February 19, 2018

「東大教授の父が教えてくれた頭がよくなる勉強法」永野裕之著(PHP)

この本は、さまざまな引用が印象に残る1冊だった。


(1)◆ガンジー 
 「明日死ぬつもりで生きなさい
  永遠に生きるつもりで学びなさい」

・・・対句表現である。
 「A - B   A’ - B’」
の構造で「学びなさい」を考えさせると、格好の「類推」の訓練になる

(2)◆東大生は一般学生よりも「勉強しなさい」と言われた割合が少ない
 2014年8月号「プレジデントファミリー」の集計結果(過去十年1064人の東大生)より。
 
 もともと成績が良かったから」と考えれば相関関係。
 「勉強しなさい」と言われなかったから成績が伸びたと実証できれば因果関係。

・・・ところが、筆者は、ここで何の実証もなく次のように、自分の「思い」を述べる。

「それはもともと成績が良かったからでしょ」という声が聞こえてきそうですね。もっともです。
 でも私は、成績が良かったから「勉強しなさい」と言われなかったのではなく、「勉強しなさい」と言われなかったから成績が伸びたのだと思います。

・・・そして、その後

「勉強しなさい」というセリフはそれだけ、子どもから勉強ができるようになるために必要なものを奪いかねない危険なセリフなのです。

と、因果関係であることを規定事実にすりかえたかのような表現をしている。
 このような「主張」と「事実」の巧妙なすり替えには十分注意しないといけない。

 
(4)◆アインシュタインの言葉
「調べればわかることを覚えるほど僕の脳は暇じゃない」


(5)◆MITメデイアラボ伊藤穣一
「世界の変化のスピードがこれだけ速くなると『地図』はもはや役に立たない。必要なのは『コンパス』です。
そして素直で謙虚であり続けながら権威を疑わないことなのです」

(6)◆ルソー
「ある真実を教える事よりも、真実を見出すにはどうしなければならないかを教える事の方が重要である」

(7)◆筆者
「なぜ?」と思いながら勉強する姿勢こそが本質にたどり着く最短の思考法なのです。

(8)◆『学びのイノベーション事業実証研究報告書」
小学校就学以前から子供が主体的に学ぶような教育へ転換していく必要性

(8)◆音楽家レナード・バーンスタイン
「自分は音楽家になるべきでしょうか、と訊ねられたら私はノーと答える。なぜならそう質問したからだ.
質問する限り、答えはノーだよ。『禅』問答みたいだけどね。音楽家になるのは、音楽家になりたいと願うその人自身なんだ」
「良い音楽家になりたいのならまずはそう思うことから始めなければ。なぜならそれはとても難しいことだから」

(9)◆デカルト
「困難は分割せよ」

(10)◆アルバート・バンデユーラの「自己効力感」(自分はやればできるんだ)の4つの要因
・達成体験(成功体験)
・代理体験(他人の成功)
・言語的説得(励まし)
・生理的情緒的高揚(気分)

(11)◆暁星小学校の碑文
 「困難や欠乏に耐え、進んで鍛錬の道をえらぶ気力のある少年以外はこの門をくぐってはならない」

・・・暁星小学校の建学の精神は、キリスト教の理念に基づく教育により、人格の完成をめざすとともに、社会の福祉に努める人物を育成することです。それは、「自分を大切にする」「他者を尊重する」「神を愛する」という教育理念として示されています。
 「自分を大切にする」とは、自分のよさに気づき、個性を大切にして能力を伸ばす努力をする姿です。また、「他者を尊重する」とは、さまざまな考え方や個性・能力をもった人たちと学び合い、支え合い、育ち合う生き方を表しています。そして、「神を愛する」とは、イエス・キリストが神と人を愛する生き方が人間にふさわしい自己実現の道であると教えてくださったことを示しています。
 変化の激しい社会にあって、どのような状況の中でもたくましい「心と体」で生きていく力を身につけるように学校全体で取り組んでいます。「真・善・美」を愛する豊かな感性、知的好奇心と学びを探究する心、困難に対しても進んで挑戦する実行力、そうした力を支える基礎学力をしっかり身につけさせること、それが暁星がめざす教育です。
 本校には、「困苦と欠乏に耐え、進んで鍛錬の道を選ぶ、気力のある少年以外はこの門をくぐってはならない」ということばが伝えられています。この精神を、望ましい形での「鍛える教育」として大切にしていきます。そして、次代を担うリーダーにふさわしい「心と体」を培っていきます。暁星小学校 学校長   吉川 直剛


