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December 27, 2022

○○スタンダードの転換期かな?

 ○○スタンダードと呼ばれる学習規律がある。勤務する春日井市にもある。
 ところが、新たなクラウド活用の時代になると、従来の学習規律では立ちいかなくなるというのが、JAETのシンポジウムを聴いた私の実感。
 これまでは、
「先生の指示を無視して勝手にタブレットを開くようでは授業にならない」
という一斉授業に対する秩序維持の規制があったが、これからは
 「タブレットを使うかどうかを決めるのは学習者、先生が止めることではない」
 「いちいち、タブレットを使うのに許可を得る必要はない」
という形の授業になる。
 ○○スタンダードも、意識改革が必要なのだが、そこでポイントになるのが、
【ポジティブリストとネガティブリストの違い】
だなと思った。
◆ポジティブリストは、やっていいこと(許可するもの)の一覧
◆ネガティブリストは、やってはいけないこと(禁止するもの)の一覧。
 「ポジティブ」の方が良さそうに思えるが、規制は「ポジティブリスト」の方が多い。 
 やっていいことだけを記載する(書いてないことは不許可)なのだから自由度が低い。
 学習規律(○○スタンダード)も、やっていいことだけを記載する(書いてないことは不許可)というタイプが多く、それゆえ自由度が低い。
 しかし、「ここだけは守ってね」とNGだけ示すネガテイブリスト型なら、多様な学習が保障できる。
 「自他の学習成果をあげるためなら」
A:「みんなと違う資料集を持ってきていいんだよ」
B:「友達と相談してもいいんだよ。自由に席を立って意見交換していいんだよ」
C:「ネット検索して、自由にアクセスしていいんだよ」
D:「教室の画用紙や色ペンを使ってもいいんだよ」
・・・AからDのような許可内容をいちいち挙げたらキリがないから、自分で判断してね。
あくまで「学習に関係する内容でなければならない」「指定時間が守らねばならない」「人の学習の邪魔はいけない」のような大枠の禁止事項さえ守ってもらえればいい。
 子供が「先生、○○していいですか」といちいち許可を求めているうちは、ダイナミックな授業にならない。
 もちろん、最初はそうだろうが、教師は、そういう質問にいちいち許可を出すのではなく
「あなたはどう思う?」「先生が何て言うと思う?」
と問い返してあげればいい。
 「それで自他の学習に役立つことなら、自信を持ってやればいいんだよ」
と促してあげればいい。
 学習規律は最低限のルールとしてとても重要であるという人もいれば、そんな風に管理するのはどうかと否定する人もいる。
 最低限でいいはずなのに、結局
「具体的に示さないと学校全体の足並みが乱れるから」
といった理由で、あれこれ規制項目が増えていく学校が多い。
 春日井市も、最低限の学習規律の「スタンダード」があるが、学校によって上乗せ禁止事項が増えている。
 10年以上前、堀田龍也先生が市の指定校の教育アドバイザーになった時、この「スタンダード」を提唱された。
 最低限の学習規律がないと、1人1台端末なんて持たせられないよ、というニュアンスもあった。
「教えるべきことはきちんと教える」の中に、ノート指導も含まれ、まずは先生が書くように丁寧なノートを作るということも強調された。
 それゆえ、見やすい板書も提言された。
 こうして、最低限の学習規律が成り立つベースがあるから、子供に考えさせても、無茶な行動はしないだろう、という信頼関係ができている。
 だからこそ、○○スタンダードも「手放すタイミング」「次のステージ」なのだ。
Poji

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「探究型の学習」の探究

学習指導要領の「総合」編によれば、

◆探究的学習とは、「課題の設定」「情報の収集」「整理・分析」「まとめ・表現」といった探求の過程(問題解決的な活動)が発展的に繰り返されていく一連の学習活動である。

ということになる(写真参照)。
 細かいことだが、4つの項目を、文中では「問題解決的な活動」と呼び、図表の中では「探求の過程」と呼んでいる。
  そして、この4項目を高橋純先生は「シンキングサイクル」と呼び、春日井市の先進校は「思考・判断・表現するための探究的な学習過程」と呼んでいる。
 名称がバラつくと、少しずつ受け止め方のズレが出るので要注意だ。
 あるサイトでは、次のように「教科学習」と「探究的な学習」を分けている。
================
 教科学習では、各教科の固有の知識や個別のスキルを学び、各教科の本質に根ざした問題解決能力や学び方、考え方などを育みます。
一方、探究学習では、教科にとらわれない、横断的、総合的な問題解決の能力を育みます。
探究学習は、小学校と中学校では「総合的な学習の時間」、高等学校では「総合的な探究の時間」を通じて学びます。
================
◆この定義で言うと、各教科の授業を探究的な学習として行う必要はない。
◆これまでも社会科や理科の授業などで、探究的な学習は行われてきた。
とあるように、総合にとどまらず、各教科で探究的な学習を取り入れる意義は高いのだが、どのように取り入れたらいいのかを理解していないと、各教科固有の知識やスキルの習得を疎かにしてしまう。
 教科学習で、各自に学習課題を設定させてうまくいくのは、学習レベルが保障された学級でのことだ。
 どこで、どう探究的な学びを取り入れるかを熟慮しないと、授業は崩壊する。
「習得 → 活用」「教えて → 手放す」と同じような意味合いで、「教科学習 → 探究的な学習」のステップがあるのかな、というのが今の自分の理解である。
Tankyu

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「教師が教える授業」から「子どもが学ぶ授業」へシフトするか

 来年の日本教育技術学会に誰に来てほしいかというアンケートで私は、奈須正裕氏(上智大学)を挙げた。

 その奈須氏が提出したワーキンググループ 資料2を読むと、なるほど「令和の日本型学校教育」のあり方がよく分かる。

教科書・教材・ソフトウェアの在り方ワーキンググループ(第6回)配布資料:文部科学省

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/089/siryo/mext_00008.html

 春日井市立高森台中学校の例も挙げてある。

  JAET春日井大会での堀田先生、高橋先生、佐藤先生の見解と重なるので、今はよく分かる。

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3-2 端末とクラウドを日常的に活用した授業づくり

続いて、愛知県春日井市立高森台中学校長の水谷委員より、端末とクラウドを日常的に 活用した授業づくりについて報告がなされた。

ICT の導入により、教師からの指示や説明は最小限となり、子どもの活動時間、扱うデ ータ量、コミュニケーションが増加し、また活動は複線化して、子どもに多くを委ねるこ とができるようになった。教師が教える授業から子どもが学ぶ授業への変化である。

具体的には、まず、授業に必要な情報をクラウドを介して提供することで、子どもたち は単元の見通しをもって学べるようになる。

すると、各自で「情報の収集」「整理・分析」「まとめ・表現」を進められるようになる が、その際、チャット等も含めたクラウドコミュニケーションツールの制限のない活用により、子ども同士、また教師と子どもの間で、いつでも自在に「途中共有」「途中参照」 「他者参照」をすることができ、これが個々人の学習の促進や自発的な対話・協働による 思考の深まり、適時での教師からの励ましや助言等を可能とする。

このような経験を積むことで、一つ一つの活動が短時間でできるようになってきた。 また、一人ひとりが自分にあった方法を選択して学べるようになっていく。

学習状況は、子どもの手で随時クラウドにアップされる。教師はもとより子ども自身も 学習状況を的確に把握することで、さまざまな気づきを得ることができ、学習の自己調整 につながっている。

さらに、子どもたちは授業での経験を日常の活動やコミュニケーションにも活用し、学 級委員や生徒会の活動も活発になってきた。

このように、端末・クラウド活用による授業づくりに際しては、クラウドコミュニケ ーションツールの制限のない活用により、さまざまな情報共有や学習状況の可視化が可能 になったこと、またそれにより、教師と子どもの情報活用能力が向上したことが大きい。

