「言葉の向こう側」を読む
国語の読解力のアドバイスから、処世術というかコミュニケーションのあり方を学んでいる。
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人は心のなかで思っていることの一部分しか言い表すことができない。
だから、その言葉を受け取った人間は、その言葉を理解したことに満足するだけではなく、その言葉の向こう側を想像しなくてはならない…
「ぼっち現代文〜わかり合えない私たちのための読解力入門」小池陽慈(河出書房)P152
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、「原因」があって「心情」が生じ、その「心情」が「言動」になって現れると筆者は言う。
しかし、全ての心情が「言動」に現れるわけではない。
目に見える言動を読み取って、そこで満足していてはいけない。
日常的な例でいえば、目の前で転倒した子に「大丈夫?」と聞いて「大丈夫」と返されたとしても、本当に大丈夫かどうかは分からない。みんなの前で転倒して恥ずかしいかも知れないし、いくら痛くても大袈裟にしたくないかもしれない。
いじめでも同じだ。
「いじめられていないか?」と聞かれて「ありません」と返されたって本当かどうかは分からない。深刻ないじめの場合は、むしろ簡単に人に言えないものだ。本当に苦しんでいる子なら「察してくれよ」とSOSを出しているかもしれないのだ。
「言葉の向こう側を想像する」とは、そういうことだ。
人の言葉の裏を読む、真意を読むのは難しい。
でも言外の気持ちを読むことは、大人の作法としてはきわめて必要なスキルなのだ。
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他者の〈心情〉を想像する時、私たちは、自分自身ならこう感じるだろうという思いを、勝手に、他者の心の内に投影しているだけなのだ…(中略)
こうして、うかがい知ることのできないはずの他者の〈心情〉を、あたかもその他者に成り代わったかのごとくに代弁する。そのことによって、本当はまったく別のところにあったかもしれない他者の真の思いに耳を傾ける回路が、絶たれてしまう
前掲書P190・191
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このくだりに着目したのは、小見出しに「代弁という暴力」と書かれていたからだ。
これは衝撃的なフレーズだ。
◆ごんは悔しかった違いない
◆兵十はショックだったに違いない
のように、書かれていない心情を想像することがある。
しかし、元々は「書いてないから分からない」のだ。
だから、心情の想像が「代弁の暴力」にならないよう、できるだけ謙虚でなければならない。
人の心を勝手に想像する(代弁する)のは、そもそも不遜な行為なのだという気持ちを持っていたい。
※道徳の授業で、登場人物の心境を想像させると、多くの場合「自分の経験と重ねた言葉」が出る。
だから、道徳の指定研究校にいた時、「登場人物の気持ちになって考えよう」と、「あなたならどう思うか」は、どっちで問うても同じ結果になるのだと結論づけたことを思い出した。
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