October 05, 2019

「わたしと小鳥と鈴と」の解釈

多くの先生方は分かっていると思うが、金子みすゞの詩は、決して単純なポジテイブではない。

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わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
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 道徳の教科書に付いているプリントは、自分の短所と長所を書いてみようという取り組みだった。

◆私は、走るのは苦手だけど、音楽は得意です。
◆私は、字は下手だけど、絵は得意です。
のように書き込ませていた。
 しかし、原詩の構造は違う。
 原詩の構造に従うなら

◆私は太郎君のように速く走れないけど、足の速い太郎君は私のようにピアノを弾けない。

となる。
 授業では安易に「短所と長所の対比」で理解させたがるが、本当の構造は「短所と短所の対比」。
 詳しく言うと「自分の短所と長所の対比」ではなく、「自分と他人の短所と短所の対比」。
 だから、相当にネガテイブなのだ。

 これは金子みすゞの境遇を調べたことがある人なら分かる。金子みすゞの詩をポジテイブでメルヘンチックに受けとめてしまったら、この詩を読み取ったことにはならない。

 道徳の授業だから「みんなちがってみんないい」の都合のよいフレーズだけ利用すればいいのか。
 道徳の授業だから「自分には短所もあるけど長所を大事にしよう」と結んでいいのか。

せめて

◆あなたは、いくらがんばっても他人にはなれないし、他人はいくらがんばってもあなたにはなれない。
 だから、他人をうらやましく思う必要なんてないし、あなたはあなたであることに自信を持ってほしい。

◆ある基準ではあなたは他人に劣るかもしれない。でも別の基準でみればあなたは他人に決して劣っていない。
 だから、他人をうらやましく思う必要なんてないし、自分は自分であることに自信を持ってほしい。

というまとめになるのではないだろうか。 
 ネットで検索すると、次のような感想があった。私も同感である。
 この詩の肝は「人のよさを決める価値基準は一つではない」ことだ。4年生に「基準」という意味を伝えられるかどうかは分からないが。

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「みんなちがって、みんないい」。本当は当たり前のことなのに、一つの基準で全ての価値を決めてしまいがちな現代において、この言葉は人々の心に鋭く優しく響きます。
 きっと、この言葉に救われる人も多いことでしょう。価値や基準は一つではないのだ、たとえ一つの基準で劣っていても、私の価値は失われないのだ、と思い出させてくれる言葉です。
https://www.motivation-up.com/word/036.html
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September 13, 2019

不利を克服する子どもの特徴

「教育新聞」1月21号のコピーがある。

浜野隆氏の「全国学力調査から見えた伸びる学校の条件(3)」。久しぶりに目を通したが、コピーしておいただけのことはあった。

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 家庭の社会経済的背景(SES)が低いにもかかわらず学力の上位25%(学力A層)に位置する児童生徒を「不利を克服している子」と見なし、彼らがどのような特徴を持っているか見ていこう。

 第一は「認知スキル」の高さである。「非認知スキル」とは、読解力や計算力などの認知スキル以外の能力ー粘り強さや忍耐力、自制心、好奇心、感情安定性、協調性を指す。近年、これらの能力は「社会情緒的スキル」「性格スキル」とも呼ばれ、学校生活のみならず、人生全般にわたる成功のカギを握っているともいわれている。「不利を克服している子供」は、物事を最後までや遂げる姿勢、異なる考えを持つ他者とのコミュニケーションなど非認知スキルが高い傾向が見られた。
(中略)
SESと非認知スキルとの間には弱い相関しかない。これは、SESの工程にかかわらず、非認知スキルを伸ばすチャンスがあることを示唆している。親が子供に努力や忍耐の大切さを伝えたり、温かい褒め言葉を掛けて自信を持たせたりして、子供の非認知スキルを高めることが重要である。
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・・・論稿この後も続くのだが、とりあえず、ここまで。
 「非認知スキル」についての復習のような内容だが、「非認知スキル」の重要さを感じさせる内容である。
 どの保護者にも理解してほしい内容だ。
 順序は逆になるが、この論稿の冒頭部は印象的だ。

