子供の感想には、「感動」と「分析」がある。
「教師修行十年」の中に次のような記述がある。
子供が感想を述べる時、実はその感想の中身には 感動と分析の2つが含まれていたのである。「とてもこわくなりました」が前者であり、「最後の夕焼けの場面が印象的でした」が後者である。
◆「とてもこわくなりました」=「感動」、いわば「主観的な表現」
◆「夕焼けの場面が印象的でした」=「分析」、いわば「客観的な表現」
「とてもこわくなりました」の主語は明らかに「私」。
一方、「夕焼けの場面が印象的でした」の場合は、少し複雑で「夕焼けの場面が印象的だ」で主語述語だが、
(1)私は「夕焼けの場面が印象的だ」と感じました。 私には夕焼けの場面が印象的でした。
(2)誰が読んでも、この作品は夕焼けの場面が印象的でした。
と2つの場合が想定できる。「印象的」と断じた主体が必要になるからだ。
(「私は」は主語でも「私には」は主語ではない。「私には」は、英語で言うと、Iではなく、for meに該当する。)
上記の例文は、次のように事実のみの記載に徹すれば「客観表現」と言える。
◆この作品は色彩表現が使われています。
◆クライマックス場面の「夕焼け」が出てきます。
ここに、「効果的」「印象的」を加えると、やや主観が入る。
◆この作品は色彩表現が効果的に使われています。
◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われています。
他者も同じ印象を持つだろうという意味を強調したのが次の表記。
◆この作品に色彩表現が効果的に使われていることは誰もが理解できるだろう。
◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われていることは誰の目にも明らかだ。
先の表現のままでも、多くの人もそう感じるに違いないという意味を込めることができる。
◆この作品は色彩表現が効果的に使われています。
◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われています。
ただし、この「断定」が独りよがりにならないように注意しなくてはならない。
「みんなは自分の意見をどう思うか」を意識するのが「メタ認知」だ。
「分析」「解読」は、誰しもが同じように読みとる内容(事実)。
「感想」「印象」「解釈」は、個人の見解が入る。
「批評」も同じ。客観的な事実に即してはいるが、あくまで「私見」に過ぎないから、全員一致とはならない。
同じ部分を客観的に分析した結果なのに、「解釈」が異なり、「批評」が異なる。
だから国語の討論は面白いのだ。
「視点」や「表現技法」のような答えが1つに決まる「分析」の内容を話し合わせれば最終的に決着がつく。
しかし、「解釈」は1つに決まらない。
決まらないことを承知の上で討論させないと、「で、答えはどっちなの?」が気になったり、お互いにモヤモヤしたまま授業を終えたり、ということになってしまう。
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