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October 18, 2022

道徳の授業は、そこから始まるのに・・。

1年生の道徳の授業を参観したことがある。。

最後に家族に感謝のお手紙を書かせる授業だった。

しかし、「別にママに何もしてもらっていない」という子がいて、戸惑ってしまったと授業者は反省していた。

「いやいや、そこからが授業じゃないか」

「別に感謝されるようなことはされていない」と子どもが思っているからこそ、授業の意味がある。

子どもは、狭い世界を生きているから知らないこと・気づいていないことが多い。

だから、見えていない世界・気づいていない世界を示して、視野を広げるのが授業の役目だ。

◆みんなが寝ている間、お母さんは何をしていると思う?

◆みんなが学校に行っている間、お母さんは何をしていると思う?

とみんなが見えていない時間の行動を想像させてもいい。

◆朝起きたら朝ごはんが出てきた。これは誰が準備したの?

◆みんな洋服を来て登校します。これは誰が洗濯したの?

◆熱が出たので、病院に行きます。誰が連れて行ってくれる?

と、ふだんの生活を順に想起させてもいい。

たとえ、ママ1人でなくても、家族みんなで分担していればかまわない。

日常生活をしていて、1年生が誰の何の世話も受けていないはずがない。

それは知らないだけ、気付いていないだけ、見えていないだけだ。

授業は、見えていないものを見せてやるように仕組めばいい。それが授業の準備。

「そういう考えの子がいるんだ」と授業中に気づいていては遅い。

それに、そこは戸惑うところではなく、「よし、意識を変えさせてやるぞ」と意気込むところだ。

そういう子もいると思って、事前に手を打つことが大事。

それが授業の準備。

この先生は、授業中、家族の行動を具体的に挙げなかった。

子どもが「別にない」と反応したのは、そうした情報提示の不足によるものだと思う。

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