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 言うまでもなく、子供の学力は家庭の経済力や親の学歴によってすべてが決定されるわけではない。不利な環境にあっても高い学力を達成している子は少なくない。
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・・・その通り。どの保護者にも理解してほしい。

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教師に必要な「低刺激」の意識

    9月5日のサークル例会の前に、1名の若い先生を招いてミニセミナーを行った。
自分は「実践障害児教育」の川上廉則氏の文献を引用して、「教室に不穏な風を吹かせる毒語」の紹介をした。

◆何回言われたらやるの?
◆どうしてそういうことするの?
◆やる気がないなら、もうやらなくていい。
◆お母さんに言おうか?

と教師が先に売り言葉を仕掛けてしまうようなパターンだ。
   教師がイライラして毒語を吐いたら負けなのだということを伝えたかった。
   併せて、大げさに褒めて優越感を与えると、裏返しで劣等感が生じる。自己肯定感は高めたいが、優越感は要らないという話もした。およそ弱肉強食のクラスは、できる子が威張り、できない子がオドおどしている。優越感と劣等感が混在している。

   A先生は、学級の雰囲気を左右するのは教師のメンタルだという観点から、教師自身が平静を保つ心がけが必要だという話をされた。
   自分への大きなご褒美を設定すると、長続きしないから、毎回できる小さなご褒美を用意しろといわれ、ナルホドと思った。過度な感情表現をしないで淡々とやり過ごすというのも「低刺激」なのだろうと納得した。気分が落ち込んでいる時にに高段者の音声CDを聴いたら、余計、実力差を感じて落ち込んでしまうと聞いて、これもナルホドと思った。
   子どもは一度大げさに褒められたら、その大げささを毎回期待してしまう。ある子が大げさに褒められたら、自分が褒められる時もそのテンションを期待してしまう。教師のその日の気分で褒め方を変えてしまっては、子どもは戸惑うことになる。教師は、その日の気分に左右されてはいけないのだと理解した。
   子どもたちの気分をアップさせるために、ハイテンションで対応する方法もあるが、毎時間ではぐったりしてしまう。無理せず、長続きする対を前提にして、時々テンションを上げるような対応を入れるとよい。
 

  B先生が話された「ブロークンレコード」の対応も、低刺激だ。感情を荒げず、指示語を繰り返す。相手が諦めて、指示に従うまで、穏やかな声で、淡々と同じ言葉を出すというスタンスは、声を荒げたら教師の負けということを表している。

  C先生が示された算数の模擬授業は、先生の指示通りに作業していくと「できる、わかる」に到達するものだった。決して論争や大きな盛り上がりがあるわけではないが、指示通りに1つ1つ作業していく心地よさがあった。ある意味で「低刺激」だと思った。

   打ち合わせたわけではないが、2学期最初の心構えを示す講座で4人の意識は共通していた。全く同じ資料で同じ話をしたらウンザリしてしまうが、違うアプローチで「低刺激」に関わる提示だったので、「変化の
ある繰り返し」が効いたのではないかと思う。

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August 31, 2019

21世紀型のキーワード

先日、動員で県の教育講演会に行った。

講師は都留文科大特任教授の石田勝紀氏。教育デザインラボ代表の肩書きもある。東洋経済オンラインで「ぐんぐん伸びる子は何が違うのか」の連載を担当しているそうだ。

(1)
印象的だったのは、20世紀型キーワードと21世紀型キーワードの対比

論理ーー感性、発想力
ピラミッド型組織ーーネットワーク型組織、コミュニティ
気合、根性、努力ーークリエイティブ、楽しい、ワクワク感
偏差値型ーー価値型

21世紀型は、「ゆるい、面白い」といったキーワードも含まれる。
これは働き方改革でも強調されているが、好きなことをやるのが一番ストレスがないし、成果も上がる。気合、根性、上意下達では生産性も上がらないし、クリエイティブな仕事はできないのだ。

