April 23, 2024

整合的に物事を理解したい

「人はいかにして学ぶか 日常的認知の世界」(中公新書1989)

稲垣佳代子・波多野誼余夫氏の共著。

文章の読み取りというか、イメージ確定についての次の箇所も印象に残った。

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書いてあることがわかるだけで満足するのではなく、そこに直接書いてないことを推測し、書いてあることに照らしてその推測が正しいかどうかを吟味していく。こうすることによって、書いてある事を超えてより深く理解することができる。54ページ

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◆人は、たえず自分なりに納得のいく、整合的な世界のイメージを構成しようと努めている存在なのである。

◆理解するためには、新しく入ってくる情報を既有の情報と関連づけ、そこに整合的な関係を見出すことが必要である。

 

・・・「AとBの事態を理解するには、Cという解釈をしないとつじつまが合わない」といった思考過程だろうか。

子どもは「整合性」なんて言葉を知らなくても、整合性のある解釈をする。

それが「知性」なのだと理解した。

ちなみに、何の根拠もないが、子どもは「穴うめ」問題が好きだ。

空欄を見ると、前後の内容からの類推で埋めてみたくなる(「文字数指定」があると類推もさらにやる気になる)。

それは「整合的に物事を理解したい」という知性の表れなのだと思う。

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April 07, 2024

『知の体力』ラスト(5)

〜 語彙と感情表現 〜

 なんでも「ヤバイ」で済ませてしまう若者の語彙に、永田氏は異議を唱える。 P147〜151
◆全てが「ヤバイ」という符牒で済んでしまう世界は、便利で効率がいいかもしれないが、その便利さに慣れていってしまう事は、実はきわめて薄い文化的土壌のうえに様々の種を蒔くことに等しいのであるかもしれない。
◆ある感動を表現するとき、たとえば「good!」一語で済ませてしまうのではなく、そこにニュアンスの異なったさまざまな表現があること自体が、文化なのである。「旨い」にしても、「おいしい」「まろやかだ」「コクがある」「とろけるようだ」などなど、どのように「旨い」かを表すために、私たちの先人はさまざまに表現を工夫してきた。それが文化であり、民族の豊かさである。
 そうだね。
 グルメリポーターが「うん、おいしいです」と言うだけでは、明らかに失格だよね。
◆短歌は、 自分がどのように感じたのかを表現する詩形式である。歌を作り始めたばかりの人の歌には、悲しい、嬉しいと形容詞で、自分の気持ちを表そうとするものが圧倒的に多い。作者は「悲しい」と言うことで、自分の感情を表現できたように思うのであるが、これでは作者が「どのように」悲しい、うれしいと思ったのかが一向に伝わってこない。
◆(斎藤茂吉の「死に近き母」には)悲しいとか寂しいとか、そのような茂吉の心情を表す言葉は何一つ使われていないことに注意してほしい。にもかかわらず、私たちはそのような形容詞で表わされる以上の、茂吉の深い内面の悲しみを感受することができる。考えてみれば不思議な精神作用である。文章の上では何も言われてない作者の感情を、読者はほとんど何の無理もなく感受することができているのである。
◆ 短歌では作者の最も言いたい事はあえて言わないで、その言いたいことをこそ読者に感じ取って もらう。単純化して言えば、短詩型文学の本質がここにあると私は思っている。
 三田誠広も同じようなことを書いていたはずだと探してみた。
「『驚いた』と書いたら小学生の作文だ」と書いてあった。
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小説の初心者はですね。どうも「描写」ということができないんですね。
驚いたということを書く時に「驚いた」って書いちゃうんですね。「私は驚いた」「彼は驚いた」とか、「少年は物音に驚いた」とか書くんです。
これは説明にすぎないんですね
小説というものは「表現」によって進行していくものです。だから、主人公が驚いたというシーンでは、どういうふうに驚いたかということを、できれば視覚的に読者に訴えるようなイメージで書く必要がある。
「天気の好い日は小説を書こう」三田誠広 朝日ソノラマ (P62)
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 三田氏は「説明しないところが俳句の極意」とも書いている。
 「心情」を直接表現せず、行動描写や情景描写で示している。
 だから「描写」を読み取れ、と言うわけだ。
 
