葛藤のある道徳の授業
4年生の道徳(光村)の「よごれた絵」を参観した。
うっかり友だちの絵を汚してしまった主人公が、葛藤の末、きちんと謝ることを選んだ話。
※「わざとじゃない」と言うけど、掃除の時間に雑巾でキャッチボールしていて絵に当ててしまったんだから言い訳できないよね。掃除の時間に遊んでいたのは、すでに「故意」だよ。
教科書付録のワークシートをそのまま活用した授業だった。
本時の話し合いの大きなテーマが次のように示されている。
◆わざとではなくても、悪いことをしてしまったとき、
正直に言わなければいけないのは、どうしてでしょう。
「どうしてでしょう」って聞かれても、子供には難しいなと思う。
子どもはそもそも、たとえわざとではなくても、「悪いことをしてしまったときは、正直に謝りましょう」と教わってきているからだ。
今更「どうして?」と聞かれても、そんなの当たり前だよとなってしまう。
だから、次の場面も、「そりゃあそうだよね」になってしまう。
◆「ぼく」があきらさんに自分のしたことを打ち明け、心からあやまったのは、どうしてでしょう。
しかし、子供たちは、まじめだから、
①自分がされたら嫌だから。
②あとでばれるより、先に言った方がすっきりする。
③いつまでも黙っていたら、心がもやもやする
などが出た。
ただし、そもそも「どうして」という問いは答えにくいと自覚することが大事で、
◆自分のしたことを打ち明け、心からあやまったのは、どうしてでしょう。
よりも
◆自分のしたことを打ち明ける気持ちに変わったのはなぜか
の方が答えやすいし、
〇このまま黙っていると・・だから正直にあやまることにした。
〇このまま黙っているより、正直に言った方が・・・だから正直にあやまることにした。
のように話型にあてはめると、答えやすいと思う。
教科書には、タイトル横に、次の吹き出しがある。
◆「ごめんね」って言うのは勇気がいるよね。
そう、謝ることは勇気がいる。
自分の非を認めれば、激しく怒鳴られるかもしれないし、怒られるかもしれない。
嫌われるかもしれないし、弁償を求められるかもしれない。
人には誰でも強い心と弱い心がある。
この場合は「正直に謝ろう」という強い心と、「わざとじゃないから黙っていよう」という「弱い心」。
だから、謝れない人の「心の弱さ」に共感しながら正直に謝れる人に一歩でも近づくための授業でありたい。
ワークの後半は、次のように問うている。
「悪いことをしてしまったとき、自分から正直にあやまったことはありますか。
そのとき、どんな気持ちになりましたか」
この問いで「ない」と言い切る子は書くことがないから、全員書かせる場合には、こういう聞き方は適切でない。
おまけ(1)
許してくれる温かい集団でないと、謝ることはできない。
「このクラスのみんななら、こういうことがあっても、許してあげるよね」という確認があるとよい。
おまけ(2)
「四知の教え」・・天知る、地知る、我知る、他(相手)知る
秘密は、いつか分かってしまう。
誰が知らなくたって、自分の過ちは自分が一番よく知っている。他人はごまかせても自分はごまかせない。
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