January 26, 2020

2月16日(日)椿原正和先生の春日井講演会について

日頃から懇意にしていただいている熊本の椿原正和先生を春日井市にお招きする事になりました。

  2月16日(日)14:00〜16:00

  春日井市総合体育館会議室です。

翌週、東北大学で行われる椿原先生の情報リテラシー講座は1日で満席となりました。

この機会にたくさんの先生方にご参加いただければ幸いです。どうぞ、お知り合いの先生をお誘いください。よろしくお願いします。

SENSEIポータルhttps://senseiportal.com/events/56014

 

 椿原正和先生は、今年度で教職を退職し、教育アドバイザーとして全国各地を回ることになりました。すでに100校の校内研修の講師依頼が来ています。

 昨年末は、PISA2018の結果(読解力低下の話題)と、大学入試共通テストの記述式問題の見送りで教育界が揺れました。

 グローバル化の進展や産業構造の転換により、「思考力・判断力・表現力」が喫緊の課題であると言われながら、記述式問題は見送りとなりました。

 しかし、「記述式は答えが多様なので採点が大変で、バラツキが生じる」という受験生や保護者の不安は誤解です。記述式問題は、与えられた情報と条件をきちんと読み取れば一定の解答ができます。模範解答と自分の解答を比較して自己採点することも決して難しくありません。

 椿原先生は、昨年12月に行われた日本教育技術学会(京都大学大会)で5年生の子どもたちに学テB問題を授業しましたが、どの子の答えもほとんど同じになりました。昨年10月には八王子東高校の2年生相手に大学入試共通テストのプレ問題を授業しましたが、どの生徒の答えもほとんど同じになりました。

 与えられた条件に合わせて、情報を読み取り、正しく再構成することが記述式問題で問われている能力です。中教審委員の堀田龍也教授は「基盤的学力」という言葉を使っていますが、これも同じです。

Society5.0 に向けた教育内容・学習方法おける深い学びを実現すること

③【 基盤的学力】 Web等からの情報を適切に取り出すために必要な読解力,多くの情報を比較したり整理したりできる思考スキルの育成

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/083/siryo/__icsFiles/afieldfile/2019/12/04/1420013_003.pdf

 

 2月16日(日)の椿原先生には、大学入試共通テストのプレ問題に触れていただきながら、どの教科でも使える汎用的読解力の指導法についてお話しいただく予定です。

 

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January 13, 2020

文科省と新井紀子氏の真逆の見解

「ノートが取れない」中学生。日本の子どもたちの読解力はなぜ落ちたのか。新井紀子さんインタビュー

https://www.businessinsider.jp/post-204493

これまで共感することの多かった新井紀子氏だが、今回のインタビュー記事内容には疑問があった。

「是々非々」が、PISA読解力の基本スタンスだから、いくらファンの一人でも、批判的に読む態度は維持したい。
具体的には、1人1台タブレットを否定する次のくだり。

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新井:これはもう終わりだなと。特に小学生には絶対、タブレットは良くないと私は確信しています。
実際、先進的に導入した私立学校や家庭で既に弊害が出ています。小学校からタブレットドリルで学ぶと、紙や長文にはもう戻れないんです。意外なことですけれども、検索すら自分ではできなくなる生徒が出てくる。 学びが非常に“消費的”になるのでしょう。 けれども、大学や社会で求められる学びは“生産的”な学びなので、タブレットドリルで育った子は立ち直れないほど挫折してしまう。

浜田:新井さんも関わっていらっしゃる板橋区の実例で、実際に読解力が上がっている授業では、ICT教育とは無縁の、新聞記事を読んでその要約を書く、という「昭和的」な方法で成果を上げています。実際の現場とは違う政策がなぜ進んでいくのでしょう。