 かつて言語技術教育学会で市毛先生が「小説は『描写』の読みが大切だ」というようなことを言われたが、その時はピンとこなかった。
 『描写』を意識し始めたのは、1998年にこの本を読んでからだ。
 『描写』を削って要約した文学作品は何の味もなくなるのだと考えるようになったのである。
 その頃から、小学校の作文指導でも「楽しかったです」で終わらないようにと声をかけてきた。
 なんでも「すごい」で終わらせず、その場に最適な言葉を考えさせてきたが、語彙の指導はそんなに簡単ではなかった。
 さて、今回、「ヤバイ」が出てきたので、この単語こそ「ヤバイ」と思った。
◆大造じいさんは銃を下ろした時、なんと思ったでしょう・・「やばい」
◆兵十は銃を落とした時、なんと思ったでしょう・・・・・「やばい」
という解答があり得るからだ。
 褒め言葉もけなし言葉も「やばい」、
 感激するときも後悔するときも「やばい」。
「すごい」以上に、威力のある単語だ。
 自身の微妙な感情を「やばい」「すごい」「うざい」「別に」「楽しかった」のような一言で済ませてはいけない。
 分かっていても、なかなか手ごわい。
 ついでながら「good!」で思い出した。
 学校に送られてきた「英語情報 2017冬号(日本英語検定協会)」に「CLASROOM ENGLISH!!」の連載があり、大木優喜子氏がほめ言葉を紹介していた。
 日本語でもこれくらいのバリエーションでほめていきたいと思い、キープした。
 いつも「すごい」「上手」「がんばったね」だけでは、おそまつであることが、よく分かる。
(1) Good(良い)の他にも使える一言褒め言葉(Goodの類義語集)
Very good! とても良い!。 Teriffic! 大変良い。
Fantastic! 素晴らしい!。 Well done よくできました!
Great! とても良い。    Wonderful 素晴らしい!
Excellent! 優秀!。     Close 惜しい!
Awesome! とても良い   Superme! 素晴らしい!
Perfect! 完璧!       Wow! わあすごい
・・・12のバリエーションだが、日本語訳だけみると同じものがあって7種類になってしまう。
そこには微妙な差異があるのだろう。
①よし ②すごい ③うまい ④さすが ④すばらしい ⑤完璧
⑥上手 ⑦驚いた ⑧感激した ⑨素敵 ⑩最高 ⑪合格 ⑫惜しい ⑬あと少し
で13種類か。
(2) Good job(よくできました)の他にも使える表現
Much better!      前より大変良くなりました。
keep up the good work! その調子でがんばってください
Thats great idea!    とても良いアイデアですね。
I know you can do it!  あなたならできます
Great teamwork!    とてもよいチームワークです
Thats an interesting point 面白い点ですね
Good try!       よい試みです。
Great effort!     大変良い努力です。
Thats a good guess!  良い推測です。
・・・コメントは、これぐらい微細でありたい。
①努力を褒める ②結果を褒める ③成長を褒める ④試みを褒める ⑤発想を褒める ⑥協力を褒める
などが観点になるか。
(3)生徒の具体的な態度、能力を褒める表現
※生徒一人一人を褒める時には、具体的に何が良かったのかを示す。
You make lots of effort to speak English in class!
あなたは授業で英語を話す努力をしています。
Your writing skills have improved so much! 
あなたのライテイング能力はとても進歩しました。
Im impressed by your speaking skills! 
私はあなたのスピーキング能力に感心しました。
(4)その他の生徒一人一人を褒める表現
You work very hard! 
あなたはとても一生懸命勉強しています。
You worked very hard in class today! 
あなたは今日の授業でとても一生懸命勉強しました。
I love having you in my class! 
あなたが私のクラスの生徒でうれしいです。
・・・(3)はピンポイントの褒め方、(4)は総括した形の褒め方と言えるだろうか。
通知票の所見みたいなレベルになってきた。ありきたりの褒め言葉ではなく、その場でのその子に対するオリジナルな言葉かけをしていきたい。
「あなたは努力や成長をしています」という客観パターンと「私はあなたの努力や成長に感心しています」の主観表現のパターンがあることが分かる。
(5)クラス全体を褒める時の表現
※クラス全体を褒めることによって、生徒との間にチームワーク・統一性が生まれます。
Thank you for sharing your ideas! 
 みんなのアイデアを話してくれてありがとう。
(注 「おたがい意見を出し合ってありがとう」という意味かな?)
Everyone worked very hard today! 
今日はみんなとてもよくがんばりました。
・・・授業のまとめや帰りの会の最後のお話でみんなに伝えたいメッセージという感じ。
 熱い語りバージョンもあるだろうが、毎日のことだから、さらりと褒めるのが基本形だろうか。
  語彙の「微差」は「大差」になる。
  しっかり語彙のインプットに励みたい。
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「知の体力」(4)

