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September 30, 2024

学びのユニバーサルデザイン

学びのユニバーサルデザインの3原則は、

(1)情報提示に関する多様な方法の提供・・・・教える側の方法を多様にする

(2)行動と表出に関する多様な方法の提供・・・子供の表出方法を多様にする

(3)取り組みに関する多様な方法の提供・・・・学びの環境を多様にする

 

教室の子供たちは多様なので、1つのやり方では対応できない。

選択肢を増やして、どの子も「わかる・できる」ことをめざす。

1「オプションの提供」とは、学びの手立てを複数用意しておくこと。選ぶのは学習者自身。

2「代替手段」とは、視覚支援・聴覚支援など、学びに困難がある人のために別の方法を用意しておくこと。

3「段階的な支援の提供」とは、スモールステップな支援。必要に応じて懸けたり外したりする「はしご」のような存在。

 

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September 24, 2024

野口芳宏氏にお会いするための予習 #教室ツーウエイ

野口先生は次のように発言している。
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子供の本質ってのは無知未熟。それが本質だっていうのが私の考え。だから教えなくちゃならないし、否定して直さなくちゃいけないし、そうして導かなければ本物にはなれない。
「教室ツーウエイNEXT」No21 2024年1月 P13
 特集「教師が教える」から「子供の学び」へ どうする路線転換
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 相変わらずの「野口節」だ。
 同じ対談の中で、長谷川博之氏が野口氏の指導観について、次のように述べている。
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野口先生のお言葉だと、「答えを限定し、正誤を明らかにする指導」が重要なんだということです。これが自信を持って先生方になかなか言えなかったりする部分は多いです。何でもありの授業で「活動あって指導なし」となってしまっています。P14
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 「AでもBでもいい、自分なりの論拠があればどっちでもいいんだよ。」という風潮は、2000年のPISAショックから起きた。
 世間一般にとってのPISAショックは「読解力低下」だったが、国語教師にとっては、「どちらでもいいから論拠を述べよ」という落書き問題が驚きだった。
 自分なりの理由があればAでもBでも許容されるのだから、「子供の読みを高い次元に引っ張り上げる」という心意気がなくなった。教師の解釈の押し付けと批判されてしまうからだ。
 「読みの浅さ」「思考の浅さ」「比較検討の甘さ(独善性)」を指摘し、訂正させる教師が減った。
「子供一人一人の読みを大切にする」という甘い言葉に惑わされてしまったとも言える。
「正誤を明らかにしない授業」「『否定』のない授業」は、「鍛える」の役割を失っている。
「向上的変容」のない1時間。
「活動あって指導なし」の1時間。
 それではいけない、
 振り子の揺り戻しはない(時代に逆行しない)と言われるが、野口氏の主張は今なお傾聴に値するのだ。
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September 23, 2024

「丸投げ」に耐えられるのは、実力を蓄えたあと

それなりに学びを積んできた教師は、上司から「自分のやりたいようにやってみろ」と丸投げされると、意気に感じて頑張れる。

それは「課題の設定ー情報の収集ー整理・分析ーまとめ表現」の探究サイクルが身についていて自力解決できるからだ。

ダメ出しされる観点が予想できるから、ダメ出しを回避して、ニーズにあった企画や提案ができる。

また、謙虚に学んだ教師ほど、己の限界をよく知っているから、遠慮なく人に頼ることができる。

 

しかし、その丸投げを、若手の教師に行うと、リスクが大きい。

ネットワーク・フットワーク・ヘッドワークが足りない先生は、抱え込んで潰れてしまうことがある。

手放すタイミングが早すぎると本人のためにも組織のためにもならないから、「教えてー手放す」の段階をしっかり判断しないと意味がない。それも「見取りと介入」と言えるだろう。