新井:現場を見ていないからだと思います。タブレット導入で今まで7時間かかっていた授業が2時間で終わり、残りは深く考える時間に当てる、というような授業は、麹町中学校のようなある意味「特殊な環境」の学校だけでできることだと思います。保護者も経済的な余裕があり、民間からも支援が集まるような私立学校並みの環境が整っている。それが本当に地方でもできるのかを検証せずに、タブレットという言葉が一人歩きしています。
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・・・これは文科省のメルマガで取り上げている箇所と重ねることができる。

真逆なのだが根っこは同じなのだ。

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今回のPISA調査で明らかになったわが国の教育上の最大の課題は、デジタルデバイスについて、家庭での子供たちの自主的な使用が先行し、OECD諸国に比較してゲーム遊びやチャットなど「遊び」に多く使われている反面、「宿題をする」「学校の勉強のためにインターネット上のサイトを見る」「関連資料を見つけるために授業後にインターネットを閲覧する」等、学校や家庭での学習にデジタルデバイスを使用している者の割合が非常に少ないということです。
 つまりデジタルデバイスをどのように使うべきかということが、家庭においても学校においてもあまり教えられていない状況にあり、子供たちが「自主的」に「遊び」に使っている実態が先行してしまっている、その結果「OECD諸国の中で際立って、学習にデジタルデバイスが使われていない。」ということがこの調査の「きも」なのです。
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新井氏のタブレット反対説は、タブレットが学びにつながらないから反対というもの。
文科省のデジタルデバイス必要説は、今のままではタブレットが「遊び」にしか使われていないからこそ必要というもの。

同じことだ。

今のままなら、新井氏の言うように、タブレットを与えても学びの役に立たない。せいぜいドリル学習にしか使われない。
しかし、だからこそ、タブレットが「情報収集」や「情報選択・検証」といった学習に使われるよう教えていかねばならないのだ。
今は特殊な環境である「麹町中学校」を「どこにでもある当たり前の学校」にしていく必要があるのであって、麹町中学校を特別視していては何の進歩もない。

そもそもタブレット=ドリル学習ではない。
新井氏のつくったRSTだってPC入力ではないか。
むしろタブレットを悪者扱いする意図が分からない。

学習にデジタルデバイスを使う政策を推進するのは、タブレットを遊び道具としか見ていない稀有な日本人を世界標準に戻すためには喫緊の課題だ。

繰り返すが、タブレットが遊びにしか使われていないから、今こそ学校で正しく教えていく必要があるのだ

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January 01, 2020

日本教育技術学会での衝撃

12月21日、日本教育技術学会京都大学大会でとても話題になったのが、OECD 生徒の学習到達度調査の中の「生徒の学校、学校外におけるICT利用」の報告書でした。
http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/06_supple.pdf

日本の学校でのICT活用が国際ランキングで極めて低いことを示すグラフがズラリと続きます。これでもかと続きます。
子供が自宅で学習として活用する度合いが最下位レベルであることも示されます。
ところが後半部。子供の1人ゲーム利用、チャット利用が国際ランキング第1位。
ネット環境、ICT環境が整っていないわけではないのに、勉学や能力開発に活用する政策も遅れているし、子供自身の意識も低い。
ICTはエンタメ利用にしか使われていない。
マスメディアが特段取り上げなかったからと気にも留めなかったことを反省しています。
何ページにも渡る報告書ですが、決して読み取れないほどむずかしいわけではありません。

自分自身のPISA型読解力を、まず糾弾せねばという思いでした。

①第一次情報を正確に取り出す。
②書かれた情報の意味を解釈し、推論する。
③テキストと熟考、評価し、知識、考え方、経験と結びつける。

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December 15, 2019

大学入試記述式を延期にする理由があるのか?