(2)
ウインドウズ95では、最新版のワードエクセルは動かない。
OSのスペック十分でないと、ソフトがうまく動かない。
つまり、頭の素地をきちんと作っておかないと、国語算数といった各教科の授業内容はうまく処理できない。その点では東大生は頭のスペックが違う。
頭の素地をつくるのは、
いつも「なぜ」と問いかけ、「どう思うか」を主体的に判断すること。
そして「要するにlと一段高く抽象化したり、「例えば」で一段低く具体化したりすること。

算数の計算問題が10問あるとき、低い子は違いにばかり目がいくから10問全部にエネルギーを注ぐ。一方学力の高い子は「〇〇の違いはあるけど、△△という点では同じ」と一段高い抽象度で問題を括ることができる から10問のエネルギーがいらない。

「違いしか見えない人は抽象度が低い」という指摘にナルホドと思った。

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August 23, 2019

「艦長は血の出るほど舌を噛む」~リーダーの自制心~

「艦長は血の出るほど舌を噛む」
(The captain bites his tongue until it bleeds)

という言葉があるそうだ。
 これだけでは意味が分からなかった。

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これは海軍用語なのだが、船長が自分の部下に舵を握らせておくことは、非常に危うい。
しかし、船長が自分で舵をとると部下が育たない。
そこでジーッとこらえると血がタラタラ出てくるという話である。
リーダーというのは下からクリエイトされるアイデアを、悪意で潰すということはもちろんあるだろうが、善意で介入しすぎて潰していくというのが案外多いので、これを戒めているのである。

野中郁次郎 「創造する組織の研究」講談社 P31
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 実際にやらせてみない限り、本人は永遠にできるようにはならない。
 部下が四苦八苦してからといって、代わりに全部やってしまっては、本人のためにならないのだ。

 
野中氏は以下のようにリーダー論を語る。


◆要するにリーダーというのはイノベーションを支援はするが口は出すなという意味合いである。

 このワードで検索していたら、「冷暖自知」という禅の言葉に出会った。

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またアメリカの3M(スリーエム)社で、社内でよく使われる言葉に 

   “The captain bites his tongue until it bleeds”
   (艦長は血の出るまで舌を噛む)というのがあるそうだ。

 これは米国海軍で生まれた言葉だそうで、馴れない部下はへたくそでなかなか思うように舵が切れないので、艦長はつい口を出して教えたくなる。しかしここで教えたのでは部下のためにならない。ほんとに操舵法を身につけるには、失敗をしながら学んでゆくしかない。そう思って艦長は口をつぐんでジッとがまんしているという状態を言ったものだそうで、若い社員のミスやもたつきを、舌を噛んでジッとがまんして黙って見まもり、自ら体得することを気長に待つのが最良の社員教育だというのだそうである。
 まさに冷暖自知、「証の得否は、修せんものおのづからしらんこと、用水の人の、冷暖をみづからわきまふるがごとし」(『正法眼蔵・弁道話』)という禅の教育と軌を一にするものである。

「冷暖は身体で覚える」
http://www.jtvan.co.jp/howa/Sato/houwa018.html
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「冷暖自知」とは、真の悟りは自分で感得するものであるということを、水の冷暖を自分で手を入れてみて知ることにたとえていう語。

 「冷暖自知」でさらに検索して、以下の指摘には納得した。

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◆人から聞いただけの借り物の知識でなく、自分自身の体験を何よりも大切にするように。
それが本物の知識なのだと「単にそのことについての情報を知っている」という意味での「情報」は、「知識」とは質的にまったく別ものと言っていい。

◆「情報」と「知識」の違いは、僅かなようでまったく別次元の事柄なのでよくよく気を付けておかなくてはいけない。
 現代社会では頭に所有する「情報」を指して「知識」と呼ぶことがあるが、それはかなり危うい混同といえる。

【禅語】 冷暖自知 - 体験してはじめてわかること -
https://www.zen-essay.com/entry/2016/09/25/231514
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 だから「教えるな」ということではない。
 知らないことは教えねばならないし、できないことは少しずつクリアさせていかねばならない。