当然ながら、この話は「子供」も同じだ。

教えずに手放せば、路頭に迷うだけだ。

さて

武田塾は一斉業をしない個別指導塾として知られている。

武田塾は生徒一人ひとりに専任の担当者がつき、学習計画の立案から進捗確認まで細かくサポートする。つまり「徹底管理」がセールスポイントだ。塾業界の「ライザップ」とも言われている。

 一斉授業に自分事として取り組めないタイプの人は、徹底管理されないと成果は上がりませんよ、というのが「武田塾」の現実的な提案で、「もともと自習できる人は武田塾に行く必要はない」という書き込みもあった。 

 「勉強は自学自習が最強」と口当たりのいいことを言って、学習者本人に任せているだけでは成果は出ない。誰もが自己管理できる訳でなく、大方の人は弱くてサボりたがるという現実論に立脚している。性善説に立って本人のやる気に任せていては、結果責任を果たせないのだ。

 

ところで

野口芳宏氏の資料を調べていたら次のような記述があった。私家飯「国語教室」第25集(平成3年)だ。

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◆子供の主体性を育てるためには、教師がもっぱら表立つことなく、つとめて引き下がり、子どもに問題を発見させ、解決の糸口を見つけさせ、自ら解決させ、その筋道を反省させるようにすべきである、という訳である。つまり、一言で言えば「教える力」を発揮しないのが良い指導者なのだ、という風潮である。このような考え方は危険であり、私には賛成できかねるところである。

◆ 私は講義式のみがいいと言うのではない。詰め込みのみが良いと言うのではない。教える力を存分に発揮する教授法がもっともっと大切にされなければならない、という至極当然のことが言いたいのである。

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学校における「個別最適学習」は、きわめて緩いのではないか。

人は弱くて流されやすい。怠けやすいし、楽をしたいという事実に目を背けてはならない。

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上司が部下に迎合してはいけない!

上司と部下のラポールは難しい。
職員に声を掛けることや褒めることは大事だが、言葉やタイミングを間違えると、迎合しているように受け止められてしまう。
最近の飲み会の席では、最近は上司が部下にお酒をついで回ることが多い。若い子は上司につぎに行かなきゃなんて思ってないからだ。そして校長がつぎに行くと、若手から「僕はビール飲みませんから」などと断られることも、まさにアルアル。
「友達上司」で検索したら、否定的な見解がずらっと並んでいた。
例えば、次のように。
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 職場におけるコミュニケーションの目的は、「部下との関係性を良好なものにすることで、部下に仕事を円滑に進めてもらって、成果を出してもらう」ことです。
「部下に好かれるため」でも、「単に楽しい職場にするため」でもありません。そこを履き違えると、「なあなあな関係」に堕落します。
===================
 
 これは、学級経営でも同じで、「子どもに好かれるため」「楽しい教室にするため」だけを狙うと、「なあなあな関係」に堕落する。
 親しみやすさが度を越すと、甘えや緩みにつながる。
(「友達家族」という言葉もある。本来上下である関係が、横並びになってしまうのだ)
Chat GPTに尋ねたら、次の点を「友達上司」の問題点として挙げてました。
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1、権威の曖昧さ:友人関係があると、上司としての指示や評価が曖昧になりやすい
2、公平性の欠如:友人として接することで、他の部下との扱いに不公平が生じる可能性がある。
3、距離感の問題:私的な感情が職場の判断に影響を与え、プロフェッショナルな関係が崩れることがある。
4、責任の分散:友人としての甘えや遠慮が、仕事上の責任を曖昧にするリスクがある。
これらの問題が、職場環境や業務効率に悪影響を与える可能性があります。
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September 20, 2024

