視点の再考(1) ~誰の立場で読むか~
『天気の好い日は小説を書こう』(三田誠広)で「立場で読む」というくだりがある。要するに「視点」のことだ。
志賀直哉の『小僧の神様』について、次のように書いてある。
これはですね、中学校の時に読むと、小僧の神様の立場で読んでしまうんです。
なるほど。
我々は(小中学生に限らず)、作者が設定した「視点人物」がどうであれ、自分の読みたい立場で読んでしまうことがあるのだ。
小中学校で扱う多くの作品は、子供側の視点で描かれることが多いから、エラーは少ない.
しかし、あまり「子ども視点」の作品パターンに慣れすぎると、別の視点で読むことができなくなってしまう。
ちなみに、私は新美南吉の「きつね」を朗読していて泣いてしまったことがあるが、子どもは母親の立場では聞いてないから、多分泣かない。
三田氏は「『小学生の作文』にならないための諸注意」の章で、小説を書く側の「視点」の注意を書いている。
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失敗している作品のほとんどは視点が動いているんですね。
神の視点でものを見て、父と子が出てくるとですね、どうもお父さんがうすっぺらく見えてしまうということになる。
子どもなり、娘なりの視点に徹して描いていくと、おのずと父親の影というものが気配に伝わってくるものです。
子供の目には見えない父親の影の部分は、見えないままにしておく。その方がいいんです。
見えないものは描かない。すると立体感が出てくるのです。神の視点で何もかも描いてしまうと、嘘っぽくなる。
同様に、書き手が何もかもを解釈し、説明してしまうと、ただの図式になり、奥行きがなくなってしまいます。
(中略)人物が出てくると、必ずその人物を説明う人がいるんですね。「これがこれこれこういう人である」というふうに説明しちゃったら、それは「絵に描いた餅」になってしまいますね。
そうじゃなくて、主人公の目でじっと見る、見えたものだけを書けばいいんです。
そうすると見えなかったものは書かれないということになります。その人物の裏側というのは主人公に見えないわけですね。見えないけど、裏も何かあるんじゃないかなという気配だけが残る。すると作品が立体的になるんですね。(P153/154)
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限定視点の作品の場合は、対象人物の内面は描かれない。だから、読者は自分で解釈しようとする。
書き手が書いた解釈や説明をなぞるのではなく、書いていない解釈・説明を読者自身が実行する。
この件について三田氏は次のように述べる(P116)
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もし、これがですね、志賀直哉が父親に向かって、「お父さん、僕の赤ん坊が死んでしまいました。その瞬間、私はお父さんの気持ちがわかりました。いままでの私がわるかった。お父さん、許してください」と言ってですね、父親が息子を抱き締めて、「いや私もいままで説明不足だった。お前もお父さんのことを許してくれ」と言って、二人がひしと抱き合ったら(笑)非常にわかりやすい話になりますね(笑)
しかし、それでは大衆文学になってしまうんです。教養のない人にはわかりやすいかもしれないが、志賀直哉はそういうふうには自分の文学を作っていかなかったんですね。何にも説明しないんです。だけどわかる人にはわかる。私も二十五歳にして初めてわかったんですね。
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子ども向けの物語が全知視点で、どの登場人物についても、分かりやすい解釈・解説を加えるのは仕方ない。
ただし、そういう分かりやすい作品に慣れてしまうと、語らない良さを備えた小説を読み味わえなくなる。
あまりドラマ見ないけど、
(1)人物がセリフして自分の気持ちを長々と語る作品は、興ざめしてしまう。
(2)ナレーションで人物の気持ちを長々と語る作品も、興ざめしてしまう。
という経験がある。
しかし・・
それは、そうなんだけど、時々、人物の思いが分からなくて困惑することもある。
「この場合は、もうちょっと語ってほしかったな」と思うことがあり、読者・視聴者は、かように自分勝手な存在なのだとつくづく思う。
※連続ドラマの場合は、最初から人物像を明らかにするとつまらないから、あえて人物の内面を語らずに進めている。
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