〜「教師の熱中度」は子どもを感化する〜


 かつて「人生の岐路に立ったら、困難な方を選べ」と言われたことがある。
 シンプルなだけにしっかり胸に刻んできた。
『知の体力』の中で永田和宏氏は、「おもしろい方を選べ」と述べている。
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◆私は 学生たちに、2つを選択する必要が出てきたときは、とりあえずは(おもしろい方)から選べと言い続けている。おもしろい方から選べば、たいていはうまくいかなくて、別の選択を迫られることになる方が多い。しかし、それで失敗しても終わりではない。大抵の場合は、選択の変更がやむなしとなったところで、遅すぎるということはない。
 しかし最初から安全な方を選んだ場合には、それで何かが変わるという可能性は極めて低い。常に安全な方、安全な方と選び続けていく人生は、どんどんその人間の人生を小さなものにしていくだろう。それは私には耐え難く退屈なものに思えてしまうのである。これはまぁ、気質の問題だから人それぞれで良いのだが、いったんは、自分の可能性にチャレンジしてみることは、一回しかない自分だけの人生を生きる上でいったん大きな意味を持っていると、 私は個人的に思っている。
p98・99
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これは、「失敗することで成長する」というメッセージでもあるが、教師という立場を考えたとき、
「挑戦する姿勢を子供に見せること」
「知的好奇心の素晴らしさを、子供に見せること」
の大切さに直結していると思う。いわば「背中で教える大人」だ。
 永田氏は、天才数学者である岡潔の講義を受けた朝永振一郎のエピソードを引用して次のように書いてる。
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◆ 朝永は、岡潔ともう1人の数学者を挙げて、「この両先生の魅力は、自ら情熱を研究にささげているという点にある。その情熱が学生に伝わってくるのである。ときどきは御自身の研究についての話も聞く。若い先生というものは、学生にわからせるというよりも、ご自身の興味に溺れることもあるものだが、これがまたなまいきな学生にはたまらない魅力なのである」と述べている(『わが師わが友」)。
「 みずから研究をささげているという」ことが学生に伝わること、そして「学生にわからせるというよりも、御自身の興味に溺れること」が先生の魅力であることは、何も岡潔に限ったことではないのであろう。
 ここには教える内容、今風に言えばコンテンツがまずあって、それを学生に伝えるための仲介者に出するという教師像はまったくない。先生は道具でも機械でもないのである。先生は先生の興味で動いている。もっと言えば、先生は研究にしか興味がなく、その研究への一途さが、若い学生たちにおのずから感染していく。そんな羨ましいような、そして我が身を顧みて恥しいような、講義の原風景がここにはある。p113.114
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技量の高い先生方の授業を受ける際の高揚感と重なった。
楽しそうに授業を展開される先生方の情熱が、たまらない魅力なのだ。
熱中軸で授業を創る、というのは「教師自身の熱中度・ワクワク感」の問題でもある。
授業づくりで迷った時は「おもしろい方から選べ」
なのだと思う。
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『知の体力』③