掛け算は遺伝する

4年生算数「割り算の性質を活用して工夫して計算する」で、次のような学習をする。

900÷15
(÷5)で、180÷3=60
(÷3)で、300÷5=60
もちろん、÷15の暗算ができるなら、900÷15=60で解ける。
また、×2で1800÷30=60という解き方もある。
5年生になると、これが900と15の公約数である「3・5・15」で割れるという理屈で理解できる。
以前視聴したNHKスペシャル「数学者は宇宙をつなげるか?abc予想証明をめぐる数奇な物語」
大半は理解できていないが、面白かった。
当時の覚え書きに、次のように書いた。
1)掛け算は、素数の組み合わせで成り立つから答えが予想できる。
 4×21=2×2×3×7
(2)足し算は元の素数と異なる素数が出現するので、答えの予想が難しい。
 4+21=5×5
(3)掛け算の答えは元の数の素数(「遺伝子)を受け継いでいるが、足し算は遺伝子を破壊する。
(4)数学の難問が多いのは、足し算があるから。
   フェルマーの最終定理も足し算だから難しい。掛け算ならすぐに証明できる。
4年算数では、このあと「結合法則」を扱う。
16×35
=(4×4)×(5×7)
=(4×5)×(4×7)
=20×28
=560
16×35
=(8×2)×(5×7)
=(2×5)×(8×7)
=10×56
=560
掛け算は遺伝するんだな、と感じる単元だ。
でも「遺伝子」の話はややこしいから、学校では言わない。自分だけの密かな楽しみである。

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September 12, 2024

行動を価値づけする

1年生の図画工作の授業を見学したら、「めだたせたいものを大きくかこう」を目当てに取り組んでいた。
クワガタムシや、ひまわり、プール、自分などを大きく描いていた。
その時の、自分の声掛けは2通りだった。
A:行動をほめる「ひまわり大きく描けたね」「いろんな色を使ったね」
B:効果をほめる「にぎやかだね」「本物みたいだね」
自分の誉め言葉を分析してみて、ABをくっつけたら子供に伝わりやすいのではないかと思った。
◆ひまわりを大きく描いたから、すごく生き生きしてるね。
◆いろんな色を使ったから、にぎやかになったね。
◆クワガタが人間より大きく描いてあるから、すごく目立つね。
「〇〇をしたから、すごく△△になったよ」
「ある行動をしたから、すごく価値が上がったよ」
ということだから、これが「行動の価値づけ」だ。
何をいまさらというような発見だが、実体験で納得できたことがうれしい。
ちなみに、全部提示しなくても、子供に考えさせる方法もある。
 すごく△△だよ。何がよかったと思う?

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September 08, 2024

人々が画一化しないために

人間が「コモデイテイ化」しないために、注意すべき点は何でしょうか?

以下に、Geminiの回答案を提示する。

こんなふうに、まとめられたら我々に仕事はどうなるのかと思う。

また、「コモデイテイ化」しないためには、まさに、このような模範解答でない意見を提示できる存在でなければならない。

 

人間が「コモデイテイ化」しないために注意すべき点

現代社会において、「コモデイテイ化」は様々な分野で進行しています。これは、人々が画一的な存在となり、価値が低下してしまうことを意味します。人間がこのような状況を回避し、個性を発揮していくためには、以下の点に注意することが重要です。

1. 自分の強みや価値を認識する

コモデイテイ化とは、個々の違いが軽視され、画一的な存在として扱われることを意味します。人間がコモデイテイ化を避けるためには、まず自分の強みや価値を認識することが重要です。自分の個性やスキル、経験などを棚卸しし、何が自分にとってかけがえのないものなのかを理解しましょう。

2. 独自のスキルや知識を磨く

自分の強みや価値を認識したら、それを活かせるスキルや知識を磨きましょう。日々の仕事や勉強、趣味を通して、常に新しいことに挑戦し、自分自身を成長させていくことが重要です。また、他の誰にも真似できないような独自の専門性を身につけることができれば、コモデイテイ化から遠ざかることができます。

3. 人と積極的に交流する

人間は社会的な生き物であり、人と交流することで成長することができます。積極的に人と交流し、自分の考えや思いを共有することで、新たな視点を得たり、人脈を広げたりすることができます。また、人と協力して何かを成し遂げることで、自分が社会にとってかけがえのない存在であることを実感することができます。