大学入試の記述式延期の理由が不思議でならない。

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 2020年度から始まる大学入学共通テストで導入される国語と数学の記述式問題について、文部科学省は、来週にも実施の見送りを表明する方針を固めた。複数の関係者が明らかにした。採点者の質の確保や自己採点の不一致率の高さなどが課題となっており、現状のままでは実施できないと判断した。

 記述式問題をめぐっては、約50万人の受験生の答案を採点するため、民間委託で8千~1万人の採点者が動員される。短期間で正確な採点ができるか懸念があることに加え、特に国語では自己採点が難しく、受験生が実力にあった出願先を選びにくくなるなどの問題点が指摘されていた。

 受験生らの理解が得られないとして、野党が秋の臨時国会で追及。与党内にも見直しや延期を求める声が高まっていた。

https://www.asahi.com/articles/ASMDC7WFZMDCUTIL03S.html

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・・・「自己採点が難しい」というのは、「解答が多様で1つに決まらない」ということなのだろう。

次のような記事もある。

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◆課題として、真っ先に挙げられるのが、採点者によって点数のばらつきが生じかねず、自己採点が難しい点だ。

大学入学共通テスト後、出願先の大学を決める際には受験生自身の自己採点が欠かせない。しかし、自己採点と実際の採点結果が一致しなかった受験生の割合は特に国語で高く、28.233.4%に上った。数学でも6.614.7%が一致しなかった。こうした中、文科省が国公立大学に対し、2次試験を受けられるか選考する「二段階選抜」の材料から国語の記述式の成績を外すよう要請する検討を始めたことも報じられた。

混迷深まる大学入学共通テスト、「記述式」も導入延期か:日経ビジネス電子版

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00002/121000951/

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・・・ 自己採点の結果が3割ほど一致しなかったのは事実なのだろうから、否定しようがない。

しかし、試行問題の場合、椿原先生がされているように、設問の条件をきちんとクリアすれば、ほとんど模範解答と同じ文章が完成する。条件指定や字数指定は、むしろ解答がバラつかないためのヒントになっている。時間はかかるかもしれないが、その場で対応できるから記憶力が要らない。記述問題はむしろ得点源になるのだ。

しかし、解き方の指導を受けていないと

100字も書くなんて大変だ。

②複数の条件に合わせて書くなんて大変だ。

③解答は自分で作らないといけないから大変だ

という先入観が捨てきれない。

 自分で解いてみたことのない記者や、解き方の指導を受けていない記者は、おそらく記述式問題と聞いただけで①②③を連想してしまい、受験生が負担だと思い込んでしまう。ステレオタイプの反応だ。

 解き方の指導を受けていない学生は、自己採点がずれる可能性が高い。教科書が読めない基礎的読解力の低い生徒も、複数の条件設定を理解できないから自己採点がずれる。

 3割ほどの学生が自己採点でずれがあるというのは、確かに多い。しかしPISA調査でも下位成績の集団が多かったことを考えると、残念だが、それくらいの割合いるのが現状なのかなと思う。

 それでも、記述式問題を延期するべきではなかった。

 記者は分かっていないのかもしれないが、学テBによる記述型の問題は、もうこれまでずっと行われてきている。そして、解き方の指導を受けていれば、どの子もほとんど同じ解答が書ける。

 もし記者が自分で解いたこともなく、条件を満たせば同じ解答になると知らないまま、自己採点がずれる生徒の言い分を鵜呑みにして記述式の延期を迫っていたのだとしたら、それは真面目に準備してきた受験生に迷惑をかけたことになる。記述式の方が点数が稼げると思っていた受験生は、一定数いたはずなのだ。

 新井紀子氏は、教科書が読めないようでは、自己採点ができないから、進学に大きな影響があると言う。大学入試の記述式問題について正解と自己採点のズレる生徒が3割近くいることが、延期の理由にもなっているが、彼らは、基礎的読解力に問題があるのではないだろうか。

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自己採点と実際の採点結果が一致しなかった受験生の割合は特に国語で高く、28.233.4%に上った。数学でも6.614.7%が一致しなかった。