改めて「知」の対価を考える 

付箋だらけになった「知の体力」永田和宏著(新潮新書)の中で、知の対価に触れた箇所がある。
永田氏がバイブルと呼び何度も読み込んだ『時間と自己』木村敏著(中公新書)についての記載。
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 この1冊を読むたびに思うのは、こんなに素晴らしい思想を、「知」を、わずか600円ほどの金を出すだけで分けていただいてしまっていいのだろうか、という思いである。この1冊を書くために、時代を代表する思想家がどれだけの時間をかけて、どれだけの書を読み、そこに自らの思索を重ね、構築し、そしてそれを自らの言葉で表現するためにどれだけの時間を費やしたのだろうと思う。そんな、金では測り切れないものの詰まった一冊を、本屋に行って当然のように、わずかな代価を払って購入する。
 それを読んで、なるほどそうだったのかとか、とにかく蒙を拓かれ、新しいパラダイムに触れる。ある場合にはそれを引用させていただいて、自らがものを書く。そんな行為を当然のように思っているが、しかし、改めて考えてみると、その思想は、その教えは、そんなわずかな代価で私のものとしまって良いものなのか。
 本を出版し、それを読者が購入して読む。これは今や当然の社会的行為であるが、そのような流通の考え方の中で、抜け落ちてきたものが、書かれている内容に対するリスペクトではなかったか。尊敬、敬意を持ちつつそれに接するという読む側の態度ではないだろうか。p124,125
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 今や書籍は売れず(読まず)、ネットの無料の情報しか頼らない社会的行為がフツーになってきた。
 ネットビジネスの社会では、FREEがすっかり浸透した。入口は無料で、さらにサービスを受けたい人は課金するシステム。
 入口は無料でも、本気で学びたくなれば無料だけでは済まなくなるのが世の常だ。
 無料利用だけでは永遠に「入口」レベルの修養にしかならないのだが、お金を使ってまで学びたくないという教師が残念ながら多いと思う。
 プロ野球の世界でも、「教えて欲しかったら銭を持って来い」という金田投手の昭和のエピソードがあったが、他人の知的財産を軽々しく無料でいただこうなどと思うことが不遜なのだ。
 それは、永田氏が言うように、知へのリスペクトの問題でもある。
 1000円2000円の本を買って得られる情報は、時にプライスレスだ。
 10000円20000円のセミナーで得られる情報も、時にプライスレスだ。
 教え方セミナーで無料展開しすぎると、高段者の有料セミナーのハードルが上がってしまう。それは教え方セミナーで「無料=お得」だけをアピールしているからだ。
 何でも無料で得られるような世の中だが、本当に価値ある情報は無料で流してはいけないし、対価を払うことに意義があるのだという文化は堅持していきたいと思う。
※自分達の授業技量を高めるために参加者に子役をお願いするなら、逆にお金を払う覚悟があってもいい。「無料開催」とはそのような意味も含んでいる。
※読書の価値については、こう述べている。「学びの価値」も同じだ。
本当にその通りだと思う。
だから付箋だらけ、引用だらけなのだ。
◆「何も知らない自分」を知らないで、ただ日常を普通に生きていることに満足、充足しているところからは、敢えてしんどい作業を伴う学問、研究などへの興味もモチベーションも生まれないのは当然である。しかし、あぁ、自分は実は世界のほんのちっぽけな一部しかこれまで見てこなかった、知っていなかったと実感できれば、そして自分がこれまで知らなかった世界がいかに驚異に満ち、知る喜びに溢れていることを垣間見ることができれば、おのずから知ることに対する敬意、リスペクトの思いにつながるはずである p56