4. 常に主体的に行動する

指示を待つのではなく、常に主体的に行動することが重要です。自分の意志で行動することで、周りの人から一目置かれ、自分自身の価値を高めることができます。また、失敗を恐れずにチャレンジすることで、新たな可能性を発見することができます。

5. 自分の軸を持つ

流行や周囲の意見に流されることなく、自分の軸を持つことが重要です。自分の価値観や信念に基づいて行動することで、周囲から信頼されるようになり、真の個性を発揮することができます。

これらの点を意識することで、人間はコモデイテイ化を避け、自分らしい人生を歩んでいくことができるでしょう。

コモデイテイ化の具体例と、それを回避するための対策

以下、いくつかの具体的な例と、それぞれの対策をご紹介します。

例1:仕事

  • 仕事で指示を待つばかりで、自分で積極的に提案しない
  • 自分のスキルや経験を活かせる仕事を与えられていない
  • 周りの同僚と比べて、特に目立った成果がない

対策

  • 上司や先輩に積極的に提案し、自分の意見を言う
  • 自分のスキルや経験を活かせるプロジェクトに立候補する
  • 資格取得や研修参加などを通して、自己研鑽に励む

例2:人間関係

  • いつも人の話を聞き役に回るばかりで、自分の意見を言わない
  • 周りのに合わせてばかりで、自分の個性を出すことができない
  • 深い人間関係を築けていない

対策

  • 自分の意見を積極的に言うように心がける
  • 周りに合わせてばかりではなく、自分の個性を出す
  • 共通の趣味を持つ仲間を見つけ、積極的に交流する

例3:生活習慣

  • 毎日同じような生活を送っていて、変化がない
  • 新しいことに挑戦する機会が少ない
  • 自分の時間を持てずに、いつも忙しい

対策

  • 週末や休暇を利用して、旅行や趣味など新しいことに挑戦する
  • 1日の中で、自分の時間を作るように意識する
  • 早寝早起きを心がけ、規則正しい生活を送る

まとめ

人間がコモデイテイ化を避けるためには、自分の強みや価値を認識し、それを活かせるように努力することが重要です。また、常に主体的に行動し、自分の軸を持つことで、周囲から認められる存在となることができます。日々の生活の中で、上記のような点に意識することで、より充実した人生を送ることができるでしょう。

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September 06, 2024

「原爆裁判」については、ほとんど知りませんでした!

今週のNHKドラマ「虎に翼」で扱っていたのが「原爆裁判」(通称)。

広島と長崎に投下された原子力爆弾の被害者が、日本政府に賠償を求めて起こしたもので、原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国賠訴訟。

1955(昭和30)年から8年にわたる裁判で、まさに自分の生まれた前後の歴史である。

しかし・・・

現代の感覚では

「原爆の被害を国家に訴えても無理だよね」

「原爆の違法性を訴えても無駄だよね」

と多くの日本人が思う。

それほど、戦後の歴史教育は「あれは仕方なかったのだ」という諦めを強要してきた。

「アメリカに原爆投下の選択させた当時の日本が悪い」と自虐史観がまかり通ってきたからだ。

 

だから、以下のような判決文を、しっかり伝えていく必要がある。

==================ー

国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう

 

しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会および行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法及び立法に基づく行政の存在理由がある。
終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである