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・・・今年の春、奈須氏の著書を読み、東洋館出版のオンラインセミナーで奈須氏と合田哲雄氏の対談を視聴したときはピンと来なかった。

 結局、自分の中にバイアスがあって「ICTが溶け込む一斉授業」でいいのだという思いから抜け出せなかった。

 奈須氏の著書では、山形県天堂中部小学校の実践「単元内自由進度学習」が取り上げられており、そのオリジナルは1980年代に愛知県東浦町立緒川小学校で開発された、とある。

 この緒川小学校には私も大学時代、昭和60年に視察したことがある。しかし緒川小の実践は県下で全く波及することはなかった。だから自分の中で「自由進度学習」のような取り組みは、特別な学校の実践であって自分には縁のないものという思いが強かった。

 半信半疑だった自分の気持ちを言い当てたように奈須氏が書いている。

◆ それでもなお、いまひとつ実感がわかない、確信が持てないという人もいるでしょう。天童中部小のようなユニークな実践だからこそ現れた特殊な姿ではないか、という疑問をお持ちの方もいるかもしれません。特別な学校だから、優秀な子供だからという、よくある物言いです。正直、私は聞き飽きました 『個別最適な学びと協働的な学び』P110

 

・・複線型授業はこれまでも(それこそ40年以上前から)先進的に取り組まれてきたが、定着はしていない。それはあくまで先進的な学校の取り組みでしかなかった。

 「複線型授業」「自由進度学習」「自己決定学習」「自己調整学習」に全ての学校で取り組めるのか、本当に浸透するのか、「パラダイムシフト」に対する各校・各自治体の本気度が問われている。

 先の資料に次のように書いてある。

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◆【学校改革の方向性】

・学校は、子どもたちを自立的な学習者として育てられていないのではないか。GIGAス クール構想がもたらした新たなインフラを生かすことにより、教師による一斉指導から 脱し、学びを一人ひとりの子どもに委ねられるとともに、子ども同士、そして教師も、 いつでもクラウドを介してつながれるようになったので、自由な選択の下での多様な授業の組み立てが可能となり、子どもたちが授業を楽しいと感じるようになってきた。

◆自由進度学習

単元内自由進度学習は、単元指導案に相当する情報を子どもに開示し、単元の学習計画 をまるごと一人ひとりの子どもに委ね、子どもが自立的・個別的に学習を展開する教育方法である。我が国でも、すでに40年以上の実践の蓄積があるが、従来はアナログで行われていたため、学習材の準備等の負担がネックとなっていた。GIGA スクール構想に伴うインフラの変化により、この点が飛躍的に改善され、実践が広がりを見せている。

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・・・とはいえ、明治図書の月刊誌が特集を組んだように、令和の日本型学校教育を目指して「子供主体の授業」を試みた多くの先生が、うまくいかなくて困っている。

 「振り子の揺り戻し」になるか、「パラダイムシフト」が起こるのか、今の自分にはよく分からない。

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「令和の日本型学校教育」 ~子供主体の授業~

『授業力&学級経営力』 2023年1月号(明治図書)の特集は、
 なぜ「子ども主体」の授業がうまくいかないのか
編集後記を読むと、背景が分かる。
◆たとえば,子ども自身に問いを考えさせたり,自由進度学習を行ったりする実践を数多く見聞きするようになったと思います。また,子どもたちがかなり自由に1人1台端末を活用している学校もあるようです。
◆しかしながら一方で,「子ども主体」の授業を行っても,なかなかうまくいかないという声も聞きます。
「ファシリテーターに徹しようと思っても,つい口を出してしまう」
「黙っていれば,勝手なおしゃべりが始まり,それどころではない」
「話し合いやグループ活動では,一部の子どもだけが活躍している」など……。
もしかするとこのような悩みを抱えている先生方も多いのではないでしょうか。
・・・うまくいかない理由への対応策の論文が並んでいる。
①子どもにどこまで任せるかの基準が決まっていない
②なかなか子どもの学習意欲が高まらない
③子どもが学び取る学習内容が浅すぎる
④子どもの反応を予測した教材研究が難しい
⑤子どもに任せることで時間配分がよみにくくなってしまう
⑥学び合う環境をうまく作れない
⑦一人一人に合った学習課題が設定されていない
⑧授業や単元の冒頭で,ゴールが共有されていない
⑨活動のねらいに向かわない子どもがいる
⑩発問が子どもの考えたい「問い」になっていない
⑪学力がついているか心配で,つい口を出してしまう
⑫一部の子どもだけが活躍している
⑬意見の表出と共有の道具であることを知らない
⑭振り返りができない子どもがいる
・・・そうだろうなと思う。
「子供主体」イコール「子供任せ」で、無策なら、そういう事態が生じる。
「子供任せ」って、一歩間違えば、泳げない子どもを荒海に放り込むような行為だ。
編集長は「数十年前は,主体的に授業に取り組むというにはほど遠く,いわゆる一斉授業の講義形式の中で,一方的に教えられたことをノートに写すというような授業もまだまだ多かったです」と書いている。
今だって「一斉授業の講義形式の中で,一方的に教えられたことをノートに写すというような授業」は根強いですよ。
教師自身の意識改革が不十分なら、対応が不十分になるのも当然だ。
※子供主体の授業にチャレンジしてみたものの、うまくいかず「やっぱり一斉授業の方が成果が上がるな」と戻ってしまう先生
※子供主体の授業が大事と思うものの、授業を成立させる自信(あるいは成立した授業のイメージ)がないから一斉授業から踏み出せないという先生
が多いのだと思う。
しかし、そこは、逆の発想で
※「一斉授業の方が成果が上がる」かもしれないが、子供主体の授業にチャレンジする先生
であってほしい。
それは、編集後記にあるように、文科省の答申が求めているからだ。
◆文科省の「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)」においても,あらためて「全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現」が強調されており,今後さらに子どもを主体とした授業は意識されていくと思います。
堀田先生も奈須先生も「パラダイムシフト」という言葉で、従来の授業観ではいけないのだと警鐘を鳴らしている。
※「個別最適な学びと、協働的な学びの実現」といったワードは、ほとんど浸透している。
※加えて「一人一人を主語にする」というワードも、すんなり入ってくる。
※しかし、それが
 「単線型の授業から複線型の授業へということですよ」
 「個別か協働かは、子供自身が選ぶんですよ」
の意味だとなると、この部分の認知度は低い。そしてハードルは高い。
 複線型の授業は、特別な研究校や特別な先生がすればいいものではない。
 スタンダードになるには時間がかかると思うが、そういう方向にあることは認知されるべきだと思う。

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December 23, 2022

春日井市1月の学校給食だより

各家庭に配付する給食だより(食育だより)は白黒印刷。

市のHPにはPDFデータが、カラーで保存されている。

https://www.city.kasugai.lg.jp/shisei/kyoiku/kyushoku/1012042/index.html

1月の行事食として「おせち料理」の詳細が掲載されている。

高学年を担当したとき、家庭科の授業で扱ったことがある。お正月の新聞から切り抜いて教室掲示したこともある。

こうして給食だよりに掲載されていると、ありがたい。

ちなみに、その下の「地域によるもちの形の違い」や「各地方のお雑煮」は、保護者もまきこんで探究的に学習するのに格好なネタである。

 