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「知の体力」②

「ひょっとしたら自分でも」

 かつて、20代教師を熱狂させた法則化運動は「ひょっとしたら自分でも」という期待をもたらした。
 それは大きな勘違いだったのかもしれないが、それでも構わなかったのだと今は思う。
 法則化論文が掲載され、「人の実践を真似する自分」から「真似されるような実践を創る自分」でありたいと強く思うようになったからだ。
 永田和宏氏の言葉を借りると「消極的な自己規定」からの解放だ。
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私が日常的に若い諸君と接していて、最も歯痒い思いをするのは、この消極的な自己規定なのである。「私などにはとても」と端から恐縮して思い込んでいる。そう思ってしまうことで、一切の批判精神は意識下に押し込められてしまわざるを得ない。私などが先人の研究や理論を批判するなど10年早いと思ってしまうのである。
 しかし、学問や研究の世界において、何年経たなければ批判などすべきでないといったことは全くない。批判や考察はすべてを知った大家が行うものではなく、まだその世界の常識に染まっていない新人、若者がやってこそ、インパクトなり批判が行えるのである。パラダイムシフトに値 するような新しい思考の枠組みの形成が可能になるのは、とらわれるところのない若い精神にしかできないものだ。
「知の体力」永田和宏著(新潮新書)p85・86
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 「ひょっとしたら自分でも」というエネルギーで突っ走れるのは、若い精神にしかできない。
 「わかっていないこと」に対する畏れよりも、「わかっている」ことの満足感・充実感が上回るからだ。
 永田氏は次のようにも言う。
◆受動的な学習から、能動的な学問へのシフトは、まさにそんな「ひょっとしたら自分でも」と能動的に考えることを外しては起こり得ないのである。P51
 永田研究室では海外の一流の研究室に短期派遣を続けてきた。
 その理由は「 とても手が届かないと思っていた最前線の研究が、実は自分たちと地続きのものであることを実感して帰ってきてくれること」であると言う。
世界のトップレベルのラボに滞在して、彼らと議論しながら研究をさせてもらう。科学的な成果は3か月では得られなくとも、より大切なものを得て帰ってくる。それは、「なんだ自分たちのやってることと変わらないじゃないか」という実感である。とても手が届かないと思い込んでいたが、実際には日本で(永田研で)やっているのと同じことをやっているんだと思えること、それは自分が世界と地続きになることである。。p89、90
「学んでから始めるか、学びつつ始めるか」の章がある。
「まずはじっくり学んでからまとめます」と遠慮する人がほとんどだろう。
しかし、幸いなことに、私は「学びながら始めればいいのだ」とアドバイスをもらって、雑誌原稿を書く勇気をいただたいた。
 若い先生方(学生さん)には、教育の世界の常識に染まっていないからこそ言えること、できることがたくさんある。
そうした若い方々の斬新な意見に刺激を受けて、自分もさらに発信を続けたい。
 永田研究室である女性の論文が高く評価された時、研究室の他のメンバーに変化が起きたというくだりも、「ひょっとしたら自分も」である。
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 日常一緒にいて、同じような仕事をしている彼女の仕事が「サイエンス」に載るのなら、自分の仕事も同じレベルじゃないかとみんなが実感したのである。その後のみんなの意識が一気に能動的な変化を見せたのはありがたいことだった。
<微細>を「妬み」につなげるのではなく、そんなに違わないあいつにできるのなら、自分だってと思えること。これは羨ましいという感情が、肯定的なモチベーションに繋がった、私の身近な実例である。160ページ
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・・・自分が切磋琢磨できる場を確保することが、自己研鑽の第一歩である。
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『知の体力』永田和宏 (1)

『知の体力』永田和宏著は、付箋だらけになってしまった。

京大名誉教授の永田氏が、若者(大学生)へのメッセージとして連載したものがベースになっている。2018年初版。もっと早く読んでおけばよかった。
冒頭で「大学は何も教えてくれない」「 自分で求めようとしなければ、大学では何も得られないと言う言葉が出てくる。
◆答えは確かに<ある>。それが初等中等教育における「問題」の大前提である。そして先生はその答えを知っている。その正しい答えに、どうしたら自分たちも到達できるだろうか。先生が知っているはずの答えと自分のものが一致すれば正解で、違っていれば×。それが入学試験も含めて、高校までの試験の問題であった。
(中略) 高校までの教育においては、これはやむを得ないことである。しかし実社会において、そのような答えのある問題というのは、実は何一つないのだと言ってよい。P15、16
「大学における教育は、高校までの初等中等教育と根本的に、そして本質的に違ったものではなければならない」と永田氏は述べる。。
にも、かかわらず、小中学校において、大学生に対するメッセージと同じように
・これからは「正解のない時代」だ。自分で考えよ。
・アクティブラーニングが大事だ。
と張り切るのは、ちょっと違うのではないかと前から思っていたのだが、どう説明して良いか分からなかった。
永田氏は、このことを「学習」と「学問」の違いで説明している。P43、44
①「学習」の問いには答えがある。
②「学習」には、先生は教える人、生徒は教えてもらう側という役割分担がある。
③先生が正しい事を教え、生徒は正しい知識を習得するのが「学習」の基本。
④生徒の誰もが落ちこぼれないように、誰もが同じ到達点に至るのが「学習」の目標。
 
