February 25, 2024
February 24, 2024
相手の立場で考える教師でありたい!
2月23日の【連続テレビ小説】ブギウギ 「あなたが笑えば、私も笑う」
◆晶子という家政婦が主人公スズ子の家で働くことになる。スズ子はいつも通り娘を仕事に連れて行こうとするが、晶子の強い勧めで、初めて家に残して仕事に行くことにする。
さて、娘が心配で仕事を早退して帰ってくると、娘は晶子と仲良く過ごしていた。
破れた障子が貼り替えられているの見て唖然としているスズ子に、晶子が「ずっと一人で頑張ってきたんですね。」「これからは私に頼ってください」とねぎらう場面が出てくる。
これまで1人で娘を育ててきたスズ子が、ふっと肩の荷を下ろし涙する瞬間だ(というのが私の理解)。
https://www.nhk.jp/p/boogie/ts/NLPYVZYM29/episode/te/5K7QW62Y2N/
こんなシーンで感心していたら家事育児をずっと続けてきた妻に怒られそうだが、母子家庭って、確かに大変だろうなと改めて思った(無論父子家庭も同じだ)。
テレビのように家政婦をお願いできるケースはほとんどないから、母親は働きながら子供の世話を全部みる。
今や、どのクラスにも、そういう母子家庭世帯がいるのだとしたら、
「いつも大変ですね」
「私にできることがあったら」
と思いを寄せることが大事だ。
そもそも、母子家庭でなくても、働くお母さんは大変だ。
相手の苦労を思い、相手の気持ちに寄り添えるかどうかが、信頼される教師になるかどうかの分かれ道になる
(無論それは「教師として」と言うよりは「人として」の問題である)。
教師2年目のとき、保護者会の時間に都合がつかない父子家庭があって、要望に沿って夜7時頃、喫茶店で1時間ほど話をしたことがある。
自慢でもなんでもない。
父親からの要望があったから受けただけで、自分自身の配慮(想像力)があったわけではない。
今日のテレビを見て感じた「思い」があったら、その後、何人も出会った母子家庭のお母さんに対して、もっと配慮できたと思う。
もっと「大変ですよね」「私にできることがあったらお手伝いします」という気持ちを伝えられたらと思う。
今さら遅いのだけれど、今日の私の気持ちは若い先生に伝えていきたい。
※母子家庭のお母さんだったら、いくら仕事の都合でも、夜、喫茶店で会うことはしませんね。
「ネガテイブ報告」でなくても危険水域の学級がある
告げ口オンパレードの学級は危険水域だという指摘を、少し前に書いた。
http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2024/02/post-dbbdb6.html
実は、真逆で危険水域の学級がある。
思ってもみんな言わない学級だ。
「あの子が嫌」
「グループが嫌」
「先生が嫌」
言えば雰囲気が悪くなる・言えば周囲から嫌われると分かっているから我慢している。
我慢してはいるが、思いは消えないから不満だけが心の奥底で膨らんでいく。
不満を言えない不満、遠慮と我慢の圧力で、おかしくなってしまった学級。
物分かりが良くていいクラスだと思われていた学級で、相互不信が深く進行していたことがある。
とても物分かりの良い子が、その我慢強さゆえに、ある日ポッキリ心が折れて不登校になるようなケースと似ているだろうか。
とても素直な先生が、その我慢強さゆえに、ある日ポッキリ心が折れて休職するようなケースと似ているだろうか。
子供や学級の物分かりの良さに甘えてはいけない。
我慢のサイン・不満のサイン・SOSのサインを見逃してはならないのだ。
February 21, 2024
二宮金次郎に学ぶ「率先垂範」
二宮金次郎について、そんなに詳しくないのだが、手元にメモ書きが残っている。
===========
幼い頃に両親を亡くし伯父の家に預けられた金次郎は、愛読書の「大学」を読みながら山で柴刈りをして背負って帰るような生活をしていた。
「お前が本を読むための灯油はない」と伯父に言われた金次郎は、空き地にアブラナを植え、油屋で灯油と交換した。
「本を読む暇があったらもっと働け」と言われた金次郎は、空き地を開墾してコメを作り、ついには、その財を元手に伯父の家を出た。
亡くなった両親の家に戻った金次郎は、人が踏み入れない土地を耕して農地を増やしていった。
真面目な金次郎の噂を耳にした下野の殿様から、荒れ果てた村の再建を頼まれる。