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December 21, 2022

「三年とうげ」(3年光村) 教師の一人読み

「転んだら三年しか生きられない」という三年峠で転んでショックを受けているおじいさんが

「1回転べば三年生きられる」と解釈したトルトリの助言により、
何度も転んで「めでたしめでたし」となるお話。
本時のめあては「お話のはじめとおわりでだれが、どのようにかわったを考えよう」
これは、学習の手引きの通りだ。
手引きに従って、おじいさんの行動を追っていくのはいいのだが、授業者は「気持ち」も尋ねた。
気持ちの問いは手引きに書いてないのに、「気持ちの変化」は国語の授業のメインになりやすい。
「登場人物の行動や様子を表す言葉に気を付けましょう」
とあるのに、ほとんど条件反射のように「気持ち」を考えさせてしまう。
今回は民話調の単純な話なので、登場人物の詳しい心情表現はあまりない。
〇石につまづいて転んでしまった
〇病気になってしまった
の2項目の「様子」の下に、「気持など」を書かせた。
次のような、おじいさんの行動が描かれていて、これが「気持ち」の根拠になっている。
【石につまづいて転んでしまいました】
①真っ青になり、がたがたふるえました
②おばあさんにしがみつき、おいおいなきました。
③「ああ、どうしよう、どうしよう。」
④「あと三年しか生きられぬのじゃあ。」
⑤ごはんも食べずに、ふとんにもぐりこみ
【病気になってしまいました】
百歩譲れば、①~⑤のような行動表現から気持ちを想像する学習は進めやすい。
◆これらのおじいさんの行動から、心情を自分の言葉で表現させる
◆行動を根拠に心情を発表させる
は、可能だ。
しかし、「気持ち」より大事なのは、本文に書かれた「行動や様子を表す言葉」だ。
書いていない気持ちを言わせるのは、「しょせん想像を言わせているだけ」という自覚が教師には必要だろう。
たとえば、「転んでしまいました」「病気になってしまいました」の「しまいました」は、どんな感じがするかを尋ねれば、
「悲しい感じがする」「なりたくないのに、なっちゃった感じがする」のような意見が出る。
「~しまいました」という表現は、失敗とか後悔とか、ネガティブな感情を誘発する。そういう表現に着目するのが、国語の授業だと思う。
◆「がたがたふるえる」「おいおい泣く」のようなオノマトペ
◆「すっかり青くなり」の「すっかり」のような強調の副詞、
◆「しがみつき」のような、特別な動詞、
なども着目させたいよね。国語なんだから。
授業の後半は、「トルトリ」が現れて、おじいさんがどう変わったかを考えさせていた。
ここは文章全部を読むと、ややこしい。
おじいさんのセリフだけを抽出して、そこに含まれる気持ちを想像させると、変化がつかみやすい。
「どうすればなおるんじゃ」・・・・・・・・・・・・不安・焦り
「ばかな。わしにもっと早く死ねと言うのか」・・・ 不信・怒り
「うん、なるほど。なるほど」・・・・・・・・・・・納得・安心
 民話の構造である【はじめー中―おわり】あるいは【起承転結】を理解させると、話の展開を読み取ったり、物語創作の手助けになったりできるようになる。
◆お話の最初と最後で大きく変わったのは「おじいさん」。
◆事件を解決したのは、中盤で登場した「トルトリ」。
起承転結で言うと、次のようになる。
【起】 主人公の登場
【承】 事件(ピンチ)発生
【転】 助言者の登場
【結】 事件の解決(めでたしめでたし)
※「助言者」と書いたのは、前道徳調査官の横山利弘氏の資料分析で問題解決の役割を担う人物を「助言者」と呼んでいることを利用した。
 ある人物がトラブルを起こしたところに、助言者になる人物が現れて事件が解決するというのは、単発のアニメでも道徳資料でもよくあるパターンである。
 「めでたしめでたし」の真逆の悲劇もある。これが「罰あたり・自業自得」系だ。助言者の忠告を聞かなかったから悪いことが起こる。
 事件を起こした人物が主人公になる場合もあれば、事件を解決した人物が主人公になる場合もあるので、『三年とうげ』の主人公は、「おじいさん」「トルトリ」の両者が出ておかしくない。
 トルトリの「助言」は、「知恵」と言ってもよいし「とんち」と言ってもよい。
 よくある物語の事件解決の方法としては、次の3つが主流かな。
①「腕力」・・・鬼退治のような「退治」系。「力比べ」と言えるか。
②「勇気」
③「知恵」・・・こちらは「知恵比べ」と言えるか。
道徳資料の場合「腕力」で問題を解決することは、ない。

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December 13, 2022

かば焼きの匂いは、うなぎ屋の前で捨ててきた

◆逸話の多い禅僧のひとりに「一休禅師」がおれらます。

ある日、お弟子さんと檀家の法事に参られる途中、たまたま「うなぎ屋」の前を通りかかったときの話です。

店の中からおいしそうな鰻を焼く匂いが漂ってきます。一休禅師は思わず「うまそうだな」といいました。

それを聞いたお弟子さんは驚きました。「自分たちのようなものでも、うなぎ屋の前でうまそうだな、というようなことを言うのはあまり行儀のよいことではない、ましてや一休禅師ほどの方がうまそうだなんて」何かを食べたいといった欲望を口に出すものではないと、弟子さんは思っていました。

やがて、家に到着したところで、お弟子さんは「和尚さんは先ほどうなぎ屋の前で、うまそうだなとおっしゃいましたが、あれは出家者の身としてよくないことではないでしょうか」と尋ねました。すると一休禅師は、

「お前はまだそんなことを引きずっていたのか。わしはかば焼きの匂いなどは、うなぎ屋の前で捨ててきた」

と言われました。

おいしそうな匂いにそそられる、それは誰にもある当たり前の感情です。

花屋の前では美しいとながめ、お菓子屋さんの前で「おいしそう」と思うことは、その時の目の前のことを精いっぱい味わっていることであり、「今」を大事にすることです。

しかし、ひとつのことに心を奪われたりしばられたりすると、「今」を見失ってしまいます

 

https://blog.goo.ne.jp/sakamichi361/e/25369d6e0d674ab75728bd3f7915adfb

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・・・保護者からのあるクレームがあって、このエピソードを思い出した。

私としては、ここで筆者が述べた「今を生きる」よりも、「思いを、その場に捨ててきた」という言葉の方が強烈に残っている。

いつまでも思いを引きずることの戒めだ。

この場合の一休さんは「うまそうだな」というポジテイブな心の声だが、「悔しい」とか「ばかやろー」などのネガテイブな心の声などは、しっかり吐き出した方が後に残らないと思う。

クレームを入れる方も、いつまでも過去にこだわらないで、今を生き、未来を志向してほしい。

「過ぎたことでなく、今後のことを考えましょう」

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ぼたんを植えたのは楽しむため

先に「教育は菊づくりではなく、大根づくり」と発信したが、

貝原益軒の言葉で「ぼたんの花」のエピソードも書いておく。

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教育書の「養生訓」「和俗童子訓」など、多数の本を著した、江戸時代の本草学者、儒学者として知られています。