◆「能動的に聞く」とは、話された内容、自らのこれまでの知の体系の中に位置づけることであり、位置づけるためには、聞きつつ常に自分の知の体系を確認し、照合する作業を伴うはずである。外部からインプットされてくる内容と既存の自らの知識の箱との間に軋轢が生じるのは当然であり、その軋轢こそが質問を流す力になる筈なのだ。P29
・・・永田氏の「能動的に聞く」の主張を受けて、能動的に読んでみたいと思う。
「面白い。よく分かる。必読書だ」といったワンフレーズでは、読んだことにならない。(続く)
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February 21, 2024

「コンテンツ」ではなく「コンピテンシー」

Aという実践(コンテンツ)を知り納得しても、それだけでは別の授業がうまくいかなければ意味がない。

Aという本(コンテンツ)を読んで納得しても、それを自分のものとなるように咀嚼しないと、いつまでたっても「本待ち、他者依存」になってしまう。

コンピテンシーは、以下の文章でいうところの「本質」に該当するだろう。

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他者の経営者の書いた本は個別の文脈の中に埋め込まれているので、すぐに応用することはできない。

しかし、優れた読み手はそこで抽象化して本質をつかむ。本を読むのではなく、本と対話することが大切だ。

対話は今も昔も本質にアプローチするときの基本だろう。

優れた経営者というのは抽象化してストーリーを理解し、その本質を見破る能力に長けている。

商売を丸ごとに見て、流れ・動きを把握して、それを論理化することで本質にたどり着くことができる。

もともとは具体的な個別の事例が、自分のアタマの引き出しにしまうときには論理化された本質に変換されている。

結局のところ本当に役に立つのは、個別の具体的な知識や情報よりも、本質部分で商売を支える論理なのだ。

戦略構築のセンスがある人は、論理の引き出しが多く、深いものである。

他社の優れた戦略をたくさん見て、抽象化するという思考を繰り返す。これが引き出しを豊かにする。

独自の戦略ストーリーを構築するための王道だ。

  楠木建「経営センスの論理」(新潮新書) P42

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 上の引用部は、ビジネスでなく、教育現場に置き換えることもできる。

個別の教科内容を教えることに満足していてはいけない。個々の授業内容から本質を抽象化しないと汎用的に学ぶことができないからだ。

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誰かに教えるつもりで勉強した内容を説明してみると、28%成績がアップする。

「超効率勉強法」Daigo著(学研プラス)より
学習効果を最大限に高めるためのポイントとして
「想起する」
「再言語化する」
の2点が挙げられている。
誰かに教えるつもりで説明するのは「再言語化」の方だ。
ラーニングピラミッドでも「誰かに教える」は最も効果が高いとされている。
4年の理科ワークに,自分の言葉で表現させる箇所があった。
◆「水じょう気」や「湯気」という言葉を使って、右の図をもとに、水のすがたの変わり方を説明しよう。
・・・まさに「再言語化」だ。
これが「深めよう」の課題になっていて、その前段階ではキーワードの穴埋め問題が並んでいる。
「深めよう」だから、上級コースのような印象があって、できる子だけのチャレンジ問題にも思える。
確かに、模範解答を示して書き写させてしまいがちな課題だ。
しかし、学習効果を最大限位するには、できるだけ、ここは各自に取り組ませたい。
各自で難しければ、みんなで共同して、まとめさせたり、他のグループの意見を聞き合ったりして、理解を深めたい。
この「再言語化」は、「思考・判断・表現」を評価する設問として適している。
上級コースだからと諦めずに、どの子にもチャレンジさせたい課題である。
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February 20, 2024

記憶は「失敗」と「繰り返し」によって形成され強化される

「最新脳科学が教える高校生の勉強法」池谷裕二著(東進ブックス)

「4-2 失敗にめげない前向きな姿勢が大切」の章に以下のような解説がある。

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 ひとつの成功を導き出すためには、それだけ多くの失敗が必要なのです。こうした数多くの失敗がなければ正しい記憶はできません。「失敗しない人は常に何事もなしえない」(フェルブス)との言葉通り、記憶とは「失敗」と「繰り返し」によって形成され強化されるものなのです。

  皆さんの勉強に関してもまったく同じ事は言えます。繰り返すこと、つまり「復習」が大切だということはすでに述べましたが、それと同時に「失敗」することもまた重要なのです。つまり問題を解き間違えたり、ケアレスミスをしたり、テストで悪い点数を取ったりすることです。 (中略)失敗数が多ければ多いほど記憶は正確で確実なものになっていきます。偶然が重なって、たまたまテストでよい点数を取ったとしても、それはあなたにとって何の得にもなりません。

