日本の国語教育に求められること
A:日本はハイコンテクストの文化
島国で、人種・文化の多様性があまりない日本では、話し手と聞き手との間に共通項が多く、言葉を尽くさずとも何となくわかりあえる、暗黙知がある。
B:英米はローコンテクストの文化
人種や文化が多様な地域では、共通項が少ないので、きっちりと言語化し、クリアでシンプルでわかりやすいメッセージを伝え、あいまいさを排除しなければならない。言語化して説明可能な知識を「形式知」と呼ぶ。
・・・文化の違いは「優劣」とは違うから、どちらが優れているかが問題ではない。
文化が違えば、自分たちの常識が通用しないと理解することが大事だ。
異なる文化、人種、背景を持つ人同士がわかりあうたった1つの手段はコミュニケーションである。だから、アメリカでは徹底して、言語化し、メッセージ化し、口頭で伝える教育が行われる。
日本が国際的な活躍(競争)をするには、アメリカのように、
徹底して、言語化し、メッセージ化し、口頭で伝える教育
が必要なのだ。
もちろん、文学の世界は「曖昧さ」が好まれる。
「うれしい」と書かないで「うれしい」感情を想起させる筆力が、作者の腕だ。
しかし「情景〜心にある感じを起こさせる光景や場面」の読み取りなどは、スキーマの問題もあって全員が納得することは難しい。
日本の職人の世界では技能を言語化せずに「見て学べ」と「暗黙知」が要求される。徒弟制度がなくなれば、そうした技能は消滅してしまう。
あいまいな表現で誤解されては、ビジネスでは困る。
誤解されない表現が「コミュニケーション」だ。
ハイコンテクスト文化の日本人は、自身のハイコンテクスト性の長所短所を十分理解して、
ローコンテクスト文化的な言語表現を身につけて補完する必要がある。
文学作品の「あいまいさ」をいちいち言語化するのは「野暮」ではある。
しかし、意味が通じないデメリット(誤解されるトラブル)を考えると、たとえ「野暮」でも、分かりやすい言葉に言い換える作業は必要になる。
※大学入試の国語問題(文学)は、およそ、ハイコンテクストをローコンテクストに言語表現することが基本なのかも。
「言ったつもり・伝えたつもり」にならない言語教育が求められている。
アメリカでは徹底して、言語化し、メッセージ化し、口頭で伝える教育が行われる。
日本の教育も、そうでなくてはいけない。
※「『言語技術』が日本のサッカーを変える」(光文社新書)
初版は2007年でしたね。当然、その頃から「言語力・論理力・コミュニケーション能力」は話題になっていました。
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