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 今回のPISA問題で、公開されているモアイの問題。

 「別の謎が残りました」の「謎」を問う自由記述の問題は、実は本文中に答えがそのまま書いてある。

 実際には、そのまま引用しても正答なのだが、日本の正答率は697%だったと言う(中日新聞124日付より)。

つまり、正答率を逆にみれば、3割は間違えていることになる。

「謎」の中身を抜き出せない3割の学生は、記述問題の模範解答に正対して自己採点できないのではないか、と私は思う。

やってみると分かるが、「謎」を問うPISA問題は、けっこう簡単で、逆に「え、自由記述?、答え書いてあるじゃん」と戸惑ったくらいだ。

 強引に「だから」を使うが、だから「3割の学生が正解と自己採点がズレるから記述式問題を延期する」というのは、低いレベルに合わせた無理筋な愚策であると思う。

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December 14, 2019

松本サリン報道から25年

第2のグレタと称する8歳の環境活動家がCOP25(の会場付近?)で熱弁したという。

「地球温暖化に警鐘を鳴らすことをアピールできたようです」というナレーションに続き、彼女の言葉が紹介される。

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時間はありません。あと8年で気温が1、5度C上がります。
政治家が無意味な言葉で時間を無駄にする間に人々は死に家を失うのです。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000171332.html
================

こういう映像を垂れ流す報道は、日本人のリテラシー能力をどう考えているのだろうか。
こんなの会場付近で騒いだだけじゃん。
道徳の授業の終末で、こんな粗雑な受け売りの意見を書く子がいたら、たしなめると思う。

◆この子の訴えの科学的根拠や出典は何か、
◆今、政治家は何もしていないと言い切る根拠は何か。
◆どこの人々が死に、家を失うのか。
◆気温が1.5度上がると本当に人は死ぬのか?

日本人のリテラシー能力が高まったら、こんな発言はニュースにならない。
報道した側の知性が疑われるからだ。
根拠不明のヘイトスピーチではないかと一笑に付される。
これで「地球温暖化に警鐘を鳴らすことをアピールできた」と称えるとは、日本人のリテラシー能力をなめているとしか思えない。

http://agora-web.jp/archives/2043182.html

PISA調査結果のニュースも煽情的だった。
記述式問題延期も、国会の桜問題も同じで、内容はしょぼいのに見出しでいたずらに強調する。

日本人のリテラシー能力がみくびられているからニュースになる。
それは25年前の松本サリン報道から全く変わっていない。
政治色の強いニュースは発言しにくいが、偏向報道の類のニュースについて、しっかり向き合ってみたい。
無論、自分の発言に偏りがないかは、しっかり注意していきたい。

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December 10, 2019

PISA調査結果に関する新聞の悪意ある見出し

Pisa

「新聞の見出しに惑わされ、情報を正しく把握できない」

 PISA2018調査結果が発表された。結果の考察も大事だが、センセーショナルに扱った新聞報道の考察(批判)も大事だ。

 「高一読解力15位に後退 OECD調査、真偽見抜く力弱く」

というのが、地元中日新聞の一面トップの見出しである。

数学的応用力が6位、科学的応用力は5位で下がりはしたが依然トップ水準と言うのだから、OECD調査結果を報じたいなら、そちらを書けばいいのに、悪いことだけ見出しにするところが悪意に満ちている。

 資料によると、読解力は、「OECD平均より高得点のグループに位置するが、前回より平均得点・順位が統計的に有意に低下。長期トレンドとしては、統計的に有意な変化が見られない「平坦」タイプ」とある。長期トレンドは平坦のグループに属するのに、「後退」を強調する点も悪意に満ちている。
 なお、新聞記事本文をよく読むと「長期的傾向の分析では米国などと同じく変化がない『平坦』タイプとされた。」とちゃんと書いてある。
「平坦」という調査報告内容は分かっているのに、見出しでは「15位に後退」と危機を煽っている。しかも、1位の中国は正しくは「北京、上海、紅蘇、浙江」。3位マカオ、4位香港といった限定した参加地域を抜いてOECD加盟国でみれば、日本は11位である。
 「教科書が読めない」「情報を活用できない」「長文を読めない、書けない」 などの問題点がないとは言わない。
しかし、見出しで誤った方向に誘導する新聞報道は問題だし、その見出しに踊らされる読者も問題だ。


