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October 27, 2022

分析批評の「話者」の解説

「私」が語るのは、一人称視点の作品。

第三者が語るのは、三人称視点の作品。

(1)『大造じいさんとがん』は、大造じいさんの側に寄っているから「三人称限定視点」。

とはいうものの、教科書の作品冒頭には、次のような記述がある(光村の場合)。

◆「知り合いのかりゅうどにさそわれて、わたしはイノシシがりに出かけました。

◆わたしは、その折の話を土台として、この物語を書いてみました。

・・・「わたし」が出てくる。しかも、いかにも作者ご本人のような口ぶりだ。この「わたし」を作者と別だと説明するのも難しいし、「わたし」が出てくるこの前がたりの部分を無視して、作品は「三人称限定視点」だと説明するのも難しい。

 

(2)『ごんぎつね』は、ごんの側に寄っているから「三人称限定視点」。

とはいうものの、教科書の作品冒頭には、次のような記述がある。

◆これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いた話です。

・・・「わたし」が出てくる。しかも、いかにも作者ご本人のような口ぶりだ。

この「わたし」を作者と別だと説明するのも難しいし、「わたし」が出てくるこの前がたりの部分を無視して、作品は「三人称限定視点」だと説明するのも難しい。

 

(3)『やまなし』は、かにの親子の側に寄っているから「三人称限定視点」。

とはいうものの、教科書の作品の最後には、次のような記述がある。

◆私の幻灯は、これでおしまいであります。

・・・「私」が出てくる。しかも、いかにも作者ご本人のような口ぶりだ

。この「わたし」を作者と別だと説明するのも難しいし、「わたし」が出てくるラストを無視して、作品は「三人称限定視点」だと説明するのも難しい。

・・・どれもポピュラーな作品だが、イレギュラーな部分があるので、ちょっと使いづらいのだ。

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