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October 31, 2022

子供の感想には、「感動」と「分析」がある。

「教師修行十年」の中に次のような記述がある。

子供が感想を述べる時、実はその感想の中身には 感動と分析の2つが含まれていたのである。「とてもこわくなりました」が前者であり、「最後の夕焼けの場面が印象的でした」が後者である。

◆「とてもこわくなりました」=「感動」、いわば「主観的な表現」

◆「夕焼けの場面が印象的でした」=「分析」、いわば「客観的な表現」

「とてもこわくなりました」の主語は明らかに「私」。

一方、「夕焼けの場面が印象的でした」の場合は、少し複雑で「夕焼けの場面が印象的だ」で主語述語だが、

(1)私は「夕焼けの場面が印象的だ」と感じました。 私には夕焼けの場面が印象的でした。

(2)誰が読んでも、この作品は夕焼けの場面が印象的でした。

と2つの場合が想定できる。「印象的」と断じた主体が必要になるからだ。

(「私は」は主語でも「私には」は主語ではない。「私には」は、英語で言うと、Iではなく、for meに該当する。)

 

上記の例文は、次のように事実のみの記載に徹すれば「客観表現」と言える。

 

◆この作品は色彩表現が使われています。

◆クライマックス場面の「夕焼け」が出てきます。

 

ここに、「効果的」「印象的」を加えると、やや主観が入る。

◆この作品は色彩表現が効果的に使われています。

◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われています。

 

他者も同じ印象を持つだろうという意味を強調したのが次の表記。

◆この作品に色彩表現が効果的に使われていることは誰もが理解できるだろう。

◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われていることは誰の目にも明らかだ。

 

先の表現のままでも、多くの人もそう感じるに違いないという意味を込めることができる。

◆この作品は色彩表現が効果的に使われています。

◆クライマックス場面の夕焼けが印象的に使われています。

 

ただし、この「断定」が独りよがりにならないように注意しなくてはならない。

「みんなは自分の意見をどう思うか」を意識するのが「メタ認知」だ。

「分析」「解読」は、誰しもが同じように読みとる内容(事実)。

「感想」「印象」「解釈」は、個人の見解が入る。

「批評」も同じ。客観的な事実に即してはいるが、あくまで「私見」に過ぎないから、全員一致とはならない。

同じ部分を客観的に分析した結果なのに、「解釈」が異なり、「批評」が異なる。

だから国語の討論は面白いのだ。

「視点」や「表現技法」のような答えが1つに決まる「分析」の内容を話し合わせれば最終的に決着がつく。

しかし、「解釈」は1つに決まらない。

決まらないことを承知の上で討論させないと、「で、答えはどっちなの?」が気になったり、お互いにモヤモヤしたまま授業を終えたり、ということになってしまう。

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October 30, 2022

国語の「登場人物」と「発問」を考える

現行の学習指導要領では「登場人物(人物像)」については、次のような指導内容になっています。

1・2年場面の様子や登場人物の行動など、内容の大体を捉えること。場面の様子に着目して、登場人物の行動を具体的に想像すること。

3.4年登場人物の行動や気持ちなどについて、叙述を基に捉えること登場人物の気持ちの変化や性格、情景について、場面の移り変わりと結びつけて具体的に想像すること

5.6年登場人物の心情などについて描写をもとに捉えること人物像や物語などの全体像を具体的に想像したり表現の効果を考えたりすること。

・・「捉える」とはどうすることか。「想像する」とは、どうすることか。

具体的には書いてないので、指導者によって授業は多種多様です。

この指導内容のまま「〜しよう」と板書したところで、子どもは何をしたらいいのか分かりません。

指導内容が曖昧なら、評価基準も曖昧なので、子供たちは達成感も得られません(教師も達成感がないでしょう)。

だから無内容な目当てを板書する必要はないのです。

◆どんな人物かを捉えるために「どんな人物ですか」

◆どんな気持ちかを捉えるために「どんな気持ちですか」

◆行動の意図を捉えるために「なぜ、そうしたのですか」

と直接問うても、なかなか深まりません。

だから発問の工夫が求められました。

聞きたいことを直接聞くなというのが「間接性の原理」です。

「どんな人物か、どんな気持ちか」を捉えるために、別の聞き方をしろということです。

登場人物の物理的・心理的に置かれた状況を理解するために求められたのが「知覚語で問え」です。「五感を問え」とも言います。

「何が見えています」「何色ですか」「どこにいますか」「○○はいくつありますか」「何が聞こえていますか」などを問うことによって、読者は、その作品世界に入り込み、登場人物になったつもりで仮想体験を始めます。

今なら、「VRのゴーグルをはめて、作品の世界に自分も入り込む」という言い方が分かりやすいかもしれません。

バーチャル体験、つまり「仮想自己」の「追体験」です。同化体験とも言います。

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絵から文へ、そして、文から絵へ。私が提唱する国語トレーニングでは、同じ内容のものごとを、絵と文の両方で表現できるようになることを目指します。絵から文、文から絵と操作することを、『媒体変化』と言います。媒体変化を実際にやってみると、その人が、何をどこまで認識できているかが、はっきりとわかります。絵を見て読み取れなかったものは、文章に変換できませんし、文を読んで理解できなかったことは絵に描けるわけもありませんからね。つまりは、理解力が磨かれていく。自分が何をわかり、理解できているのか。どこがわかっておらず、理解できていないのか。これをはっきり認識することは、何かを学ぶうえでの第一歩です。絵から文、または文から絵と置き換えていく作業とは、いわば『理解のプロセス』のレッスンです。提示された内容を小さく分解して、その一つひとつを読み解いていき、わからないところが出てきたらそこは入念に読み解き直し、すべての要素を『わかる』にしていくわけですから。

『ドラゴン桜2』桜木建二が教える 2020教育改革 絵から文、文から絵のトレーニングの効果とは?

https://www.asahi.com/edua/article/12329728

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・・・作品の内容を、絵にして示すには、曖昧な部分を確定しなくてはいけません。

絵を作成するための指示が、先に述べた「見えを問う、位置を問う、数を問う」などでした。

多くの方は「ドラゴン桜のアドバイスって、向山先生の発問のことだ!」と思われたことでしょう。

「見えを問う、位置を問う、数を問う・・・」

浜上薫先生が、「絵画的発問群」と名付けた通りです。

向山先生の発問は、バーチャル体験を促して、作品世界のイメージを確定させものだったのです。

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「分析批評」の番外編 ~読者・作者・話者~

『天気の好い日は小説を書こう』(三田誠広)は向山先生もお勧めの1冊だが、その中に

「志賀直哉の作品は二十歳の人にはわかりません」

「赤ん坊を抱いて初めてわかる『和解』」

という章がある。

読者の人生経験(スキーマ)に触れている。

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小説というものは人生経験に基づいて書く芸術ですから、ただ勉強するだけではわからないという面をもっている。読者の側にも、それなりの経験が必要な場合もある。例えば、志賀直哉の作品は若い人にはわからないかもしれない。(中略)人の親になると人間の心境というのは変わるんですね。変わるし、人生観が深くなります。その時に初めて志賀直哉というものがわかるんですね。皆さんもいま、志賀直哉を読んでわからないと思うんです。二十歳の人にはわからないですね。皆さんも三十歳くらいになって、子供がよちよち歩きになるとか、そうした時にもう一度、志賀直哉を読んでみるといいと思います。

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・・・この三田氏の主張は、読者の経験によって、作品から得られるものは違ってくるということだ。

椿原先生も話しておられたが、大人になってから、子供向けにお絵本を読むと印象は全く異なってくる。

『天気の好い日は~』には、もう1つ印象的な箇所があった。

先の志賀直哉の『小僧の神様』のくだりで次のように書いてある。

 

◆これはですね、中学校の時に読むと、小僧の神様の立場で読んでしまうんです。

 

この三田氏の主張を、教師はしっかりと自覚しないといけない。

作者が設定した視点人物がどうであれ、子どもは作中の「子ども」の立場で読んでしまうということだ。

中2の「大人になれなかった弟たちに」は、少年(兄)が話者であり視点人物だから、生徒は少年(兄)の立場で読む。

生徒はヒロユキの死を弟の死として読む。

教師は、ついつい母親の立場に立って、我が子の死としても読ませたがるが、生徒は「弟の死」で仮想体験する。

もし、親の視点で書かれた小説が教科書に載っていたら、その時は、「親の視点」に読むように指導すればいい。

「三人称全知視点(神の視点)」のデメリットについて、三田氏は「『小学生の作文』にならないための諸注意」の章でアドバイスをしている。

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神の視点でものを見て、父と子が出てくるとですね、どうもお父さんがうすっぺらく見えてしまうということになる。子どもなり、娘なりの視点に徹して描いていくと、おのずと父親の影というものが気配に伝わってくるものです。子供の目には見えない父親の影の部分は、見えないままにしておく。その方がいいんです。見えないものは描かない。すると立体感が出てくるのです。神の視点で何もかも描いてしまうと、嘘っぽくなる。同様に、書き手が何もかもを解釈し、説明してしまうと、ただの図式になり、奥行きがなくなってしまいます。(中略)人物が出てくると、必ずその人物を説明する人がいるんですね。「これがこれこれこういう人である」というふうに説明しちゃったら、それは「絵に描いた餅」になってしまいますね。そうじゃなくて、主人公の目でじっと見る、見えたものだけを書けばいいんです。そうすると見えなかったものは書かれないということになります。その人物の裏側というのは主人公に見えないわけですね。見えないけど、裏も何かあるんじゃないかなという気配だけが残る。すると作品が立体的になるんですね。(P153/154)

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書き手は人物の解釈や説明をしていない。

だからこそ、読者は自分で解釈し説明を加え自分を納得させる。

書き手が書いた解釈や説明をなぞるのではなく、書いていない解釈・説明を読者自身が課す。

主人公の目でじっと見る、見えたものだけを書けばいいんです。

この三田氏の書き手のテクニックを裏返しで言えば、主人公の目でじっと見る、見えたものだけを読めばいいんです。ということになる。

まさに「見え先行方略」だ。

三田氏はさらに次のように述べる(P116)

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◆もし、これがですね、志賀直哉が父親に向かって、「お父さん、僕の赤ん坊が死んでしまいました。その瞬間、私はお父さんの気持ちがわかりました。いままでの私がわるかった。お父さん、許してください」と言ってですね、父親が息子を抱き締めて、「いや私もいままで説明不足だった。お前もお父さんのことを許してくれ」と言って、二人がひしと抱き合ったら(笑)非常にわかりやすい話になりますね(笑)しかし、それでは大衆文学になってしまうんです。教養のない人にはわかりやすいかもしれないが、志賀直哉はそういうふうには自分の文学を作っていかなかったんですね。何にも説明しないんです。だけどわかる人にはわかる。私も二十五歳にして初めてわかったんですね。

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小中学校で扱う文章は、人物の解釈・解説が詳細に描かれている。

「大造じいさんとガン」は典型で、冗長なガンへの呼びかけを宇佐美寛氏は批判している。

そのような「わかりやすさ」に慣れてしまうと、語らない良さを備えた小説を読めなくなってしまう。

「分かりやすい」物語を例にして読みの訓練をしながら、「分かりにくい」小説を読むスキルを身に付けさせていければよい。

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対比は奥が深い (7) 過去の実践研究例

① 『虻 』 (光村5年上);虻   嶋岡 晨 

この詩から考えられる 「〜は〜より大きい」をたくさん書くことで、「現実の人間の小ささ」と、それと比べた「人間の精神 (生命)の大きさ」に気づかせた。対比を意識した始めての実践である。

 

② 『大造じいさんとガン』 (光村5年上)

1年目と2年目の違いや似ている所を見つけさせる中で、 年々計略を凝らす大造じいさんと、これに対抗する残雪とのかけひきを正しく解読しようと試みた。

 

③ 『3人の旅人』 (光村5年下)

3人目の旅人が真の幸せを見つけてくるという形は、3年目の戦いでじいさんの考え方が変わる 『大造じいさんとガン』 と同じ展開である。この場合は対比によって3番目のブラウンさんの旅を際立たせることより主題に迫らせることを試みた。

 

④『野ばら』(光村6年上)

作品の内容や構成を把握するため、そして、作品の主題や象徴性に迫るために 以下の発問の流れを組んだ。

1, この物語で対比されている言葉は何ですか。

2, 「老人と青年」 に関係する対比は何ですか。

3, 物語の筋にそった対比は何ですか。

4. この作品で1番大切な対比は何ですか。

発問4に対し「野ばらが咲くと枯れる」 「戦争と平和」 「生きると死ぬ」 などが 同じような意味を持つ対比でであるという反応があった。初発の感想では「よく分からない」が多かった作品であるが、「対比」を用いることにより、暗示性・象徴性に迫る深い読み(解釈)に取り組んだ。

 

⑤ 『やまなし』(光村6 年下)

1, 「十二月」の場面は「五月」とどんな違いがありますか。

2,「十二月」が平和だなあと感じる言葉はどれですか。

3, 「かわせみ」と「やまなし」 の違いは何ですか。

4, 「やまなし」 の主題は何ですか。

「五月」と比較することで「十二月」の特徴・イメージをつかむことが容易にできる。

逆に言うと、対比構造が明確なだけに、 主題も画一化してしまったが、 以下の作文を書く子もいた。

◆やまなしとかわせみの対比の勉強をしたりしてクラムボンよりも、 やまなし の方に関心を持つようになりました。 それは対比の勉強をした時に、 やまなし のよさをひき立たせるためにかわせみと対比させたことが分かったからです。 なぜ、作者はやまなしをひきたてようとしたかと疑問に思いました。これは 「やまなし」の「人のために生きる」という生き方を読者にもしてもらいたく て、わざわざ作者が対比をさせ、ひき立たせたのだと思うようになりました。

 

⑥ ;『一つの花』(光村4年上)