「見出しだけで判断せず、自分で元資料を確かめる」

「事実と意見を混同しない」

などが、読解力の第一歩と考えると、このような新聞記事を冷静に判断するリテラシー能力こそが求められる。

 今回の新聞の見出しは、25年前、無実の河野さんを犯人扱いした松本サリン事件と同じレベルである。

 この見出しに惑わされるようは、我々のリテラシー能力も読解指導も25年間進歩していないことになる。

・・・妹尾昌俊氏さん、まとめるの早いな〜。結果報告が出たその日の夕方には、ネットニュースに分析が上がっている。
自分の書きたかった見出しの愚かさが書いてあるし、問題の分析も終わっている。さすが、やることが早い。

 【PISAショックとか言うな!】読解力低下をどう受け止めるか(妹尾昌俊) - 個人 - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20191204-00153583/

 

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December 09, 2019

丁寧な指導ができてこそ、コーチングだ。

先のダイアリーで、コーチングと称して「教えない」で威張っている教師のことを書いた。
「総合教育技術」11月号で田中博之氏が、学テ問題対策の「丸投げ」を批判していることと重なった。
 少々長いが引用する。
==================。
 新しい学習指導要領では、活用問題的な学力観が重視されます。もうすぐ新学習指導要領に基づいた新しい教科書ができあがりますが、活用問題への指導書の配当時間数が、少しは増えるのではないかと予想されます。もしも1時間でもあれば、学期に1問だけでもいいので、活用問題に取り組んでみてほしいと思います。
 その際に注意してほしいことがあります。それは、活用問題を子どもに解かせるときに丸投げをしない、ということです。
丸投げというのは、教員は机間指導で見て回ってアドバイスはするものの、基本的に「はい、これを解きなさい」と言って、子どもに自力で解かせるやり方です。 
 子どもたちが活用問題を解けない理由は二つあります。一つは論述して書く力が弱いことです。これは決定的な問題ですから、問題解決の過程や根拠を文章で書く練習をしなければなりません。もう一つは、どんな既習の知識や技能を使えば解けるのかを、正しく思い出せないことです。既に学習した知識や技能を活用せず、やみくもに解こうとしてもできませんから、「難しくてできない」と言い出すのです。
 かといって、「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまうのではないか」と懸念する先生方もいることでしょう。それは正論ですが、活用問題は難しいのです。丁寧な指導が必要です。
(中略)
 授業中に補助輪付きの時間を、5分でもいいのでとってほしいと思います。活用問題はテクニックを覚えればできるわけではありません。一種のひらめきが必要であり、低位層の子どもがひらめくためには、どの知識が使えそうなのか、どんな公式が使えそうなのかなど、問題を解くために手がかりになるような既有知識を想起させることが重要です。例えば、必要になる既習の計算の技をヒントカードにして「ヒントが欲しい」子どもに挙手させて配るなど、見通しレベルの既有知識の想起をしてほしいと思います。
    「新学習指導要領を反映し活用問題を重視へ」より
===================

・・・田中氏の言う「丁寧な指導」も、子どもにヒントを与えて既有知識の想起を促すという意味では極めて「コーチング」的だ

 このコーチング的な丁寧な指導の対局が「丸投げ」だ。
 「教えすぎると、子どもの考える力を奪ってしまう」と「教えると、子どもの考える力を奪ってしまう」では意味が違う。
 ダメなのは「教えすぎる」であって、「教える」ではない。

 教師の重要な仕事である「見通しレベルの既有知識の想起」を怠ってはいけない。

 蛇足で書くが、「教師が教える」代わりに「子ども同士の話し合いに委ねて、教師が何もしない」は、もっとタチが悪い。
 教師でも難しい「既有知識の想起を促すヒント」を子供に出せるわけがない。
 もし、利発な子が「そうだ、○○を使えばいいんだ」と発言して、みんなが納得したとしたら、それは「ヒント」ではなく「教え込み」だ。