(12)◆夏目漱石 長塚節の「土」の序文 
  「面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたい」

 余はとくに歓楽に憧憬しょうけいする若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、此「土」を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募つのる時分になったら、余は是非此「土」を読ましたいと思って居る。娘は屹度きっと厭いやだというに違ない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えて呉くれというに違ない。けれども余は其時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思って居る。参考の為だから、世間を知る為だから、知って己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる為だから我慢して読めと忠告したいと思って居る。何も考えずに暖かく成長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心ぼだいしんや宗教心は、皆此暗い影の奥から射して来るのだと余は固く信じて居るからである。

 適切な引用があると、説得力が増す。
 いや、違う。
 適切な引用ができるほど博学な人の文章だから、説得力があるのだ!

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January 08, 2018

教師は「教える」をやめたら何をすればよいのか?

 SAPIOの1月号で、大前研一氏がこれからの教育や教師の有りようについて述べている。

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 さらに教師もいらなくなる。今の小学校・中学校・高校の先生は文部科学省が定めた学習指導要領に従って教えている。ということは、学習指導要領に準拠した「AI先生」が登場すれば、それで事足りるし、自宅でパソコンやスマホなどを使って勉強することもできるので、わざわざ学校に行って授業を受ける必要はない。
 ただし、そもそも学習指導要領に基づいた画一化教育は、日本が世界に羽ばたいて活躍できる人材を生み出せない最大の原因になっている。20世紀の大量生産・大量消費時代は画一化教育で均一的な人間を作っていればよかったが、それではボーダーレスな厳しい世界競争の中で生き残ってくことはできない。均質的な人間が使いこなせるような仕事はすべてAIやロボットに置き換えられていき、それ以外の領域で能力を発揮できる人間しか富を創出することができなくなるからだ。にもかかわらず、日本の場合は依然として時代遅れの学習指導要領に従って、スマホがあれば答えが分かるようなことばかり教えている。
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・・・現行の学習指導要領が時代遅れだとの指摘はやむを得ない
新学習指導要領は次世代を念頭に置いており、AIに代替えされない人間を育てるためには、暗記型学力では通用しないことを主張しているが、まだ移行段階だ。
 それにしても、大前氏が述べるような危機感を現場の教師は共有できているかどうか、新学習指導要領の意味を共有できているかどうかが問われている。目先の授業準備に埋没するのではなく、日本の未来を見据えてもらわなくては困るのだ。
 大前氏の論はさらに続く。

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 一方、世界の先進国の多くは、とっくの昔に21世紀に対応した教育システムに移行している。たとえばデンマークは、約20年前に「ティーチ(教える)という概念を教室から追放した。
 なぜか?
 教えるという概念の前提は、教える人が答えを知っているということであり、教えられる人はその答えを覚えるだけになってしまうため、自分で考える能力がなくなる。答えを覚えることは人間よりコンピュータのほうが得意だから、コンピュータにできないことができる人間を育てなければ、国際的な競争力を失ってしまう。そう気づいたからである。
 そしてデンマークは、先生を「ティーチャー」と呼ぶこともやめた。生徒が自分で考えることを助けるという意味の「ファシリテーター(促進者)」に変えたのである。
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・・・「ファシリテーター」という語は知っていたが、「ティーチャー」に置き換わる概念だとは思っていなかった。
 教師は「教える」だけでなく「示唆する・導く」の度合いが強まってくる。
 しかし、だからといって「教えない=丸投げ=学び合い」を推奨することはあり得ない。
 いくら知らないことはAIが教えてくれるとしても最低基準の知識技能さえも身に付けていなければ、それはそれでAIの下請け人間にしかなれない。
 そこを注意しておかないと、以下の大前氏の文を読んですぐに「学び合い」の授業と結び付けてしまうだろう。