1, 「おまんじゅう キャラメルチョコレート」と対比されている言葉は何ですか。

2,  この2つはどんな点で対比されていますか。

1, この箇所(1場面後段) で対比されている言葉は何ですか。

2,ゆみ子とお母さんはどんな点で対比されていますか。

1, ; 二場面で対比されている言葉は何と何ですか。

2, ゆみ子とお父さんに関係する対比は何ですか。

3, この中で一番大切な対比は何だと思いますか。

1 , 一・二場面と三場面ではどんな点が違いますか。

2,たくさんのコスモスに囲まれたゆみ子は、何を表していますか。

「対比」という用語を繰り返し使うことにより、1・2場面と3場面の対比で は最高30もの対比を見付ける子がいた。

そして「たくさんのコスモスに囲ま れたゆみ子」を「命を大事にして元気に生きているゆみ子」「たくさんの喜びに 包まれているゆみ子」 などと関連づけることができた。

 

◆,当時の研究のまとめ

①「対にする発問」はそれ自体では機能しない。対にした後、 どうするか」によってその適否が決まる。

② 文章の細部にまで意識させるには、 2文比較が良い。 例 「食べました」と「食べてしまいました」

③「同じ対比」 を検討させる発問には、 対比をより多く列挙させる機能と、 対比を類型化する機能とがある。

④ 「1番大切な対比」を選ぶ時には、 比較しながら (まとめる) という思考が 働く。

したがって対比をまとめる (抽象化)することが容易になる。

⑤ 「対比の効果を考える」ことを直接ねらった実践も、表現技法を学ぶ上で必要である。

⑥「対比」という用語を用いることは、発問のゆれ(言い換え)がなくなる。 他の作品の学習にも使える、 という利点がある。

⑦ 今後は、次のような広い視野で研究を深めていきたい。

ア,文章構成・段落構成の解読手段として、説明文教材にも適用する

イ,対義語・類義語など 「言語事項」の指導との関連を考える。

ウ, 「比較」 「類推」 などの基本的な思考方法を、 他の教科にも適用する。

※詳細な子供の意見は見つかっていません。研究論文の骨子だけ残っていました。

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対比は奥が深い (6)

「理解」の活動には、① 確かな読み(解読);② 豊かな読み(解釈)の2つの方向がある。

私は、「解読」 (確かな読み) から 「解釈」 (豊かな読み)へ迫る読解指導の手立ての研究について意識し、以下の理由から 「対比」に着目してみたいと考えてきた。

①「分析批評」等の授業実践の中で 「対比」 が有効だった事例がいくつか挙げられている。

②その一方、「対比」という言葉は、 国語科として明確に位置づいていない。逆にいうと、さまざまな意味で用いられている。(そのことを①〜⑤で示してきた)。

③私自身が「対比」を意識した実践の中でその有効性を感じることができた。その経験則としての有効性を理論的に整理し、掘り下げてみたい(1)先行研究、手元にある『国語科重要用語300 の基礎知識』 『文学教育基本用語辞典』には「対比」の項目はない。「分析批評」関連の書籍でも「対比」を分析用語に入れていないものも多い。

しかし、「対比」の考え方は、 「分析批評」の実践とは関係なくても、教材分析の段階で広く使われ、 構造図や、 矢印によって示されることが多い。

西郷竹彦氏は「対比」を「反復」 とともに強調の方法として小・中学校の段階 でしっか身につけさせたいと述べている (『文芸の授業 理論と方法』)。

深川明子氏は「対比」 を 「重要な分析の技法の1つ」 であるとともに「イメージ形成においてもきわめて有効である」と述べている(『イメージを育てる読み 』1987年初版)。深川氏は同書の中で 「対比の授業は今後もっときめ細かく研究が 積み重ねられる必要がある」と指摘してから30年以上が経つ。その後の「対比」の研究はどうであろうか。

 

(2);用語整理・ 概念規定一般的な「対比」の意味は、①比べること②比べて違いをはっきりさせることである。さらに心理学用語としては 、「違った性質(または量)のものを並べると、 その差異が著しくなる現象」の意味として用いられる。;読解指導で用いられる場合の 「対比」は、むしろ「比較」に近い。比較すれば相違点が出たり、類似点が出たりする。 どちらの読みとりも大切である。そこで、次のように整理してみた。

① - 1 比べることで違いをはっきり読みとる。(解読)

①-2 比べることで似ている点をはっきり読みとる。(解読)

②「対比」によって強調されるイメージや主題をつかむ(解釈)

③「対比」という効果的な表現技法を学ぶ。(表現効果)

 

(3)発問への具体化「対比」 には、対にする (対を見つける) 活動と、 二つを比べる(意味を考える)という活動がある。

これを発問の形で具体化してみる。

①対にする※Aと対比 される言葉はどれか。※対比される言葉はどれとどれか。

②~1  二つを比べる※AとBの違いはどこか。;※AとBの似ている点はどこか。

②~2 二つを比べ、対比の基準を問う。※AとBは、どんな点で対比されているのか。

※A-Bと同じ意味の対比はどれか。

②-3 二つを比べ、対比をまとめる

※ これらの対比をまとめると、 何と何と言えるか。

※この対比は何を表しているか。

※1番大切な対比はどれか。

②-4 二つを比べ、対比の効果を考える

※このような表現には、どんな効果があるか。

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対比は奥が深い(5) ~解釈の違い~

変化としての対比をまとめてみると、結末が真逆にとらえられることがある。

「ひとつの花」の場合

AだけどB「戦後、父親はいないけど、暮らしが豊かになってよかったね」と言えるのか

BだけどA「戦後、家族の暮らしはよくなったけど、父親がいないから悲しいね」なのか

受け止め方が真逆になる。

 

「ごんぎつね」の場合

AだけどB「ごんは撃たれてしまったけど、兵十につぐないの主だと伝わってよかったね」なのか

BだけどA「ごんがつぐないの主だと伝わったけど、兵十に撃たれてしまって悲しいね」なのか

受け止め方が真逆になる。

真逆な解釈が成り立つから討論にもつながっていく。

対比をつくった後、「対比の意味の解釈」にエネルギーを注ぎ、討論につなげないと思考が活性化しない。

ちなみに論理の世界では、順序は無関係なので、A&Bと、B&Aは同じになる(だから交換法則が成り立つ)。

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対比は奥が深い④ 変化

作品の対比構造(変化)を整理すると、主題が明らかになる。

(1)「ごんぎつね」の変化

◆『ごんぎつね』の作品の中ではじめと終わりでどんな変化があったか「○○から○○」のような対比を考えさない。

◆『ごんぎつね』の作品の中で重要な対比(変化)を考えさない。

たとえば

①いたずら好きだったごんが、兵十に同情して、つぐないをするようになった。だから「いたずら」から「つぐない」へとごんが成長したという変化がある。

②ごんが兵十に撃たれた直後にごんがつぐないに来たことが分かった。だから、すれちがってしまったけど、最後の最後に心が通じ合ったという変化がある。

のような流れがあって

①「いたずら」と「つぐない」②「すれちがい」と「通じ合い」という意見が出る。

 

(2)「一つの花」の対比

◆「『一つの花』の作品の変化(対比)を考えさない」と問うと、「戦争中/戦後」、「ほしがるゆみ子/与えるゆみ子」、「貧しい/豊か」、「戦争/平和」、「おにぎり/コスモス」といった対比が出る(できれば単語の並列だけでなく、きちんと文章表現させたい。これも「再話」か)。

これらを、大きな対比で括ってみると、「戦時中の貧しさ」と「戦後の豊かさ」あたりが出る。

「戦争中は貧しくておにぎりも十分にもらえなかったゆみ子が、戦争が終わったら豊かな食事を楽しんでいる」対比は強調のレトリックだから、戦争中が悲惨であればあるほど、戦後の豊かさが浮かび上がってくる。

 

(3)「海の命」の対比

「太一の成長」という変化で考えてみると、たとえば次のような対比ができる。

①「父のような漁師になりたい太一」から「与吉じいさのような漁師になりたい太一」への成長

②「魚をたくさん捕る漁師」から「ほどほどの量で満足できる漁師」への成長

③クエを獲って復讐したい太一から、クエを逃がして「海の命」を守りたい太一への成長

 

(4)「やまなし」の対比

2枚の幻燈だから「五月/十二月」で分けられることは、すぐに分かる。

変化と言えば変化だが、最初から「2枚の幻燈」ではある。

①「五月/十二月」  ②「かばの花/やまなし」③「かわせみ/やまなし」 ④「こわい/いいにおい」

そして、大きな対比で括ってみると、たとえば

◆「五月は激しい動きの世界で死が訪れる」と「十二月は静かな中で新たな命が生まれる」のようになる。

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対比は奥が深い③ 情報処理能力

「学習指導要領(国語)」の情報の扱い方に関する事項情報と情報との関係の1・2学年の項目が次のようになっている。

ア 共通,相違,事柄の順序など情報と情報との関係について理解すること。

その内容についても具体的な記載がある。これらは、ズバリ「対比」の思考とも言える。

「対比思考」は情報処理能力なのだということがよく分かる。

指導にあたっては、〔思考力,判断力,表現力等〕の「C読むこと」の⑴の「構造と内容の把握」に関する指導事項と関連させよと書いてある。

ア 共通,相違,事柄の順序など情報と情報との関係について理解すること。

共通,相違,事柄の順序などに重点を置いて情報と情報との関係を理解することを示している。

相手の考えを理解したり自分の思いや考えを表現したりするためには,話や文章の中に含まれている情報と情報とがどのように結び付いているかを捉えたり,整理したりすることが必要となる。

共通する関係を理解するとは,事柄同士の中から同じ点を見いだしたり,そのことによって共通であることを認識したりすることである。例えば,一見異なるように見えるもの同士にも見方によっては共通する部分が見いだせることを理解したり,似ているもの同士のどことどこが似ているのかを明らかにしたりすることなどが考えられる。

相違する関係を理解するとは,事柄同士の様子や特徴などについて違う点を見いだしたり,そのことによって相違していることを認識したりすることである。例えば,一見似たように見えるもの同士にも見方によっては異なる部分を見いだせることを理解したり,異なるもの同士のどこが異なっているのかを明らかにしたりすることなどが考えられる。

事柄の順序の関係を理解するとは,複数の事柄などが一定の観点に基づいて順序付けられていることを認識することである。例えば,時間,作業手順,重要度,優先度などの観点に基づいた順序が考えられる。

・・・「事柄の順序」は「変化」のことだと理解できる。「変化」については、あとで書きます。

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対比は奥が深い②

平成25年の学力調査Aで、対比を扱った問題があった。( )内は選択問題である。

◆とっぷりと後ろ暮れゐし焚火かな 松本たかし

〇 日がすっかりしずんで周りが暗くなっている様子が目にうかぶね。

〇 そうね。そのことが「とっぷりと」という言葉に表れているね。ここでは、焚火とその周りの景色とを、(対比して・分類して) いるように思うわ。

〇 そう考えてみると、焚火の周りの景色によって、(焚火の明るさ・夜の暗やみ)がいっそう強調されて、その様子がはっきりと想像されるね。

文科省が「対比」という用語を選択させている。

ここで使われている「対比」は強調をもたらす表現方法の工夫だ。

最後の選択は少し意地悪だが、切れ字の「かな」があって「焚火」が強調されている俳句なので、対比によって強調されるのも「焚火の明るさ」である。

このような作品分析が展開される授業をしていないと、答えが導けない。(記号選択問題だから、分からなくても何とかなるが)。

しかも、6年4月の調査である。

6年生になるまでに、「この俳句は、○○と△△とを対比している」という言い方が教室で飛び交うことが前提になっている調査問題だ。

5年までに、「対比」の用語を使って子供が自分の解釈を展開すする学級が、どれほどあるだろうか。

TOSSの国語の授業が、文科省の求める本流の授業なのだということが、よーく分かる。

「対比」は、比較する作業であり、比較によって得られる強調効果である。

何と何が対比されているか対比によって何が強調されているか。

この「何」の部分が、文中の言葉である場合と、文中にない言葉の場合がある。

文中の言葉を根拠にして、文中にない言葉を引き出すのが「対比」とも言える。文中にない言葉を引き出す際に必要なのが「抽象化の力」と「語彙力」だ。

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対比は奥が深い(1)

樋口裕一氏は、論理的思考の条件の1つとして「二項対立思考」を勧めている。

以下、『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』(集英社新書)より引用。

◆このようにフランス人は様々なことを、対にして考える。そして、顕在的な面、プラス面、肯定面、現象として現れている面を思い浮かべると、必ず、潜在的な面、マイナス面、否定面、現象として現れていない面を想定すると言えるのではないか。(P18)

◆フランス人は何かを考えるとき、連続的に考えるのではなく、二項対立として、そして顕在・潜在として分けて考える。それは日常生活の中まで浸透しているのではないか。日常の様々な出来事の背後に、二項対立があるのだ。顕在があると、潜在を想定する。イエスがあるとノ―、真実があると偽りがあるいうように考える。現象の背後に、そのような二項対立を想定する。だから、論理的、分析的に考える。(P19)

◆言うまでもなく、論理的で科学的思考の基本は、主体と客体、すなわち観察する自分と対象とを明確に分けることだ。そうすることによって、人間は対象を自分から引き離して客観的に観察できるようになった。しかも、対象がある要素をもっているかいないかという二項対立を明確にすることによって、物事と物事の差異をきちんと認識するようになった。たとえば、猿と人間の違いを、様々な項目に分けて、ある要素をもっているかどうかを判断する。そうすることによって猿と人間の違いを体系的に捉えることができる。(中略)そもそも、物事を二つにきっぱり分けて考えることにおって、分析ができる。ある要素が存在するか存在しないか、真であるか偽であるか、好ましいか好ましくないかを明確にすることによって、現象を分析できる。「分析」とは、「ある物事を分解して、それを成立させている成分・要素・側面を明らかにすること」(広辞苑)は要素を分けて思考することを前提にしている。そればかりではない。顕在・潜在、イエス・ノ―を対置することによって、物事を一方的に見ないようになる。ある見方あれば、別の見方がある、賛成意見があれば、反対意見がある、あることを好む人間がいれば、好まない人間もいうことが明確になる。そして、ある意見を考える考えると、別の意見の存在を前提つぃ、それを考慮するようになる。こうして、様々な二項対立によって、人間は分析し、厳密に思考し、自分の意見をもてるようになり、また多様な意見を考えるようになったのだ(P20/21)

◆ある現象を見たら、それがどのような二項対立に基づいているのか、その二項対立の中のどのような点に位置するのかを考えることによって、その現象の意味を分析することができる。(P58)