 配慮のない教師、見通しのない教師、子どもに任せっぱなしの教師は、次の①②③を起こす。

①みんなの前で恥をかかせる
②意味の分からないこと・嫌なこと・難しいこと・失敗しやすいことをやらせる。
③つまらないことを我慢させる

 コーチは本人のやる気を促すべき存在だ。
 だから、「テイーチ」より「コーチ」と言いながら何も教えない教師は、まさにコーチの真逆の存在だ。

 とにかく「テイーチ」より「コーチ」「ファシリテート」などと格好のいいことを言いながら、何も教えない教師は、何者でもない。

何を威張っているんだとつくづく思う。

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コーチングできるのが、優れた教師では?

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「体育科教育」12月号にコーチングの話題があった。

 「主体性を引き出すアカデミック・コーチングのすすめ」
  菅原秀幸(アカデミック・コーチング学会会長)

 (1)テイーチングが「教え込む」のに対して、コーチングは「引き出す」であり、両者の方向性は真逆です。
 (2)コーチングの目的は、能力を最大限に引き出すために、適切な行動を自らとるように促すことにあります。

・・・educateの語源がラテン語の「引き出す」だから、コーチングの方が本来「教育」の本質なのだという言い分。
  テイーチングとコーチングの方向性が真逆だという菅原氏の次の一節がとても興味深い。

◆コーチングのスタートは、教育学を修めながら、テニス・コーチとして新しい指導方法を考え出したテイモシー・ガルウエイにあるとされています。その当時の指導スタイルは、模範的なプレーを知っているコーチが、命令形で教え込むというものでした。
 (中略)ガルウエイも、練習プランの作成から、スイングの仕方まで手取り足取り、こと細かに生徒に教えました。しかし教えれば教えるほど、生徒のもっている力が発揮されないことに気づいたのです。
  そこで、ガルウエイは、「教える」ことから「問いかける」ことへと指導方法を変えてみました。つまり、それまでの「ボールをしっかりよく見て打って」と教えていたのを、「飛んでくるボールの縫い目は、縦に回転していたのか、横に回転していたのか?」
 「ラケットにボールが当たる直前のボールの動きは、上昇中だったか下降中だったか」などと問いかけたのです。この結果、生徒はボールに集中し、もてる力を発揮できるようになりました。

・・・「問いかける」がコーチングの基本というなら、我々がめざす「優れた教師」は「コーチング」を含んでいることが分かる。
 我々は一方的に教えるだけの授業などは毛頭めざしていない。子どもの目の色が分かるようなすぐれた発問づくりに邁進してきたからだ。

  そもそも菅原氏は「教える」と書けばいいところを「教え込む」とネガテイブに表記して、イメージ操作している。

  すぐれた教師は「教え込む」を避ける努力をしている。
  子どもたち自身が気づき・考え、行動できるよう、発問を工夫し、授業展開を工夫し、場づくり・教材づくりに苦心している。

  だから、教師は「一方的に教え込む存在」、コーチは「引き出す存在」という対立構造そのものがミスリードなのだ。

◆「教える」ではなく「問いかける」ことで、力を最大限に発揮できる状態を作りだす、これがコーチングの基本であり、それをになうのがコーチです。

とあるが、「教える」と「問いかける」は対立概念だろうか。
 「問いかけることで、教える」が、我々がいつも取り組んでいる授業展開だから、次のように言い換えられる。

※「問いかける」ことで「教えたい内容」を習得する状態を作りだす、これが「教える」の基本であり、それをになうのが教師です。

  宇佐美先生が主張した発問の「間接性の原理」は、まさに「教えないで教える」であったのだと理解している。


  ところで。
  
  「これからはコーチングの時代だ」と、子どもに丸投げしている教師がいるとしたら、それでは「コーチ」の仕事をしていないことが分かる。
 「子供に気づかせる努力・発問(質問)の工夫」を怠る者は、コーチでも教師でもない。

