説明主体の授業から脱却するために(3)
〜説明と描写の違い〜
あるサイトを用いて整理する。
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地の文には「説明」と「描写」がある。
一見同じ文のように見えて、実際には「説明」と「描写」に分かれている。
起きていることや事実を「私情を挟まず」淡々と書いて、読み手に必要な情報を提供する文が「説明」文。
「説明」文だけでは、あまりにも淡々としすぎてお説教かお経のような文章になってしまう。
一方、「ある立場から出来事で感じたことを述べている文」が「描写」文。
こちらは「私情を挟んで」多彩に書き、読み手に特定の感情や感覚や印象を与える文になる。
「思しき」「ずいぶんと」「あまりにも美しすぎて」「まじまじと」「腹の底に響くような」「思っていた」のような視点を持つ人物の感情や感覚や印象が込められて、視点を持つ人物が出来事や事実などをどう受け止めたのか、どう感じたのかを読み手に伝えるために用いる。
「説明」文だらけで「描写」文が足りないと、散々うんちくを聞かされ続けているようなもの。
「描写」文だらけで「説明」文が足りないと、感情がこもりすぎて状況が今ひとつ飲み込めなくなる。
程よいバランスをとることが大切である。
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・・・「私情を挟んで」多彩に書き、読み手に特定の感情や感覚や印象を与える文というのは、要するに「語る側の熱量の問題」なのかなと思う。
授業内容を届けたいと願う教師の気迫だ。
かつて道徳資料の範読について「読み聞かせ」ではなく「語り聞かせ」をせよと指導を受けたことがある。
淡々と資料を読むのではなく、特定の感情や印象を与えるように読めということだったのかなと今は思う。
「説明」ではなく「語り聞かせる」の大事さについても、併せて考えてみたい。
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