 

・・・元々「『分かる』は『分ける』」だ。そして、2つに分けるというのは、「分かる」ための基本中の基本作業だ。

賛成側と反対側、メリットとデメリットの両面から考える複眼的な思考も、ベースは「二項対立」だ。

選択的な発問を用いてAかBかで討論に導く場合が多いが、これも二項対立で、逆の立場も思考を及ばせる為の手段だ。

作品分析における「対比」は、「二項対立」と同義だ。

これまで、国語の中で「対比」について扱ってきた。

「ひとつの花」は、①ひとつだけしかないもの(不足しているもの)と、たくさんあるもの(手に入るもの)②悲惨な戦時中と、平和な戦後

「ごんぎつね」は、①ごんの「いたずら」と、「つぐない」②加害者の「ごん」と、被害者の「兵十」③「通じ合い」と、「すれちがい」

「海のいのち」は①父親の生き方と、与吉じいさの生き方②「殺す」と、「生かす」③「弱肉強食」と、「共生」などが、ぱっと浮かぶ(ほかにも対比があってよい)

しかし、分析批評の重要なものさしである「対比」は、国語の作品分析方法にとどまらず、もっと広い「思考法」として重要であることを、この「二項対立」の解説は裏付けている。

私は「二項対立」の有用性を読みながら、「対比思考」の有用性を考えている。

※石原千秋氏は、「二項対立・二元論」について次のように述べている。「二項対立は思考の基本である」と言う。

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たとえば、「自己」ということについて考えるとしよう。そのとき、まずしなければならないのは、「自己」とは反対の概念を思い浮かべることである。それは「他者」だ。すると、「自己」という概念は、この「他者」という概念との関係の中で考えればいいことになる。こういう方法を、二項対立とか二元論と呼ぶ。「近代」を問い直す文章自体が、二項対立のレトリックを用いずには成立しないのだ。〈前近代/近代〉とか〈近代/現代(あるいはポストモダン〉といった二項対立はよく見かけるレトリックだ。独善的にならずに、関係の中でものを考えようとするなら、どこかで二項対立を用いるしかないのである。その意味で、二項対立は思考の基本である。

『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)P14~16

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小1「くじらぐも」

小学校一年の国語で、本格的に内容読解に入るのは、下の教科書(光村)の『くじらぐも』でしょうか。

かぎカッコで示したセリフの主体を押さえるという学習活動の目標もあり、誰のセリフかを踏まえながら音読することが授業の中心になります。

「くじらぐも」のストーリー前半は、子ども達とクジラとのやり取りが面白いです。何度も『くじらぐも』を読んでいて、文法的に注目したいと思ったのが「も」です。音読練習に慣れてきたら、文の途中で次の箇所を交代読みさせ「も」を意識させたいところです。

子どもたちがたいそうをしていると、(中略)くじらも、たいそうをはじめました。

みんながかけあしでうんどうじょうをまわると、くものくじらも、空をまわりました。

せんせいがふえをふいて、とまれのあいずをすると、くじらもとまりました。

「まわれ、みぎ。」せんせいがごうれいをかけると、くじらも空でまわれみぎをしました。

・・・先生が~する。くじらも~する。みんなが~する。くじらも~する。

この繰り返しが「まねっこ」でおもしろいです。

ここで、次のセリフがあります。セリフの主は「子どもたちの中の一人」ですね。

「あのくじらは、きっと がっこうがすきなんだね。」

・・・なぜ、そう思ったのでしょう。

「だって」を使って続きを言わせる活動が想定できます。

「あのくじらは、きっと がっこうがすきなんだね。だって、ぼくたちといっしょに体育の授業を受けているよ」

そして、行動のやりとりに続いて、今度は会話のやりとりが繰り返されます。

 

みんなは大きなこえで「おうい。」とよびました。「おうい」と、くじらもこたえました。

「ここへおいでよう。」みんながさそうと「ここへおいでよう」と、くじらもさそいました。

 

同じ言葉の繰り返しですが、両者の「ここ」は意味が違います。

みんながさそった「ここ」はどこ?・・・運動場

くじらがさそった「ここ」はどこ?・・・答えが次の行に書いてあります。「よしきた。くものくじらにとびのろう」だから「くものくじら」です。

こうして、子どもたちは、くじらにとびのろうとはりきります。(チャレンジ1)

 

「天まで とどけ、一、二、三。」やっと三十センチぐらいです。

「もっとたかく。もっとたかく。」と、くじらがおうえんしました。(チャレンジ2)

「天まで とどけ、一、二、三。」こんどは、五十センチぐらい。

「もっとたかく。もっとたかく。」と、くじらがおうえんしました。

・・・そして「三度目の正直」のパターンです。

「天まで とどけ、一、二、三。」そのときです。いきなり、かぜが、みんなを空へふきとばしました。

ファンタジーにおける「別世界の入り口」を感じさせる表現です。

もちろん、くじらが人間のように体操する時点で、ファンタジーは始めっています。

最後は、ジャングルジムの上に子どもたちをおろしているので、これといった出口はありません。

無理にファンタジーの入り口・出口の作品構造で読まない方がよいかもしれません。

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October 29, 2022

男が好きで仕方ないものは?

◆男が好きで仕方ないものに「正解」があります。小さい頃、算数が得意だった友人たちは一様に「算数は、答えが一つにぴしっと決まるから好き。その点、国語は正解が曖昧だから嫌い。」と言っていたものです。この傾向は多くの男性に共通するものでしょう。学校のテストに限らず、いろいろな答えがある状態が不安で、唯一の正解が決まっていることを好むわけです。

◆またその延長で男は「法則」も大好きです。ある事象から法則を導き、一般化して納得したい彼らは「 A は B」 という事実をそのまま受け入れるのではなく、「A はいつでも必ず B だ」と法則化したい。「 A は B だったり C だったりするし、時にはDになることもある」というケース・バイ・ケースの状態は彼らを著しく混乱させるのです。

◆一方、女は一つ一つ臨機応変に対応するのが苦になりません。法則やルールに縛られず、気の向くままに発言・行動するので、そのたびに多くの男はうろたえることになります。そういう意味では、自然科学の研究などはまさに男の領域かもしれません。

◆現代のビジネス社会で求められるのは、そうした研究的な姿勢だけではありません。日々の仕事には「唯一の正解」や「絶対法則」などないのが当たり前ですし。時として前例に縛られないゼロベースの発想が求められます。

◆男が得意とする愚直な努力と、女が得意とする自由な発想、そのバランスこそが、かつてないほどの成功には欠かせないということでしょう。

ちょっと古い『日経アソシエ』2014年12月号に「男と女の言い分(イーブン)な関係」というコラムがあった。

筆者は五百田達成氏(いおたたつなり氏)。但し書きには、次のようにある。

※世の中には「男」と「女」の2タイプがいます。ここで言う「男」とは男性ではなく、男性っぽい感覚・考え方を持つすべての人。「女」はその逆。

 

「男」「女」という言い切りを理解して読むと、納得できる点も多い。

「女っていうのは~」「最近の若い奴は~」と十把一絡げにまとめて語るのも、ルーツやマニュアルを作って管理したがるのも、男に多い傾向だとある。

 大きく分けると「理屈か感性か」ということかもしれないが、小学校の教職員の半数以上は女性だから、男性的なルール・マニュアル・理屈志向だけでは、うまく機能しないことがよく分かる。

「分析批評」は、男性が推進した。正解や法則性を志向するからだ。

しかし、椿原先生の提唱する「図読法」は、女性の反響が多いと言う。

この違いは何か。これからの教育文化を創造する上で、見逃せないポイントだ。

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4年生で学ぶ「対比」

4年光村の教科書に、今は「対比」という用語が出てくる。

情報に関する巻頭ページを含めると、4年は「対比」のオンパレードだ。

(1)情報の整理に関する記載。(分ける・くらべる)

◆なかま分けをすると、たくさんの物事や考えを整理することができるよ。

◆くらべると、考えの何が同じで、何が違うかが整理できるよ。

・・・情報に関わる「分ける・くらべる」は、「対比」の思考そのものだ。

(2)説明文教材の「思いやりのデザイン」の解説

この説明文は、相手を思いやるデザインとそうでないデザインとを並べることで、思いやるデザインの良さを際立たせようとしている。それを「対比」の解説例としている。対比  二つのものを比べて、ちがいをはっきりさせること。対比して説明することで、それぞれのにているところや、長所や短所が分かりやすくなる。

(3)説明文教材の「アップとルーズ」 

アップの長所短所、ルーズの長所短所を順に並べている。まさに対比構造の典型の説明文だ。これを読むためのトレーニング教材が(2)の「思いやりのデザイン」という組み立てになっている。

(4)文学教材「一つの花」

ここでは、「場面を比べて感想を持とう」とのめあてが示されている。要するに戦争中と戦後を比べて感想を書きましょう、作品の対比構造を読み取りましょうということだ。

;・・・「対比」は、説明文、物語文のいずれも「情報の取り出し、情報の整理」に役に立つ。もちろん、理解領域だけのツールではない。観点ごとに整理し、まとめる表現領域においても対比が有効であることを、(1)の情報の整理が示している。

※ただし、上述した情報の記述は、学習指導要領に当てはめると、低学年レベルである。

「学習指導要領(国語)」の情報の扱い方に関する事項、「情報と情報との関係」の1・2学年の項目が次のようになっている。

ア 共通,相違,事柄の順序など情報と情報との関係について理解すること。その内容についても具体的な記載があり、指導にあたっては、〔思考力,判断力,表現力等〕の「C読むこと」の⑴の「構造と内容の把握」に関する指導事項と関連させよと書いてある。

共通,相違,事柄の順序などに重点を置いて情報と情報との関係を理解することを示している。相手の考えを理解したり自分の思いや考えを表現したりするためには,話や文章の中に含まれている情報と情報とがどのように結び付いているかを捉えたり,整理したりすることが必要となる。共通する関係を理解するとは,事柄同士の中から同じ点を見いだしたり,そのことによって共通であることを認識したりすることである。例えば,一見異なるように見えるもの同士にも見方によっては共通する部分が見いだせることを理解したり,似ているもの同士のどことどこが似ているのかを明らかにしたりすることなどが考えられる。

相違する関係を理解するとは,事柄同士の様子や特徴などについて違う点を見いだしたり,そのことによって相違していることを認識したりすることである。例えば,一見似たように見えるもの同士にも見方によっては異なる部分を見いだせることを理解したり,異なるもの同士のどこが異なっているのかを明らかにしたりすることなどが考えられる。

・・・これらは、ズバリ「対比」の思考とも言える。

「対比思考」は情報処理能力なのだということがよく分かるが、学習指導要領では1・2年の指導内容なのだ。

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October 28, 2022

物語の三部構造と「変化」を読み取る

◆すらすら読めるようになって、始めー終わりー中だけの検討で十分ではないか。

というある先生の感想をいただいたのが、1995年の春。

(「始めー中ー終わり」の誤記ではありません)

3月の日本言語技術教育学会報告を送った後のことだ。

市毛先生の「ごんぎつね」の指導計画は次の流れになっていた。

1、このお話をすらすらと読めるようにしよう。

2、登場人物をすべてあげてみよう。

3、あらすじを5つにまとめよう。

4、ごんは初めは兵十に何をしましたか。

5、ごんは終わりに兵十に何をしましたか。

6、ごんが変わったのはどの場面ですか。

7、変わった理由はなんですか。(後略)

 

指導目標の③に次のように書いてある。

◆いたずらばかりしていたごんが、ひたすらつぐないを続ける、という作品の構造に気づく。

初めはどうだったか。終わりはどうなったか。なぜ、そう変化したのか。「中」で何が起きたのか。の順で検討している。

 

鶴田清司氏のレジメにあった「学習の手引き(案)」にも、次の箇所がある。

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四 小説や物語では、一般に中心人物の心(考え)が、はじめと終わりで大きく変化している。「蜜柑」では、「私」の心はどのように変化しただろうか。エピソード(事件)の前後を対比することによって考えよう。

五、「私」の心がそのように変化したのはなぜか。その理由を話し合ってみよう。(後略)

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・・・鶴田氏の提案も「始めー終わりー中」の検討であることが分かる。

結果として、「対比」「クライマックス」「人物の変化」「主題」などが含まれる。

石原千秋の『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)にも、同様の指摘がある。

<テキストは2度読め>

①「それからどうなるか」という問いに即してストーリー(時間的経過)を読む

②「なぜか」という問いに即してプロット(因果関係)を読む 

我々はふだん「このあとどうなるか」のストーリーだけにこだわって小説を読んだりドラマや映画を見たりする。

しかし、作品を読み味わうには②の「どうしてなんだろう」という問いかけも必要であるということだ。

日常的な読書体験は、①で終わってしまうことが多いが、授業で扱うなら。初読で①、精読で②を行うという手順になるだろうか。

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「分析批評」をきちんと世に伝えていきたい

難しいからやらない、時間がないからやらない、よく知らないという若い先生方も多いと思う。

フルスペックの分析批評でないにしろ、エッセンスを取りこむだけでも、授業の密度を上げられると思うのだが、今はどうなのだろうか。

教科書にも、それらしい用語が入ってきているのだが。

分析批評をよく知らない若い先生方に、すんなり受け入れられて反響が多いのが椿原先生の「図読法」だ。

ただ、せっかく椿原先生の「図読法」を学ばれるなら、もう一歩踏み込んで、向山型分析批評についてある程度の知識を身につけていただければと思う。

1995年3月に学習院大学で行われた第4回日本言語技術学会は「文学教材の授業でどんな言語技術を身に付けさせるか」がテーマだった。波多野里望先生、阿部昇先生、市毛先生、宇佐美先生、鶴田先生、井関先生、大内先生、渋谷先生、野口先生、藤岡先生、渋谷先生、江部・樋口両編集長、そして向山先生率いる法則化メンバー。

当然、分析批評も話題になった。いや「分析批評」の特集会と言えたか。

「読み研」の教材分析も分析批評によく似ていた。

井関先生もお見えだった。

ところが、自分自身、会が進む中で、疑問が湧いてきた。

◆教師の教材分析の過程を、そのまま子供にやらせることが「自力読み」か?

