視点の再考(3) 話者の位置
「おれはかまきり」「吾輩は猫である」のように、作品の中に一人称の「ぼく、おれ、わたし」が出てきて話しかけるように書いてあれば、
「見え」や「位置」を使って考えさせる。
◆「一匹の蝶々が韃靼海峡を渡っていく」その場面を見ている人物がいるよね。これが話者です。この場面を撮影しているカメラがあって、カメラマンがいるよね。どこから映している?
と問うと、カメラマンの位置は、「韃靼海峡のこちら側」だと特定できます。蝶々が「渡っていった」と書いてあるからだ。
ここで、併せて「人称」について考えてみる(子供に教えるという意味ではありません)。
話者が「私」の場合は、「私」が視点人物であり、「一人称視点」の作品であると言います。
話者が「私」でない場合は、第三者が視点人物であり、「三人称視点」の作品であると言います。
・・では、この「春」の詩は、一人称視点の作品なのか?、三人称視点の作品なのか?
①「私」って書いてないから「一人称視点」ではない。
②でも、第三者の人物とも決まらないから「三人称視点」ではない。
で迷ってしまう。
「おれはかまきり」「吾輩は猫である」と比べて、格段に難易度が高くなり、「お手上げ」になりかねない。。この一文の情報だけでは、隠れた「わたし」がいる一人称の作品だと理解させるのは難しいからだ。
この一行詩には「てふてふが渡っていった」その場面を見ている人物がいる。海峡からてふてふを見送っている「カメラ」がある。
だから、この場合は、「話者」「人称」という概念よりも、「視点」の概念を用いた方が、理解はスムーズである。その際、あえて「一人称」か「三人称」かは強調しない方が良いのだと思う。
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