視点の再考(7) 話者に見えるもの
作品が「一人称視点」か「三人称視点」かで、何がどう違ってくるのか。
文字作品ではなく、絵画作品で考えてみる。例えば、夏休みの思い出の絵。
自分が見た光景を描くのなら、視点人物である自分は、画面に入らない。
しかし、多くの思い出の絵は、主役である自分が楽しんでいる様子が描かれる。
「楽しんでいる自分」を誰かが撮ってくれた記念写真タイプの構図。
これは第三者のカメラマンがいる「三人称の視点」で、この画面を「わたし」が見ることはない。
一方、花火や水族館などの場合は、「見ている自分」を描くパターンがよく見られる。
これらは、視点人物である「わたし」が見た世界を伝えようとしている絵で、横顔や後頭部で示す場合ある。
本当の「一人称視点」の作品には視点人物は入らないので、「一人称を意識した視点」の絵である。
ただの風景画や他者だけを描くと、下の絵のようになる。
ただの風景画だと「楽しかった自分」が伝わりにくいので、自分を含めたくなる気持ちがよく分かる。
「自分がやったことの思い出」は含む三人称の絵、「自分が見たことの思い出」は一人称の絵で描かれやすい。
どちらにしても、私たちは、思い出の絵を描くとき、視点人物である「わたし」を入れることに違和感がない。
だから、物語作品を読むときも、「わたし」が見ている場面に、その「わたし」を入れた世界をイメージすることに違和感がない。
話者が一人称か三人称かで、作品の世界の見え方が違うことは、発達年齢に応じて教えていく必要がある。
画像は、以下のサイトより引用。
https://rina522.com/natsuyasuminoe/
さて、「吾輩は猫である」は、一人称視点の作品の代表例で、主役である猫が見た人間社会の様子が描かれる。
では、ある書籍(コミック版)の表紙はどうなっているか。
「吾輩は猫である」と語っているのは「猫」。
その「猫」の姿が作品に現れてしまうことは、視点論で考えるとおかしい。
「話者である猫」を見ている視点人物が存在する
という構造になっている。まあ表紙絵だから、文句を言うことではない。
「話者」の意味だけを考えると、場面の絵に話者自身が入ることはない。
思い出の絵を描かせると自分を描く子が多いように、物語から思い浮かぶ映像には「わたし」を入れてしまいやすいのかもしれない。
「国語」カテゴリの記事
- 都道府県の旅(カンジー博士)(2024.08.24)
- 何のために新聞を作らせるのか?(2024.08.23)
- テスト問題の意味を教えないと汎用的な技能が身につかない。(2024.08.22)
- 「対比思考」は情報処理能力(2024.08.06)
- 「おもしろい」を強要するのはなぜか?(2024.08.05)
Comments