 「艦長は血の出るほど舌を噛む」はアメリカ海軍の用語。

 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」は、連合艦隊司令長官山本五十六の言葉。

 野中氏は、組織論を語るのに軍事組織を研究している。組織員の命が懸かっているのでいるので、勝つ組織としてたえず自己革新しながら進化しているからだと言う。
また、逆に日本軍の敗北から「失敗の本質」を抽出している。読まねばならない本がまた増えた。
 

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July 26, 2019

「哲学的対話」と「道徳の授業」

『はじめての哲学的思考』(苫野一徳著)には、「哲学的対話」について言及した箇所がある。

これを参考にすれば、1つの道徳授業のモデルになるかもしれないと感じる内容だった。

哲学者の西研氏の提案する手順が示されている。

①体験に即して考える

②問題意識を出し合う

③事例を出し合う

④事例を分類し名前を付ける(キーワードを見つける)

⑤すべての事例の共通性を考える

⑥最初の問題意識や疑問点に答える

...この本では「恋愛」を例にしているが、「泣いた赤鬼(思いやり)」に変えて考えてみると、けっこう、道徳の授業パターンになる。

体験に即して考える

 導入でよく使うパターン。

 「人に親切にしたことはあるかな?」みたいな。

問題意識を出し合う

 「泣いた赤鬼」を読んで疑問点や気になる点を出し合う。

 「青鬼を失って赤鬼は後悔しているか?」

 「赤鬼を悲しませた青鬼の行為は、いいことなのか?

事例を出し合う

 自分たちの経験を基にして「思いやり」を言葉にして、より深く考えてみる。

 「相手が望んでいないなら、思いやりとは言えないのか」

 「自分がよいと思えば、相手の気持ちはどうでもよいのか」

 「相手に知らせないから喜んでもらえることもある」

 「あまり負担をかけられると、喜びよりも申し訳ない気持ちになる」

事例を分類し、キーワードで括ってみる

 「自己満足」「双方の満足」「相手の満足」

 「サプライズ」「自己犠牲」「ありがた迷惑」のように。 

すべての事例の共通性を考える

 「本当の思いやりは、された相手が感謝の気持ちをもつような行為だ」みたいな。

最初の問題意識や疑問点に答える

 「ということは、赤鬼を悲しませた青鬼は『思いやり』が足りないんじゃないか」

 「ということは、赤鬼は感謝してるはずだから、青鬼の行動は『思いやり』でいいんじゃないか」

 

...なお、苫野氏は「本質定義」「類似概念」「本質特徴」「発生的本質」を考えることが大事だと言う。

 難しいので、自分が言葉を理解できた範囲で「思いやり」を例に示してみる。

①「本質定義」

 「思いやりとは」を端的に言わせる。

②「類似概念」との違いを意識させる。

 「思いやりと友情はどう違うのか」のように。

③「本質特徴」。その特徴がないと「思いやり」とは呼べないという特徴を考えさせる。

・・・「相手が喜ぶ・相手が感謝する」が「「思いやり」の必須条件かな。

④「発生的本質」を考えさせる。

 なぜ人は「思いやり」をしたくなるのか。

 人はどのようにして、「思いやり」の気持ちを持つのか、など。

・・・「してもらった時のうれしい気持ち」「相手の喜ぶ顔を見た時のうれしい気持ち」といった答えが出るだろうか。

 

 「みんな違ってみんないい」では、言いっぱなしになってしまう。

 「相手を言い負かしてやろう」というスタンスでも建設的な対話にならない。

 それぞれの違いを乗り越えて何らかの着地点を見つけることが対話の意義だ。

 

 こんな授業も可能だと感じたのは、前調査官の横山利広先生の模擬授業が、結構、上記の流れに近かったからだ。

 子どもたちから出された意見をキーワードで示してグルーピングするような場面があった。

 そして、小学生なりに「そもそも○○とは~」「本当の○○とは何だ」みたいな問いかけを行っていた。

 従来の道徳の授業の流れに何ら裏付けがないのなら「哲学的対話」をモデルにしましたという理屈もアリなのかなと思う。

 

