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December 07, 2022

ワンウエイの授業は、子供がついてこない。

 授業がうまくいかない原因の一つは、授業がワンウエイになっていることだ。

 「発問で対話する」「討論で対話する」について、もっと突き詰めてみようと思う。

と決意したものの、どこから始めていいか戸惑い、とりあえずWEB検索。

 「ソクラテスメソッド=対話術」について、久しぶりに色々サーフィンしてみた。

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日本の大学では、教授が十年来の講義ノートを一方的に読んだり、黒板に書いて教える形式が一般的ですが、こうした知識詰め込み型の講義形式とサンデル教授のソクラテス的対話方式には明らかに違いがあります。ソクラテス的対話方式では、解答のない問題について皆で意見を出し合いながら、多面的な見方を相互に学んでいくのです。しかも、ソクラテス的対話方式は、米国では初等教育でも行われているのです。

"https://debatekk.net/education/20170611/

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このWEBの中で、さらに以下の引用がある。

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出典:玉川大学 第4・5回海外教育事情(連携)視察報告(1995-1996) 

Buckingham Browne & Nichols School(以後BB&N;)で授業参観した際に,5年生の教室で先生が私達を児童に紹介し「子供達に質問があったら何でもしてみてください」と言われる場面があった.私達から児童たちへのいくつかの質問の中に「日本のスポーツ選手で知っている人はいますか?」というものがあったが,すぐには回答がなく,しばらくたってから「アッ,知ってる,知ってる,ヒデオ・ノモは日本人だ」との答えがあり,次に「たしか,スケートのクリスティー・ヤマグチも日本人じゃなかったかしら」という返事が返ってきた.その後,しばらく児童たちでワイワイ言い合っていたが,「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら」「私達がテレビで見ているのは国内のスポーツだけだからさ」「つまり情報源が偏っているということになる」「ということは発信する側の情報を一方的に受け入れずに,こちらから必要な情報を求めればよいということになる」「ただし,なぜ外国のスポーツ選手を知る必要があるのかは別問題」などのやりとりが展開された.日常の些細な事象を通して「懐疑的」あるいは「批判的」な思考力を育てようとする姿勢が垣間見られる場面であった.

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・・・なるほど、この場面は「引き出す」の一例だと思う。

T「日本のスポーツ選手で知っている人はいますか?」

C「アッ,知ってる,知ってる,ヒデオ・ノモは日本人だ」

C「たしか,スケートのクリスティー・ヤマグチも日本人じゃなかったかしら」

その後,ワイワイ言い合っていた子どもたちが自分たちで問いを立て、自分たちで解決し始める。

 

「なぜ、私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら?」

C「私達がテレビで見ているのは国内のスポーツだけだからさ」

C「つまり情報源が偏っているから」

C「ということは発信する側の情報を一方的に受け入れずに、こちらから必要な情報を求めればよい」

C「ただし、なぜ外国のスポーツ選手を知る必要があるのかは別問題だよね」

・・・日常の些細な事象を通して「懐疑的」あるいは「批判的」な思考力を育てようとする姿勢が垣間見られる場面であった、と記されているが、「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのかしら?」の子供の中の問いが、分岐点になっている。

 日本なら、多くの場合、ここは教師が問いかけて新たな展開に持っていくところだ。授業を教師が主導する前提なら、この発問は教師だけに許可される。しかし、「問いかけ」も含めて自由発言が許容されていれば、新たな問いが子どもから生まれ、その問題解決を皆で始めるこのような展開もあるわけだ。

 有田学級の授業は、有田先生の巧みな話術と問いかけで、子供の思考がどんどん深まっていく。有田先生なら「なぜ,私達は日本のスポーツ選手を知らないのか?」と問うだろう。それが、いわゆる「揺さぶり発問」だ。無論、有田学級の子どもは「はてな帳」で鍛えてあるから、自分で問いを立て、自分で解決する(追求する)子もいるだろう。有田先生も、自問自答できる子=独り立ちできる子をめざしている。

 向山学級の「磁石」の授業の鍵となる問いは、子どもの疑問、子どもの発見であった。子どもから生じた気付きの中から向山先生が学級討論させるに足ると判断したものをチョイスして投げかけたものだ(と理解している)。なお、各自で検討している途中で、向山先生のところに話しに行く場面の設定がある。これは「小さな対話」が確保と言えるだろうか。

 「優れた発問による授業」だけでは、子供が発問待ちになる・子ども自身が問いを持てるように育てよと言われる。

だから、分析批評のような「解釈コード」を教えることが、一人読み・独り立ちさせるために欠かせない。

ワンウエイでない授業の工夫、「ツーウエイ文化」について、もっともっと深めていかねば。

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