◆子供に身に付けさせたい言語技術は、教材分析技術と同じなのか?

 

鶴田清司氏は、教える価値のある「読みの技術」として、次の項目を提示した(一部略)。

a表現・・反復(類比)、対比、作型、イメージ語、色彩語、比喩、声喩、象徴、倒置法、誇張法・・

b構成・・題名、設定(時・場・人)、エピソード(事件)、全体構成(起承転結・クライマックス)、伏線など

C視点・・作者と話者、話者と人物、内の目と外の目、視点人物と対象人物、視覚の転換、一人称視点・三人称視点

d人物・・主役と対役、人物描写、心の変換てん、人物像の変化、呼称の変化

e文体・・語り口、作調、文末表現、余情表現、ユーモアなど・・・

 

野口芳宏先生が、「これでは、もう分析ではなく、分解だ」と評した。

自分の頭の中は大混乱だった。当時、サークル通信を出していて、学会報告を発信すると、ある先生から、このような感想をいただいた。

◆一時期、分析批評に凝りましたが、やめました。それは、なんのための分析なのかなと、疑問に感じたからです。始めー終わりー中の考え方、いいですね。すらすら読めるようになって、始めー終わりー中だけの検討で十分ではないかと私も思います。

・・・こういう疑問が払拭できていないのも当時の現状だった。最後に出てきた「始めー終わりー中の考え方」、これは「始めー中ー終わり」の間違いではない。次のブログで書きます。

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October 27, 2022

分析批評の「話者」の解説

「私」が語るのは、一人称視点の作品。

第三者が語るのは、三人称視点の作品。

(1)『大造じいさんとがん』は、大造じいさんの側に寄っているから「三人称限定視点」。

とはいうものの、教科書の作品冒頭には、次のような記述がある(光村の場合)。

◆「知り合いのかりゅうどにさそわれて、わたしはイノシシがりに出かけました。

◆わたしは、その折の話を土台として、この物語を書いてみました。

・・・「わたし」が出てくる。しかも、いかにも作者ご本人のような口ぶりだ。この「わたし」を作者と別だと説明するのも難しいし、「わたし」が出てくるこの前がたりの部分を無視して、作品は「三人称限定視点」だと説明するのも難しい。

 

(2)『ごんぎつね』は、ごんの側に寄っているから「三人称限定視点」。

とはいうものの、教科書の作品冒頭には、次のような記述がある。

◆これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いた話です。

・・・「わたし」が出てくる。しかも、いかにも作者ご本人のような口ぶりだ。

この「わたし」を作者と別だと説明するのも難しいし、「わたし」が出てくるこの前がたりの部分を無視して、作品は「三人称限定視点」だと説明するのも難しい。

 

(3)『やまなし』は、かにの親子の側に寄っているから「三人称限定視点」。

とはいうものの、教科書の作品の最後には、次のような記述がある。

◆私の幻灯は、これでおしまいであります。

・・・「私」が出てくる。しかも、いかにも作者ご本人のような口ぶりだ

。この「わたし」を作者と別だと説明するのも難しいし、「わたし」が出てくるラストを無視して、作品は「三人称限定視点」だと説明するのも難しい。

・・・どれもポピュラーな作品だが、イレギュラーな部分があるので、ちょっと使いづらいのだ。

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分析批評は、作品に対して自分の意見を言うための分析の技術である。

数年前の学力調査(中学校国語)では、文章の内容を捉えた上で、自分の考えの根拠となる具体的な表現を明確にすることに課題が見られたという。

『吾輩は猫である』において、「吾輩」が「黒」をどのように評価し、どのような接し方をしているかや、そのような接し方をどう思うかを書く問題の正答率が、 20.8%にとどまったのだ。

確かに記述式だったから、解答に困った生徒が多かったことは予想される。だが、形式さえ整っていればいいので、正解の範囲はかなり広かったと思う。叙述に基づいて自分の考えをもつことの大切さは小学校からずっと教えられているはずだ。

しかし、意見と根拠の区別すら学習技能として定着していないのだろうか。

文学的文章において、思い付きの意見を排して叙述を根拠に共通の物差しで意見の交流を図ろうというのが、向山洋一氏の提唱した「分析批評」の授業だ。

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分析批評は、作品に対して自分の意見を言うための分析の技術である。思いつきをいうだけの印象批評や、作者の履歴から考える伝記批評などと異なる。分析批評では、表現を分析し、言葉を分析するのであるから、「分析の技術」を持つことになる。例えば「視点」とか「イメージ」とかである。これは「共通の認識のものさし」である。分析批評用語とも言える。分析批評の授業では、作品が何を主張しているのかを、言葉を根拠に自分が理解し、批評するかつことが行われる。

  「『分析批評』で国語授業を知的にする」(『国語教育』臨時増刊1997年9月号)7ページ

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文学的文章において、明確な根拠(根拠)を示せず、自分の主張もできないのが今の子供達の現状なら、全国的に「向山型分析批評」の授業を定着させるべきだ。

「分析批評って?」と言う若い先生がいるなら、そこを支援するのが昭和教師の務めだろう。

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「モチーフ」という分析用語

モチーフ=中心題材は、作品全体で繰り返されているコトや思いだとされている。

作品全体から共通項を抽出する場合、主役が何かをずっと追い求めている作品は、うまく当てはまる。

例えば『走れメロス』における「信頼」だ。

しかし、それだと、「いたずらから償い」「臆病から勇気」というように作品の中で主役が変化(成長)した作品の場合、共通項をどう決めればいいのか困ってしまう。

「ごんぎつね」の場合は、「いたずら・償い」から「交流」のような共通項を見出せる。

だが、「モチモチの木」の場合は、「臆病・勇気」から共通項を見出すのは難しい。主題を「成長」とすれば収まりはつくのだが、それだと、多くの物語が「成長譚」で片付けられてしまう。

これまで、AからBへの成長譚の場合、主題は「成長」か「B」がモチーフになると捉えてきたが、どこかスッキリしなかった。

しかし、最近は「AからB」そのものをモチーフにすればいいんじゃないかと思うようになった。

全ての場面から共通項を取り出すのが難しい作品の場合は、AからBへの変化を取り出せば、「AからB」そのものがモチーフになる。

そのような記述を発見したわけでもないし、誰の承諾も得ていないが、これでよしと捉えたら、ストンと腑に落ちた。

自分で納得した指導でないと、どこかで行き詰まる。「AからB」もモチーフとしてありかどうかは、今後、いくつかに作品に当てはめて検証していこう。

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October 26, 2022

「狂言回し」という文芸用語

① 「狂言回し」清水義範氏の『発言者たち』(文春文庫)の後半、主人公の番匠が次のようにつぶやく場面がある。

◆ 番匠が小説を書いてみようと思いたったのは、あるテーマを発見したからである。人は皆、なぜこんなに夢中になって自分の発言をしたがるのだろう、というテーマ。巷には無数の有名人ではない発言者がいて、様々な手段で思いのたけを吐き出している。手紙を書いたり、小冊子を発行したり、投書したり、電話をかけたり、スピーチをしたり。あらゆる機会をつかまえて人々は、我こそは、という内容の発言をしている。そういう発言をするのが好きである。それは一体どうしてなのだ、というのが番匠の小説のテーマである。主人公は、そのテーマを追っていくための狂言回しである。

・・・「主人公はテーマを追っていくための狂言回し」というのは分かりやすい表現だ。

ふだん、なかなかお目にかからない言葉だが、そういう見方で分析できる作品もきっとある。

ちなみに辞書(新明解)で引いてみると確かにある。

◆(歌舞伎などで)登場人物のうち、場面でのしぐさなり台詞(セリフ)なりが、その後の筋をスムース(ドラマチック)に展開するのに役立つ大事な働きをしている役。志を得ない主人公に対する、なんらかの意味での世話役など。

・・・主役・対役以外の3番手以降の人物が「物語の進行役」の気もするが、先の清水氏の文章では、主人公自身が狂言回しになっている。

ドラマではゲスト出演する犯人に対して、レギュラーの刑事が「狂言回し」となる場合もあるようだ。

さて、「狂言回し」に該当する人物として誰か思い浮かぶだろうか?

『注文の多い料理店』の2人の紳士はどうだろう。道に迷って作品の舞台である料理店に迷い込む。最後に痛い目に遭うから、回す役・進行役とはちょっと違うかな。

『美女と野獣』の娘の父親はどうだろう。父が野獣の屋敷に迷い込んでしまったため、その身代わりとして娘が屋敷に軟禁される。それが娘と野獣との出会いである。ということは、「娘の父」が「狂言回し」ということになるだろうか。

こんな風に、いろんな作品に当てはめてみるのも、読書の楽しさの一つだ。(若いころのサークル通信を改変してみました)。

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物語のまとめのフォーマット

ずいぶん古い実践になるが、中学校の国語の担当をしていたとき、授業のパターン化を目指していた。

授業でやったこと、つまり、ノートに書きためたことをもとに、以下のフォーマットでまとめを書かせた。

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 今回読んだのは「〇〇」という作品です。

1、読む前には、次のような内容かなと思っていました。

2、この本を読んで、最初に強く思ったのは、・・・ということです。

3、本の内容を簡単に紹介すると、次のようになります。

 (最後にはどうなった話かが分かるように書きましょう)

4、わたしは、この本を読んで、いろんなことを考えました。

     まず 次に さらに

5、この作品は・・・・というメッセージを伝えようとしています。 そう思った理由は・・・からです。

6、この本を読んでわたしは・・ということを学びました。

7、わたしは、これを機会に・・と思っています。

8、書き足りないことがあればどうぞ。

=======================​

授業の流れを安定させたいという思いはあった。

しかし、「楽しさ・知的興奮」があったかというと、それは欠けている。

そこが自分の足りないところであった。

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具体と抽象・・・エピソードと教訓

「イソップ童話集」は、「イソップ寓話集」です。岩波文庫は「イソップ寓話集」と書いてあります。

イソップ寓話には、いろんなお話があります。

◆アリときりぎりす◆うさぎとカメ◆北風と太陽◆おおかみ少

聞き慣れない言葉ですが、「寓話」とは、お話を通して教訓を伝える作品、「寓喩」を使ったお話のことです。

お話そのものが、ある教訓を伝えるための「比喩」 になっているという意味です。

「寓喩」世界大百科事典内の寓喩の言及【アレゴリー】より

すなわち,ある事物を,直接的に表現するのではなく,他の事物によって暗示的に表現する方法の意であるが,この表現方法によって創作された文学作品あるいは造形芸術作品を一般にアレゴリーと称する。寓意,寓喩,風喩ともいう。

アレゴリーとは、抽象的なことがらを具体化する表現の一つで、おもに絵画、詩文などの表現芸術の分野で駆使される。

意味としては比喩(ひゆ)に近いが日本語では寓意、もしくは寓意像と訳される。詩歌においては「諷喩」とほぼ同等の意味を持つ。

また、イソップ寓話に代表される置き換えられた象徴である。(Weblio より)

用語の定義にこだわると深みにはまるので、飛ばします。

宗教の説法などにも「例え話」がたくさんあります。

http://j-soken.jp/category/ask/ask_7/ask_7_6

・・・「○○の心がけを大事にせよ」と説かれてもピンとこないので、例え話や具体例をあげて、なるほど確かにそうだなと納得させるのが説法です。

話が上手な人は、例えがうまいのです。詐欺師も例え方がうまいのでまんまと騙されます。

兼好法師の「徒然草」も仁和寺の法師の段が「先達はあらまほしきことなり」で結んでいたりするように、「このような失敗談から我々は〇〇を学ばねばならない」と説かれた話が多いです。

道徳の授業も、事例を通して「徳目(指導内容)」を考えさせます。

「思いやりを大切にしよう」と唱和させるだけの授業は「道徳」とは言いません。

「正直が大事だね、思いやりが大事だね早合点はダメだね」

・・・イソップ寓話や日本昔話の読み方に慣れていれば、いろんなお話には、その奥に言いたいことや学べることが隠されているのだと十分理解できます(もちろんそのような奥のないお話もたくさんあります)。

 

◆よかったね、どうしてこんないい結末になったのかな?

◆あらあら残念な終わり方だったね、どうしてこんなひどい結末になったのかな?

を考えさせれば、それを「主題」と呼ぶか「教訓」と呼ぶか「自分なりの発見」と呼ぶかは別にして、作品から何かメッセージを読み取ることができます。

無理に教訓めいたものを読み取る必要もないし、教師が感じた教訓を押し付ける必要もありません。ただ、小さい頃から、「このお話から何を学べるか」という視点で本を読む習慣をつけておいて損はありません。

イソップ寓話の教訓は特定できますが、通常の物語作品の主題は1つとは限りません。

読者の人生経験なども関わってくるので、読者によって作品の受け止め方も違います。

一つの「正解」の周りには許容される解釈があり、それを鶴田清司氏は「周解」と呼びました。

そして、「周解」を超えて拡大解釈してしまうことを「曲解、誤解」と呼びました。

石原千秋氏は、学者が提唱する新たな解釈は、曲解に近いものが多いと言います。ありきたりの解釈では誰も注目しないからです。したがって、専門家である学者のトリッキーな曲解は解釈の域を逸脱しているかもしれないという冷静な判断は持っていたいです。

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October 23, 2022

「獲得可能性」と「類似性」

  2016年4月の「小三教育技術」にあった中野信子氏の連載。

「保護者に好印象を与え、信頼を得るためには」というタイトルで、「獲得可能性」と「類似性」というワードの解説をしていた。

①「獲得可能性」とは、相手が持っているものに対して、自分もそれらが得られるのではないかという可能性のこと。

「これくらいなら私にだってできそうだ」と相手に見下されてしまうこと。 

  こんなレベルでお前は教師をしているのかという「妬み」でもある。

 圧倒的なスキルや知見があれば、相手も立ち向かう気を失う。

しかし、相手にひとたび「大したことない先生だ」と思われてしまうと、信頼回復は困難だ。

 

②「類似性」は、性別・職種・趣味嗜好などが似通っていること。

    自分と同じくらいの人が、自分より優れたものを手に入れていると、より悔しい感情が生まれやすいそうで、これも「妬み」の根源だ。    保護者にマウントされる教師の2大要因であると言えるだろうか。

    論稿には、次のようにある。

==================

「獲得可能性」と「類似性」を遠ざけることができれば、保護者の「妬み」「嫉妬」の感情を「憧れ」に変えることもできます。

==================

 逆に言うと、相手にひとたび「この先生は大したことない」と思われてしまうと、信頼回復はかなり困難だ。

 これは保護者と教師の話題だが、部下と上司でも同じだ。子どもと担任でも同じことだ。「このレベルで上司なんて信じられない」と見下されてしまうと、どんな言葉も入らなくなる。

A「嫉妬」する気が失せるほどの実力差を見せる。

B「嫉妬」を「憧れ」に転換できるように、手を打つ。

と書いてみると、AよりBの方が困難であることがよく分かる。

 一度下がるから「信頼回復」のエネルギーが必要になる。

 信頼が下がらないように行動する方が、一度失った信頼を回復するために行動より容易なのだ。

 圧倒的なスキルや知見があれば、相手も立ち向かう気を失う。

 日々、相手が太刀打ちできないスキルや知見を高める努力を続けるしかない。

むろん、威張らず、驕らずだ。    謙虚さのない者は、憧れの対象にはならない

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問答無用? 〜Whether you like it or not〜

古い話だが、平成30年11月26日の「ラジオ英会話」の内容に感激した時の覚書がある。

◆Rika, I don’t like cleaning the classroom every day. It’s so boring.
 
