« 視点の再考(2) 視点と動作の方向 | Main | 視点の再考(4)  話者の内面の問題 »

July 30, 2024

視点の再考(3) 話者の位置

「おれはかまきり」「吾輩は猫である」のように、作品の中に一人称の「ぼく、おれ、わたし」が出てきて話しかけるように書いてあれば、

「見え」や「位置」を使って考えさせる。

 

◆「一匹の蝶々が韃靼海峡を渡っていく」その場面を見ている人物がいるよね。これが話者です。この場面を撮影しているカメラがあって、カメラマンがいるよね。どこから映している?

 

と問うと、カメラマンの位置は、「韃靼海峡のこちら側」だと特定できます。蝶々が「渡っていった」と書いてあるからだ。

 ここで、併せて「人称」について考えてみる(子供に教えるという意味ではありません)。

 話者が「私」の場合は、「私」が視点人物であり、「一人称視点」の作品であると言います。

 話者が「私」でない場合は、第三者が視点人物であり、「三人称視点」の作品であると言います。

 

・・では、この「春」の詩は、一人称視点の作品なのか?、三人称視点の作品なのか?

①「私」って書いてないから「一人称視点」ではない。

②でも、第三者の人物とも決まらないから「三人称視点」ではない。

で迷ってしまう。

 「おれはかまきり」「吾輩は猫である」と比べて、格段に難易度が高くなり、「お手上げ」になりかねない。。この一文の情報だけでは、隠れた「わたし」がいる一人称の作品だと理解させるのは難しいからだ。

 この一行詩には「てふてふが渡っていった」その場面を見ている人物がいる。海峡からてふてふを見送っている「カメラ」がある。

 だから、この場合は、「話者」「人称」という概念よりも、「視点」の概念を用いた方が、理解はスムーズである。その際、あえて「一人称」か「三人称」かは強調しない方が良いのだと思う。

Ceiimbs92pg

|

« 視点の再考(2) 視点と動作の方向 | Main | 視点の再考(4)  話者の内面の問題 »

国語」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 視点の再考(2) 視点と動作の方向 | Main | 視点の再考(4)  話者の内面の問題 »