蒸気船を造った宇和島藩の嘉蔵
先日の東海ライセンスセミナーで「ペリー来航」の追試実践を拝見した。
ペリーが来航して六年後に蒸気船を造った宇和島藩の嘉蔵。
気にはなっていたが、調べる機会がなかった。
指導案に記載された司馬遼太郎の著作を読むことにした。
『酔って候』という文庫の中に「伊達の黒船」という短編があり、これが読みやすそうだった(村田蔵六を扱った『花神』は長編だ)。
司馬は、ずば抜けた才能を持つ男のサクセスストーリーとしては描いてはいない。
◆身分制の固定した徳川治世のもとにあって、しかもそれがかさぶたのように厚い田舎の城下町にあっては、きのうまで人のくずのようにあつかわれてきた裏借家住いの中年男が、とにもかくにも「御雇」というお扶持取りになるのである。戦国時代でいえば、太閤のような奇蹟的な出世であろう。
◆下士に取り立てられて、三人分九俵のお扶持をいただくことになった。武士ともいえないほどの身だが、提灯張りかえとしては、奇跡的な出世だろう。
とあるが、嘉蔵の扱われ方は、ずっと下人並みで、嘉蔵の周りには利益だけは享受しようとする輩が集まっている。
それが現実であるとしても情けないことだと思った。
もっともっと嘉蔵が評価され、彼の才能が発揮される場があったらと思うものの、逆に言えば、宇和島でなければ、生涯誰の目にも留まらなかったのかもしれないから、それはそれで幸運だったのだとも言える。
終末部で村田蔵六が「石高相応のボイラーでござる」と不愛想に答えたとあるから、これ以上の活躍は望むなということだったのだろうか。
追究するのに意味がありそうな人物は、嘉蔵の才能を見込んで、あれこれ動いてくれた人たちで
・嘉蔵を推薦した清家市郎左衛門
・長崎奉行役人で嘉蔵の才能を認め出島への立ち入りを許可した山本物次郎
・蘭学者の竹内卯吉郎(最初は嘉蔵に教えていたが、次第に教わるようになった)
・長崎砲台の築造に参加し木製雛形をつくった大工の金四郎(職人のよしみで教えてくれた)
・長崎で反射炉の図面をもっていた上野俊之丞
竹内は嘉蔵の方が自分より実力があると認め、教わるようになっていった。
次のくだりは胸を打つ。
◆「足下は、蒸気にかけてはすでに日本一である。いや、二番はない。唯一の人だ。」
といった。嘉蔵はその手を何度も押しいただき、奇妙な声を出して泣いた。蒸気機関の日本一といわれたことがうれしかったのではなく、人並みに遇してくれた竹内の優しさについ感情がたかぶってしまったのだ。
蒸気船を造る命令が出されて八か月、ここで、次の記載がある。
◆こんどは藩をあげて嘉蔵の要求どおりに作業をすすめることにした。
ということは、やはり蒸気船製造のリーダーとして評価されていたのではと思う。
なお、嘉蔵の活躍は、身分の低いものまでは学問できる日本の教育の高さが要因であることが分かる。
◆日本各地で見る町の清潔さ、人々の笑顔、独自の発展した文化を目の当たりにした白人達は、今まで植民地化してきた諸外国との違いを多々発見していくのです。
中でも、戦国時代、江戸時代共に白人達が驚いたことは、日本人の識字率の高さでした。教育というものは、他国では一部の特権階級のみに許されたものです。
貧富の差は勿論、身分制度の激しい諸外国では、文字の読み書きを出来る庶民はほとんど存在していません。
しかし、戦国時代から簡易な寺子屋制度が始まっていた日本では、武士のみならず、僧侶や商人などが文字の読み書きを習得していました。
https://jpreki.com/kurobune1/
薄汚い提灯職人が、藩の名誉をかけた蒸気船造りを任されたというあたりは、宇和島藩(伊達宗城)でしかありえなかったかもしれないが、それにしても前代未聞のサクセスストーリーなのだ。
参考文献・関連書籍をもっともっと読んでみたい。
https://ilink-corp.co.jp/1097.html
https://miyoshishipbuilding.co.jp/2020/04/21/column01/
「教育」カテゴリの記事
- 行動を価値づけする(2024.09.12)
- 人々が画一化しないために(2024.09.08)
- 「原爆裁判」については、ほとんど知りませんでした!(2024.09.06)
- パラリンピックの理念(2024.09.02)
- 先生が子離れしないと、子どもは自立できない。(2024.09.02)
Comments