探究型で大事なのは「課題の質」
6月に春日井市立藤山台小学校で高橋純先生の講演を聞いた。
「指示・説明・発問」の違い、「発問と質問」の違い、「発問」とは?
といった問いかけがあり、チャットでは
「質問は分からないから聞く、発問は知っているけどあえて聞く」
「知っていることを聞くのが発問」
「教育的意図」
というような書き込みが流れた。
高橋純先生がどのような意図でこの点を尋ねたのかよく分からなかった(聞き落としたのかな)。
「発問」の意義について、その後、ずっと気になっていた。
個人的な見解としては
◆質問には、答えがあり、正誤の判断ができる。
◆発問には、多様な考えが生じる。
だから学習指導案で「発問」と提示されていても、「これは発問とは言わんやろ」と突っ込みたくなることがあった。
今「見解(物事に対する考え方や評価・意見)」というワードを使った。
◆質問は、正解を引き出すもの
◆発問は、見解を引き出すもの
と言えるかもしれない。
質問中心の授業は、T-C、T-C の繰り返しになりやすい。
しかも正解志向だから、先生の期待する正解の探り合いになりやすい。
だから授業の中で先生の存在が大きい。教師主導になりやすい。
一方、自分のイメージする発問中心の授業は、意見(見解・情報)を出し合うこと。
子供同士が情報交換できるなら、授業の中の先生の存在はうんと小さくなる。
◆発問に正対して、自分はどう考えたか。
◆他にどのような考えがあるか、情報収集し、十分に比較検討したか。
◆自分の意見を相手にどう伝えるか、相手をどう説得するか、表現の工夫に努めたか。
◆情報を整理分析し、最終的にはどの意見が納得解とするかを自分でまとめたか。
【課題の設定ー情報の収集ー整理・分析ーまとめー説明・発表】という「探究型の授業」のシンキングサイクルとよく似ているなと思いながら書いている。もちろん、そのサイクルに合わせて書いているんだけど。
高橋純先生がそう話されたわけではないのだが、
◆探究型の授業で設定される「課題」は、正解が特定できる「質問」レベルであってはいけない。
多様な意見生じ、対立・分裂を誘発する「発問」レベルであるべきだ。
ということを言いたかったのかと勝手に理解した。
どう学んだかは、学び手の自由だから、これでいいのである。
私自身がこだわってきた「発問」の意味を、これからもしっかり継承させていきたい。
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