https://steranet.jp/articles/-/3516

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ドラマではなくドキュメンタリーでの特集を望みます。

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September 02, 2024

先生が子離れしないと、子どもは自立できない。

かつて、春日井市内の小学校の野外学習は2泊3日だったが、コロナによる中断のあと、負担軽減もあって1泊2日の行事になった。

2泊3日一緒に参加したある年のこと。

3人の学級担任が野外学習初体験だったため、従来のスケジュールを参考に日程を組んだ。

何とか無事にスケジュール消化させることで精いっぱいの3日間だった。

この宿泊学習で、どんな体験をさせ、何を学ばせ、何を身につけさるか、という展望がなかった。

「時間を守る」ということなら、教師がいつまでも口出ししていては、子どもが育たない。

 失敗を防ぐために、毎回子どもを急かしていたら、子どもは教師の指示から卒業できない。

 1日目の夜の反省会で「先生が子離れしなくてはだめ。あれこれ親切にしすぎだ」と指摘したのだが、直ることはなかった。

 1学期からずっとそういう指導を繰り返していたのだろう。従順な子たちなので、言われたことはがんばる。でも、そこを突破しないと、言わないとやらない子になってしまう。

 「子供の自治能力を高める」ということなら、子どもだけの相談時間や話し合いの時間が必要だ。

 キャンプファイヤーのスタンツ練習も最後まで担任教師が居合わせて、先頭になって仕切っていた。担任の心配は分かるが、もっと子どもに任せてあげるべきだったと思う。

 2日目にハイキングがあった。ボランティアのスタッフがグループを先導してくれるので、子どもは案内図も持たずガイドリーダーについて歩くだけでよかった。しかし、その結果、グループから外れて迷子になった子が、ただうろうろ歩きまわり、たまたま遭遇した一般の登山客に助けてもらうという事態が起きた。ガイドリーダーについていくだけのハイキングの意識を変えておけば、この子だって何とか自力で解決できたはずなのだ。
 
 宿泊学習は「ひとりだち」のための大きなチャンスだと思う。「通過儀礼」と言ってもいいくらいだ、

 しかし、ひとりだちさせない「教師主導のプログラム」の方が、教師には楽だ。この失敗させない配慮が「大きなお世話」になっている。

 教師にとって楽な指導方法が、子どもの自立のチャンスをスポイルしている。

 無論、「ひとりだち」を名目に、放置することは「自律の指導」ではない。放置は論外である。

 これは宿泊学習に限らない。

 「子どもを高める指導・子どもを鍛える指導」について深く考えさせられた3日間だった。

 今も様々な場園で「教師が面倒を見すぎではないか」と思うことがよくある。そこで教師が面倒を見過ぎると、子供は育たない。

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パラリンピックの理念

「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」

パラリンピックの創始者、ルートヴィヒ・グットマン博士が唱えた基本理念。

多くのサイトで、この言葉の意義が語られている。例えばNHKの東京パラオリンピック。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/2020news/special/article_20200821_01.html

 

この言葉は、日常的な我々の心がけとしても語られている。

自分なりの学びは以下の通り。

 

◆ネガテイブに考えるな、ポジテイブに生きろ。

あれが足りない、これも足りない」

「あれも欲しい、これも欲しい」

「あれがあったら、これがあったら」といった無意味な不満や願望を捨て、

「あるもので勝負する」

「持っているものを伸ばす」

「今を大事にする」

 

そんな生き方を貫いていきたいと思わせる言葉だ。

むろん、それは「現状に満足しろ」という意味ではない。 

現状に満足することは「ぬるま湯」につながってしまう。

「残されたものを最大限に活かせ」とあるのだから逆だ。

あくなき自己改革を迫っている厳しい教えとして受け止めたい言葉である。

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ソフトランデイングとハードランデイング

 授業の「詰め」を、厳しい指導という意味で「ハードランデイング」としてとらえたことがある。

 2000年3月にまとめた文章を再構成してみる。

 引用した向山洋一氏の論文の正しい出典が不明(コピーだけ残っていた)であることをお断わりしておく。また、今現在、そのコピーもないので、原文の改行等も不明であることをご了承ください。

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『教育トークライン』「向山の授業理論第一巻4章(8)授業は『詰め』まで」

