視点の再考(5)~話者の立ち位置~
風船が下りてきました。
・・・「この文の話者は誰ですか?」と聞かれても困る。
だから、何が何でも話者を問うようなことは慎むべきだと思う。
風船が下りてきたのを見ている人物が話者。話者の位置を問えば、風船が下りてくるのを見ている表現だから「風船の下」だと特定できる。
このように「僕、私」と書いていない場合の話者の特定には、「視点」がカギになる。
話者は作品を語っている人物であると同時に、作中の場面を見ている人物でもある。
①話者の見ているもの
②話者に見えているもの
③話者のいる場所を特定すること
で、作品の場面が正しくイメージできる。
では、応用編として、川端康成の「雪国」で見てみよう。
◆国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
「風船〜」をトレースすると、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という場面に居合わせた人が話者ということになる。
おそらく列車に乗っている人だ。
機関車トーマスみたいに「列車」が語り手ということはなさそうだ。男から女か、大人か子供か、乗客か車掌か、それはこの一文だけでは特定できない。
では、もう少し原文を見てみる。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
・・・作品は登場人物の一人である「島村」を通して語られていることが分かる。
島村を通して娘や駅長が描写され、周囲の風景描写が語られている。
娘は話者である島村の「向側」にいて、そこから「立って来て」、彼の前の窓を閉めたのだ。
その証拠に、この場合、人物「島村」を「私」に置き換えても、文章に違和感がない。
話者が「娘」とすると「向側の座席からと私が立って来て」という言い換えが成り立たない。
~参考資料~
◆「視点論」における「視点」とは,誰の視点から物語が語られているかということである。例えば,「A くんは B さんにお金を貸した」と「Bさんは Aくんからお金を 借りた」という2つの文があったとする。どちらの文も内容は同じであるが,前者は Aくんの視点から語られている文であり,後者は B さんの視点から語られている文である。このような,誰の「視点」から語られている文なのか,が「視点論」を論ずる中心になる。
◆ 文芸研での「視点論」では,「見ている側」と「見られている側」で区別をしている。『西郷竹彦 文芸・教育全集 第14巻 文芸学講座I 視点・形象・構造』では「文芸作品にはすべて『見ているほう』(視点)と『見られているほう』(対象)があります。『見ているほうの人物』を視点人物と名づけ『見られているほうの人物』を対象人物といいます」と示されている。例えば,「Aくんは Bさんに仕事を頼もうと思った。しかし,Bさんは忙しそうにしていたので,頼むのをやめた」という文があったとする。この文は,Aくん視点から書かれている文であり,この場合の視点人物は Aくんになり,対象人物は Bさんになる。
文学的文章教材における教材研究の視点 ―「視点論」を中心に―創価大学教職大学院 教職研究科教職専攻 荒井英樹 創大教育研究 第2号 P123~134
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