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 21世紀は答えのない時代である。そこで生き抜いていくためには、自分で質問して答えを予測し、他人議論する中でリーダーシップをふるって答えに至る道筋を見つけられるようにならねばならない。
 しかし、今の日本の教育制度では、そういう人間を育てることはできない。逆に言えば、21世紀の世の中で通用しない人間=AIやロボットに置き換えられる人間しか育てていないのである。
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・・・新学習指導要領は、この危機意識に立って作られている。
 「主体的・対話的で深い学び」が象徴的なキーワードになっていることからもそれが分かる。
 総則解説に書かれた「改訂の経緯及び基本方針」等を読めば、AI時代を見据えていることも分かる。

◆こうした変化の一つとして、人工知能(AI)の飛躍的な進化を挙げることができる。人工知能が自ら知識を概念的に理解し、思考し始めて言われ、雇用の在り方や学校において獲得する知識の意味にも大きな変化をもたらすのではないかとの予測も示されている。このことは同時に、人工知能がどれだけ進化し思考できるようになったとしても、その思考の目的を与えたり、目的のよさ・正しさ・美しさを判断したりできるのは人間の最も大きな強みであるということの再認識につながっている。(後略)

・・・新学習指導要領の総説は、よく書かれている。
 改訂の理念をしっかり共有できる1年でありたい。

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December 30, 2017

「主張」と「苦情」の違い

 「クレーム」という単語は誤解されている。

 claim ...正当で当然の権利として要求する。損害賠償、支払い要求など。

 complain ...不平、苦情、グチ

 だから、先に示した「三角ロジック」の本の中では

 主張(claim)・・結論

となっている。
 人はそれぞれ自分を主張する権利がある。
 それをクレームと呼んで「迷惑」のレッテルを張るのは問題だ。
 むろん、聞く側は100%主張を受け入れる必要はない。

◆100%受け入れられるとは限らない前提で主張をし、
◆100%受け入れるとは限らない前提で主張を聞き入れる。

 日本にはそのルールがないから

 クレームを言えば全部要求が通るつもりの主張が多い。
 そしてクレームを言われた側は、要求を全て聞き入れなければと身構えてしまうため、逆に門前払いしてしまう。
 また「クレーマー」のレッテルを貼られのが嫌だから、自分の正当な主張もあきらめてしまう。

 主張をする側が「ダメでもともと」くらいの気軽な態度で主張し、
 主張を聞く側が「不当な要求には屈する必要はない」という確固たる信念で、オープンに主張を聞き取るようになった時、日本にもようやく「議論の文化」が根付くのだと思う。

 「クレーム」という単語にマイナスイメージが張り付いているうちは「議論の文化」は根付かない。

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October 15, 2017

ワークライフバランスについて (清書版)

 このところ、何度か「ワークライフバランス」について書いてきたが、いったん清書の形でまとめてみる。

 働き方改革は現代日本の直近の課題であり、学校現場でも80時間・100時間といった超過勤務をどう改善するかが課題になっている。
 部活動と生徒指導にあけくれる中学校では、よく「セブンイレブン」と言われてきた。
 小学校でも、8時前に出勤して6時過ぎに帰るのはまだ早い方で、夜7時でもまだまだ帰れない(帰らない)先生が多い。

 教員の場合、残業手当が欲しくて残業しているわけではないので、まずは残業手当はもらえる業種とは分けて考えないといけない。多くの場合は、残業を命じられたわけではなく、今日の仕事の整理・明日の授業準備のような「自主残業」である。保護者対応が、夜になることも、よくあるケースではあるが。