 リカ、僕は毎日、教室を掃除するなんて嫌だよ。とてもつまらないし。

◆Whether you like it or not isn’t important.
 We have to do it. It’s part of being a student at this school.

 あなたがしたいかどうかなんて問題(重要)じゃないのよ。私たちはそれをしなければならない。それはこの学校の生徒であることの一部なんだから。

◆In the U.S., students don’t have to clean the classroom.
Professionals do it at night.
 アメリカでは、生徒は教室を掃除しなくてもいいんだ。専門の業者が夜やってくれるからね。

◆Well, that’s the American way, but we are in Japan.
This is the Japanese way.
 それはアメリカのやり方だけど、私たちは日本にいるのよ。これが日本のやり方なの。

Whether you like it or not あなたがそれを好きかどうかは
Japanese way 日本のやり方

https://fujiijuku.net/radio-english/2018-11-26-l156/

<op:b>「あなたが好きか嫌いかは問題ではない。」
「アメリカではどうかは関係ない」
「これが日本のやり方なんだから。」

・・・こうした言い切りができることは、すごく大事で、保護者も学級担任は、ビシッと言わないと統率が取れない。
いつでも「問答無用」では、不満を抱かせるが、ダメなものはダメ、決まりは決まりと毅然とした態度で対峙する力強はほしい。

以前は「ダメなものはダメ」と解釈した。
今は「分岐させる箇所が違うのだ」と解釈している。

◆「掃除がしたいかしたくないか」は、分岐にならない。
 分岐が必要なのは「あなたは本校の学生かどうか」である。
 そして、「本校の学生」であるならば順次処理で「掃除をする」しかない。「やる・やらない」の分岐はない。

 あるいは、分岐が必要なのは「ここはアメリカか、日本か」である。
 そして「ここが日本」であるならば順次処理で「掃除をする」しかない。「やる・やらない」の分岐はない。

分岐点を間違えてはいけない。
分岐点のすり替えにごまかされてはいけない。

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子供の意見を類型化する

討論のさまざまな意見を「類型化」することがある。
「類型化」そのものは決して目新しいワードではないが、意識していない教師も多い。

本来、指導案にある「予想される子供の反応」は類型化していくつか書かれるべきものだが、教師に類型化の自覚がないと、同じ意味なのに表現が異なるだけの意見が列挙してある。

子供の意見を板書するなら、類型化して書けばよいのに、その自覚がないと、同じような意見がずらりと並んでしまう。
発言した子供の意見を板書したりしなかったりすることに躊躇して、ほぼ同じ意見なのにずらずら全部板書してしまうケースを何度も見てきた。
発言順に板書すると、あっちのタイプだったりこっちのタイプだったりバラバラになる。
むろん、子供の意見をずらーっと板書した後で、ABCのようにタイプ分けさせる展開もあってよい。それは子供に類型化させる授業だから、それはすごく知的だ。

あるいは板書する位置を意図的に変えて、出された意見を類型化して示す授業もある。

道徳の授業で、ある人物の行動を見て心が動く主人公の心情を問うことがよくある。
この場合は類型化すると3つになる。

A 後悔「自分の行為への反省」・・過去の自分
B 感動「あの人はすごいな」・・・他者への憧れ
C 決意「これからは○○しよう」・・未来の自分

こうした3つの類型の自覚が教師にあれば、子供の発言を聞いてどのタイプが多いか、どのタイプが出ていないかで授業の組み立てを考えることができる。あるいは、あるタイプの意見が出るまで待つことができる。

いきあたりばったりの授業・思いつきの発問では、類型化できるはずがない。

類型化できるということは、正解が1つではないということだから、子供の多様な思考を促すこともできる。

気の利いた子が意見を言って、「はい、おしまい」とは違う授業が展開する。

あるいは、一見的はずれな意見の中にある、すぐれた発見を教師がうまく摘出する授業が展開する。

子供の意見を、どう予想し、どう類型化するか、授業づくりの基本として伝えていきたい。

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October 22, 2022

いじめとパワハラは、よく似ている。

支援を要する子をバカにしたり、挑発したりする雰囲気があると、教室が荒れてくる。

「あの子は差別しても良い」という雰囲気を生んではダメだ。ターゲットがどんどん増えていくからだ。
これは、先日知った「パワハラの6類型」と重なる。

①身体的攻撃
②精神的攻撃
③人間関係・・・無視する
④過大な要求・・雑用の処理を強制する
⑤過小な要求・・誰でもできることをさせる
⑥個の侵害・・・個人の情報を暴露する

パワハラも子どものいじめもよく似ている。

いじめは、子ども集団の中で立場や腕力のある者が起こすからだ。
このパワハラ6類型を見ながら、以前の特別支援教育のメモ書きを読み返すと、ストンと落ちることが多い。

 

◆当人が命令口調では、相手との間にトラブルを起こしやすい。
◆「命令で人が動く」は、誤学習。
◆どうしたらよいかは、みんなに聞くといい。自分1人で決めるとトラブルの元になる。
◆自分には敏感、他人には鈍感な子が増えている。

支援を要する子がいるから、周囲も配慮できる子に育つチャンスを得られる。

心からそう思える学級経営、学校経営でありたい。

 

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「道理」より「誠意」

熊本での学習会に参加した際、会場である大麻文化会館に「誠」の文字が展示されていた。

解説もあった。


大変困難な問題に遭遇したとき誠の心をもって解決に当たっときが一番強く勝利をすることができ 策略をもって勝利をしたとき勝つことはできても必ず後日には打ち返されて長い年月の間に負けることになる 大麻唯男訓
(大麻氏は玉名町出身の昭和の代議士である)

誠実に対応することの大切さを、今回の合宿で何度も何度も感じた。
やはり、相手の心を引きつける最後の決め手は、道理よりも誠意だ。

セミナーを開催すると、ついつい「戦略」を講じてしまうが、策略を立てていては、一度は人集めできても二度目はないぞと警告を受けたような思いだった。

価値ある教育活動をさらに進めたい

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「哲学を語れ」とは

「リーダーは哲学を語れ」と聞いたことがある。「哲学」という言葉を使われたが「ビジョンを語れ」とよく似ている。
この場合の「哲学」は「生き方」「信条」」といった意味合いだろうか。
学校だよりなど、さまざまな原稿を書く機会が多かったが、「○○がありました」と出来事を書くだけでは意味がないと言われた。

たしかに各校の学校新聞を読むと、名言の引用が多いが、引用個所をどう味付けするか、どう意義付けるかに、引用者の「哲学」が問われていると言ってよいだろう。

ちなみに、大人が思うほどスポーツネタは小学生にはマッチしない。

「哲学」と言われると恥ずかしいが、自分も原稿や朝会のあいさつでは、しっかり吟味して思いを伝えるようにしてきた。

普遍性のある話はいつでも言えるので、できるだけ鮮度のあるタイムリーな話題を織り交ぜることを意識してきた。

講師の先生はご自身の過去の校長だよりを紹介された。

「急施紛更をもって速効を求むべからず」

伊藤博文の言葉で、「教育は急いで結果を求めるな、水がしみこむようにじっくりと」と諫めた言葉だそうだ。
こういう言葉が引用できる「博学さ」もうらやましいと思った。


さて、自分自身の哲学について考えていて、反省すべき点が見つかった。

言葉が人の心を打つのは、経験や実践に裏打ちされた時だ。
いくら自分がイチローの言葉を引用しても、相手には響かない。しょせんは受け売りであって自分の血肉ではないからだ。

経験が足りない者の言葉は軽い。
修羅場が足りない者の言葉は説得力を欠く。

自ら成長する努力を課していない者が努力を語っても、それは薄っぺらだ。

経験を語るから、聞き手の脳裏にイメージが浮かぶ。
脳裏にイメージが浮かぶから、聞き手の心に沁みる。

「自分の哲学を語れ」は、単なる言葉の問題ではない。
借り物の熱い言葉を語れという意味ではない。
言葉の奥にある自分の生きてきた道、生き様が問われている。

「哲学を語れ」は、「懸命に生きよ」「背中で見せよ」なのだ。

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目をとじる

ある日めくりカレンダーの一言

◆怒った人は口を開いて目をとじる

現実を見ないまま、感情に任せて口を開くのが怒った人の姿か。
心したい言葉であり、今週の自分の行動を反省するにふさわしい言葉だ。

ちなみに、昨日は

◆人を動かすには真心をもって

自分の都合を押し付けても、人は動かない。
背中で示す教育をしていきたい。

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「百戦百笑」

かつて、校内作品展で6年生が書写作品を展示したとき、自分の好きな言葉を書かせていた。
「挑戦」「夢」「全国大会」などが並ぶ中、

「百戦百笑」

という言葉が目についた。

むろん、本来なら「連戦連勝」に近い意味で「百戦百勝」となるところだろう。

辞書にも「百戦百戦」はある。

しかし、ここで「百笑」。

勝っても負けても「笑って終わろう」といった意味だろうか。
当時、2学期の終業式で「NO SIDE」の話をしたが、そこに通じる奥の深い造語だと思った。

 

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October 21, 2022

やる気を奪う秘訣

(起)

今は、業務改善が話題になり、なんでもかんでも削減の対象になる。

(承)

モチベーションの本を何冊か読んでいた時に、印象に残るものがあった(記憶違いがあるかも)。
それなりの報酬を与えて、ある物を製作させる。製作したそばから、それを目の前で破壊する。これが何よりやる気を削ぐ。
つまり、その人に全く無意味な行動をさせると、いくら報酬があっても、やる気になれないと言うのだ。

(転)
この理屈で言うと、先生方にとって、一番辛いのは、準備した行事が中止になる事だ。

多少、負担が増えても、働いた意義を見出せる方が精神衛生上は望ましい。

それが「働きがい・やりがい」だ。

(結)

「負担」と「やり甲斐」は表裏一体だ。
 なんでもかんでも削ると、仕事は楽になるかもしれないが、何の魅力もなくなってしまう。
 「負担軽減」が、「やり甲斐の奪取」につながってしまっては意味がない。

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身体の「超回復」と、心の「トラウマ後成長」

大学時代に「超回復」という言葉を知った。
今はネットで検索するとたくさんヒットする。効果的なトレーニング・負荷と休養のバランスを知る重要なキーワードだ。

ブリタニカ国際大百科事典
◆運動前よりもエネルギーを増加させ大きな回復力を示す現象をいう。一般的に,運動することで筋肉のグリコーゲンは減るはずであるが,休養と栄養補給で逆にふえることがある。こうした反応を利用することで,ゲーム前にエネルギーを大量に貯蔵したり,筋肉を効率よく増強することができる

大辞林
◆強い運動後疲労がたまった筋肉が、休養により運動前より高い筋力を得ること。

「知恵蔵」の1行目のみ。
◆運動で消費された筋肉のグリコーゲン量が、休息と炭水化物補給によって運動前の貯蔵量を大幅に超えて回復を示すこと。

https://kotobank.jp/word/%E8%B6%85%E5%9B%9E%E5%BE%A9-163344

当時、理解した内容も、およそ、こんなところだ。

ただ、今になってネット辞書後半を読むと、ちょっと違うニュアンスが含まれている。
自分は陸上部に所属していたが、体育科ではなかったので、この部分の理解が不足していた。

デジタル大辞泉の解説
◆<op:b>強い負荷をかけることで傷つき衰えた筋肉細胞が休息によって回復し、さらに負荷を受ける前よりも筋力が強くなる現象</op:b>。過負荷から2~4日間が超回復の期間といわれ、その期間に過負荷運動を行い、次の回復を待つということを繰り返すことで筋力を合理的に増強できると考えられている。

他のサイトでは、もっとはっきり書いてある。

◆<op:b>トレーニングを行うと、筋繊維が破壊される。筋線維が破壊されると、人間の身体は、壊れた組織を修復しようとする</op:b>。この修復にかかるのが、一般的に24~48時間と言われている。筋線維が壊れてから修復するまでのプロセスを、超回復と呼ぶのだ。
https://moneytimes.jp/sense/detail/id=2827

・・・知っている人にとっては当然のことだ。

<op:b>トレーニングを行うと、筋繊維は破壊される。
我々は、筋トレと称して、筋繊維・筋肉細胞を傷つけている。
そして、その回復のメカニズムをうまく活用することで、傷ついた筋力を前よりを強くしている。
</op:b>
これが、身体的な回復と成長のメカニズム。

心理的なストレスやトラウマに対して、ポジテイブ心理学の研究では「トラウマ後成長=PTG」と呼ばれる現象があると指摘されている。

以下「トラウマ後成長と回復」ステーヴン・ジョゼフ著 筑摩選書より、
◆現実に研究結果が示しているのは、トラウマになりかねない出来事に直面した多くの人たちのが相応の回復力を持ち、ストレスに屈しないか、屈したとしても急速に回復でき、その後も比較的高レベルの機能を維持できるということだ。p19