家と農地を処分して新しい土地に赴いた金次郎は、村の真ん中に家を建て、以前と同じように農地を耕した。
殿様から派遣された指導者だけれど、粗末な着物、徹底した粗食で、睡眠時間を削って働く金次郎の姿に、周囲は感化され「自分らも働くしかない」と心を入れ替えた。心の荒れた村人も働く喜びを知り、村は見違えるように豊かになっていった。
金次郎は後の世に「農政家」と呼ばれたが、彼の凄さは、説教で人を動かすのではなく、自ら働いて、村人に「共鳴」を起こした点にあった。
参考「なんのために『学ぶ』のか」ちくまリマー新書
==============
まさに「率先垂範」だ。
説教では人は動かない。人を動かすなら、自分から動くことだと実感する偉人のエピソードだ。
このまま語っても、現代の子供の心には響かないから、別途、作戦を練り、別の資料にもあたり、アレンジする必要がある。
ただ、まずは、教師の行動が子供に「共鳴」を起こしているか、日頃の行いを反省し、「率先垂範」を意識していかねばなるまい。
※心理学では、人間には「辺報性」という性質がある。やってもらったら、お返しをしないと気が済まないというよな心理。スーパーで試食すると買わないと悪いかなと思うのは「辺報性」だ。
◆自分の話を聞いてもらいたかったら、まず相手の話を聞いてあげること。
ということは
◆自分の望むように動いてもらいたかったら、まず相手が望むようなことをしてあげること
二宮金次郎が、村人の心を動かしたのは、「荒れた村を再生する」という点で金次郎が率先して動いたからだということが分かる。
見て分かることを言うな!
「正しいことは言うな」という逆説的な表現に感銘を受けたのは、もう10年以上前のことだ。
教師という仕事上、子どもの失敗や過ちを指導する場面は多い。
しかし、「どうして、宿題を忘れたんだ」などと相手の過ちを責めてみても、その言葉が正しければ正しいほど相手を追い込んでしまうことになる。言われた方は一番聞きたくない言葉を耳にするから、反発を生むことになる。そして、「いつも俺ばかり怒られる」という負の感情をもたらしてしまう。川上康則氏の言う「毒語」だ。
====================
怠けている人間、遅刻した人、それぞれに事情があり、理由があるはずです。その事情・理由を斟酌(しんしゃく)することなく正しいことを言う人は、じつは、ー正義という名の魔類ーになっているのです。仏教では、その正義という名の魔類をー阿修羅ーと呼びます。阿修羅というのは、本来は正義の神であったのですが、自分だけが正義だと思って、他人に対する思いやりがないために、神界から追放されて魔類になった存在です。(後略)
2006年中日新聞7月18日付の朝刊に「ひろさちやのほどほど人生論」
======================
・・・「阿修羅」の意味まで教わったインパクトのある記事だった。何も言わずにじっと相手の聞いて上げる行為が「慈悲」なのだとも書いてあった。何と、仏教の教えは奥が深いのか。
教師は「よかれ」と思って平気で子どもを傷つけることがある。
喧嘩した子が悪い、忘れた子が悪い、聞いていない子が悪いなどなど。
悪意がない分だけ、たちが悪い。
正義感を振りかざす鈍感な教師はまさに「阿修羅」と化している。実はかつて同僚に、ネチネチ子どもを責める人がいて、自分のストレス発散に使ってるのではと思ったほどだった。毎年のように、そのクラスには不登校児童が生じた。保護者の間にも、それは知れ渡っていた。
『身につけよう!江戸しぐさ』という本の中に「見て分かることは言わない」というのがあった。
「おやせになりましたね」「太ったんじゃないの」「ひどい汗ですね」など、見て分かるようなことを稚児のように言ってはいけないとある。=====================
見て(暑いんだな)と察したらすぐ冷たい飲物を出すものだよ、というわけです。急な雨で濡れていたら、サッと手拭いを差し出す方が感性度が高く、相手の思いやりが偲ばれるものです。それに加えて「読んで分かることは聞かない」というのもあります。
=====================
何の配慮をする気もないのなら、見て分かることを言うな、というのは、実に鋭い指摘である。
「鉛筆どうしたの?」などの問いも、見れば分かる愚問だ。
問いただす前に、さっと差し出すのが大人の対応だ。
不登校は不幸ではない!