ぼやっとしている子にあてていく。

 何のことやらのみこめずに分からない子もいる。

 もう一度言ってやるなどということはしない。小さな親切、大きなお世話だ。

 こんな易しい問題を、何度もいってもらえるなどという教室にしてはならない。

 即座に次の問題に入ったので、とまどう子も最初はいる。

 しかし子どもはすぐに教師になれる。

  勉強ができなくても、まじめに聞いている子もいる。

 その子に当てる。胸をはって答えるだろう。

 「正方形」。

  「よくできた。すごい。授業態度も立派だ。それにひきかえ、こんな簡単なことができない人もいる」

 このくらいは、言っておく。

 くやしい思いをする子もいるだろう。それでいい。次からは教師の問いをまじめに聞くようになる。

 子どもはお説教では直らない。このような授業の場面、場面で成長する。

 

◆易しい問題なので、すぐに指名する。

  クラスで何人か、ノートも開かないでもたもたしている子がいる。

  そんな時、「まだノートに書いていない子は、立ちなさい」という。

   私の場合、黒板に問題を書いて、三十秒後には、このように言う。

 これが、二分も三分も待っている教師がいる。小さな親切、大きなお世話だ。

  こんな簡単な問題をのんびり、ぐずぐずやらせてはいけないのだ。

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 「赤鉛筆しかいけません」

 「定規できちんと線を引きなさい」

 「消しゴムは一回だけ」

「日付やページがないとやり直し」

というように、いろんな制約がある。

  ここまで徹底させようとしたら子どもが反発しないかな、というのが甘い私の感想であった。

  私の知っている中学校の陸上部顧問の先生も、厳しいがきちんとした実績を上げられる先生である。

 その先生は「若い先生が俺の厳しいところだけまねをして失敗することが多い」と言われた。

  厳しいやり方を貫くには、指導方針と指導結果に強い自信がないとできない

 結果も出してあげられない教師が厳しい指導のまねだけしても反発を招くだけだ。

 

①明らかに聞いていない生徒に質問して答えられない状況を作る。

②まだできていない子を立たせる。

③できるまでやり直しをさせる。

④ノートの取り方や文房具の使い方まで指定する。

 

 言い直しややり直しにスンナリ応じない子も中にはいるだろう。

 だからといって、何でもソフトランデイングで子どもに迎合しようというつもりはない。

 そういう子をほかっておいて授業を成立させようというのがそもそも問題なのだ。

 それは、かつて有田和正氏が言われた「マラソンコース的授業(教師の学習コースに乗ってくる子どもだけを相手にする授業」や、かつて野口芳宏氏が言われた「上澄みの授業」と同じである。

 

「詰める」「やり直しをさせる」

 

 向山先生のノートチェックの厳しさは、さすがである。

①一字一句間違えないように書き写す。

②ミニ定規をきちんと使う。

③途中の式もきちんと大きく書く。

④ノートはゆったりと「うっとりするほど美しく」 などなど。

 

『教室ツーウエイ』1996年2月号「特集 学級王国の変革を迫るT・T」の向山論文では次のような記述がある。

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さて、日付、ページ、問題、自分の考えを書かせた所で「ノートチェック」をした。

「日付、ページ記入」の簡単なことでも、口で説明し、言葉で言っただけではできない子がいる。

 (中略)当然「やり直し」をさせる。

  こういう簡単なことを、きちんと徹底することが大切だ。

 

・・・この後、珠玉の言葉が並んでいる。

 

◆教室における、つまり現場における授業とは、こういうことのつみ重ねである。 

  「支援」とか「個性化教育」などというのはずっと高級なことなのだ。

◆「フォーマット記入はきびしく。考え方はゆるやかに」

◆ひどい子はやり直しをさせる。上手な子は全員に紹介する。

 これだけで、ノートはずいぶんとていねいになってくる。

◆教えたことは、完全にできるまでやり直しをさせる。こうした所で妥協してはいけないのである。

 

 『教室ツーウエイ』1996年3月号「特集 本当の個別指導とは何をどうすることか」向山氏巻頭論文「個別指導三つのステージ」にも個別指導の「詰め」ということで、ノートチェックのことが書かれている。

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◆ 必ず、全員のノートを見る。

 なぜ、こうするのか?

