「神仏習合」の歴史 ~聖徳太子の功績~
堺屋太一著の『日本を創った12人』(PHP新書)の「聖徳太子」の項が「神仏習合」について述べている。
抜粋して引用する。p30~33
・仏教と神道が併存することは、本当はかなり無理がある。戦に勝って排仏派の物部氏を滅ぼした蘇我氏が擁立したのは、祟峻天皇である。
ところが、いよいよ政をされると、天皇は深刻な政治的矛盾に直面する。 天皇家から天皇が出るのは、天皇家が天照大御神の子孫であり神武天皇の後裔である、という神道神話に基づいてのことだ。その神道を否定してしまったのでは、なぜ天皇家だけから天皇が出るのか、その必然性が失われてしまう。
・(この時代、中国から入ってきた文化の1つである)易姓革命というのは、天は有徳の者を皇帝に選ぶ。これを天命という。
・いわば万世一系は大事ではなく、有徳な者が天皇になるべきなのだというのだから、天皇家にとっては累卵の危うきである。
・聖徳太子は仏教を信仰し普及させたが、神道を弾圧した気配はまったくない。むしろ神道にも理解を示し、援助を与えた。ここに日本人の宗教観を決定する要素があった。太子は個人としては仏教徒だったが、政治家としては天皇家の一員であり、神道神話の保護者でなければならなかった。この矛盾を理論的倫理的に解決するものとして、「神・仏・儒の習合思想」なるものを考え出したのである。
・日本で宗教対立を主因とする戦争がなくなったのは、聖徳太子という天才が現れ、理論構成の巧みさと訴求力の強さによって習合思想をはじめたからだ。
・聖徳太子は世界でただ一人、習合の思想を発案した偉大な思想家である。そして今日に至るも日本人の骨身にまで浸みこんでいる。
・宗教的にいうと、一つを信仰することは他を排することでもある。だから、複数の宗教を同じ人間が同時にしてもよいというほどの堕落はない。聖徳太子の発想と実績は、宗教的には堕落である。けれども政治的には飛躍である。これを考えついたのは、世界広しといえども聖徳太子ただ一人だ。日本以外の国で、多数の宗教を同時に同一人が信じてもよいといった宗教者は、まずいないであろう。
かくして、仏教が入ってきても、伊勢神宮は信者をまったく失わなかった。そして連綿と今日に至るも御遷宮が行われ、お伊勢参りの人は絶えない。
・クリスマス・パーテイーや教会での結婚式だけは取り入れる。けれどもお葬式は仏寺で行う。盆踊りにも行けば、初詣にも行く。座禅も組めば御輿も担ぐ。これに何の矛盾も感じることなくわれわれは行っている。
・・・このあと、「ええとこどり」という言葉で、日本の柔軟な文化・文明の受け入れの気質を表している。
斉藤武夫氏のウェブに次のような解説があった(斉藤氏も、上の堺屋太一氏の本に学んだことを明記している)。
http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-entry-10.html
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(推古十五年春、二月)九日詔して、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」と言われた。十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。
これを敬神の詔という。推古十五年は西暦六〇七年のことだ。
推古天皇は、先祖の信仰を継承して伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。この詔の起草者が聖徳太子であることはいうまでもない。それを受けて、太子と蘇我馬子という仏教推進派の二大巨頭が、わざわざ朝廷の全役人を集めて、日本の神々を祀る行事を盛大に行ったのである。
朝廷は新たに外来の仏さまを祀るが、それは日本の神々への信仰を捨てることではない。
ともに大切にしていくのだという大方針を内外に明らかにしたのである。
こうして、およそ半世紀の抗争は決着した。わが国は仏教も神ながらの道も共に尊重して、国づくりを進めることになったのである。異質な宗教の衝突は、洋の東西を問わず「あれかこれか」問題になるほかはない。仏さまを信じるのなら、国つ神には去ってもらうほかないというのが世界の常識である。前述した蘇我氏や物部氏の物言い見ても、彼らがそれを二者択一問題としてとらえていることがわかる。キリスト教はオリンポスの神々やゲルマンの神々を滅ぼした。イスラム教が広まるときも同様であった。それら新時代の理念宗教に席巻された地域では、土着の自然宗教はことごとく滅びていったのである。
もしそうなっていたら、わが国の国柄は大きく変わっていたと思われる。大和朝廷は、神々を祖先にもつ王家であることに王権の正統性を見いだしていた。もし、その神々を追放すれば、天皇家は大和の国に君臨する正統性を失っていたはずである。そうなれば、次の天皇がその皇太子である必然性はない。国を治める真の実力があるかないかだけが問題を決定するだろう。結果的に、日本も中国のように姓の異なる王朝が交替し続ける国になっていたと思われる。
武力抗争で王朝交替をくり返す不連続の国柄になっていたかも知れないのである。
聖徳太子の天才は、宗教の衝突を「あれもこれも」という日本らしい解決法で乗り切った。仏教派の先覚者として導入の先頭に立った聖徳太子が、同時に日本の国柄を構想する政治家として「敬神の詔」を発し、仏教導入後も、従来通り伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。
この文明戦略は、以後わが国が外来文明を導入する際の自覚的な方法となって継承されていく。外来文化と日本の伝統文化を統合しながら、日本の伝統を再構成し続けるという道である。宗教でそれができるなら、他の技術や知識でできないことはない。外来のものであれ、日本古来のものであれ、「良いものは良い」「ダメなものはダメだ」という、偏見を持たない、時代に即応した取捨選択が可能になったのである。
ここに記した仏教伝来の教材観は、堺屋太一『日本を創った十二人』(PHP新書)に依拠している。私はこの本の「第一章、聖徳太子」から激しい衝撃を受け、日本という宿命の原型を見た思いがした。この授業は、本書に触発されて生まれたものである。
「あれもこれも」という構えは、ときに私たちを縛る足かせのように見えることがある。しかし、その大方針がなければ日本の歴史はなかったのである。私には、それがよかったか悪かったかといったような他人事の議論はできない。私たちは今もなお、聖徳太子が直面したのと同様の宿命を生きているのだと思えるからである。
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女系天皇・女性天皇とは別に、ここでも「万世一系の天皇」にするべく苦労した歴史が垣間見える。王朝交代は武力抗争を伴うからだ。







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