「コンテンツ」ではなく「コンピテンシー」
Aという実践(コンテンツ)を知り納得しても、それだけでは別の授業がうまくいかなければ意味がない。
Aという本(コンテンツ)を読んで納得しても、それを自分のものとなるように咀嚼しないと、いつまでたっても「本待ち、他者依存」になってしまう。
コンピテンシーは、以下の文章でいうところの「本質」に該当するだろう。
===============
他者の経営者の書いた本は個別の文脈の中に埋め込まれているので、すぐに応用することはできない。
しかし、優れた読み手はそこで抽象化して本質をつかむ。本を読むのではなく、本と対話することが大切だ。
対話は今も昔も本質にアプローチするときの基本だろう。
優れた経営者というのは抽象化してストーリーを理解し、その本質を見破る能力に長けている。
商売を丸ごとに見て、流れ・動きを把握して、それを論理化することで本質にたどり着くことができる。
もともとは具体的な個別の事例が、自分のアタマの引き出しにしまうときには論理化された本質に変換されている。
結局のところ本当に役に立つのは、個別の具体的な知識や情報よりも、本質部分で商売を支える論理なのだ。
戦略構築のセンスがある人は、論理の引き出しが多く、深いものである。
他社の優れた戦略をたくさん見て、抽象化するという思考を繰り返す。これが引き出しを豊かにする。
独自の戦略ストーリーを構築するための王道だ。
楠木建「経営センスの論理」(新潮新書) P42
========================
上の引用部は、ビジネスでなく、教育現場に置き換えることもできる。
個別の教科内容を教えることに満足していてはいけない。個々の授業内容から本質を抽象化しないと汎用的に学ぶことができないからだ。
誰かに教えるつもりで勉強した内容を説明してみると、28%成績がアップする。
February 20, 2024
言葉遊びは、ストックが大事。
以前、光村3年国語の言葉の学習のコーナーに「ははははははじょうぶだ」の例文が出てきた。
この例文は、言葉のワークを作りたいと思っていたときに、自分がリストアップしたものと同じだったので懐かしかった。
無論、自分もどこかで見つけてキープしておいたのだと思う。
当時、次のような例文をリストアップした。
①きみはしらないの?「君は知らないの」「君走らないの」
②きょうはいったか。「今日は行ったか」「今日入ったか」
③ぼくはなしが好きだ。「僕は梨が好きだ」「僕話が好きだ」
④ぼくがまんが好き。「僕我慢が好き」「僕が漫画好き」
⑤ボールをなげてくびをいためた。「ボールを投げ手首を痛めた」「ボールを投げて首を痛めた」
⑥だからねたこを起こすな。「だから寝た子を起こすな」「だからねタコを起こすな」
・・・どれも、声に出すと分かってしまうが、文字だと二つの意味が生じる。
解決方法は、3通り。
(1)漢字で表記する。
(2)読点を入れる。
(3)助詞を補う。
子供は下品なものを好むので「うんこのカレーはおいしいね」を持ち出すと、大喜びになる(収拾がつかなくなるかもしれない)。
「ねえ、ぱんつくったことある?」も、悪ふざけのパターン。
慣れてくると、子供も
「パンを作ったことはあるけど、パンツを食ったことはないよ」などと答えるようになる。
縁起が悪いので、授業では使えないが。「○○三振だ」「○○さん死んだ」というパターンもある。
「漢字を使う、読点を使う」の上級コースには
「うらにわにはにわにわにはにわにわとりがいる」
「いるか いるか いないか いるか・・・」
などがある。
「順序ですっきり」と言う視点で、次の文を説明させようといったネタを準備したことがある。
◆京都で父からもらった金をみんな使った。