  それはクラスの中には「やったふりをしてやらない子」「のんびりかまえて出来ない子」「まちがっていても〇をつける子」がいるからである。

  こうした子を放っておくと、ザルに水を入れるようなものだ。

熱心に教えても教えても成果があがらない。どこか、手ごたえに欠けるところが出てくる。

 くどいようだが、このチェックを一分以上かけてはならない。

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・・・「詰め」というテーマで書かれた先の「教育トークライン」。

長方形の公式を説明した後で、長方形の面積を出す公式を言わせる場面がある。

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◆練習することによって、はじめて「分かり」「使える」ようになる子もいる。

 これを、教科書の公式を読ませ、赤線を引かせるぐらいで教えたつもりになっている教師がいる。

 はっきり言って甘い。

 そんなことぐらいで学力をつけられるのなら教師はいらない。

 ここまで「詰め」るのである。

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 こうしたチェックも「詰め」もなしに、授業スタイルだけ確立させたって子どもの力はつかない。

 「詰め」もないくせに、何度説明しても子どもはよく分かっていないと腹を立てる教師は、自分の力のなさを誇示しているにすぎない。

 

向山先生の指導を単に「厳しい」と断じるのは、一面的である。

 向山先生は、誰でも分かる質問だから聞いていない子にあてたのである。

 全部終わってからの書き直しでは子どもにも酷だから、何度も細分化してノートチェックしている。

 定規で線を引かせたり、赤鉛筆を使わえるために、余分に教師が用意している。

  出来ない子を救うための配慮と、やっているふりをしてサボっている子への指導である。

それをやらないというのなら、そんな授業にどんな価値があるのか。

 

一斉授業よりも個別学習の方が徹底指導という「武田塾」の方針を知って、向山先生の「詰め」の厳しさを思い出しました。

 

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授業技量としての「視線」

 「詰め」=「全員の原則」+「確認の原則」

かつて、模擬授業をみてもらったサークルメンバーから、スクリーンを見ないようにアドバイスを受けた。
当時の自分はいつも算数でデジタル教科書を使っていたが、リモコンマウスの操作を画面を見ながら行っていた。
そして、スクリーンを見ながら説明している。
その癖が出てしまっていたのだ。

サークルメンバーは、スマートボードのタッチの経験から、スクリーンを見ないでクリックして授業を進める技を磨いた。
いちいちスクリーンを見ないと不安で授業できないでは、甘いのだ。。
せめて一瞬のチラ見ができるよう修行したいと思って、授業改善に取り組んできた。

さて、「スクリーンを見ながら授業する」は、「視線を子どもから外すこと」の問題であった。
しかも、PC操作を優先すると、PCの場所に固定しがちで、机間巡視も減ってくる。

○算数の問題を復唱させるとき
○フラッシュの答えを言わせるとき
○百玉そろばんの答えを言わせるとき

手遊びしていたり、さぼっていたりする子も見かけるが、しつこく注意するのもどうかと思い、放置することが多かった。
それは、注意すべき子を確定できているか自信がなかったからでもあった。

①全員にきちんとやらせることが「全員の原則」
②全員がきちんとやっているか見抜くことが「確認の原則」
③やっていない子にやり直しさせたり、やらせるように仕向けるのが「詰め」

「詰め」の甘い授業は、だれるし、子どもも教師をなめてかかる。
さぼってもばれないことを日々学び。
さぼっても注意されないことを日々学ぶ。
だから「放置」は、「誤学習」であり、「崩壊」の第一歩なのだ。

①きちんとやっている子をほめることが大切。
②やっていない子にやり直しをさせることも大切。
③そして、隣同志確認したり、ノートを持って来らせたりする「ごまかせないシステム」の確立も大切。

 