フランスの哲学者デカルトによると、物事の真偽を見極めるために必要なのは次の4つのステップだと言う。

(1)とにかく疑うこと

(2)徹底して細分化すること

(3)単純なものから複雑なものへと段階を追って考察すること

(4)漏れがないように見直すこと

 この4つのステップを踏んでもなお「確かである」と残ったものは、本物である。

『世界のトップスクールが実践する考えの磨き方』福原正大(大和書房)P37より

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道徳の発問を哲学で考える

苫野氏は「はじめての哲学的思考」の中で、「~せねばならない」「~してはならない」という「命令の思想」から脱却せよと言う。

「人を殺してはならない」という命令でさえ、実際にはケースバイケースなのだから、絶対に正しい命令など存在しないという考え方だ(いついかなる時も絶対に守らねばならない命令を「定言命法」と呼ぶそうだ)。

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「いつ、いかなる時も、困っている人に手をさしのべよ」
「命令の思想」はそう主張する。
それに対して次のように考えてみよう。
「どのような条件を整えたなら、人は困っている人に手をさしのべようと思うのだろう?」
このような考え方を、ここでは「条件解明の思考」と呼ぶことにしたいと思う。
 

P142
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 だから、次のように発想を変えよという(私が改作した)。

◆人に思いやりを持つべきだ

→「どうすれば人は人を思いやれるだろう?」

◆苦しんでいる人に関心を持つべきだ

→「どうすれば人は無関心が関心に変わるんだろう」

◆震災ボランテイアをやるべきだ

→「どのような条件の時に人は震災ボランテイアをしたくなるんだろう」


◆いじめは絶対にダメだ

→どんな時に人はいじめをしてしまうんだろう
 どんな条件を整えたら、いじめをなくすことができるんだろう


 「命令の思想」ではなく「条件解明の思考」の方が、現実的な力強い哲学思考だと苫野氏は言う。
 
 「すべき」かどうかを問うよりも、どうすればよいか条件を考えさせるアプローチの方が、道徳的であることが分かる。


※「命令の思想」を持つ人は、自分の正義を振りかざして、それに従わない人を「なぜ、○○しないのだ」と断罪する。
 ヘーゲルは、そうした人を「徳の騎士」と呼んだそうだ。
 
でも、それはかえって非道徳的な行為になりかねない。「徳の騎士」、それは、正義を笠に着て他者を傷つける。ひどく独善的な人間なのだ。P143

・・・道徳的であろうとするあまり、独善的になることのないよう注意したい。道徳の授業で「徳の騎士」を育ててはいけない。

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May 06, 2019

美智子さまの講演録

地元中日新聞に、美智子さまの1998年の講演録が再掲された。
久しぶりにこの講演録を読んでみて、改めて素晴らしい内容だと思った。

第26回IBBYニューデリー大会(1998年)基調講演
子供の本を通しての平和--子供時代の読書の思い出--美智子
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newd...

美智子さまが紹介した新見南吉の「でんでんむしのかなしみ」。
美智子さまの語る粗筋で引用すると
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そのでんでん虫は,ある日突然,自分の背中の殻に,悲しみが一杯つまっていることに気付き,友達を訪ね,もう生きていけないのではないか,と自分の背負っている不幸を話します。
友達のでんでん虫は,それはあなただけではない,私の背中の殻にも,悲しみは一杯つまっている,と答えます。
小さなでんでん虫は,別の友達,又別の友達と訪ねて行き,同じことを話すのですが,どの友達からも返って来る答は同じでした。
そして,でんでん虫はやっと,悲しみは誰でも持っているのだ,ということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。
この話は,このでんでん虫が,もうなげくのをやめたところで終っています。
==========

 このお話は、すごく深い。
 人は誰しも悲しみを背負っている。
 自分だけが理不尽な苦しみを背負っていると思いたくなることもある。しかし、結局のところ辛いのは自分だけじゃない。
 それが分かることで、人は強く優しくなれるのだと思う。