A; 京都で父からもらった金を、みんな使った。
B; 父からもらった金を、京都でみんな使った。
「京都でもらった」のか「京都で使った」のか、という修飾・被修飾の関係を考えさせるものだ。
ところが、最近になって、この「みんな」の意味は、2通り考えられると気づいた。
「全額を使った」と「全員が使った」だ。
こうなると、言葉を変えたり順序を変えないと理解できなくなる。
A;京都で父にもらった金を、全額使った。
B;京都で父にもらった金を、全員が使った。
C;父からもらった金を、全額京都で使った。
D;父からもらった金を、全員が京都で使った。
ということは、「全員」という理解をしていた子は、当時の自分の解説に腑に落ちないまま授業を受けていたのだ。
これは本田勝一の「日本語の作文技術」を参考にしたものだ。
「日本語の〜」には「修飾、被修飾」を明らかにするネタとして、次の例文もあった
◆刑事は血まみれになって逃げる犯人を追いかけた。
解法1: 読点を使って2通りの意味の文をつくる。
A、刑事は血まみれになって、逃げる犯人を追いかけた。
B、刑事は、血まみれになって逃げる犯人を追いかけた。
解法2:順序を変えて意味がわかりやすくなるようにする
A、血まみれになった刑事は、逃げる犯人を追いかけた。
B、血まみれになって逃げる犯人を、刑事は追いかけた。
ここまでくると次のネタすると扱いたくなる。
◆黒い目のきれいな女の子
若い先生の方の中にはこの例文が何かわからない人もいるかと思う。
「目が黒い」「肌が黒い」「目が綺麗」「容姿が綺麗」「目が黒くて綺麗」の5通りに、「女児」と「女性の子ども」の2通りがあるから、掛け合わせて10通りの解釈ができる。
何が黒いか、何がきれいか、女のことか女の子のことかで何通りもの意味が取れる。だから意味が分かるように語順や語句を入れ替えさせる。あるいは絵で描かせる。
伝えたいイメージを他人に説明させるトレーニングになる。
入れ子状態の悪文を分かりやすく直させるのが、次のネタだ。
◆私は小林君が中村君が遊んでいた場所にいたのかと思った。
例:中村君が遊んでいた場所に小林君がいたのかと、私は思った。
◆私は父が母が生まれた町に兄が行くのに反対だと思った。
例:「母の生まれた町に兄が行くのに父が反対なのだ」と私は思った
添削の仕方は一通りではない。
だから、多様な解法があって、みんなで楽しく考えさせることができる。
意味が分からない子をみんなで言い換えて納得させる授業風景は、ほのぼのとしている。
取り出し単元で準備するだけでなく、いつでも例示できるようにストックしておくとよい。
記憶は「失敗」と「繰り返し」によって形成され強化される
「最新脳科学が教える高校生の勉強法」池谷裕二著(東進ブックス)
「4-2 失敗にめげない前向きな姿勢が大切」の章に以下のような解説がある。
===============
ひとつの成功を導き出すためには、それだけ多くの失敗が必要なのです。こうした数多くの失敗がなければ正しい記憶はできません。「失敗しない人は常に何事もなしえない」(フェルブス)との言葉通り、記憶とは「失敗」と「繰り返し」によって形成され強化されるものなのです。
皆さんの勉強に関してもまったく同じ事は言えます。繰り返すこと、つまり「復習」が大切だということはすでに述べましたが、それと同時に「失敗」することもまた重要なのです。つまり問題を解き間違えたり、ケアレスミスをしたり、テストで悪い点数を取ったりすることです。 (中略)失敗数が多ければ多いほど記憶は正確で確実なものになっていきます。偶然が重なって、たまたまテストでよい点数を取ったとしても、それはあなたにとって何の得にもなりません。