◆こういった変化は「ベネフィット・ファインデイング」「逆境後の成長」「自己変革」「ストレスに伴う成長」「スライビング」など様々に表現されてきた。
なかでも、1990年代半ばに二人の臨床心理学者リチャード・テデスキとローレンス・カルホーンが考案した「トラウマ体験後の成長posttraumatic growth」という言葉はもっとも関心を呼び、現在では、トラウマがどのように幸福感を高める足がかりになるかを探求する新たな研究領域を示すものとして広く用いられている。P39

・・・筋トレと異なり、好きで不幸な状況に身を投じる人はいない。
それでも不幸が過ぎた後、それまでの自分より、どこかポジテイブな生き方ができるようになる人は一定数の割合でいるという(無論、苦難に打ちひしがれてしまう人もいる)。

「トラウマ体験後の成長=PTG」は、トラウマ体験前のレベルを超えるという点で、筋トレの「超回復」と同じなのだ(という解説は見られなかったが、自分はそう思っている)

 筋トレは筋肉を傷つけていると知った衝撃
 筋肉の超回復と、心のPTGが酷似していると知った衝撃

 だから勉強はやめられない。

PTG関連
①トラウマ後 成長と回復―心の傷を超えるための6つのステップ (筑摩選書)
②悲しみから人が成長するとき―PTG (風間書房)
③PTG 心的外傷後成長: トラウマを超えて (金子書房)近藤 卓

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October 18, 2022

世の中は往々にして、Right と Right の選択

よくある選択問題は、「正解・不正解を見極めて、正解を1つ選ぶ」。

しかし、問題の中には、「どの選択肢も内容としては正しいが、設問の条件に合うものを選ぶ」というパターンがある。

この場合イージーに「正しい答え」を選んではいけないわけだ。

楠木健氏の講演(「ストーリーとしての競争戦略」)のメモ書きが次のように残っている。

◆競争・・メダルは1つ

◆戦争・・一方が勝てば、一方は負ける

◆商売・・複数の勝者が存在する

Right と Wrong なら、Right を選ぶのは当たり前。

Right と Wrong なら、どちらかが「優先」になり、どちらかが「劣後」になる。

しかし、世の中は往々にして、Right と Right の選択。Right と Right の場合、どちらにも「一理」から簡単に決まらない。

「異なる理」のどちらをとるか、自分の判断が大事。

・・・文科省の提言する新しい価値観は、「最適解・正解がない・多様な解が存在する」と言われるから、まさに「Right と Right」 の選択が求められている。

大事なのは、「今の条件に照らした最適解はどれか」という観点を見失わない事なのだと思う。

楠木氏のメモ書きには「商売は複数の勝者が存在する」と書いたが、汎用的に言うと

「実社会は、複数の選択肢が存在する」

なのかなと思う。

※その時の楠木氏の講演内容は少し違うが、以下のような内容。

https://www.ashita-team.com/jinji-online/event-report/2988

改めて読むと、以下の部分もなるほどと思う。

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では、そもそも競争戦略とは何でしょうか。競争戦略とは実は非常に単純で、「競争相手との違いをつくる」ことです。競争戦略理論をつくったマイケル・ポーターは、「違い」には2通りあると論じました。ひとつは「Operational Effectiveness(OE)」。これはBetterという意味の違いです。つまり、AさんよりBさんの方が速く走れるのような、同じモノサシのなかで優劣を競い、違いを見出すやり方と言えるでしょう。

OEに対して、もうひとつの「違い」は、「Strategic Positioning(SP)」という戦略的位置取りです。これは「AとBは性質が異なる」というDifferentを生みだすやり方。

優劣を測るモノサシがない状態です。人にたとえるなら、男女の違い。優劣や勝ち負けで語るものではなく、違いが違いとしてあるだけですよね。

さて、今ご説明した「違いの違い」ですが、なぜ違いを区別することが大切なのでしょうか。それは、先ほどご説明した競争戦略において重要な「競争相手との違いをつくる」とは、Differentだからです。Betterかどうかは二の次。他社よりもBetterであったとしても、それは必ずしも戦略ではありません。つまり、足が速いことも大切ですが、それ以前に他の人と違うゴールに向かって走るようなDifferentの方がもっと重要なのです。

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道徳の授業は、そこから始まるのに・・。

1年生の道徳の授業を参観したことがある。。

最後に家族に感謝のお手紙を書かせる授業だった。

しかし、「別にママに何もしてもらっていない」という子がいて、戸惑ってしまったと授業者は反省していた。

「いやいや、そこからが授業じゃないか」

「別に感謝されるようなことはされていない」と子どもが思っているからこそ、授業の意味がある。

子どもは、狭い世界を生きているから知らないこと・気づいていないことが多い。

だから、見えていない世界・気づいていない世界を示して、視野を広げるのが授業の役目だ。

◆みんなが寝ている間、お母さんは何をしていると思う?

◆みんなが学校に行っている間、お母さんは何をしていると思う?

とみんなが見えていない時間の行動を想像させてもいい。

◆朝起きたら朝ごはんが出てきた。これは誰が準備したの?

◆みんな洋服を来て登校します。これは誰が洗濯したの?

◆熱が出たので、病院に行きます。誰が連れて行ってくれる?

と、ふだんの生活を順に想起させてもいい。

たとえ、ママ1人でなくても、家族みんなで分担していればかまわない。

日常生活をしていて、1年生が誰の何の世話も受けていないはずがない。

それは知らないだけ、気付いていないだけ、見えていないだけだ。

授業は、見えていないものを見せてやるように仕組めばいい。それが授業の準備。

「そういう考えの子がいるんだ」と授業中に気づいていては遅い。

それに、そこは戸惑うところではなく、「よし、意識を変えさせてやるぞ」と意気込むところだ。

そういう子もいると思って、事前に手を打つことが大事。

それが授業の準備。

この先生は、授業中、家族の行動を具体的に挙げなかった。

子どもが「別にない」と反応したのは、そうした情報提示の不足によるものだと思う。

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October 13, 2022

「海の命」の解釈

かつて「海の命」の解釈がどうしてもできなかった自分には、次の記述は衝撃的だった。

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父親の命を奪った偉大なものへの挑戦によって成長する物語。あの宮崎駿のアニメ『天空の城 ラピュタ』にも採用された話型である。そう、形を変えた象徴レベルでの父親殺しの物語である。

(石原千秋『国語教科書の思想』P101(ちくま新書2005年)。

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「ラピュタ」をよく知らないので、自分には「ラピュタ」との重ね読みはできない。

なお、「スターウオーズ」も「父親殺し」の典型だそうだが、これも自分はよく分からない。

ただ、そのように話型で比べて読むこと・重ねて読むことができると知ったときは感激した。

「父親の命を奪った偉大なものへの挑戦によって成長する物語」とは、実に的を得た表現であり、話型で読める作品についてもっと探ってみたいと思った。

 また「父親を奪ったものへの挑戦」が、「父親殺し」になるというのも意外な指摘だった。

 象徴レベルの父親殺しというのは、「親を乗りこえる」という意味だから、この作品は2つの「挑戦」が描かれていることになる。

◆偉大な父への挑戦◆

その命を奪ったクエへの挑戦「クエを捕まえなければ一人前の漁師になれない」という太一の独白もあるから、父の命を奪ったそのクエを捕まえることは、すなわち、偉大な父親を越えることを意味する。

しかし、クエを捕まえて復讐を果たせば、父を超えられてハッピーエンドというほど、「海の命」は単純でない。

太一は、最低限の魚しか捕まえない漁の仕方を与吉じいさから学んだ。

クエを殺さなくても生きていけるなら、わざわざクエを殺す必要もないことに気付いてしまった。

太一は与吉じいさの元で漁を学び、父親とは異なる漁師の生き方を学んだ。

もし、太一があのままクエを捕まえていれば、父と同じ道を歩んだことになるが、クエを捕まえないという選択をした。

私は、父親と別の生き方を選ぶ「大義名分」として、クエを父親とみなすことでクエを殺さないというロジックを思い付いのだと解釈しているが、その解釈を他人に押し付けるつもりはない。

あれほど捕まえたかった父のカタキなのに、最後には捕まえるのをやめてしまう。

クエを捕まえなかった太一の心境を考えていたら、ある作品と重なってきた。

それが「恩讐の彼方に(青の洞門)」だ。

父親殺しの犯人は、今は出家して世の中のために洞門を掘っている。犯人は、かたき討ちにやってきた息子に、洞門を掘り終えたら自分は殺されてもいい、工事が終わるまで待ってくれと頼む。親のかたきとは言え、20年も及ぶ工事を貫徹した姿に心を打たれた息子は、結局はかたき討ちをやめる。

・・・この『恩讐の彼方に」の結末は、殺されたがっているように見えたクエの様子に、殺す気をなくす太一と重なってくる。

偉大なものに出会い、戦意喪失したというか、かたきを捕まえることの無意味さを知ったという点で同じ構図だ。

「恩讐の彼方に」も精神的な父親殺し(父親超え)の作品なのかもしれない。

 ところで、「父親殺し」という用語を知って、気になったのは次の点だ

 

「海のいのち」って要するにどんな話なのだろう。

1)尊敬する父親と同じ道を歩もう(村一番の漁師になろう)とする作品

2)尊敬する父とは違う道を歩もうとする作品

3)尊敬する父親を奪ったものを追い求める作品

4)さまざまな人に出会い、成長していく作品

5)自然の偉大さに触れる作品(命の大切さを訴える作品)あえて1つに絞ることもない。文学

作品はさまざまな読みが可能だ、それを承知で言うならば、小学生にとって、この作品を

「少年が父親と異なる生き方を選んだ話=精神的な父親殺しの話=父親の漁の仕方は間違っていた」

と捉えるのは難しい。

単純に「漁師の息子が父親と同じ一人前の漁師に成長した」と捉えるのが普通だと思う。

子供たちに「親の生き方を否定する=親を乗り越える」という概念が確立していないからだ。

もちろん対象は6年生だから、そろそろ「親の否定」を学ぶべき時期なのかもしれない。

この作品は、「親の否定」を学ぶ良い機会なのかもしれない。

 

※1928年にロシアのプロップが『昔話の形態学』で示した物語のパターン、1966年にフランスのロラン・バルトの『物語の構造分析序説』で示した物語の「機能」などについて、結局、理解しないまま、国語の授業をする立場ではなくなってしまった。若い先生方に「分析批評」を広めるにあたり、物語論(ナラトロジー)や構造主義の骨太な文学研究の歴史も踏まえた解説をしたいと密かに思っている。

参考 「物型論の基礎と応用」橋本陽介(2017年講談社)プロップの『昔話の形態学』 2019.06.22 https://kotento.com/2019/05/06/post-3020/

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October 12, 2022

「なので・・」は使わない。

話の冒頭に「なので」を使う習慣が自分にはない。

普段なら「だから」。丁寧語なら「ですから」。

自分が使わないので、他人が使うとすぐに気づく。まあ気付いたとしても、実際は「若いなあ」と思うくらいだが。

でも、使わない方が良いことは知っておいて欲しいと思う。フランクな感じがするから、「なれなれしい」と思われるとマイナスイメージだ。

お怒りの保護者に使うと、礼儀を知らん奴だと思われるかもしれない。

以下は、テレビ朝日のサイトより。

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最近視聴者の方からアナウンサーの言葉遣いについてのご意見が多く寄せられています。その中に、気になるご指摘があるので取り上げました。それは、「~なので」のという言葉の使い方です。本来は文の途中で理由などを説明するときに使います。しかし、その「なので」を文の途中ではなく、文頭に使用するケースが非常に多く見受けられ、アナウンサーの言葉遣いとしては、とても違和感があります。視聴者の方も同様に感じているようです。ご意見を沢山いただきました。

例)「こんどみんなで食事に行くけど、一緒にどう?」「そうですねえ。私最近とても忙しいんです。なので、ちょっと予定が立てにくいんです」

本来「なので」は断定の助動詞「だ」の連体形「な」+理由や原因を表す接続助詞「ので」によって構成されるため、他の言葉と結びつく言葉なのです。独立した接続詞でありません。

ですから、文頭に「なので」を用いて文章を始めるのは、文法的に間違いです。

https://www.tv-asahi.co.jp/announcer/nihongo/labo/lab_012/body.html

https://www.tv-asahi.co.jp/announcer/nihongo/labo/lab_012/body.html

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論作文でも時々「なので」を見かける。

「なので」を不用意に使う人は、別の敬語表現や丁寧表現でも不適切に使用しているかもしれない。

社会人マナーとして、敬語表現をチェックしておくとよい。

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物語を「型」で読む

時々、石原千秋著の「秘伝 中学入試国語読解法」(新潮選書)を読み返す。1999年出版だ。

「国語(特に物語)」の授業ってギリギリ何を教えればいいのかを考えていて、書棚から引っ張り出す。

P178に、では「国語」の勉強を始めよう とあり、次のページから第二部「入試国語を考える」の第一章「『国語』の基本型」が始まる。

◆まず「物語の型」をつかめ

フランスの批評家ロラン・バルトは、「物語は一つの文である。」という意味のことを言っている。これが、これから僕が「国語」について解説する立場である。「物語は一つの文である。」ということは、物語が一文で要約できるということである(これを物語文と呼んでおこう)。たとえば、『走れメロス』(太宰治)なら「メロスが約束を守る物語」とか『ごん狐』(新美南吉)なら「兵十とゴンが理解し合う物語」とかいう風に要約できる。これが物語文である。もちろん、もっと抽象的に「人と人とが信頼を回復する物語」(走れメロス)とか、「人間と動物が心を通わす物語」(ごん狐)でもいい。ここで気づいてほしいのは、こんな風に物語文を抽象的にすればするほど物語どうしが互いに似てくるということだ。この共通点が「物語の型」なのである。 P179

・・・「桃太郎」の要約が重要な意味を持つことを、この箇所で知った時の衝撃が蘇ってくる。

それはさておいて、「これはどんなお話ですか」を端的に答えることが、第一段階だという。これをやらずに次へ行くなという意味だ。

それぞれ自分の言葉で、一文で言うとどんなお話かをノートに書かせることを6年間(9年間)続けたら、ずいぶん手慣れてくるだろう。

石原氏は、次のように補足している。

 