  「教え込む」より「気づかせる」の方が、実は手間がかかるし、指導の腕も求められる。
  コーチングには、その「気づかせる」が求められているというのに、「教え込む」よりもはるかにレベルの低い「教えない(何もしない)」をやろうとしている教師がいるとしたら、それは、まさに「コーチング」とは真逆だ。


  何もしない < 教え込む < 問うて気づかせる

 「コーチング=教えない」を口実に、ただサボっているにすぎない。まさにコーチングの歪曲だ。


  我々がめざすべき「すぐれた教師」は、子どもの能力を最大限に引き出すために努力と工夫を続けるのだから、「コーチ」を含む存在だ。

というのが、今回の自分の結論だ。

  部分的に抜粋したので菅原氏の真意とはズレるかもしれないが、「コーチ」よりも「教師」の方が求められているのだという思いを強くした。

  菅原氏の論稿の冒頭は、ウイリアム・アーサー・ワードの言葉を引用している。

◆平凡な教師は、ただしゃべる
 よい教師は、説明する
 すぐれた教師は、やってみせる
 偉大な教師は、やってみようという気にさせる。

  しかし、自分の都合のよい解釈をする怠け者教師は、教師とは「しゃべらない・説明しない・やってみせない」が望ましいのだと豪語する。
 「やってみようという気にさせる」=「教えない」とは、どこにも書いていない。「教えない」教師を理想とする意味はどこにもないのだ。

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November 09, 2019

生徒指導とプログラミング的思考

心理カウンセラー竹内成彦氏の講演会で、働かない我が子(成年)に対してきちんとダメと言うべきだとの指摘があった。

大人になるということは、経済的自立・自分でメシを食えること。
生物学的に言うと、さらに「子孫を残す」という条件が入る。動物の中で子孫を残すことに興味をもたないのは人類だけだ。

◆「働きたくないのか、そうかそうか、無理しなく働かなくたっていいぞ」
◆「お金がないから万引きしちゃったのか、そうかそうか、じゃあお小遣いを値上げしようかな」
といった対応では、いつまでたっても子どもは自立しない。
そりゃそうだ、居心地の悪さがなければ、現状を変えるモチベーションは上がらない。
カウンセラーの元にお手上げの保護者が来院するが、肝心の子どもに「困り感」がないと何も変化しないそうだ。
子ども自身が、「このままではいけない」と自覚しない限り、治療には結びつかない。

働きたいか、働きたくないかは問題ではない。
そこにあなたの選択肢、つまり分岐点はない。
大事なのは、自分一人で生活できるか、できないかだ。


働かずに自分1人で生活できるんだったら、誰も責めはしない。
しかし、自分1人では生きていけない状況であるのに、働きたいか働きたくないかの選択肢を持ち出して

「だって働きたくないんだもん」
「そうか、そうか無理して働かなくてもいいぞ」

といったずれた親子の会話が成立してしまう事例がある。
むしろ親が「オレの死後、我が子がどうなろうか知った事ではない」と現実逃避(未来逃避)しているとしか思えない。

プログラミング的思考で言えば、
◆「働きたいか、働きたくないか」で分岐するのではなく

◆「自分は一人で生活できるか」で分岐せねばならない。

自分1人で生活できるなら、今のままでよいかもしれないが、
自分1人で生活できないなら、どうしたらよいか考えねばならない。その選択肢の1つが「働く」だ。

これは、下記の英語のフレーズについて書いた、かつてのダイアリーと重なるところだ。

============
問答無用? 〜Whether you like it or not〜
平成30年11月26日の「ラジオ英会話」の内容に感激した。

◆Rika, I don’t like cleaning the classroom every day. It’s so boring.
 
 リカ、僕は毎日、教室を掃除するなんて嫌だよ。とてもつまらないし。

◆Whether you like it or not isn’t important.
 We have to do it. It’s part of being a student at this school.