ですから、もし皆さんがテストで悪い点数を取ってしまったとしても、クヨクヨする必要など全くありません。それは損したというよりも、むしろ得したと思い直すことです。 ただし、最悪のケースは、失敗したことを次回にどう活かすかを考えない人です。失敗したら、なぜ失敗したのかに疑問を持ってその原因を解明しその解決策を考えることが肝心です。p95、96
==================
・・・失敗という強いエピソードがあるから、恥ずかしい思いや悔しい思いをした分だけ強く記憶に残るということもあるだろうか。
脳科学者の中野信子氏は「語学の習得はトライ&エラーなので、失敗を恐れる人には、不利な科目かも・・」と語っている。
「適度に緊張しないと、いい結果が出ない」は、スポーツの世界によくあることで、リラックスすればよいというものでもない。
緊張する場をいくつ踏んだかは、成長の差になって現れる。大舞台を経験すると自信と風格が備わってくる。
「恥ずかしい」「あきらめる」「チャレンジしない」 では、いつまでたっても上達しない。
池谷氏の指摘は「記憶」に関するものだが、「数多くの失敗がなければ成長はできません」というのが実感だ。
参考 池谷氏の講演記録 https://www.toshin.com/mirai/top_leader/article/202108/index.php
「私の弟は学校だ」文法
2年生の主語述語の小テスト。選択問題で
A君は
◆わたしの弟は(一年生だ)
を選ぶところで
◆わたしの弟は(学校だ)
を選んでしまった。
この回答は、あの「ボクハウナギダ」文法だ。
私の弟は「学校」ではない。
だから、模範解答的にはバツである。
しかし、例えば、あなたの弟は今どこにいるかと聞かれたら「私の弟は学校だ」という言い方が成立する。
だから、本人の意向を聞かずにバツをにするのは、よろしくないと思う。
蛇足ながら、「ボクはウナギだ」というのは、
「私はカツ丼にします」に対する「ボクはウナギだ」という場合の言い方である。
話者である「ボク」はウナギではない。
「象は鼻が長い」文法と同じように楽しく読んだことを思い出す。
「明日は雨が降る」も、主語ははっきりしない一例だ。
学校文法では「象はどんなだ」「明日はどんなだ」の構造と見なすので、
主語は「象は」で、述部が「鼻が長い」
主語は「明日は」で、述部が「雨が降る」
学校文法は大人にとっては違和感があるのだ。
February 14, 2024
「ネガテイブ報告」は、学級経営の危険水域
「ネガテイブ報告」という言葉を知った。要するに「告げ口オンパレード」だ。
・意欲の高い子や頑張り屋さんが正当な評価を受けないと、ルールを守っていない子への糾弾が始まる。
・周囲からミスやエラーを指摘される子は、「自分より下」を見つけて批判・非難・軽視する。「なんで俺ばっかり」と荒れる。
・ネガテイブ報告を放置すると、クラス全体がミスやエラーを許さない雰囲気になる(学級経営の危険水域)
ルールの逸脱者を見逃さない行動を「オーバーサンクション(過剰な制裁)」と呼ぶ。
自分よりできない子を見つけて生じる有能さを「仮想的有能感」と呼ぶ。
・・・実によくあるパターンだ。そのような状態になっているクラスを何度も見てきた。
いや、もはや、世の中がそうなっている。
頑張っている子にも、うまくいかない子にも「それなりに」ポジテイブな言葉かけで安心感を与えたい。
「できたらほめる」だと、「できない子は永遠にほめられない」
だから、「やろうとしたらほめる」が大事なのだ。
※写真は、「実践みんなの特別支援教育」 2021年12月号 より
February 06, 2024
儒教(陰陽二元論)の教え
『論語~その裏おもて~』(駒田信二 主婦の友社)を冒頭部にはすごく納得した。