◆基本型は二つある。一つは「〜が、〜をする物語」という型。これは主人公の行動をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが恋をする物語」といったものになる。もう一つは、「〜が、〜になる物語」という型。これは主人公の変化をまとめたもので、たとえば「たっちゃんが男になる物語」といったものになる。両方とも「たっちゃん」が成長するわけだが、そのことはもう分かっているわけだから、ここでは「どうやって成長したのか」「何が成長なのか」というレベルで一文にまとめるといい。

・・・be動詞「〜になる」でまとめるパターンと。一般動詞「〜をする」でまとめるパターンがあるということだ。

一文で書けない子に「このお話の場合は、どっちが書きやすいかな」と2つのパターンを示したり、書けた子に「あなたは、どちらのパターンで書きましたか」を考えさせたりすることで、物語文をまとめる作業に慣れさせていく。

 キーワードをきっちり指定しなければ「桃太郎」の要約のようにドンピシャにはならないから、個々で書いた要約文(物語文)を互いに見せ合って、情報交換すると、より完成度の高い一文になるだろう(これも「反転学習」か。

 作品を読み終えたら「どんなお話か」を一文でまとめさせる・・・何回か繰り返せば、自動化できる。;

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国語の学習とは、「テキストを正確に、くわしく読む」ことが中心なのである。

TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室⑧学テ・PISA型読解力を育成する授業づくり」で、向山洋一氏の巻頭論文が見ることができる。

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さて、国語の学習での「読み」とは、「テキスト」(教材)を「読む」ことが中心となる。

 正確に読むことである。

 一字一句にも、心を配って読むことである。

 深く読むことである。

 国語の学習とは、いかなる国においても「テキストを正確に、くわしく読む」ことが中心なのである。

 教材を紙芝居にして発表するなど、信じられない学習である。

 ある県の公開発表では、「野菜」についての説明文の授業で、「野菜の気持ちになってみよう」という「芝居」を発表していた。

 これでは、「文を読む力」がつくわけがない。

 PISA型テストとは、国語学力テストB問題とは、つまり「テキストを正確に読みとる」という問題である。

 これまでの日本の国語授業の常識を超えて「さまざまな文」「さまざまな表現」「長文」からも、「正確に読みとりなさい」ということなのである。

 それを基本にして、「自分の考え」を問うているのである。

 これは向山型国語が一貫して追究してきたことである。

 「テキストを正しく深く読む」授業をすすめよう。(教室ツーウェイ2007年9-10月39号)

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 教師が、問いと答えに敏感でなければ、子どもの言語感覚は育たない。

 このような細部にこだわった指導が「向山型一字読解指導」だと理解している。

 以下、『向山型一字読解指導』東田昌樹先生の著書より引用する。

◆私は「問い」と「答え」の基本を学ばせるために、学期に一、二度は「一字読解」という指導法をする。

というのが、『向山型国語教え方教室」(2000年10月 呼びかけ号)の巻頭論文での主張だ。もう少し詳しく引用する。

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子どもの行ノートに、番号をつけさせる。一行に一問を答えさせるのである。通例は、ノートには答えを書かせるが、時として「問い」を書かせる時もある。「問い」について、まるで習っていない子どもたちには、最初は「問い」も書かせる。教科書のタイトルから読み始めて、イチイチ問題を出し、ノートに書かせ、答を言い、丸をつけさせるのである。説明は簡単にして、テンポよく進める。話し合いなどはさせない。最初は、例えば「この作品の題は何ですか」あるいは「作者は誰ですか」ということになる。簡単だ。簡単でいいのである。こういう問題を20問、30問と続けて出して、基礎体力をつけるのである。

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・・・「イチイチ問題を出し」という表現、がたまらない。

「基礎体力をつける」という主張にゾクゾクしてしまう。 

『教室ツーウエイ』1994年10月号では「国語のテストの答え方」について、次のように述べているとある。

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「どんなこと」と聴かれたら、答えは必ず「こと」で終わること。「どんな気持ち」と聞かれたら、答えは必ず「気持ち」で終わること。このようなことは、基本中の基本だ。

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・・・ 向国の呼びかけ号には「テストの解き方の基本パターン15」が示されている。

 東田氏は「向山型一字読解指導10の原則」の原則9として「テストの解き方15パターンを意識せよ」を挙げている。

 テストの解き方と一字読解はセットだというと、必ず受験テクニックの指導だという批判があるが、そうではない。

 目的は「問い」と「答え」の基本を学ばせ、基礎的な読解力をつけることである。

 だから、新井紀子氏の主張する「基礎的読解力の保証」が可能になる。

 教科書の内容が正しく読み取れない子をなくすには、一字読解のような取り組みが最適だ。

 しかも、テンポよくやれば、1時間で作品全体の内容を網羅できる。 

 場面に分けて当たり前のこと当たり前の言葉に置き換えるフニャケタ授業から脱却できるのだ。

 授業時間が不足する中で指導内容の厳選が求められる。向山型国語・一字読解の指導が威力を発揮する!

 

※向国呼びかけ号巻頭論文は、TOSSMEDIA「向山型国語教え方教室❶」で見られます。

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「ごんぎつね」の指導計画 

◆すらすら読めるようになって、始めー終わりー中だけの検討で十分ではないか。

というある先生の感想をいただいたのが、1995年の春。

この年3月の日本言語技術教育学会報告を送った後のことだ。

市毛先生の「ごんぎつね」の指導計画は次の流れになっている。

1、このお話をすらすらと読めるようにしよう。

2、登場人物をすべてあげてみよう。

3、あらすじを5つにまとめよう。

4、ごんは初めは兵十に何をしましたか。

5、ごんは終わりに兵十に何をしましたか。

6、ごんが変わったのはどの場面ですか。

7、変わった理由はなんですか。(後略)

 

指導目標の③に次のように書いてある。

◆いたずらばかりしていたごんが、ひたすらつぐないを続ける、という作品の構造に気づく。

初めはどうだったか。終わりはどうなったか。なぜ、そう変化したのか。「中」で何が起きたのか。の順で検討している。

 

・・・鶴田清司氏のレジメにあった「学習の手引き(案)」にも、次の箇所がある。

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四 小説や物語では、一般に中心人物の心(考え)が、はじめと終わりで大きく変化している。「蜜柑」では、「私」の心はどのように変化しただろうか。エピソード(事件)の前後を対比することによって考えよう。

五、「私」の心がそのように変化したのはなぜか。その理由を話し合ってみよう。(後略)

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・・・鶴田氏の提案も「始めー終わりー中」の検討であることが分かる。

正しい引用はできないが、筑波の国語も、「始めー終わりー中」の検討が出てくる。

この順番で検討すると、「対比」「クライマックス」「人物の変化」「主題」などが含まれる。

 

石原千秋の『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)にも、同様の指摘がある。

<テキストは2度読め>

①「それからどうなるか」という問いに即してストーリー(時間的経過)を読む

②「なぜか」という問いに即してプロット(因果関係)を読む

 我々はふだん「このあとどうなるか」のストーリーだけにこだわって小説を読んだりドラマや映画を見たりする。

しかし、作品を読み味わうには、②の「どうしてなんだろう」という問いかけも必要であるということだ。

日常的な読書体験は、①で終わってしまうことが多いが、授業で扱うなら。初読で①、精読で②を行うという手順になるだろうか。

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October 11, 2022

支援してくれる人の存在が重要!

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 発達障がい支援の学習会で、サポートする級友の存在についてサークルメンバーが報告した。
(1)この例で思い出したのがテレビドラマの『ドラゴン桜』。
虫が大好きなマニアックな少年を、女子生徒がいつもサポートし、後半はクラスのみんなが見守った。
彼は仲間のフォローで東大に入ることができた。
以下のサイトでは、彼をサバン症候群と見立てている。
(2)ヘレンケラーは、サリバン先生が支援したことは言うまでもない。
(3)坂本龍馬は、姉がサポーター。
◆父親から教わった諸般の武芸(剣術、馬術、弓術、水練など)や書道、和歌などを叩きこみ、当時は甘え癖に由来すると考えられた寝小便も直しました。
(4)黒柳徹子は、母とトモエ学園。
以下のエピソードがグッとくる。
◆うちの母は本当に子どもの気持ちがよくわかる人でした。私が退学になったことも、20歳になったときに初めて教えてくれたんです。6歳のときに「退学になったのよ」なんて言わないで、「違う学校に行ってみましょう」と言ったそうなんです。(中略)
でも、もしそこで「退学になった」と母から言われたら、トットちゃんの学校に行ったときに、電車の教室を見ても、やっぱりうれしくなかったと思うんです。「みんな、私が退学になったこと知ってるかな?」とか思って。でも、母はそうは言わなかったです。
私、母にしても校長先生にしても、子どもを一人の人間として接してくれる大人に囲まれて育ったんですよね。
(5)さかな君は、母。
子供の興味に根気よく付き合ってくれたのだ。
◆さかなクンは、4歳のころ、ゴミ収集車が大好きになったそうです。
「ゴミ収集車が見たい」とせがまれたお母様は、車でゴミ収集車の後ろをずっとついて走ってあげたそうです。
(6)エジソンも、母
これも、子供の興味に徹底的に付き合ってあげた例。
◆本当にやばいこと以外については、お母さんはおおらかで、実験の本を買ってあげたり実験室をつくってあげたり、環境を整えてあげています。
 そして、口出ししない。こういった環境づくりが素晴らしかったのだろうなと思います。
・・・なるほど、こうして家庭の協力エピソードを集めるのも面白いな。

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October 10, 2022

相手の視点で物事を考えることを教えよう!

一宮市で発達支援の学習会があると知って、急いで参加した。

愛知のサークルメンバーの先生が発達障害について一般の方にレクチャーする形だ。
ああ、子供たちのトラブルの多くは「視点」だったなと思った。
先にも書いた、あの「サリーとアン」の問題について、もう一度、別の視点で書く。
①サリーとアンが同じ部屋にいて、サリーは青い箱にビー玉を入れた。
②サリーが部屋から出た後、アンはビー玉を赤い箱に移し替えた。
③戻ってきたサリーは、どこを探すか?
②の状況を知っている聞き手は、今ビー玉は赤い箱にあることを知っている。
しかし、サリーは②の入れ替えを知らないから、①しか知らない。だから青い箱を探す。
発達障害児に限らず、子供は、自分中心で考えるから
◆自分が知っていることは、みんなも知っている。
◆自分が楽しいことは、みんなも楽しい。
と思ってしまう。
そして、様々な経験の中で「私とあなたは違う」ことに少しずつ気づく。
だから、学校は「私とあなたは違う」と自覚させるように、意図的な教育活動を仕組んでいく必要がある。
子供たちのトラブルの事情を聞くときは「自他の意識の違い」を整理する。
あなたは楽しいけど、相手は嫌だったんだよ。
◆あなたは知ってるけど、相手は知らなかったんだよ。
◆それではあなたの気持ちは相手には通じないよ。
視点が違うと見え方が違う。
だから、
「相手がどう思っているかをちゃんと想像することが、思いやりだよ」
「言葉で伝えないと(確かめないと)、相手には分かってもらえないよ」
と教えなくてはならない。

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視点の問題として、ドラマ「サイレント」を語る

この秋スタートしたドラマに「サイレント」というのがあって、Tverで視聴した。
ストーリーを説明するのはややこしいからできるだけ端折るけど、
第一回のラストは、元彼に再会したヒロインが、耳が聞こえなくなって別れたという彼の告白に衝撃を受けるところ。
なるほど。
この日のドラマの進行では、元彼が耳が聞こえないことを
①視聴者は、中盤、元彼の行動で知り、
②今の彼は、中盤過ぎに知り
③ヒロインだけが、ラストで知る。
という流れになっている。
視聴者は既に知ってるから、ラストのヒロインの悲しみを外側から見る事になる。
もし、最後まで知らなければ、視聴者はヒロインと同化して
「そうだったんだ。だからいきなり自分の前から消えたんだ」
と衝撃を受け、氷解する。
①元彼に何か事情があることだけは匂わせて
②今の彼が知る詳細は後回しにして、
③ヒロインへの告白場面で、視聴者にも種明かしされる。
ミステリーじゃないんだからそんな流れは要らないか。
ミステリー慣れしている視聴者には、逆に、この種明かしの流れの方が平凡かな。
こんなことを考えていたのは、『ごんぎつね』の視点を考えていたから。
ごんが償いをしていることを読者は知っているが、兵十は知らない。
だからラストで兵十は衝撃を受ける。
読者は兵十に同化しない。
「あっ兵十、ゴンを撃ってはダメだよ」と言いたくなる。
「あっゴン、兵十のバレたから逃げて」と言いたくなる。
もし、読者も「栗や松茸の贈り主」が誰か知らずに、最後で兵十と一緒に気付かされる展開だったらどうなのかなと思った。
神様のような全知視点の作品が幼稚と言われるのは、登場人物の気持ちや事情が全て分かってしまっているからだ。
視点が単一だと、見えない部分・気づかない部分があるから、読者も、そこで共感したりショックを受けたりできる。
ただ、ドラマで視点を単一にすると、重層構造にならないから、複数の視点で同時進行させるパターンが多い。
視点を意識してドラマを観ると、ストーリーではなく、組み立てが気になってくる。

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『龍馬とともに幕末を生きた52人のその後』(洋泉社MOOK)

