努力の2つの方向
◆作家の幸田露伴は『努力論』の冒頭で、努力には「直接の努力」と「間接の努力」の二種類があると言っています。
前者は「当面の努力」で、さしせまった目標に向かって精一杯頑張ること、後者は「準備の努力」で、将来のための基礎づくりとなるものです。
譬ていえば、明日の試験に出そうなところを集中的に暗記する努力と、すぐに結果はでないけれど、将来のために基礎から学んでいく努力との違いといったらよいでしょうか。
努力してもなかなか目標が達成できないのは、多くの場合、直接の努力ばかりで間接の努力が欠けているからだと、露伴は説いています。
上廣哲治 「目標を達成するための地図」『倫風』2月号
・・・この「直接の努力」「間接の努力」と、「指導技術の向上」「生き方の向上」は、よく似ている。
野口芳宏氏は、東井義雄氏の実践を踏まえて「指導テクニック」と「教養・修養」について論じている。
◆(東井氏の書物には)授業における板書の仕方や発問の仕方、授業や指名の「技術」「テクニック」「方法」「事例」などの記述には出合ったことがない。書物を通じて心打たれるのは、東井先生の人間味、人生観、人となり、眼差し、口振り、語りなどである。これらは、別の言葉で言えば、「教養」あるいは「修養」ということになろうか。
「本音・実感の教育不易論53回」『総合教育技術』2023年2.3月号 P92
そして
「現今の我が国の教育者、実践者に最も欠けているのが、教育者としての、あるいは人間としての『教養』『修養』という一点ではなかろうか」
「研修という名で行われている『教え方』や『指導法』の『研究』の内実は、要するに小手先の問題であり、「教養」や「修養」には遠い気がする。
と述べている。
おそらく野口氏の指摘は「教育」にとどまらない。
世の中はスピード感たっぷりの「成果主義・効率主義」に陥り、じっくりと「教養・修養」を育む余裕がない。
企業は単年度の成果が問われ、即戦力が求められ、十年後の人材育成に向けた先行投資が困難な状況だ。
ホリエモンが下積み修行を否定して話題になったのは、もう10年以上前のことになる。。
下積み修行しなくてもミシュランに名前が載るような寿司屋になれるという指摘は、「長い時間苦労して人間力を育む」ことの否定だった。
◆修業すれば人間力が身につく、などと言われるが……そんなわけないだろう。だったら下働きし続けた中年はみんな、修業時間に比例して優れた人格を備えているはずだ。
社会を見渡すと、決してそんなことはない。だいたい人間力なんて抽象的すぎる基準を盾に、これからの若者から大切な時間を奪うなんて、傲慢にも程がある。
修業時間がありがたがられる時代は、とっくに終わっているのだ。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2103/27/news013_2.html
どちらかに加担するつもりはない。
若い先生でも授業技量の高い人もいる。その先生方が、「授業スキルが高くても、人間力は低い」というわけでもない。
授業スキルが高い若い先生を攻撃するために「教育って、そんな簡単なもんじゃねえよ」と難癖をつけているだけなら、そんな批判は相手にする必要ない。
「衣食足りて礼節を知る」は、管仲の言行録である「管子」に出てくる言葉で「生きることに必死であれば、礼節や栄辱を知る余裕がない」という意味だ。
Aに必死であれば、Bの余裕がない
Aには、指導技術・目先の仕事の準備 が入り
Bには、教養・将来の準備 が入るだろうか。
『新訂 教育技術入門』(明治図書)向山洋一著 の次の箇所を思い出す。
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技術は現場から生まれる
教育の技術はいかなるとき誕生するのだろうか。
ある教師は教育技術を求める。
ある教師は教育技術を求めない。
この差はどこから生まれるのだろうか。
これは、次の点に由来する。
できない、わからない子どもにどう対処しようとしているか。
目の前に跳び箱が跳べないで悩んでいる子がいる。
漢字ができないで胸を痛めている子がいる。
こうした教え子を前にして、教師としてどうするかである。
こうした現状に痛みを感じなければ、教育技術は必要ない。
もっと、のん気な教師は、責任を自分以外のところに持っていく。
A「教科書が悪いのだ」とか、B「跳び箱など教えなくていいのだ」とか、C「子どもに力がないからだ」とか、それぞれ、民教連の教師、宿題ばかり出している教師、研究授業をほとんどしない教師、教えないで叱ってばかりいる教師のよく言う言葉である。
これらの言葉は、どれもこれも、責任を他のせいにするという点で共通している。
私たちは、そのような立場をとらない。
「できない」「わからない」子どもを前にして、まず自分自身の力の弱さを感じる。
自分が至らないから、子どもに痛みを感じさせてしまったのだと思う。
むろん、「その他への批判」をすることはある。しかしそれは自分自身へまず批判をむけてから後のことである。
そして、私たちは「教育技術」を求めるのである。
「跳び箱は誰でも跳ばせられる」という教育技術は「全員を跳ばせたい」という教師の思いとそのための具体的努力なしには誕生しなかった。
およそ、いかなる教育技術も、それが誕生するには、「分からない・できない子」を「分かるようにさせたい、できるようにさせたい」という「教師の想い」と「教師の努力」が存在する。
教育の技術を求める教師こそ、一人一人の子どものことを思い、自らの弱さを省みつつ具体的努力をする教師なのである。
教育の技術を求めない教師は、「跳び箱が跳べない子」がいても胸の痛みを覚えず、平気ですごすことができる教師なのである。
P43/44
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目先の「教育技術」を求めることだけを目指してはいけない。
技術の基盤となる「できない、わからない子どもにどう対処しようとしているか」という思い(願い)が大事なのだ。
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