==================
「楽は苦の種、苦は楽の種」は、苦と楽とを因果関係においてとらえたものであるが、「人間万事塞翁が馬」や「禍福は糾墨の如し」の禍と福は、因果関係ではなく、福には必ず禍が内包されているものであり、その禍(福に内包されている禍)にはまた、必ず福が内包されている、という陰陽二元論的な思考にもとづくものなのである。
==================
「陰陽二元論」とは易の思想であり、易経は、儒教のテキストである四書五経の中の一つだ。
陰と陽とは対立するものではあるが、陰は陽を内包し陽は陰を内包するものだという教えは「好きな子の中にも嫌いな一面があり、嫌いな子の中にもいい一面がある」に通じる。
また、二者択一を固定せず、無限に変化していくものが「易」の思想で、「今好きな子をいずれ嫌いになることもあり、今嫌いな子を好きになることもある」に通じる。
このように児童・生徒のトラブルや友だちづきあいに「陰陽二元論」をあてはめたら、スーッと入っていった。
February 05, 2024
将棋のルールに見る日本らしさ
世界には「シャンチー」「チェス」などのボードゲームがあります。
日本のボードゲームといえば何ですか?
将棋や囲碁などがありますが、ここでは将棋の話に絞ります。
世界にいろんなボードゲームがありますが、日本将棋だけのルールがあります。知っている人はいますか?
正解は「持ち駒使用」です。
「持ち駒使用」というのは、相手の駒をとったら自分の駒として使ってよいというルールです。
このルールがあるため将棋は先を読むのがとても難しくて、コンピュータでも、なかなか人間には勝てないと言われています。
この将棋のルールから言えるのは、
日本人は、
==================
いつまでも対立しない
すんだことは水に流す
==================
という考え方を持っていることです。
たとえば「昨日の敵は今日の友」。
江戸幕府は関ヶ原の合戦で敵だった武将も殺さないで大名として仕事をさせました。
何大名と言いましたか?
「外様大名」でしたね。
戦った相手は皆殺しにする国も多いのですが、日本はむだ死にはさせず、その人の持っている才能を活かしたのです。
さて、昭和になって日本で発明されたボードゲームと言えば何でしょう?
オセロです。
オセロは戦後、牛乳瓶のフタで楽しんでいたゲームを商品化したものです。
このオセロのルールはどうですか?
オセロも敵のコマが一瞬にして味方に変わります。逆に味方のコマが一瞬にして敵に変わります。
ということは、オセロも、太極図の考え方に沿った、いかにも日本らしいゲームなのだということが言えますね。
人間関係を円滑にする「太極図」の思想
○好きな人と嫌いな人
○いい人と嫌な人
○おもしろい人とつまらない人
○敵と味方。
「白黒をはっきりさせる」という言い方があります。
それは必ずしも悪いことではありませんが、人を決めつける・人を分けたがるというマイナス面につながることがあります。
これは、太極図と呼ばれます。
見たことがある人はいますか?
○漫画『陰陽師』
○韓国の旗
○何かのブランド
といった意見が出るが、後で説明することを告げて次に進む。
この図は、
○好きな人にも嫌なところがあり、
○嫌な人にも良いところがある。
○長所もあれば短所もある。
というように、
================
AとBは簡単に決まらない
AとBは簡単に分けられない
================
ことを表しているのです。
「勝ち組・負け組」と言うように幸せと不幸せを分けたがる考えは白黒図の考え方ですね。
では「幸せと不幸せは簡単に決まらない」という太極図の考え方を表すコトワ
ザを知っている人はいますか?