 合わせて感動したのは、美智子さまのコメントだ。

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この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。
殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。
少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。
生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。。
(中略)
読書は私に,悲しみや喜びにつき,思い巡らす機会を与えてくれました。
本の中には,さまざまな悲しみが描かれており,私が,自分以外の人がどれほどに深くものを感じ,どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは,本を読むことによってでした。
自分とは比較にならぬ多くの苦しみ,悲しみを経ている子供達の存在を思いますと,私は,自分の恵まれ,保護されていた子供時代に,なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。
しかしどのような生にも悲しみはあり,一人一人の子供の涙には,それなりの重さがあります。
私が,自分の小さな悲しみの中で,本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。
本の中で人生の悲しみを知ることは,自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めますが,本の中で,過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは,読む者に生きる喜びを与え,失意の時に生きようとする希望を取り戻させ,再び飛翔する翼をととのえさせます。
悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには,悲しみに耐える心が養われると共に,喜びを敏感に感じとる心,又,喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。
そして最後にもう一つ,本への感謝をこめてつけ加えます。
読書は,人生の全てが,決して単純でないことを教えてくれました。
私たちは,複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。
人と人との関係においても。国と国との関係においても。
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 長い講演録だが、「悲しみを乗り越える」で一貫していることが分かる。
 個人の体験だけではあまりに狭い。だからこそ、読書体験によって視野を広げ、見識を広げよと述べている
 本当に奥深い。
 これほどの講演ができる美智子さまは素晴らしいと今回も痛感した。

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May 05, 2019

宝暦治水薩摩工事義歿者の墓

 自宅のある一宮市と、岐阜県羽島市は木曽川を隔てた隣同士である。
 羽島市の竹鼻別院に藤棚があるというので行ってきた。
 そして、藤棚よりも「宝暦治水薩摩工事義歿者の墓」があることに目が釘付けになって帰ってきた。

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◆羽島市は清流木曽川と長良川に挟まれた水と緑の恵み豊かな都市です。
 しかし、時に自然はその強大な力を私達に見せつけ、昔から人々を苦しめてきました。
 「水との戦い」。それは羽島の歴史を語る上で決して忘れてはならない記憶なのです。

◆境内の藤棚の隣には宝暦治水工事の幕臣として御小人目付を任ぜられ、後に自刃した竹中伝六喜伯の墓(県史跡)があります。

https://www.city.hashima.lg.jp/0000000240.html
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 なお、宝暦治水の経緯については、以下の羽島市のHPに詳しいので、ざっと目を通してほしい。薩摩藩に工事を命じた幕府側が、いかに薩摩に対して無理難題を押し付けたかが分かる。

https://hashima-rekimin.jp/satumagisi.html

 薩摩側の義士はたくさんの割腹自殺者を出した記録がある。
http://www.kasen.net/@5/kiso/houreki/index.htm

 しかし、竹中は、木曽三川工事を請け負った薩摩藩の人間ではなく、幕府側の人間である。
 薩摩藩の人間でないのに、なぜ竹中は自刃したのか。
 墓の脇の看板には次のようにあった。

◆これは幕府側としては二人目であって、その理由は遺書もなく不明であるが、二十九歳という若さと役目柄からみて、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われる。

 HPには、次のような解説もあった。

◆宝暦5年1月13日割腹にて自害。自刃の真意は遺書が無く不明。
木曽・長良川の分流工事の幕府方御小人目付として赴任。
薩摩義士への度重なる工事妨害に付いて、幕府方と薩摩義士方の板ばさみとなり、工事監督上の責を負って自刃した。

http://www.fuwaiin.com/kenendou/hasima-rekisi-sanpo/hasima-satumagisi.htm#1

・・・江戸幕府は薩摩藩の財政を圧迫するため、無理矢理、木曽三川の工事を命令した。
 『千本松原』(岸武雄作・あかね書房)には,工事責任者の平田靭負は「おおよそつぎのようなことを語った」と書かれている。

 「美濃の国の百姓は,われわれ薩摩の国にとっては、えんもゆかりもないようにみえるが,考えてみれば同じ日本の国の人間,いわば兄弟のようなもの。その兄弟が長いあいだ苦しんでいると聞くからには、いのちをかけて助けるのが薩摩武士の本分ではござらぬか。たしかに裏を考えれば徳川のいろいろなはからいもあろうが、ここはひとつ,歯を食いしばってこらえ、『お手伝い普請』をすなおに受けようではないか。それは、お家をすくうためでもあり、薩摩武士のほまれのためである」