今回は貝原益軒の生き方から寛大さ、視座の高さを学んでいきたいと思います。

ある日、外に出ていた間に、留守番の若者が隣の友達と、庭で相撲を取って、益軒が大切に育てていたぼたんの花を折りました。

若者は心配して、益軒の帰りを待ち受け、隣の主人に頼んで、過ちを詫びてもらいました。

益軒は少しも腹を立てた様子がなく、

「自分がぼたんを植えたのは楽しむためで、怒るためではない。」

と言って、そのまま許しました。

https://copel.co.jp/category2/ekiken-kaibara-precept/

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・・この言葉を、今の学校現場とリンクさせて考えてみた。

「学校に来るのは楽しむためで、ケンカするためでもトラブルを起こすためでもない」

しかし、これでは直接すぎるので、少し和らげて

「久しぶりに登校して、すぐにケンカやトラブルでは悲しいな。学校は楽しむために来るところだから、ケンカやトラブルが起きないよう気をつけようよ」

ぐらいで諭せたらよいと思う。

益軒の言葉は、

◆そもそも学校は勉強するところであって、悪ふざけするところではない。

◆今は勉強する時間であって、ケンカする時間ではない

◆先生のお仕事は勉強を教えることであって、みんなを怒るためではない。

などとも言える。

ただし、正論を押しつけると逃げ場を失った相手は反感しか持たない。

諭し方を十分注意しないと、益軒の「寛容さ」とは真逆の対応になってしまう。。

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教育は菊を作るような方法ではいけない。

許容範囲の狭い先生は「俺の言う通りにしろ」という圧迫感が強い。

子どもより自分の方が思慮深いのだから、間違っていないという思いが強い。「自分の方針に合うように子供を矯正するタイプ」という先生の存在を知って

「あっ、これが『菊作り』のことか」

と納得した。

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 総じて人を取り育て申す心持ちは菊好きの菊を作り候様には致すまじき儀にて、百姓の菜大根を作り候様に致すべきことに御座候。 菊好きの菊を作り候は、花形見事に揃い候菊ばかりを咲かせ申したく多き枝をもぎ取り数多のつぼみを摘みすて、のびたる勢いちぢめ、わが好み通りに咲くまじき花は花壇中に一本も立たせ申さず候。 百姓の菜大根を作り候は、一本一株も大切にいたし、一畑の中には上出来も有りへぼも有り、大小不揃いに候ても、それぞれに大事に育て候て、よきもわろきも食用に立て申す事に御座候。 細井平洲「鸚鳴館遺草」

新版「続・授業の腕を上げる法則」(学芸みらい社)

第一条 子供の教育は菊を作るような方法でしてはならないしてはいけない。

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・・・自分の好みになるようにつぼみを摘んだり、枝をはらったりするような教育ではいけない。

大根作りのように大小不揃いであっても、それぞれを大事にするべきであるという指摘を、向山先生の著作から学んだ。

新卒数年という時期に、この教えを読むことができて幸運だった。

 「自分は一生懸命教えているんだから、これでできないのは私の責任ではない」と「落ちこぼし」やむなしと考える教師も少なくない。 「できる子は伸ばすが、できない子は仕方ない」というエリート教育と真逆の教育が、日本の民度の高さ、普通の人々の教育力の高さに繋がっている。

(1) 自分にとっては常識になっている「菊作りではなく、大根を作るように」という教育観が、果たしてみんなの常識になっているかは疑問である。この機会に、しっかり広めていきたい。

(2)教師だって様々だ。不揃いでも、無理に揃えず、それぞれの個性や強みを活かせるようにするのが学校経営の根幹だ。

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December 07, 2022

教師がしゃべりすぎるから、子どもはしゃべらなくなる。

教師の話を聞く(説明を聞く)という場面は、

◆受け身になりやすい。

◆聞いているかどうかの確認がしづらい。

ということで、できるだけ、音声入力に頼らない授業の工夫が必要になる。

(1)子どもと子どものやりとりを設定する

多くの教室では、発言する子が教師に向けて話すので、まずはここを直す必要がある。

「みんなに向けて話す」が難しい場合は、発言する子を前に出させればよい。

T-C、T-Cの繰り返しでは単調になる。

Tに対してC1,C2,C3のように展開したり

Cに対してC1,C2,C3となるような展開になれば、それだけ子供の思考時間が多い授業になる。

 

(2)「見れば分かる・読めば分かる」は、説明しない

黒板に書いてあるんだから、見れば分かる。

教科書に書いてあるんだから、読めば分かる。

こういう内容を教師が話しても、子どもは聞いていないし、聞いてなくても困らない。

聞いてなくても困らないようなことを話すから、ますます子供は聞かなくなる。

「皆で読みましょう。説明できる人お願いします」で流せれば、教師の音声は相当減らすことができる。

 

(3)聞いていれば分かる

「聞いていないと困る」という場面がある。

しかし、実際には、聞いていない子がいると、教師がもう一度再説明してしまう。

これで、子供は全く困らなくなる。

「聞いてなくても、なんとかなった」という成功体験ばかりで、「聞いていなくて、とても困った」という失敗経験がないから、いつまでたっても話を聞かない子がいる。

 

(4)復唱するから、聞かなくなる

子どもの意見を教師が復唱するのは時間の無駄。

復唱したいなら、子供にやらせるべきだ。

解説も同じで、くどくど説明しても子供は聞いていない。

説明も、できるだけ子供にやらせるべきだ。

 

(5)詰めが甘いから、聞かなくなる

(3)(4)と重複するが、

「〇〇君、今△△さんがいったこと言ってみて」

「〇〇君、今読んだところもう一回読んでみて」

といった詰めがないと、授業に緊張感が生じない。

 

教師の親切が「大きなお節介」になってはいけない。

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ワンウエイの授業は、子供がついてこない。

 授業がうまくいかない原因の一つは、授業がワンウエイになっていることだ。

 「発問で対話する」「討論で対話する」について、もっと突き詰めてみようと思う。

と決意したものの、どこから始めていいか戸惑い、とりあえずWEB検索。

 「ソクラテスメソッド=対話術」について、久しぶりに色々サーフィンしてみた。

=============〜============

日本の大学では、教授が十年来の講義ノートを一方的に読んだり、黒板に書いて教える形式が一般的ですが、こうした知識詰め込み型の講義形式とサンデル教授のソクラテス的対話方式には明らかに違いがあります。ソクラテス的対話方式では、解答のない問題について皆で意見を出し合いながら、多面的な見方を相互に学んでいくのです。しかも、ソクラテス的対話方式は、米国では初等教育でも行われているのです。

"https://debatekk.net/education/20170611/

============

このWEBの中で、さらに以下の引用がある。

============

出典:玉川大学 第4・5回海外教育事情(連携)視察報告(1995-1996) 

Buckingham Browne & Nichols School(以後BB&N;)で授業参観した際に,5年生の教室で先生が私達を児童に紹介し「子供達に質問があったら何でもしてみてください」と言われる場面があった.私達から児童たちへのいくつかの質問の中に「日本のスポーツ選手で知っている人はいますか?」というものがあったが,すぐには回答がなく,しばらくたってから「アッ,知ってる,知ってる,ヒデオ・ノモは日本人だ」との答えがあり,次に「たしか,スケートのクリスティー・ヤマグチも日本人じゃなかったかしら」という返事が返ってきた.その後,しばらく児童たちでワイワイ言い合っていたが,「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら」「私達がテレビで見ているのは国内のスポーツだけだからさ」「つまり情報源が偏っているということになる」「ということは発信する側の情報を一方的に受け入れずに,こちらから必要な情報を求めればよいということになる」「ただし,なぜ外国のスポーツ選手を知る必要があるのかは別問題」などのやりとりが展開された.日常の些細な事象を通して「懐疑的」あるいは「批判的」な思考力を育てようとする姿勢が垣間見られる場面であった.