 ですから、もし皆さんがテストで悪い点数を取ってしまったとしても、クヨクヨする必要など全くありません。それは損したというよりも、むしろ得したと思い直すことです。 ただし、最悪のケースは、失敗したことを次回にどう活かすかを考えない人です。失敗したら、なぜ失敗したのかに疑問を持ってその原因を解明しその解決策を考えることが肝心です。p95、96

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・・・失敗という強いエピソードがあるから、恥ずかしい思いや悔しい思いをした分だけ強く記憶に残るということもあるだろうか。

 脳科学者の中野信子氏は「語学の習得はトライ&エラーなので、失敗を恐れる人には、不利な科目かも・・」と語っている。

「適度に緊張しないと、いい結果が出ない」は、スポーツの世界によくあることで、リラックスすればよいというものでもない。

 緊張する場をいくつ踏んだかは、成長の差になって現れる。大舞台を経験すると自信と風格が備わってくる。

 「恥ずかしい」「あきらめる」「チャレンジしない」 では、いつまでたっても上達しない。

 池谷氏の指摘は「記憶」に関するものだが、「数多くの失敗がなければ成長はできません」というのが実感だ。

 

参考 池谷氏の講演記録  https://www.toshin.com/mirai/top_leader/article/202108/index.php

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February 05, 2024

仏教哲学の教え ~人は分けたがる~

 かつて、勤務する中学校の図書館に『ブッタとシッタカブッタ』(小泉吉宏著・メデイアファクトリー)の三部作があった。

 宮崎哲弥氏は「仏教のエッセンスをこれほど噛み砕いて、これほど深いところをまで表現したマンガはいまだかつてなかった」

「縁起・空・無我・無自性、無常などの仏教哲学の基本概念が、これ以上わかりやすくはならないというほどわかりやすいかたちでもりこまれている」

と評している(『文芸春秋』2004年3月号229頁)。

 私は、特に三巻の内容に感激し、次のような考察を試みたことがある。

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 人間は、とかく「分けたがるもの」なのらしい。

 だから、クラス対クラス・クラブ対クラブのような対立を起こしやすい。

 中一であれほど仲良かった二人が、二年になって別のクラスになってから仲が悪くなった例はたくさんある。

逆に、一年の時は別のクラスにいて敵対視していた子と二年で同じクラスになり、仲良くなる例もたくさんある。

 一年生の時、あの子のおかげで合唱コンクールで勝った・体育大会で勝ったというような強敵が、よそのクラスにいたとする。

 二年になってもその子が別のクラスだったら憎らしいだろう。

 でも、今度、その子と同じクラスになったらどう思う?

 その子のおかげで合唱で勝てる・体育大会で勝てる、となったら、その子を大歓迎するんじゃないかな?

 同じことは逆でも起こる。

 自分のクラスで合唱や体育大会で大活躍していた子が、別のクラスになってしまったら、その子の能力の高さを知っているだけに、手ごわいよね。

 「お互いがんばろうね」って言えればいいけれど、中には「あんな子たいしたことないんだよ」なんて次の新しいクラスでふれ回る人もいるんだ。

 他人への愛情・他人への憎しみって不思議だね。

 自分にプラスになり、自分の味方にならないと、その子の長所がたちまちマイナスになってしまうってことなのかな? 

 自分のプラスになりそう、味方になりそうだと思うと、その子の短所より長所を見ようとするということなのかな?

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  人間は決めつけたがる癖がある。

  人間は分けたがる癖がある。

  そして人間は自分を守りたがる癖がある。

  もし、誰にも、そのような性質があるのだとしたら、私たちは、そのような性質の短所に振り回されないようにしないといけない。

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 相手を好きとか嫌いとか、いい子とか悪い子とか軽はずみに決めつけて言わない方がいい。

 なぜなら、どんな好きな人の中にも嫌いな要素があり、どんな嫌いな人の中にも好きな要素があるからだ。

 相手に好きとか嫌いとか言われても、いい子だとか悪い子だとか言われても、それが100%だと思わない方がいい。

 なぜなら、人の気持ちはいつまでも同じとは限らないのだから。

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