幕末から明治維新にかけてざっと知りたいと思って図書館で見つけた一冊。
坂本龍馬に関わる人物紹介の一冊だが、同じ時代(一つの歴史)をさまざま人物の視点で解説することになっている。
このスタイルにとても感銘を受けた。
同じ人物が何度も出てくる。
同じ事件が何度も出てくる。
まさに歴史は重層的で同時進行(同時多発)。
多面的に見ないと理解できないというか、むしろ全部を理解しようなどと思ってはならないのだと,今さらながら実感した。
別の感覚で言うとパラレルワールド。
薩摩と京都と江戸では同じ瞬間に違う歴史が動いている。
今回は幕末から維新の日本の歴史だが、本当はここに列強の諸国の事情が絡んでくる。
上海や西欧を視察した一部の日本人が圧倒的な文化の発展に驚愕し、英国に侵略された清のようになってはいけないという危機感を抱いたことを理解しないと攘夷の機運が崩れた経緯が腑に落ちない。
陸奥陽之助/沢村惣之丞/長岡謙吉/高松太郎/菅野覚兵衛/中島信行/
高見弥市/土方久元/安芸守衛/山本琢磨/五代才助/岩崎弥太郎/西郷吉之助/
桂小五郎/小松帯刀/山内容堂/後藤象二郎/乾退助/伊藤俊輔/岩倉具視/
徳川慶喜/三吉慎蔵/井上門多/福岡孝弟/佐々木高行/三条実美/大久保一翁/
勝海舟/ジョン万次郎/松平春嶽/佐藤与之助/横井小楠/由利公正/河田小龍/
楢崎龍/寺田屋お登勢/千葉佐那/千葉重太郎/坂本乙女/平井加尾/
小曽根英四郎/トーマス・グラバー/大浦慶/近藤勇/土方歳三/沖田総司/
原田佐之助/大石鍬次郎/松平容保/佐々木只三郎/今井信郎
・・・今回は、「五代友厚」を読んだ後だったので、比較するのも面白かった。
大河ドラマではないが、「徳川慶喜」「伊藤博文」を主軸に組み立てると、また違ったストーリーになるのだということがよく分かる。394ba89e2b234eac87d0d3c43492bdc4_1_201_a 

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October 07, 2022

ごんぎつね ~兵十の状況が理解できない子~

他者の理解ができない子は、「どうして兵十はつぐないをしに来たごんを撃ってしまったのだろう」と疑問を持ちます。

読者である自分はごんのつぐないを知っているから、兵十も知っているはずだと思うからです。

発達障害児(自閉症児)の思考(発達障害児がどのように思考するのか)について理解するのに、「サリーとアンの課題」がよく取り上げられます。


前提・・1つの部屋にサリーとアンがいます。部屋には「サリーの青い箱」と「アンの赤い箱」が置いてあります。

①サリーはお気に入りのビー玉を「サリーの青い箱」の中にしまいました。

②サリーは部屋から出ていきました。

③アンは、「サリーの青い箱」からビー玉を取り出し、「アンの赤い箱」の中にしまいました。

④アンは部屋から出ていきました。

⑤サリーが部屋に戻ってきて、ビー玉で遊ぼうとしています。

さて、サリーはどこを探すでしょうか?。

 

◆サリーのビー玉は「アンの赤い箱」の中にあります。

しかし、アンが③でビー玉を「アンの赤い箱」の中にしまったことをサリーは知りません。

だから、サリーが探すのは①の「サリーの青い箱」です。

 

発達障害児に、「サリーとアンの課題」を聞くと、「アンの赤い箱を探す」という答えが返ってくることが多いそうです。

この課題は、サリーの気持ち(サリーが、ビー玉がどこにあると考えているか)を聞いています。

ビー玉が移された事実をサリーは知りませんから、この課題で正しい答えを導き出すためには、

「ビー玉が移された事実を、サリーが知らない」

という「サリーの気持ち(状況)」の理解が必要になってきます。

 

発達障害児は、客観的事実は理解できるが、他人の気持ちが分からない(「自分は知っていても相手は知らないことがある」と分からない)ことの一例として、この「サリーとアンの課題」は引用されます。

この課題は、発達障害児でなくても幼児は間違えるそうです。ストーリーの複雑さが読み取れない(頭の中でストーリー展開が追い付かないとか、メモリー容量を超えるとかの問題かもしれません)。

低中学年には、発達障害児でなくても他人の気持ち(他人の状況)が理解できない子・複雑な状況設定を読み取れない子がいることを知っておくとよいと思います。

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October 06, 2022

努力はスキルアップを保証する

「努力論」は奥が深いので、いつも中断してしまう。

向山洋一氏は、次のように述べている(「教育要諦集」第4巻54頁)。

◆行動しないで「夢みる」だけではあれば、願望はいつまで たっても成就しない。

◆何も行動せずに「夢の成就」を願っても、何一つ変わりはしないのである。

・・・では「あきらめずに努力を続ければ、夢はかなう」のかと言うと、これは何とも言えない。

結果として、志望校に合格するか・全国大会に出場するか・代表に選ばれるかプロになれるかなどは誰にも分からない、

夢の内容にもよるが、夢の実現は「運」や「縁」や「自分の力では動かしようもない他者の力」が大きく影響する場合が多い。

つまり、いくら努力をしても、かなわない夢はあるのだから、「努力を続ければ必ず夢は叶う」などと励ますのは、あまりに楽観的である。

しかし次のようには言える。

 

「あきらめずに努力をすれば、必ずスキルはアップする」

 

運動や楽器演奏、受験勉強、語学習得などは、着実に努力の成果が現れる。

「スキルアップ」という意味でなら、「努力は裏切らない」と言ってよい。

 向山氏も次のように述べている。この「上達」とは、まさにスキルアップの意味だ。

◆「絶対にあきらめるんじゃない。努力を続ける限り、必ず上達する時は訪れる。」

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努力プラスFUN

「努力」とは何なのか?「GRIT」=「やりぬく力」と「努力」はどう違うのか?

「天才とは1%のひらめきと99%の努力」とエジソンの格言にある。原語の「perspiration」は「努力」と訳されているが、直接の意味は「汗」「汗を流す」である。「実行力・行動力」と同義であろうか。エジソンには、次の名言もある。

◆「私は一日たりとも、いわゆる労働などしたことがない。何をやっても楽しくてたまらないからだ。」

; I never did a day&rsquo;s work in my life. It was all fun.; ;

「努力」には苦難を乗り越えるイメージがあるが、エジソンは自分の創作活動を「FUN」と呼んでいる。

「情熱・熱意」といった楽しいイメージだ。

「努力」は、ハードワークであり、熱中・集中であり、楽しみ(all fun)でもあるということだ。;

中野信子氏は、「見返りを期待して、楽しくないものに苦痛を伴う努力を重ね、恨みをため込むくらいなら、やめたほうがいい」と言う。

「好きなことができるなら、苦だと思わないし、成果が出なくても苦にならない」というスタンスは、先のエジソンの言葉と通じている。

 多くの成功者が「好きなことをやれ」「好きなことであればいくらでも続けられる・好きなことでなければ困難を乗り越えられない」と言う。苦手なものを克服するより得意分野を伸ばすべきだというのが「ポジテイブ心理学」のスタンスである。

 「努力」の概念の周辺に、関連するワードを並べてみたことがあるのだが、FUN、楽しさを加えるとすごいことになる。

「努力」の意味範囲が広がり過ぎて収拾がつかなくなってしまい、現在に至っている。

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自分の方針に合うように子供を矯正する先生

許容範囲の狭い先生は「俺の言う通りにしろ」という圧迫感が強い。

子どもより自分の方が思慮深いのだから、間違っていないという思いが強い。

先のダイアリーで書いた「自分の正義を押し付ける【阿修羅】」だ。

「自分の方針に合うように子供を矯正するタイプの教師」というワードを聞いたとき

、「あっ、これが『菊作り』のことか」と納得した。

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 総じて人を取り育て申す心持ちは菊好きの菊を作り候様には致すまじき儀にて、百姓の菜大根を作り候様に致すべきことに御座候。 菊好きの菊を作り候は、花形見事に揃い候菊ばかりを咲かせ申したく多き枝をもぎ取り数多のつぼみを摘みすて、のびたる勢いちぢめ、わが好み通りに咲くまじき花は花壇中に一本も立たせ申さず候。 百姓の菜大根を作り候は、一本一株も大切にいたし、一畑の中には上出来も有りへぼも有り、大小不揃いに候ても、それぞれに大事に育て候て、よきもわろきも食用に立て申す事に御座候。 細井平洲「鸚鳴館遺草」

新版「続・授業の腕を上げる法則」(学芸みらい社)

第一条 子供の教育は菊を作るような方法でしてはならないしてはいけない。

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・・・自分の好みになるようにつぼみを摘んだり、枝をはらったりするような教育ではいけない。

大根作りのように大小不揃いであっても、それぞれを大事にするべきであるという指摘を、向山氏の著作から学んだ。

新卒数年という時期に、この教えを読むことができて幸運だった。

 「自分は一生懸命教えているんだから、これでできないのは私の責任ではない」と「落ちこぼし」やむなしと考える教師も少なくない。 「できる子は伸ばすが、できない子は仕方ない」というエリート教育と真逆の教育が、日本の民度の高さ、普通の人々の教育力の高さに繋がっている。

(1)自分にとっては常識になっている「菊作りではなく、大根を作るように」という教育観が、果たしてみんなの常識になっているかは疑問である。この機会に、しっかり広めていきたい。

(2)管理職は、自分の配下の職員を自分の方針に合うように矯正していないか。不揃いでも、無理に揃えず、それぞれの個性や強みを活かせるようにするのがリーダーの仕事だ。

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教師が子供の反発を誘発していないか?

「正しいことは言うな」という逆説的な表現に感銘を受けたのは、もう15年も前のことだ。

教師という仕事上、子どもの失敗や過ちを指導する場面は多い。

しかし、「どうして、宿題を忘れたんだ」などと相手の過ちを責めてみても、その言葉が正しければ正しいほど相手を追い込んでしまうだけだ。

言われた方は一番聞きたくない言葉を耳にするから、反発を生むことになる。

そして、「いつも俺ばかり怒られる」という負の感情をもたらしてしまう。

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怠けている人間、遅刻した人、それぞれに事情があり、理由があるはずです。その事情・理由を斟酌(しんしゃく)することなく正しいことを言う人は、じつは、ー正義という名の魔類ーになっているのです。仏教では、その正義という名の魔類をー阿修羅ーと呼びます。阿修羅というのは、本来は正義の神であったのですが、自分だけが正義だと思って、他人に対する思いやりがないために、神界から追放されて魔類になった存在です。(後略

2006年中日新聞7月18日付の朝刊に「ひろさちやのほどほど人生論」

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・・・「阿修羅」の意味まで教わったインパクトのある記事だった。

何も言わずにじっと相手の聞いて上げる行為が「慈悲」なのだとも書いてあった。何と、仏教の教えは奥が深いのか。

教師は「よかれ」と思って平気で子どもを傷つけることがある。

喧嘩した子が悪い、忘れた子が悪い、聞いていない子が悪いなどなど。悪意がない分だけ、たちが悪い。

正義感を振りかざす鈍感な教師はまさに「阿修羅」と化している。

 

実はかつて同僚に、ネチネチ子どもを責める人がいて、自分のストレス発散に使ってるのではと思ったほどだった。

毎年のように、そのクラスには不登校児童が生じた。保護者の間にも、それは知れ渡っていた。

 

 『身につけよう!江戸しぐさ』という本の中に、「見て分かることは言わない」というのがあった。

「おやせになりましたね」「太ったんじゃないの」「ひどい汗ですね」など、見て分かるようなことを稚児のように言ってはいけないとある。=====================

 見て(暑いんだな)と察したらすぐ冷たい飲物を出すものだよ、というわけです。急な雨で濡れていたら、サッと手拭いを差し出す方が感性度が高く、相手の思いやりが偲ばれるものです。それに加えて「読んで分かることは聞かない」というのもあります。

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何の配慮をする気もないのなら、見て分かることを言うな、というのは、実に鋭い指摘である。

「鉛筆どうしたの?」などの問いも、見れば分かる愚問だ。

問いただす前に、さっと差し出すのが大人の対応だ。

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October 05, 2022

子供と同じレベルで言い争ってはいけない!

許容範囲の狭い先生は、子供と間に無用なトラブルを起こす。

最後は、「合う合わない」「好き嫌い」の話になって、お互い早くクラス替えしないかを願うだけになる。

「結局その先生が好きなら、子どもは言うことをちゃんと聞く。」という話になってしまうのだ。

嫌いな相手から正しさを押し付けられると、余計ムカつく子がいる。分かっているけど、お前には謝罪したくないという感情だ。

おそらく、その場合、先生は正しさを盾にマウントしてくるからムカつくんだろう。

「子どもに好かれる教師」というと、「子どものご機嫌とり」のようなイメージがあるが、そういう意味ではない。

◆子どもの言い分をきちんと聞く。

◆子どもを納得させて帰宅させる。

そして、これらと同じ意味なのが

◆自分の価値判断を押し付けない。だ。

それは、冒頭に書いた「教師の許容範囲」の意味でもある。

 

時々、子供と同じレベルで言い争っている先生がいる。論破して押さえつけて満足している先生もいる。

「負けるが勝ち」ではないが、マウントを取って勝ち誇ったところで、遺恨が残れば教師の負けになる。

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優れた読み手は、抽象化して本質をつかむ

Aという実践を知り納得しても、それだけでは別の授業がうまくいかなければ意味がない。

Aという本を読んで納得しても、それを自分のものとなるように咀嚼しないと、いつまでたっても「本待ち、他者依存」になってしまう。

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他者の経営者の書いた本は個別の文脈の中に埋め込まれているので、すぐに応用することはできない。しかし、優れた読み手はそこで抽象化して本質をつかむ。本を読むのではなく、本と対話することが大切だ。対話は今も昔も本質にアプローチするときの基本だろう。優れた経営者というのは抽象化してストーリーを理解し、その本質を見破る能力に長けている。商売を丸ごとに見て、流れ・動きを把握して、それを論理化することで本質にたどり着くことができる。もともとは具体的な個別の事例が、自分のアタマの引き出しにしまうときには論理化された本質に変換されている。結局のところ本当に役に立つのは、個別の具体的な知識や情報よりも、本質部分で商売を支える論理なのだ。戦略構築のセンスがある人は、論理の引き出しが多く、深いものである。他社の優れた戦略をたくさん見て、抽象化するという思考を繰り返す。これが引き出しを豊かにする。独自の戦略ストーリーを構築するための王道だ。

楠木建「経営センスの論理」(新潮新書) P42

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本は読むのではなく、対話する・・・まだまだその境地にいないことがよく分かる。

上の引用部は、ビジネスでなく、教育現場に置き換えることもできる。

教育技術の「法則化」は、まさに個別事例から本質を抽象化することであった。

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