===========

・・・なるほど、この場面は「引き出す」の一例だと思う。

T「日本のスポーツ選手で知っている人はいますか?」

C「アッ,知ってる,知ってる,ヒデオ・ノモは日本人だ」

C「たしか,スケートのクリスティー・ヤマグチも日本人じゃなかったかしら」

その後,ワイワイ言い合っていた子どもたちが自分たちで問いを立て、自分たちで解決し始める。

 

「なぜ、私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら?」

C「私達がテレビで見ているのは国内のスポーツだけだからさ」

C「つまり情報源が偏っているから」

C「ということは発信する側の情報を一方的に受け入れずに、こちらから必要な情報を求めればよい」

C「ただし、なぜ外国のスポーツ選手を知る必要があるのかは別問題だよね」

・・・日常の些細な事象を通して「懐疑的」あるいは「批判的」な思考力を育てようとする姿勢が垣間見られる場面であった、と記されているが、「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら?」の子供の中の問いが、分岐点になっている。

 日本なら、多くの場合、ここは教師が問いかけて新たな展開に持っていくところだ。授業を教師が主導する前提なら、この発問は教師だけに許可される。しかし、「問いかけ」も含めて自由発言が許容されていれば、新たな問いが子どもから生まれ、その問題解決を皆で始めるこのような展開もあるわけだ。

 有田学級の授業は、有田先生の巧みな話術と問いかけで、子供の思考がどんどん深まっていく。有田先生なら「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのか?」と問うだろう。それが、いわゆる「揺さぶり発問」だ。無論、有田学級の子どもは「はてな帳」で鍛えてあるから、自分で問いを立て、自分で解決する(追求する)子もいるだろう。有田先生も、自問自答できる子=独り立ちできる子をめざしている。

 向山学級の「磁石」の授業の鍵となる問いは、子どもの疑問、子どもの発見であった。子どもから生じた気付きの中から向山先生が学級討論させるに足ると判断したものをチョイスして投げかけたものだ(と理解している)。なお、各自で検討している途中で、向山先生のところに話しに行く場面の設定がある。これは「小さな対話」が確保と言えるだろうか。

 「優れた発問による授業」だけでは、子供が発問待ちになる・子ども自身が問いを持てるように育てよと言われる。

だから、分析批評のような「解釈コード」を教えることが、一人読み・独り立ちさせるために欠かせない。

ワンウエイでない授業の工夫、「ツーウエイ文化」について、もっともっと深めていかねば。

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December 06, 2022

「プラタナスの木」(光村国語4年)

変化に着目させて、変化していない部分を考えさせたい~

今回真剣に読んでみた。
淡々と書いてあるからか、以前読んだ時は、大きな変化・大きな事件を感じなかった。
でも、学習の手引きは「話の変化・人物の変化」をメインにしていて「登場人物の変化を中心に読み、物語をしょうかいしよう」とある。
①物語の最初と最後で、「マーちん」はどう変わりましたか。
②「マーちん」が変わるきっかけとなった出来事は何だと思いますか。
③最後の場面で「マーちん」はどんなことを感じていたと思いますか。
(②③の文末は「思いますか」だから、自分の解釈で良いのだな)。
そして、紹介文は次の型が示されている。
◆「プラタナスの木」という物語には「マーちん」という人物が出てきます。
最初は----だった「マーちん」は----や-----という出来事を通して・・・・
最後まで読むと----な気持ちになります。ぜひ読んでみてください。
はっきり書いてないが、場面の変化・人物の変化から、自分なりの「見方・考え方(主題)」を考えようということだ。
主役の「マーちん」って、そんなに変化あったかな?
読み手である子供にとっての大きな変化は「プラタナスの木」が倒れたことと、おじいさんがいなくなったことだ。それに比べたら「マーちん」の変化(成長)は、読み取りにくい。
それでも、「異変」という言葉があるから、その中身を読み取る必要はある。
1・2場面・・・一学期
3場面・・・・・夏休み(台風)
4・5場面・・・二学期
という構造がしっかりしているから、場面の変化は読み取れやすい。
次のようにひとり読みを進めていった。
①「プラタナスの木が台風で倒れ、切り株だけになった」のが「異変」
②(だけど)「プラタナスの根は生きている」
③(だから)「春になれば芽を出す」
④(つまり)「目に見えないだけで本当は生きている」
⑤(ひょっとして)「おじいさんも、目に見えないだけで、きっと生きている」
⑥(こうして)「1学期は分からなかったおじいさんの言葉の意味が、今になって分かってきた」
⑦(ということは)「プラタナスの木がなくなって、初めて、そのありがたさに気づいた」ということでもある。
・・・と、読む進めてふと思った。
◆目に見える「変化」を意識して読んできたが、変化しない「本質」こそが大事なのではないか。
季節は変わり、公園の様子は変わり、おじいさんはいなくなり、僕たちも成長した。
しかし、
====================
プラタナスは、切りかぶだけになってしまったけれど、ぼくたちのプラタナス公園は変わらない。春になれば、プラタナスも芽を出すだろう。そうすれば、きっとまた、おじいさんにも会える。それまでは、ぼくたちがみきや枝や葉っぱの代わりだ。そう思いながら、マーちんは大きく息をすって、青い空を見上げた
====================
という最終段落は「変わらない」が強調されているように読める。
・「プラタナス」の命は変わらない。
・「公園」は変わらない。
・「僕たち」はサッカーはしなくなったけど、友情は変わらない。
・「おじいさん」にもいつかは会える。
・「季節」は、また巡ってくる。
・「青い空」は、いつも変わらない。
・・・そうか、自分が初読で「変化のない作品」と感じたのは、最終段落で「本質的には何も変わっていない」と読み取っていたからだ。
「変わらない」の印象が強い作品なのだ。
◆「見た目の変化にとらわれず、本質を大事にしろ」
◆「本質さえ変わらなければ、変化を嘆く必要はない」
は、大人の読みだから、子どもには強要しない。
そういう読みもあってよいということでしかない。
他方、「変化=無常」を感じさせる読み方もできる。
◆世の中は、いつまでも、「あって当たり前」「いて当たり前」ではない。
◆私たちは、「ある」ことが特別だと思うべきだ。
◆私たちは、なくなって初めて大事さに気づくものだ。
◆人は成長する。自然も変化する。いつまでも「同じ」ではない。
ただし、この作品から「僕たちは環境を守る番だ(環境保護、自然愛護)」につなげるのは無理があると思う。

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楽しい授業は、疑問が次々浮かぶ

 4年生の国語の授業「熟語の成分」で、ただ教科書の熟語をノートに書き写すだけの授業を見たことがある。

 正確に言うと、デジタル教科書の画面をスクリーンに映し出しているので、担任は板書すらしない。

 教室後方で見ながら、熟語の1つ1つが気になって仕方なかった。よく子どもは退屈な授業を我慢しているなあと感心もした。

 「登山 山に登る」の例題があった。

 見ているだけで、いろいろ連想した。

 

①「登山の」反対は「下山」。「山を下りる」であって「山を下る」じゃない。

②でも「登る」と「下りる」では「上下」みたいな対語にならないのはなぜ?

③「登る」と「下りる」のセットには「登校・下校」がある。でも、あとは思いつかないが、何かあるかな?

④「上京」の反対は何だ? 「下京」という言葉はないよな。

⑤辞書を引いたら「下向(げこう)は「都から地方へ行くこと」があった。初めて聞いた。

⑥でも、なんで「下向」なんだ? これは訓読みでどうなるのか、

 

 職員室に戻って、WEB大辞林3版で「のぼる」を検索する。

のぼる【上る・登る・昇る】

「上る」は上方へ行く。上京する。とりあげられるの意。「坂を上る」「川を上る」「都に上る」「話題に上る」「数億に上る損害」「頭に血が上る」 

「登る」は高い所へ移動するの意。「山に登る」「壇上に登る」「石段を登る」 

「昇る」は太陽・月・位などが高く上がるの意。「日が昇る」「煙突から煙が昇る」「高い位に昇る」「天にも昇る心地」

〔いずれも上方へ移動する、という点で共通だが「登る」には一歩一歩地を踏みしめて上がる意が込められ、「昇る」には一気に移動するというニュアンスがある〕

 

・・・なるほど。「のぼる」に三種類あるなどと意識したことがなかった。

 しかし、対にすれば「上下」「昇降」はあるが「登下」はない。「昇り降り・上り下り」のような対語がないのは納得がいかないな。

 

 「登山・下山」「登校・下校」。この「登・下」はすごく気になる存在だ。

 

・・・国語の「言葉のまど」のような単元は、こうやって次々浮かんでくる疑問を調べたりするから楽しいんだと思う。それが「拡散的思考」だ。

 一方、教科書に載っている例文だけ書き写してもちっとも楽しくない。「収束的思考」は、様々な事例を体系化する上で重要ではあるが、そればっかりでは退屈なのだ。

 

