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April 07, 2024

「知の体力」②

「ひょっとしたら自分でも」

 かつて、20代教師を熱狂させた法則化運動は「ひょっとしたら自分でも」という期待をもたらした。
 それは大きな勘違いだったのかもしれないが、それでも構わなかったのだと今は思う。
 法則化論文が掲載され、「人の実践を真似する自分」から「真似されるような実践を創る自分」でありたいと強く思うようになったからだ。
 永田和宏氏の言葉を借りると「消極的な自己規定」からの解放だ。
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私が日常的に若い諸君と接していて、最も歯痒い思いをするのは、この消極的な自己規定なのである。「私などにはとても」と端から恐縮して思い込んでいる。そう思ってしまうことで、一切の批判精神は意識下に押し込められてしまわざるを得ない。私などが先人の研究や理論を批判するなど10年早いと思ってしまうのである。
 しかし、学問や研究の世界において、何年経たなければ批判などすべきでないといったことは全くない。批判や考察はすべてを知った大家が行うものではなく、まだその世界の常識に染まっていない新人、若者がやってこそ、インパクトなり批判が行えるのである。パラダイムシフトに値 するような新しい思考の枠組みの形成が可能になるのは、とらわれるところのない若い精神にしかできないものだ。
「知の体力」永田和宏著(新潮新書)p85・86
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 「ひょっとしたら自分でも」というエネルギーで突っ走れるのは、若い精神にしかできない。
 「わかっていないこと」に対する畏れよりも、「わかっている」ことの満足感・充実感が上回るからだ。
 永田氏は次のようにも言う。
◆受動的な学習から、能動的な学問へのシフトは、まさにそんな「ひょっとしたら自分でも」と能動的に考えることを外しては起こり得ないのである。P51
 永田研究室では海外の一流の研究室に短期派遣を続けてきた。
 その理由は「 とても手が届かないと思っていた最前線の研究が、実は自分たちと地続きのものであることを実感して帰ってきてくれること」であると言う。
世界のトップレベルのラボに滞在して、彼らと議論しながら研究をさせてもらう。科学的な成果は3か月では得られなくとも、より大切なものを得て帰ってくる。それは、「なんだ自分たちのやってることと変わらないじゃないか」という実感である。とても手が届かないと思い込んでいたが、実際には日本で(永田研で)やっているのと同じことをやっているんだと思えること、それは自分が世界と地続きになることである。。p89、90
「学んでから始めるか、学びつつ始めるか」の章がある。
「まずはじっくり学んでからまとめます」と遠慮する人がほとんどだろう。
しかし、幸いなことに、私は「学びながら始めればいいのだ」とアドバイスをもらって、雑誌原稿を書く勇気をいただたいた。
 若い先生方(学生さん)には、教育の世界の常識に染まっていないからこそ言えること、できることがたくさんある。
そうした若い方々の斬新な意見に刺激を受けて、自分もさらに発信を続けたい。
 永田研究室である女性の論文が高く評価された時、研究室の他のメンバーに変化が起きたというくだりも、「ひょっとしたら自分も」である。
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 日常一緒にいて、同じような仕事をしている彼女の仕事が「サイエンス」に載るのなら、自分の仕事も同じレベルじゃないかとみんなが実感したのである。その後のみんなの意識が一気に能動的な変化を見せたのはありがたいことだった。
<微細>を「妬み」につなげるのではなく、そんなに違わないあいつにできるのなら、自分だってと思えること。これは羨ましいという感情が、肯定的なモチベーションに繋がった、私の身近な実例である。160ページ
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・・・自分が切磋琢磨できる場を確保することが、自己研鑽の第一歩である。
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