向山洋一氏の功績 〜表現の中に根拠を求める読み〜
ご存知の方も多いと思うが、『書く力は、読む力』鈴木信一(祥伝社新書2014初版)は、向山先生の「ごんぎつね」の実践に触れている。
巻末に参考文献として『国語の授業が楽しくなる』が提示してある。
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たった一語でも変えれば壊れる
向山洋一は、作品をそういう取り替えのきかないものとし、作品それじたいを精査すれば、意味は1つに決まると、新美南吉の「ごんぎつね」を使って、そのことを証明したのでした。
(中略)
「兵十はかけよってきました」とありますが、兵十は何のためにかけよったのでしょう。ちょっと考えてみてください。
じつは小学生にこの質問をすると、ほぼ全員が次のような答えを返すといいます。いえ、現場の教師もそれは同じだと。
---ごんがどうなったかをたしかめるため。
しかし、向山洋一は、これこそが「表現から遊離した思い入れ読み」だといいます。そのような読めないと。
なるほど、私たちは表現を曲げてでも、自分の読みたいものを読もうとするときがあります。ラブレターには断りのせりふがたしかに書かれているのに、それを脈あり読み違えるあれです。しかし。向山洋一は、これを「思い入れ読み」として厳しく排除します。
---(今度は)どんないたずらをされたか、確かめるため。
これが正解です。そう書いてあるというのです。兵十の視線の動きを丁寧にたどれば、兵十の関心が最初はごんになどなかったことがわかると。
(中略)
かけよったあと、兵十がまっ先にしたことは、家の中を見ることでした。そして、土間のくりに目をとめます。ごんへの関心が生まれるのはこのあとです。「おや」と、兵十はびっくりして、そこではじめてごんに目を落とすのです。
〈ニュー・クリテイシズム〉の流れを汲む「読み」の方法論を、「分析批評」と名づけて日本にいち早く紹介したのは小西甚一でした。大佛次郎賞を受けた『日本文藝史』や『古文研究法』などで知られる国文学者です。この「分析批評」を教育現場に広めたのが向山洋一です。彼は「教育技術法則化運動」を率いて、八十年代の教育界に一大ブームを引き起こしました。
もっとも、分析批評的な「読み」は、いまでは常識となっています。とくに受験国語の世界では、「問題文が示す範囲の中でどう読めるか」という、いわば表現の中に根拠を求める「読み」が求められています。
ところで、先ほどの引用箇所ですが、作者である新見南吉は何も考えずにあれを書いたのかもしれません。しかし、兵十の視線をあの順番で移動させてしまった以上は、「かけよったのは、ごんがどうなったのかをたしかめるためだ」との主張は通りません。仮に新見南吉本人がいったとしても、それを正解として認めるわけにはいかないのです。 P47〜52
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「伝記批評」・・作品を作者の生涯と結びつけて理解しようとする読み。
「印象批評」・・作品を読後の印象として理解しようとする読み。
「分析批評」・・「伝記批評」と「印象批評」を否定して、作者から独立したテクスト=言語的構造体として作品を客体化する読み。
といった流れの中で、法則化運動の「分析批評」の授業があった。
◆「作者の意図」や「読者の感情」を脇に置いて、「表現」から意味を引き出す。これはいまや通常の読書にとって当たり前のことになっていますが、この作業、じつは意外と困難です。P53
とあるところの「今や当たり前」を築いたのが向山洋一氏の授業実践というのが鈴木氏の見解だ。
このような歴史的な転換期に居合わせたことに、身震いしてしまう。
鈴木氏が参考文献にした「国語の授業が楽しくなる」は、1986年2月初版。
私が教職1年目、名古屋三省堂の向山洋一講演会で購入したものだ。
一方で、相変わらず「表現から遊離した思い入れ読み」が跋扈する国語の授業に対して、我々は断固反対の声を上げねばならない。
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