追記

 あれ?、退屈な授業中に、授業そっちのけで自問自答して楽しい時間を生み出していたんだから、「楽しい授業は~」というタイトルに問題があるな。 

 「つまらない授業でも、疑問をうかべれば自分1人でも楽しめる」の方がよかったかもしれません。

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December 05, 2022

「三年とうげ」(3年光村)

「転んだら三年しか生きられない」という三年峠で転んでショックを受けているおじいさんが
「1回転べば三年生きられる」と解釈したトルトリの助言により、
何度も転んで「めでたしめでたし」となるお話。
「お話のはじめとおわりでだれが、どのようにかわったを考えよう」というめあては学習の手引きの通りだ。
手引きに従って、おじいさんの行動を追っていくのはいいのだが、ある授業者は「気持ち」も尋ねた。
そんなこと手引きに書いてないのに、「気持ちの変化」をメインにしてしまったのである。
「登場人物の行動や様子を表す言葉に気を付けましょう」とあるのに、ほとんど条件反射のように「気持ち」を考えさせてしまうことが起きてしまうのだ。
今回は民話調の単純な話なので、登場人物の詳しい心情表現はあまりない。
たとえば
A:石につまづいて転んでしまった
B:病気になってしまった
の2つの「様子」の間には、次のような、おじいさんの行動が描かれていて、これが「気持ち」の根拠になる。
【石につまづいて転んでしまいました】
①真っ青になり、がたがたふるえました
②おばあさんにしがみつき、おいおいなきました。
③「ああ、どうしよう、どうしよう。」
④「あと三年しか生きられぬのじゃあ。」
⑤ごはんも食べずに、ふとんにもぐりこみ
【病気になってしまいました】
百歩譲れば、①~⑤のような行動表現から気持ちを想像する学習は進めやすい。
◆これらのおじいさんの行動から、心情を自分の言葉で表現させる
◆行動を根拠に心情を発表させる
は、可能だ。
しかし、「気持ち」より大事なのは、本文に書かれた「行動や様子を表す言葉」だ。
書いていない気持ちを言わせるのは、「しょせん想像を言わせているだけ」という自覚が教師には必要だろう
(それにしても、「悲しい」「不安」のような言葉で片づけていいのかなと迷ってしまう)。
ちなみに、私は介入させてもらって、「転んでしまいました」「病気になってしまいました」の「しまいました」は、どんな感じがするかを尋ねた。
すると、「悲しい感じがする」「なりたくないのに、なっちゃった感じがする」のような意見が出た。
「~しまいました」という表現は、失敗とか後悔とか、ネガティブな感情を誘発する。
そういう表現に着目するのが、国語の授業だと思う。
◆「がたがたふるえる」「おいおい泣く」のようなオノマトペ
◆「すっかり青くなり」の「すっかり」のような強調の副詞、
◆「しがみつき」のような、特別な動詞、
なども着目させたい。国語の授業なのだから。
授業の後半は、「トルトリ」が現れて、おじいさんがどう変わったかを考えさせていた。
ここは文章全部を読むと、ややこしいので、おじいさんのセリフだけ取り出すとよい。
おじいさんのセリフだけを抽出して、そこに含まれる気持ちを想像させると、変化がつかみやすい。
「どうすればなおるんじゃ」・・・・・・・・・・不安・焦り
「ばかな。わしにもっと早く死ねと言うのか」・・ 不信・怒り
「うん、なるほど。なるほど」・・・・・・・・・納得・安心
 民話の構造である【はじめー中―おわり】あるいは【起承転結】を理解させると、話の展開を読み取ったり、物語創作の手助けになったりできる。
◆お話の最初と最後で大きく変わったのは「おじいさん」。
◆事件を解決したのは、中盤で登場した「トルトリ」。
起承転結で言うと、次のようになる。
【起】 主人公の登場
【承】 事件(ピンチ)発生
【転】 助言者の登場
【結】 事件の解決(めでたしめでたし)
※「助言者」と書いたのは、前道徳調査官の横山利弘氏の資料分析で問題解決の役割を担う人物を「助言者」と呼んでいることを利用した。
 ある人物がトラブルを起こしたところに、助言者になる人物が現れて事件が解決するというのは、単発のアニメでも道徳資料でもよくあるパターンである。
 「めでたしめでたし」の真逆の悲劇もある。これが「罰あたり・自業自得」系だ。助言者の忠告を聞かなかったから悪いことが起こる。
 事件を起こした人物が主人公になる場合もあれば、事件を解決した人物が主人公になる場合もあるので、『三年とうげ』の主人公は、「おじいさん」「トルトリ」の両者が出ておかしくない。
 トルトリの「助言」は、「知恵」と言ってもよいし「とんち」と言ってもよい。
 よくある物語の事件解決の方法としては、次の3つが主流かな。
①「腕力」・・・鬼退治のような「退治」系。「力比べ」と言えるか。
②「勇気」
③「知恵」・・・こちらは「知恵比べ」と言えるか。
道徳資料の場合は「腕力」で問題を解決することはない。

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December 01, 2022

趣意説明が大事な理由

「『なぜ』を考えるとやる気が出る」という主張を読んだ。
「早く教科書を広げて、暗記しなさい」と具体的な行動を示すより、「この勉強は大学入試に役立つよ」と、行為の意味や意義を示す方がやる気が出ると言う。
「あと1時間、PCに向かってキーを打て」と残業を命ずるより
「このひと頑張りがキャリアアップに結び付くよ」と伝える方がいいのだともある。

これは、「趣意説明の法則」と重なるものだ。

=====================
◆「なぜ勉強するのか」という理由を理解することで、意欲が高まるのです。丸暗記しなさいと言うだけでは、子どもは熱心に机に向かわないでしょう。(p38)

◆理由が明確になることで、小さな行動が、大きな目標を達成するために一歩に変わる(p40)

「やってのける ~意志力を使わずに自分を動かす~」
 ハイデイ・グラント・ハルバーソン (大和書房)
======================

・・・まさに、「趣意説明の原則」。 
 さらに、難しい行動をさせるときは、「なぜ」より「何」を示せとあるが、これも向山先生が主張済みである。

 前掲書には、初めて掃除機を使うような人なら


「家の中をきれいにしよう」よりは
「この道具を使ってホコリを吸い取ろう」

の方が行動させやすいとあり、さらに次のようにまとめてある。

===================
◆「何」を基準にすると、具体的な行動に意識が集まります。(中略)難しい何かに挑むときは、いったん「大きな絵」は忘れ、目前のタスクに集中するとよいのです。
====================

・・・「目前のタスクに集中させたいなら、具体的な行動指示を示す。」という指摘は、

「ごみを5つ拾いなさい」に代表される指示(号令)と重なるところだ。
 趣意を示して具体的な行動を指示するのが、「命令」。
 趣意を示して、行動は任せるのが、「訓令」。

 この3つの指示について調べてみると、あるサイトで、相手に合わせて(あるいは難度度に合わせて)使い分けることの大事さがまとめてあった。

===============
訓令で十分な社員に、「号令」で指揮したら?
仕事に意味を見いだせなくなって、辞めていきます。

号令の必要な社員に、「訓令」で指揮したら?
上司の仕事の指示が悪いと不満を口にします。

”号令”の必要な社員に”訓令”で指揮しても、
期待した成果は得られません。役に立たないのです。

”訓令”で充分な社員に”号令”で指揮したら
働くことに意味を見出せなくなります。
そして、辞めてしまいます。

指示命令する
・相手の能力によって、
・役職によって、
訓令・命令・号令を使い分けることがとても大切です。

これがマッチしていないと、会社にとっても社員にとっても、 悲しい結末に向かいます。

http://www.teoria.jp/?p=967
====================

 