 工事完了の後、平田靭負は薩摩藩に多額の借金を背負わせ、たくさんの犠牲者を出したことの責任を取って自刃した。
 その4か月前に幕府側の竹中が自刃していることになる。

宝暦5年1月13日幕府役人竹中伝六自害(竹鼻別院)
宝暦5年5月25日平田靱負割腹(大黒寺、海蔵寺)

 竹中の自刃は、薩摩義士に苦難を強いた自責の念であろうか。  「逆川(一の手・羽島市)でも工事完成間近になると密令された者によって、工事完了区域が破壊されるなど非情なものであった」といった幕府側へのやり口への抗議であろうか。

 竹中は「薩摩義士」ではない。
 だから「宝暦治水薩摩工事義歿者の墓」という表記がされている。
 幕府側にも、薩摩義士の苦しみを汲んだ竹中のような者がいたということだ。

 かつて、「道徳『輪中の人々を救った人たち』」というコンテンツをTOSSランドにアップした。
 アップしたから終了ではない。
 しっかりアップデートしていかねばと思った。
http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/2372

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April 28, 2019

科学的に正しい「ほめ方」のルール

 脳科学について、数日ダイアリーで書いてきた。もう終わろうと思って書棚の一冊を開いたら、これも書かずにはいられなくなった。
 「やってのける ~意志力を使わずに自分を動かす~」ハイデイ・グラント・ハルバーソン(大和書房)は。「モチベーション」について調べていた際の学びの多い一冊だった。
 今回、目が釘付けになったのは、最終章の「褒め方」に関する部分。分量が多いので、自分の言葉に書き直してみる。

◆2002年に心理学者のジェニファー・ヘンダー―ロックらは、科学暦に正しい「ほめ方」の5つのルールを定義した。

①本心であること

 過度な感情表現や一般化した褒め言葉は、皮肉にとられることがある。努力が十分でない人に努力したとほめたり、些細なことをお大袈裟にほめるのもよくない。相手にばつの悪い思いをさせたり、バカにされたと思わせてしまうからだ。

②相手がコントロールできる行動を褒める
 「頭がいいね」など生得的な能力や資質をほめると、次回うまくいかなかった時に落ち込ませてしまう。
 努力や忍耐力、効果的なアプロ―チや心構えなどをほめると、根案に直面しても簡単にあきらめなくなる。
・・・これはキャロル・ドウエックらの実験結果であり、中室牧子氏の「学力の経済学」にも出てくるものだ。

③人と比較しない
 他者との比較ではなく、本人の現状と過去を比較して、成長した点をほめると、さらに自分をこうじょうさせようとする意欲が高まる。
・・・要するに②と関連する。あくまで努力やアプローチなど「自分でコントロールできる要因をほめる」ということだ。

④自律性の感覚を損ねない。
 金銭や昇格のような外的な報酬を意識させるのではなく、自分が自発的に取り組んでいることそのものを評価基準にしてほめる。

⑤達成可能な基準と期待を伝える。
 相手に実力以上のものを期待するようなほめ方はよくない。
 効果的な目標は「難しいが可能なレベル」。

 ほかにも、「うまくいかなかった人にどんな声掛けをするか」について書かれた以下の部分などは記憶が薄れていたので、参考になった。

◆結果が出ない人に対して、相手に気を遣って「一生懸命やったのだから、落ち込まなくてもいいよ」というような慰めの言葉をかけるのはよくない。
 研究によって「報われない努力をほめられた相手は、自分の愚かさをさらに強く意識すること」が分かっている。
 パフォーマンスがよくないときにネガテイブな感情を抱くのは、目に前の問題に対処するのに必要なエネルギーである。
 自信を失わせるような言葉かけはよくないが、かといって、耳あたりのいい言葉である必要もない。
 大切なのは、問題点の指摘ではなく、改善点を「具体的に」示すこと。必要な情報を伝えること。

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