「禍福はあざなえる縄のごとし」
と言います。
幸せと不幸せは縄を編んだように、どっちが幸せでどっちが不幸せか分からないという意味です。
国語の授業では同じ意味でどんな故事成語を勉強しましたか?
「人間万事塞翁が馬」
馬が逃げたので嘆いていたら別の馬を連れてきた。落馬して骨折して不幸だと思っていたら、そのおかげで兵隊に行かなくて済んだというエピソードでした。
敵と味方を分けたがるのが白黒図の考え方。
では「敵と味方は簡単に決まらない」という太極図の考え方を表すコトワザを知っている人はいますか?
「昨日の敵は今日の友」ですね
白黒をつけさせる考え方は
・好き ←→嫌い
・いい人←→嫌な人
・味方 ←→敵
などをはっきりさせます。
それは、
×他人を決めつける
×グループを作る
×対立する
×いつまでも仲直りできない
といったマイナス面にもつながります。
一方、太極図の考え方は、
・長所もあれば短所もある
・けんかもすれば楽しいこともある
の意味ですから、
○他人の良さを見る
○誰ともうまくつきあう
○さっさと仲直りする
という長所につながります。
日本人は、昔からこうして隣近所の人とおつきあいをしてきたのです。
仏教哲学の教え ~人は分けたがる~
かつて、勤務する中学校の図書館に『ブッタとシッタカブッタ』(小泉吉宏著・メデイアファクトリー)の三部作があった。
宮崎哲弥氏は「仏教のエッセンスをこれほど噛み砕いて、これほど深いところをまで表現したマンガはいまだかつてなかった」
「縁起・空・無我・無自性、無常などの仏教哲学の基本概念が、これ以上わかりやすくはならないというほどわかりやすいかたちでもりこまれている」
と評している(『文芸春秋』2004年3月号229頁)。
私は、特に三巻の内容に感激し、次のような考察を試みたことがある。
=======================
人間は、とかく「分けたがるもの」なのらしい。
だから、クラス対クラス・クラブ対クラブのような対立を起こしやすい。
中一であれほど仲良かった二人が、二年になって別のクラスになってから仲が悪くなった例はたくさんある。
逆に、一年の時は別のクラスにいて敵対視していた子と二年で同じクラスになり、仲良くなる例もたくさんある。
一年生の時、あの子のおかげで合唱コンクールで勝った・体育大会で勝ったというような強敵が、よそのクラスにいたとする。
二年になってもその子が別のクラスだったら憎らしいだろう。
でも、今度、その子と同じクラスになったらどう思う?
その子のおかげで合唱で勝てる・体育大会で勝てる、となったら、その子を大歓迎するんじゃないかな?
同じことは逆でも起こる。
自分のクラスで合唱や体育大会で大活躍していた子が、別のクラスになってしまったら、その子の能力の高さを知っているだけに、手ごわいよね。
「お互いがんばろうね」って言えればいいけれど、中には「あんな子たいしたことないんだよ」なんて次の新しいクラスでふれ回る人もいるんだ。
他人への愛情・他人への憎しみって不思議だね。
自分にプラスになり、自分の味方にならないと、その子の長所がたちまちマイナスになってしまうってことなのかな?
自分のプラスになりそう、味方になりそうだと思うと、その子の短所より長所を見ようとするということなのかな?
==================
人間は決めつけたがる癖がある。
人間は分けたがる癖がある。
そして人間は自分を守りたがる癖がある。
もし、誰にも、そのような性質があるのだとしたら、私たちは、そのような性質の短所に振り回されないようにしないといけない。
==================
相手を好きとか嫌いとか、いい子とか悪い子とか軽はずみに決めつけて言わない方がいい。
なぜなら、どんな好きな人の中にも嫌いな要素があり、どんな嫌いな人の中にも好きな要素があるからだ。
相手に好きとか嫌いとか言われても、いい子だとか悪い子だとか言われても、それが100%だと思わない方がいい。
なぜなら、人の気持ちはいつまでも同じとは限らないのだから。
Recent Comments