 日常の号令・命令・訓令の具体例 ----

「明日八時東京発ヒカリの切符を一枚買ってきてくれ」と号令すれば、売り切れたと言われた女の子は手ぶらで帰ってくる。
それで腹を立てるなら、命令すべきである。
「明日十二時までに大阪に着きたい。八時のヒカリを一枚たのむ」と命令すれば、売り切れのときは七時五十分のヒカリ、それもだめなら七時のコダマを買ってくるので、朝少し早く起きるだけで用は足りる。
「明日十二時、大阪で大切なお客に会いたい。よろしく頼む」と訓令すれば、社長の疲労を考える庶務課長は飛行機を手配し、こちらの顔色によって今夕のヒカリにし、大阪にホテルを予約し、あすの難問題に備えるエネルギーを蓄えさせてくれる。
部下が思うように動かなくて腹が立つのは、たいてい自分が号令を使っている場合である。

http://www.heihou.com/page_10-1.htm
=====================

・・・向山先生の著作で知った指示の原則だが、別の資料と重なることで、記憶がより深く刻まれていく。
 訓令も大切だが、命令や号令が必要な場面もある。相手に応じて臨機応変のに指示を仕方を変えていく必要がある。
 「人を動かす」ための指示の原則は、奥が深い。

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「GRIT」と「愚直」と「運・鈍・根」

 「GRIT」の次の箇所(P78)を読むと、成功は一夜にして得られないことがよく分かる。

◆「たしかに、才能は生まれつきのものだ。だがスキルは、ひたすら何百時間も何千時間もかけて身につけるしかない」

◆「努力によってはじめて才能はスキルになり、努力によってスキルが生かされ、さまざまなものを生み出すことができる。」

・・・訳の問題かもしれないが、「やりぬく力」=「情熱プラスねばり強さ」だとしても、それが「努力」「持続力」「忍耐力」「意欲」などと、どう区別すればよいのかが難しい。

 そのことを学生に言い含める形で示したくだりは、語句整理の参考になった。(P79~81)

◆「やり抜く力っていうのは、瞬発力じゃなくて持久力のことなのよ」
◆「目標は次々に変わるようではーまったく別の分野にあれこれ手を出しているようでは、だめでしょうね」
◆「ものすごくがんばるだけでは、やり抜く力があるとは言えないの」
◆「専門知識をしっかり身につけるのも、難しい問題の解決法を見つけるのも、ほとんどの人が思っている以上に、ものすごく時間がかかることなの。」
◆「そして、これがいちばん重要なこと。やり抜く力は、自分にとってかけがえのないことに取り組んでこそ発揮されるの。」

 

・・・日本古来の「努めて止むな」「継続は力なり」という言葉と重なる。

努力の本質もまた「持久力」である。
そのようなワードの中で、「愚直の一念」=「愚かしいほど実直に、一念を貫く」という言葉が浮かんできた。

====================
これは渡辺淳一が「公園通りの午後」という短編集の中で、東大内科の呉建教授について語った言葉です。
彼は、当時の指導教授から、「心臓」とだけ言われて研究テーマを与えられたのですが、当時心臓の研究は迷路とされていて、周りからも「そんな出口の見えない研究をやってどうするんだ」と言われ続けていた時代です。
それでも呉教授はひたすら心臓の研究に取り組み、10数年後に大きな成果を上げることが出来たんです。
この実話を渡辺淳一が「愚直の一念」という言葉で紹介していました。
僕もかつて、大学の先輩に活性酸素とか特異性のない物質の研究なんてやめた方が良いと言われたことがあります。
それでも、めげずに活性酸素の研究をやっていますから、好きな言葉ですね。重なりますよね。

http://www.gs-medsci.med.tohoku.ac.jp/newlyappointed/2013-11-01/
====================
 
 こうして「愚直」を調べていたら、「運・鈍・根」の「鈍」につながっていった。

 

 「運根鈍(うんこんどん)」
◆成功するためには,幸運と根気と,ねばり強さの三つが必要であるというたとえ。
◆何事においても成功するには、天運に恵まれること、ささいなことにこだわらず神経が太いこと、根気強いこと、この三つが必要だという意味。

 以下は、田原総一郎氏の発言。
==============
近江商人について、もう1つ祖母に言われていたのが、「運・鈍・根」です。人間は「運」が良くないといけない。運がいいとか悪いとかじゃなく、いかに運を引き込むかが重要なのです。
そのためにはまず「鈍」になれ、馬鹿になれという事です。
要領良くやろうとしたり、こざかしくやろうとしたりはいけません。馬鹿になって、要領よくやるのです。
世の中で活躍する人は不器用な人間が多いものです。器用な人間は何でも出来ますから、器用貧乏で使われてしまいます。
馬鹿になって、それで「根」気強くやれば運は開ける、これが「運・鈍・根」なのです。
http://www.service-js.jp/modules/contents/?ACTION=content&content_id=651
==========


・・・運がいいかどうかということは、人生にとって大切なことで、人間は運がいいほうが決まっている。

しかし、運はあらかじめ決まっているものではなく、自分の力で切り開いていくものだ。

そして運を味方につけるには、鈍感になることだ。
物事に敏感な人間は、すぐにどちらが得かを比べたり、「こんなことをしていて何になるんだろう」と思って途中で投げ出したりしてしまう。


http://tokumoto.jp/2016/07/17342/
http://systemincome.com/35392
====================

・・・続いて、平成18年度東京大学学位記授与式総長告辞
 「知のフロントランナー」の説明から「運鈍根」の「鈍」につなげていく。

長いが読みごたえがある。
=====================
 それぞれの活動の場において、勇気と能力と責任感をもって、知の最先端に立ち、未知なるものに挑戦し、困難な課題を解決しようとする人はすべて、知のフロントランナーの有資格者です。皆さんは、知のフロントランナーとなるために必要な能力を、確実にお持ちです。あとは、先頭に立つ勇気と責任感を身につけて、それぞれの活動の場で知のフロントランナーを目指してください。
私がこれからお話することは、知のフロントランナーを目指すうえで必要と思われる三つの勧めです。

 三つの勧めの第一は「鈍の勧め」です。
「鈍」とは鈍感の「鈍」です。しばしば「運・鈍・根」と3つ続けて、「事を成し遂げるのに必要な3条件」の意味で使われます。
この場合、「鈍」は愚直を、「運」は幸運を、「根」は根気を指します。
私は「運・鈍・根」のうち、「運」を重視しません。幸運が時に重要な役割を果たすことは否定しませんが、科学者は幸運を当てにしてはいけないからです。
私は、「根」も重視しません。根気が成功に欠かせないことは事実ですが、根気をあまり強調すると、無意味な精神主義に陥ってしまうからです。