 あなたがしたいかどうかなんて問題(重要)じゃないのよ。私たちはそれをしなければならない。それはこの学校の生徒であることの一部なんだから。

◆In the U.S., students don’t have to clean the classroom.
Professionals do it at night.
 アメリカでは、生徒は教室を掃除しなくてもいいんだ。専門の業者が夜やってくれるからね。

◆Well, that’s the American way, but we are in Japan.
This is the Japanese way.
 それはアメリカのやり方だけど、私たちは日本にいるのよ。これが日本のやり方なの。

Whether you like it or not あなたがそれを好きかどうかは
Japanese way 日本のやり方

https://fujiijuku.net/radio-english/2018-11-26-l156/

「あなたが好きか嫌いかは問題ではない。」
「アメリカではどうかは関係ない」
「これが日本のやり方なんだから。」


・・・こうした言い切りができることは、すごく大事で、保護者も学級担任は、ビシッと言わないと統率が取れない。
いつでも「問答無用」では、不満を抱かせるが、ダメなものはダメ、決まりは決まりと毅然とした態度で対峙する力強さはほしい。
====================

以前は「ダメなものはダメ」と解釈した。
今は「分岐させる箇所が違うのだ」と解釈している。

◆「掃除がしたいかしたくないか」は、分岐にならない。
 分岐が必要なのは「あなたは本校の学生かどうか」である。
 そして、「本校の学生」であるならば順次処理で「掃除をする」しかない。「やる・やらない」の分岐はない。

 あるいは、分岐が必要なのは「ここはアメリカか、日本か」である。
 そして「ここが日本」であるならば順次処理で「掃除をする」しかない。「やる・やらない」の分岐はない。

分岐点を間違えてはいけない。
分岐点のすり替えにごまかされてはいけない。

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October 05, 2019

「わたしと小鳥と鈴と」の解釈

多くの先生方は分かっていると思うが、金子みすゞの詩は、決して単純なポジテイブではない。

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わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
==================

 道徳の教科書に付いているプリントは、自分の短所と長所を書いてみようという取り組みだった。

◆私は、走るのは苦手だけど、音楽は得意です。
◆私は、字は下手だけど、絵は得意です。
のように書き込ませていた。
 しかし、原詩の構造は違う。
 原詩の構造に従うなら

◆私は太郎君のように速く走れないけど、足の速い太郎君は私のようにピアノを弾けない。

となる。
 授業では安易に「短所と長所の対比」で理解させたがるが、本当の構造は「短所と短所の対比」。
 詳しく言うと「自分の短所と長所の対比」ではなく、「自分と他人の短所と短所の対比」。
 だから、相当にネガテイブなのだ。

 これは金子みすゞの境遇を調べたことがある人なら分かる。金子みすゞの詩をポジテイブでメルヘンチックに受けとめてしまったら、この詩を読み取ったことにはならない。

 道徳の授業だから「みんなちがってみんないい」の都合のよいフレーズだけ利用すればいいのか。
 道徳の授業だから「自分には短所もあるけど長所を大事にしよう」と結んでいいのか。

せめて

◆あなたは、いくらがんばっても他人にはなれないし、他人はいくらがんばってもあなたにはなれない。
 だから、他人をうらやましく思う必要なんてないし、あなたはあなたであることに自信を持ってほしい。

◆ある基準ではあなたは他人に劣るかもしれない。でも別の基準でみればあなたは他人に決して劣っていない。
 だから、他人をうらやましく思う必要なんてないし、自分は自分であることに自信を持ってほしい。

というまとめになるのではないだろうか。 
 ネットで検索すると、次のような感想があった。私も同感である。
 この詩の肝は「人のよさを決める価値基準は一つではない」ことだ。4年生に「基準」という意味を伝えられるかどうかは分からないが。

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「みんなちがって、みんないい」。本当は当たり前のことなのに、一つの基準で全ての価値を決めてしまいがちな現代において、この言葉は人々の心に鋭く優しく響きます。
 きっと、この言葉に救われる人も多いことでしょう。価値や基準は一つではないのだ、たとえ一つの基準で劣っていても、私の価値は失われないのだ、と思い出させてくれる言葉です。
https://www.motivation-up.com/word/036.html
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