」が大事であらねばならない。
できた・分かったの満足感で帰宅し、明日も学校に来たいと思うような毎日にしてほしい。
授業研究の事前・事後アンケートでは「好きか・嫌いか(得意か不得意か)」がよく聞かれる。
研究された先生のクラスでは、研究された教科についての「好き」が確実に増えている。
では、日々、「好き」が増えるような授業づくりをしているか。
そして、そのためにも、先生自身も、何か「得意」を決めて、そこで子どもたちを引っ張っているか。
(子供の憧れの対象になっているか)
もちろん、先生たちも苦手はある。
苦手な分野は子どもたちにも宣言して
「先生、ピアノができないんだよね。」
「先生、パソコン苦手なんだよね」
などと言えば、子どもたちが張り切ってミニ先生になってくれる。
たとえ先生が苦手でも、子供が好きになってくれればいい。
先生に苦手意識があると、できない子の気持ちがわかるから、かえって子供にとってが「いい授業」になるかもしれない。

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February 09, 2022

努力の2つの方向 


作家の幸田露伴は『努力論』の冒頭で、努力には「直接の努力」と「間接の努力」の二種類があると言っています。
前者は「当面の努力」で、さしせまった目標に向かって精一杯頑張ること、後者は「準備の努力」で、将来のための基礎づくりとなるものです。
譬ていえば、明日の試験に出そうなところを集中的に暗記する努力と、すぐに結果はでないけれど、将来のために基礎から学んでいく努力との違いといったらよいでしょうか。
努力してもなかなか目標が達成できないのは、多くの場合、直接の努力ばかりで間接の努力が欠けているからだと、露伴は説いています。

 上廣哲治 「目標を達成するための地図」『倫風』2月号

・・・この「直接の努力」「間接の努力」と、「指導技術の向上」「生き方の向上」は、よく似ている。
野口芳宏氏は、東井義雄氏の実践を踏まえて「指導テクニック」と「教養・修養」について論じている。


◆(東井氏の書物には)授業における板書の仕方や発問の仕方、授業や指名の「技術」「テクニック」「方法」「事例」などの記述には出合ったことがない。書物を通じて心打たれるのは、東井先生の人間味、人生観、人となり、眼差し、口振り、語りなどである。これらは、別の言葉で言えば、「教養」あるいは「修養」ということになろうか。
「本音・実感の教育不易論53回」『総合教育技術』2023年2.3月号 P92

そして
「現今の我が国の教育者、実践者に最も欠けているのが、教育者としての、あるいは人間としての『教養』『修養』という一点ではなかろうか」
「研修という名で行われている『教え方』や『指導法』の『研究』の内実は、要するに小手先の問題であり、「教養」や「修養」には遠い気がする。
と述べている。

おそらく野口氏の指摘は「教育」にとどまらない。

世の中はスピード感たっぷりの「成果主義・効率主義」に陥り、じっくりと「教養・修養」を育む余裕がない。
企業は単年度の成果が問われ、即戦力が求められ、十年後の人材育成に向けた先行投資が困難な状況だ。
ホリエモンが下積み修行を否定して話題になったのは、もう10年以上前のことになる。。
下積み修行しなくてもミシュランに名前が載るような寿司屋になれるという指摘は、「長い時間苦労して人間力を育む」ことの否定だった。


修業すれば人間力が身につく、などと言われるが……そんなわけないだろう。だったら下働きし続けた中年はみんな、修業時間に比例して優れた人格を備えているはずだ。
社会を見渡すと、決してそんなことはない。だいたい人間力なんて抽象的すぎる基準を盾に、これからの若者から大切な時間を奪うなんて、傲慢にも程がある。
 修業時間がありがたがられる時代は、とっくに終わっているのだ。

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2103/27/news013_2.html


どちらかに加担するつもりはない。
若い先生でも授業技量の高い人もいる。その先生方が、「授業スキルが高くても、人間力は低い」というわけでもない。
授業スキルが高い若い先生を攻撃するために「教育って、そんな簡単なもんじゃねえよ」と難癖をつけているだけなら、そんな批判は相手にする必要ない。


「衣食足りて礼節を知る」は、管仲の言行録である「管子」に出てくる言葉で「生きることに必死であれば、礼節や栄辱を知る余裕がない」という意味だ。

 Aに必死であれば、Bの余裕がない

Aには、指導技術・目先の仕事の準備 が入り

Bには、教養・将来の準備 が入るだろうか。

『新訂 教育技術入門』(明治図書)向山洋一著 の次の箇所を思い出す。

=========
技術は現場から生まれる

教育の技術はいかなるとき誕生するのだろうか。
ある教師は教育技術を求める。
ある教師は教育技術を求めない。
この差はどこから生まれるのだろうか。
これは、次の点に由来する。

できない、わからない子どもにどう対処しようとしているか。

目の前に跳び箱が跳べないで悩んでいる子がいる。
漢字ができないで胸を痛めている子がいる。
こうした教え子を前にして、教師としてどうするかである。
こうした現状に痛みを感じなければ、教育技術は必要ない。
もっと、のん気な教師は、責任を自分以外のところに持っていく。
A「教科書が悪いのだ」とか、B「跳び箱など教えなくていいのだ」とか、C「子どもに力がないからだ」とか、それぞれ、民教連の教師、宿題ばかり出している教師、研究授業をほとんどしない教師、教えないで叱ってばかりいる教師のよく言う言葉である。
これらの言葉は、どれもこれも、責任を他のせいにするという点で共通している。
私たちは、そのような立場をとらない。
「できない」「わからない」子どもを前にして、まず自分自身の力の弱さを感じる。
自分が至らないから、子どもに痛みを感じさせてしまったのだと思う。
むろん、「その他への批判」をすることはある。しかしそれは自分自身へまず批判をむけてから後のことである。
そして、私たちは「教育技術」を求めるのである。
「跳び箱は誰でも跳ばせられる」という教育技術は「全員を跳ばせたい」という教師の思いとそのための具体的努力なしには誕生しなかった。
 およそ、いかなる教育技術も、それが誕生するには、「分からない・できない子」を「分かるようにさせたい、できるようにさせたい」という「教師の想い」と「教師の努力」が存在する。
 教育の技術を求める教師こそ、一人一人の子どものことを思い、自らの弱さを省みつつ具体的努力をする教師なのである。
教育の技術を求めない教師は、「跳び箱が跳べない子」がいても胸の痛みを覚えず、平気ですごすことができる教師なのである。
P43/44
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 目先の「教育技術」を求めることだけを目指してはいけない。

 技術の基盤となる「できない、わからない子どもにどう対処しようとしているか」という思い(願い)が大事なのだ。

 

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