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July 30, 2024

視点の再考(7)  話者に見えるもの

作品が「一人称視点」か「三人称視点」かで、何がどう違ってくるのか。

文字作品ではなく、絵画作品で考えてみる。例えば、夏休みの思い出の絵。

自分が見た光景を描くのなら、視点人物である自分は、画面に入らない。

しかし、多くの思い出の絵は、主役である自分が楽しんでいる様子が描かれる。

1_20240730130601

「楽しんでいる自分」を誰かが撮ってくれた記念写真タイプの構図。

これは第三者のカメラマンがいる「三人称の視点」で、この画面を「わたし」が見ることはない。

 

一方、花火や水族館などの場合は、「見ている自分」を描くパターンがよく見られる。

これらは、視点人物である「わたし」が見た世界を伝えようとしている絵で、横顔や後頭部で示す場合ある。

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本当の「一人称視点」の作品には視点人物は入らないので、「一人称を意識した視点」の絵である。

ただの風景画や他者だけを描くと、下の絵のようになる。

ただの風景画だと「楽しかった自分」が伝わりにくいので、自分を含めたくなる気持ちがよく分かる。

3_20240730130801

「自分がやったことの思い出」は含む三人称の絵、「自分が見たことの思い出」は一人称の絵で描かれやすい。

 どちらにしても、私たちは、思い出の絵を描くとき、視点人物である「わたし」を入れることに違和感がない。

だから、物語作品を読むときも、「わたし」が見ている場面に、その「わたし」を入れた世界をイメージすることに違和感がない。

話者が一人称か三人称かで、作品の世界の見え方が違うことは、発達年齢に応じて教えていく必要がある。

画像は、以下のサイトより引用。

https://rina522.com/natsuyasuminoe/

 

 さて、「吾輩は猫である」は、一人称視点の作品の代表例で、主役である猫が見た人間社会の様子が描かれる。

 では、ある書籍(コミック版)の表紙はどうなっているか。

Neko

「吾輩は猫である」と語っているのは「猫」。

その「猫」の姿が作品に現れてしまうことは、視点論で考えるとおかしい。

「話者である猫」を見ている視点人物が存在する

という構造になっている。まあ表紙絵だから、文句を言うことではない。

「話者」の意味だけを考えると、場面の絵に話者自身が入ることはない。

思い出の絵を描かせると自分を描く子が多いように、物語から思い浮かぶ映像には「わたし」を入れてしまいやすいのかもしれない。

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