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August 01, 2024

自由な時間が「問いの情熱」を育む

 ある高校の入試問題に森本哲郎『生き方の研究』の一節があって、純粋な読書としてその意味内容に感心したことがある。


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 三歳から六歳ごろまでの子どもにとって、何より大切なのは、さしでがましい大人の干渉を受けずに、自分で自分の能力を開発するということである。つまり、自分で遊びを工夫し、あれこれ思案し、探索し、存分に好奇心をふくらませることだ。(中略) 
 学問とは、読んで字のごとく、問うことを学ぶことである。幼年期、それにつづく少年期が人生でいちばん大切というのは、この時期こそ、心から問いを発する、そして、問うことを自分で学ぶ年齢だからである。この時期に問うことを学びそこなうと問いの情熱はもう一生戻ってこない。
(中略)情報化社会といわれる現代の子どもたちには、問う前にすでに答えがある。(略)子どもたちは答えだけをきかされて育つのだ。そんな環境のなかで、どうして子どもたちは問うことを学べようか。
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 「自分で遊びを工夫し、あれこれ思案し、探索し、存分に好奇心をふくらませること」は、まさに探究のシンキングサイクルである。
 子供は何でもかんでも聞いてくる。
 「あれは何?」「なぜ〇〇なの?」
 いちいち尋ねる好奇心こそが「知の原動力」だ。
 「問い」が大事。「問いの情熱」が大事。
  他人の問いに答えるのではなく、自分で問うて自分で考えることが大事。 
  
 「自由試行=飽きるまで存分に触れさせる理科の授業」
が思い浮かぶ。
 答えを与えるのでなく、まずは自由な時間を与え、
 飽きるまでの体験の後に「分かったこと。気づいたこと・思ったこと」の列挙させる。
 さらに「探究活動」、「討論」。場合によっては「問題作り」。

 森本氏の文章では、この部分の前に、幼年期に「むだな時間がない」ことが批判されている。
 夏休みの「自由な時間」を「あれこれ思案し、探索し、存分に好奇心をふくらませる」ように仕向けられるかどうかは、1学期の教師の方向付け次第(「むだな時間」の指導次第)なのだとつくづく思う。




 夏休みの課題で中途半端に子供を縛るのではなく、「自由試行」「自問自答」「探究活動」ができるような時代になるべきなのに・・・

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