PC操作にばかり意識がいく教師、スクリーンばかり見ている教師の授業では、学習者が次々にこぼれていくのだ。

「いらすとや」の授業風景。

さすがですね。

先生が黒板を背にして、しっかり子供に目線を配っています。

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防災教育の2つの方向

2012年6月に名古屋大学減災連携研究センター長の福和伸夫氏の講演を聞いた。
その時、福和氏の挑発的な言い方に驚いた。もう10年以上経ったから書いてもいいかな。

◆さんずいのつく地名の場所に住んではいけない。
◆「新」のつく地名の場所も、要注意。
◆名古屋で言えば熱田神宮の南に住んではいけない。
◆濃尾平野も西側はいけない

◆防災対策をしていない人が、言い訳ばかりしている。

生死を分ける問題である。
甘い考えの人には、厳しい注意もしなければならない。
そのような福和氏のプロ意識を肌で感じる1時間ではあった。

福和氏は、ライフステージを上げるごとに、住まいの高度を上げるようにとのアドバイスもされた。
これは、危険な地域と分かっているなら、いつまでも住む必要はない。年収がアップしたら住居を安全な地域に移せという、ある意味で冷たい「リスク回避」である。

福和氏のような防災教育の授業を受けた子は。

我が家が危険地域にあるなら、早く転居すべきだ。

という感想を持つだろう。
授業を終えた子どもの感想が「早くこの町を出たいです」でよいのかは疑問であった。

これは、津波の危険のある地域で繰り返し避難訓練を指導してきた片田教授の防災教育とは真逆である。

津波も心配なら、高地の土砂崩れも心配だ。
どの土地にも、それなりの災害リスクがある。
転居しても転居しても心配したらきりがない。
どの土地に住むにしろリスクを受け入れる覚悟がないと、よそへ移りたくなるだけだ。
今住んでいる土地で、リスクを受け入れて、自助・共助する意識を育てることが、学校で行うべき防災教育の基本であるとは思う。

防災教育を行うなら、「受け入れる」タイプの授業をすべきだと思う。

 

とはいえ、福和氏に反論できない。

リスクの高い地域と、リスクの低い地域を選べるなら、リスクの低い地域を選ぶ方が賢明だ。

「リスクの高い地域」に住むならば、それなりに覚悟が必要であることは間違いない。
自分の住む地域のリスクについて、自己責任でしっかり調べておくことが「自助」の第一歩とも言える。

 

※「日本各地のくらし」の授業をするときに、「その土地ごとの苦労」を前面に出して授業を展開すると「あんな土地には住みたくないな」というマイナスのイメージを植え付けることになりかねない。
 どんな地域にも長所短所があり、どこの住民も長所短所を生かしてたくましく生きている、というプラス思考の授業に取り組まねばならない。

「どこどこの土地には住んではいけない」などという資格は誰にもない。それは差別にもつながっていく。

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September 01, 2024

Why so? と So What?

言葉足らずな表現を大人が安易に受け入れてしまうことについては、かつて次の例を用いました。
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給食の時に箸を忘れた子は、(本校では)職員室にスプーンを借りに来ます。
先生、箸を忘れました」っていう子には、「だから何ですか?」と聞きます。
「スプーンを貸してください」と言う子には、「なぜですか?」と聞きます。
「何年何組の〇〇です」「箸を忘れました」「スプーンを貸してください」
この3つがそろわないと言葉足らずで相手に伝わらないのです。
これからは「伝え合う力」が求められます。
ご家庭でも「水!」みたいな子どもの言葉足らずの部分を先どりするのではなく、ちゃんと自分の言葉で説明する訓練をしていただきたいです。
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これが「Why so?」 と 「So What?」です。

不十分な子どもの言葉を安易に受け入れる大人が、子供の思考力・表現力。語彙力の育成を阻んでいます。
そして、その風潮は、LINEのようなSNSによって加速しました。
もはや「いいね」の一言も発しないスタンプだけで意思表示してしまう時代になりました。
そのことを嘆いているだけでは何も変わりません。
Why so? と So What?
を、きちんと繰り返し、子供に言わせないといけません。
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