 「運・鈍・根」のうちで私が重視するのは「鈍」、つまり愚直です。愚直とは、愚かなほどに正直なことです。
より正確に言えば、周囲から愚かに見られるほど、自分の信念に忠実に行動することを指します。
優れた能力を持つ人が、周囲の目には愚かに映るというのは、彼、あるいは彼女が、他人の評価や社会の流行を安易に受け入れることをせず、あくまで自らの信念に則って行動するからです。
外部からの信号に同調するのではなく、自らの内部にあるジャイロスコープに従って行動する人間が、私のイメージする愚直な人です。
彼、あるいは彼女は、付和雷同しません。しかし同時に、頑なでもありません。彼、あるいは彼女の信念は、確実な根拠に基づいて考え抜かれたものであり、それゆえに単なる流行に付和雷同することはありません。
しかし、自分よりも優れた見解に出会ったときは、それまでの見解を潔く変更する決断力を持っています。
実は、こうした愚直な人間像こそ、私が長年理想としてきた研究者の在り方なのです。
 研究者は登山家に似ています。
誰も解いたことのない課題に挑戦し解答を見出すのが研究者の使命ですが、登山家も、誰も登ったことのない山に初登頂し、誰も歩いたことのないルートを初制覇することに、生き甲斐を感じるからです。そして、単に生き甲斐を感じるだけでなく、他の人々に先んじて業績をあげることによって社会から評価を受けるという点でも、研究者と登山家は似ています。
 愚直な研究者を登山家に例えれば、彼が目指すのは、彼が登るに値すると確信する山です。
周囲に他の登山家の姿はほとんど見かけません。余りに険しい山で、頂上がどこにあるかすら定かではなく、これまでに多くの登山家が挑戦してことごとく退けられ、膨大な時間とエネルギーをかけても登山に失敗する可能性が高いと、他の登山家たちは知っているからです。愚直な登山家も、もちろんそのことは知っています。しかし、この山は登る価値があると確信するがゆえに、ひたすら頂上を目指します。既存の常識に捉われず、思い込みを排して、ありとあらゆるルートを試み、時には迂回することも躊躇せず、一歩一歩着実に頂上を目指します。その試みが成功するとは限りません。しかし、成功したとき、それは世界的業績と称えられることになるのです。
 愚直さは、研究者としてもっとも重要な要素であると私は確信していますが、研究者が愚直であり続けることは、次第に難しくなりつつあります。それは、短期間のうちに、目に見える形での成果を求める傾向が、強まりつつあるからです。企業など利潤を上げることを目的とする組織では、成功の見通しの乏しい研究を長期にわたって続けることは困難です。大学は利潤を目的とした組織ではありませんが、研究費の多くが競争的資金によって賄われており、競争的資金を継続的に獲得し続けるためには、研究者は絶えず研究成果を挙げ続けなければなりません。こうした環境では、成功の確率の低い大きな問題よりも、成功の確率の高い小さな問題を選ぶ傾向が支配的になってしまうのです。
 再び登山に例えれば、研究者が成功の確率の高い小さな問題を追い続けるということは、登山家が登りやすい山を選んで登山するようなものです。
多くの業績を積み重ねても、人類の知の境界を大きく拡張するような成果は生まれないでしょう。既成の知識体系をブレークスルーするような新たな発見は、愚直な研究から生まれる可能性が高いのです。
愚直な研究者であり続けることは、困難なことです。
そのことを前提としたうえで、それでも私は皆さんに、心のどこかに、愚直な研究者を理想とする意識を持ちつづけて頂きたいと思っています。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/b_message18_06_j.html
=======================

・・この後、三つの勧めの二つ目が「俯瞰の勧め」、最後が「教えの勧め」と続くが、この部分だけでも、なるほど奥が深い。

 目先の結果を求めない研究者としての「志」の必須要素は「愚」なのだと説いている。
 「GRIT」で言えば、職業を「仕事」や「キャリア」として選ぶのではなく「天職」として選ぶ人たちが「やり抜く力」が強く、仕事に対する満足感も強いという部分と重なってくる。

 「こんなことしてどうなるのか」などと目先の損得にとらわれない愚直さが、時に強烈なエネルギーになる。
 
 とはいえ、「今自分が選んだ道は本当に正しい」と100%の自信を持てる人ばかりではない。愚直に突き進んだ行動が良い結果にならないことはたくさんある。その見極めが難しいところなのだが・・。

=======================

 

「GRIT」のおまけ

 中学生の進路相談も山場だ。

 ラストスパートであるとはいえ、これ以上頑張らせたら壊れてしまう子もいるし、何度言っても焦りのない子もいる。

 全員の心に沁みるような全体指導の言葉かけは難しい。
 直近の受験対策ではなく、もう少し長期的な視野に立っての進路選択の大切さを伝えたい。
 そんな話題に沿って、手持ちの「GRIT」をパラパラめくっていると、使いたい箇所がたくさんヒットする。

=======================
若い人たちに「自分が本当に好きなことをしなさい」とアドバイスするのは、バカげたことなのだろうか。
じつはこの問題については「興味」を研究している科学者たちが、この10年ほどで最終的な結論に達した。
第一に、人は自分の興味に合った仕事をしているほうが、仕事に対する満足度がはるかに高いことが、研究で明らかになった(中略)
第二に、人は自分のやっている仕事を面白いと感じているときのほうが、業績が高くなる。(中略)
自分の興味に合った分野を専攻した大学生は、成績が高く、中途退学の確率も低いことが分かっている。(P140)
=======================

というくだりは、「好きな進路を選べ」というメッセージにはなる。

ただし「好きなことなら努力しなくていい」とは言っていない。

=======================
「誰だって、自分が本当に面白いと思っていることでなければ、辛抱強く努力を続けることはできません」(中略)
「ただ、好きだからといって、上達できるとは限らない。努力をしない限り、上達するはずがないのだ。
だから、多くの人は、好きなことをやっても全然うまくならない」
 私もそう思う。自分の興味があることを掘り下げるにしても、練習に励み、研究を怠らず、つねに学ぶなど、やるべきことは山ほどある。
だからこそ言っておきたいのは、好きでもないことは、なおさらうまくやれるはずはないということだ」(P147)
=======================

というくだりは、「好きなことでさえ努力が必要だ」と釘をさしている。
 だから、逆に言うと

◆好きでもないことをやらざるを得ない場合は、相当の覚悟が必要だ◆  

ということになる。
 目先の受験勉強で言えば、不得意教科の努力は大変だということ。

 決して「好きな教科だけやっていればよい」ということにはならない。

◆得意な教科から先に取り組んでモチベーションを上げたり、調子を上げたりしておく。

◆徹底的な得意な教科をつくって、確実に点数を稼いでおく。
などの策を講じることになる。

 さて、長期的な進路選択の話というと、次の箇所も外せない。

「モチベーション3・0」にも同様の指摘があった。
==========================
自分の仕事は重要だと確信してこそ、「情熱」が実を結ぶ。
目的意識を感じないものに、興味を一生持つ続けるのは難しい。
だからこそ、自分の仕事は個人的に面白いだけでなく、ほかの人びとのためにも役立つと思えることが絶対に必要だ。P133

「大きな目的」のためなら、粘り強くがんばれる P215
==========================

 「グリット」をそのまま中学生に読ませたいとは思わないが、エッセンスをうまく伝えていけるといいなと思う。

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季節の言葉「秋深し」

初夏秋冬。

みんなは、何月から何月で分けますか?

二通りの意見が出るかな。

A春: 3・4・5月 夏:6・7・8月 秋:9・10・11月 冬:12・1・2月

B春:4・5・6月 夏:7・8・ 9月 秋:10・11・12月 冬:1・ 2・3月

3月は冬ではないだろうということでAの方が多かった。

でも、昔は、Aだったのだと説明をする。

春1、2、3月 夏4、5、6月 秋7、8、9月 冬10、11、12月

1月が春って変だよね。

でも お正月のこと「新春」「初春」って言うでしょ。だから、1月が春でもおかしくないんだよ。

ただし、昔の1月は今の2月になります。

春2・3・4月 夏5・6・7月 秋8・9・10月 冬11・12、1月

続いて教科書にある秋の6つの節気を見る。

立秋 8/8ごろ処暑 8/23ごろ白露 9/8ごろ秋分 9/23ごろ寒露 10/8ごろ霜降 10/23ご

ろ気づいたことを言わせてみる。

・・「ほぼ15日ずつで区切れている」

すごいね。よく分かったね。その理由は言えるかな?

さすがに出なかったので、解説。月の満ち欠けです。1か月とは「月(つき)」の動きのことで、昔は太陰暦、つまり月の満ち欠けでカレンダーを作っていたんです。

 

この後、太陰暦の便利なサイトを使って、確認をした。

https://www.ajnet.ne.jp/diary/ 

月の満ち欠けも絡んでくるから、理科の復習でもあった。

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