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August 15, 2023

昭和40年代の本を読む 

戦後、長く文部省教科調査官だった沖山光は、たくさんの著書を出している。図書館で何冊か借りて読んでみたが、今風の文章・文体に慣れた自分にはかなり難解だった。

そんな中で、今にも通じると思った点がいくつかあった。

 ○×式の学習を否定したところで、自由記述による答案の処理には、高度な、しかもダイナミックな思考や判断が伴うことを承認しなければならぬ。教師の答案処理は、○×式のような単純なものではない。自由記述の教育を承認することなしに、○×式教育を乗り越すことはできない。教育界現状では、容易にこれが受け入れられるとは思えない。

 「国語教育の構造と思考1」1967年初版(明治図書)P23

 

・・・「能力開発は、提示された文章に即してみずから問題を発見し、問題を解決に役だつように分析し、総合し乗り越えていくところに、はじめて可能である」と言うことは、逆に言えば、

「提示された文章に即してみずから問題を発見し、問題を解決に役だつように分析し、総合し乗り越えなければ、自分の能力を開発することはできない」

ということだ。

 その真逆の教育が「○×式」の閉鎖的思考だと沖山は述べている。

 ○×式教育を批判した沖山が文部省教科調査官を退官したのが1966年。

 マークシート型の共通一次試験が導入されたのが1979年。

 時代はあらがえなかったのかもしれない。

 沖山は「○×式の学習」だけでなく、教師による問答の授業も否定している。

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教室における問答方式の教育もまた、○×式教育と、ほど遠からぬものである。 教師のあらかじめ用意した問い という「ものさし」にあてはめて答えを要求していく教育である。これまた、閉鎖的思考である。

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・・・一問一答式で詰将棋のように教師の枠にはめておく授業は、もちろん向山洋一氏も否定していた。

「討論」の授業に憧れるとは、○×式の対極にある「自由記述の教育」の側の教育を志向していたということなのだ。

大学入試での自由記述式は相変わらず反対が多くてなかなか前進しないが、自由記述でこそ「思考・判断・表現」が問われることは意識したい。

教師があらかじめ用意した問いに当てはめていく一問一答型・○×式の授業は「閉鎖的思考」だと沖村は言う。

そして、次のように書いている。今でいう「探求型」のススメだ。

 

◾️学習者のめいめいが自分みずから、問題を発見し、問題相互間の関係を分析によってつかみ、思考にすじ道を通 して、みずからの手によって問題を解決していくプロセスが、ひとりひとりの能力開発の道である。ここには、結果主義を乗り越えた、プロセス重視の新しい教育の観点が要求されてくる。

 

・・・これが昭和40年代の著作物だということに驚く。(振り子の揺り戻しと思えば違和感はない)

教育は「結果」ではなく「プロセス」が大事と分かっていながら、日々の授業(教育評価)では、つい後回しになってしまう。

 

◾️ひとりひとりの生徒の思考のプロセスが記録され、その思考のプロセスに照らして、結果を検討する教育においては、人まねとか、カンニングという、結果だけをにわかに自分のものとして、すりかえていくことが承認される余地はない。

 生徒が自己の全力をつくして、解決へのプロセスをたどるところにのみ、自己開発、能力開発の道は開かれるのである。

・・・結果ではなくプロセスが大事という主張は、今なお大事な指摘である。

 教科書の扱い方については、学習者自身が学ぶ機会を奪うものであってはならないと述べている。それも「プロセス」重視の表れだ。(P23〜25)

 

■読解すべく眼前にある文章は、ひとりひとりの生徒が、乗り越えるべき山にもたとえられるものである。 

山は、登山者がおのれの足で頂上目さして一歩一歩と登るべきものである。

その学年、その学年に適切な抵抗度を持つように、編集者が検討し、吟味したものが、一冊の教科書である。 

ここにいう適切な抵抗度とは、それぞれの学年の生徒が自力で登れるような高さの山であり、その山道のけわしさも、学年相応になっているという事実を指していっているのである。適切な抵抗度もないものは、平坦な道であって、学習資料としての文章としては失格である。

 

ーーー学習者が自力で登るための支援が教材研究であって、分かりやすくすることは「暴挙」であると言う。

 ■教師の巧みな誘導や雄弁によって解説することは、山にブルドーザーをかけて、平坦な道としてしまうようなものである。教師の教材研究は、ブルドーザーの役を果たすためのものであってはならない。

 かかることは、みずから高きに登ろうとする、ひとりひとりの生徒の学習意欲と、学習することの中に伸びる糧を、みずから味わって、無限に伸びていこうとする、学習者みずからの生きる喜びを、むざんにも教師がふみにじってしまう暴挙にも等しいものである。

■学習における思考とは、学習者のひとりひとりが、みずからの目で判断し、確かめ、一歩一歩と、みずからの額に汗を流して、頂上目ざして山を登っていく、そのプロセスにおける、見とおし、判断、確かめ、実践というふし一ふし、一行動一行動にはたらくものである。おのれみずからが推理し、判断し、決断をくだすというプロセスを抜きにしたところに思考力ははたらくものでもなし、育つものでもない。山を登るという一連の行動を念頭におくからこそ、文章読解の一連の全プロセスを「言語行動」とか「言語活動」とよぶのである。言語行動とよび言語活動とよぶ一連の思考プロセスの原理・原則は、学年の高下によって、異なるものではない。

ーーー「教師は、明治以来の講述式の殻にとらわれて、文章とは、講述によってわからせることが可能という矛盾をくりかえしている」と言う指摘に納得する。

山登りするのは学習者自身である。

「小さな親切、大きなお世話」なのだ。

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