 その上で、本音で言うと次のようになる。

(1)超過勤務は、時間超過ではなくストレス超過で判断すべき。

 勤務時間が終わったからといって、明日の準備が終わっていなければ、それは多くの結局「ストレスの持ち越し」になる。
 今日の後始末と明日の準備を終えてスッキリして帰宅するから、自宅でもしっかりリラックスできる。熟睡もできる。
 「ドラゴン桜」でも似たような指摘があった。
  やるべき課題があるのに気分転換をしたって、気になって楽しめない。だったら、やるべき課題をきちんとやり終えた方が結局は気分がスッキリできるのだと。
 つまり、定時退勤と残業とどちらが「ストレス」かは、個々によって異なるのだ。
 本校でも、土曜・日曜に自分の都合のいい時間にふらっと出勤して残務整理したり授業準備したりして帰っていく先生が多い。
 学校に来て数時間仕事をして、その方がスッキリするなら、それ残業禁止するよりも、むしろ有用なのだと思う。
 体をむしばむかどうかは労働時間で決められるわけではなく、ストレスを感じるかどうかがなのだ。

(2)好きなことに熱中するなら、いくらでもやっていられるし、それは「ノンストレス」である。

 授業の準備が好きな教師、「よりよい授業を創ろう」と日々励んでいる教師にとっては、それは、まさに「ライフワーク」なのだから、ライフとワークのバランスなど無意味である。
 むろん、根を詰めすぎて体を壊してはいけないが、やりたくてやっているのならそれはノンストレスであり、やりたいことを無理矢理制限される方がストレスになるのだ。
 そのことを、落合陽一氏は、「これからの世界をつくる仲間たちへ」(小学館)の中で、次のように述べている。

◆ワーク・ライフ・バランスが問題になるのは、「好きなこと」「やりたいこと」を仕事にしていないからです。
解決したい問題がある人間、僕だったら研究ですが、そういう人は、できることなら24時間、1年365日をそれに費やしたい。
(中略)ワーク・ライフ・バランスなんて考えたこともないし、その概念自体が僕には必要ありません。P164


 「ライフワーク」を検索していたら、「3つのワーク」が出てきた。
 
〇お金のため、ごはんを食べるために働く  [ライスワーク]
〇その仕事が好きで働いてる          [ライクワーク]
〇自分の使命だと思って働いてる       [ライフワーク] 

https://matome.naver.jp/odai/2139626309369150501
http://menzine.jp/job/raisuwaku5575/

 ライスワークなら、定時退社して自分の余暇を充実させればよい。
 ライクワークやライフワークは、時間を気にせずに没頭していたいのだ。熱中してやり続けている人を無理矢理、退社時間で追い出すのは合理的ではない。
 
(3)いやいや仕事を選んだ時点で、毎日がストレスになる。

 興味のないことを強いられると、たとえ1分でも耐えられない。
 ライスワークを否定はしないが、やりたくもないことを仕事にしている人はいくら定時退社を守ったとしてもストレスはたまる。
 好きで教師をやっていれば、家へ帰ってテレビを見ながらでも「あ、これは授業に使えるな」と思う。
 家へ帰ってまで仕事を考えるなんて、という考えもあるが、教職が「ライクワーク・ライフワーク」で、趣味が「教材研究」なら、四六時中「教材研究」について考えることは楽しいことであって、むしろストレス解消につながる。

 やりたくない仕事を勤務時間の範囲内で無理無理こなしている人と、楽しくて仕方ない仕事に没頭している人を同等に扱うことはできない。 
 あえて言うならば、教師という職業を「ライスワーク」で選ぶとしたら、コスパが悪いからお勧めできないということだ
 超過勤務を大前提にするわけではないが、好きでないとやってられない職業の1つではあると思う。


 とはいえ、実際は授業作りや学級づくり以外の雑務のような処理に時間がかかることが多い。これは誰にとってもストレスになりやすい。おそらく一番のストレスが生徒指導・保護者対応である。
 クレーム処理は企業では専門部署があるくらい手ごわい仕事である。日々の授業準備や子供への応対に追われる若い先生に、さらに保護者対応まで求めるんは、かなり「酷」なのだと思う。
 ドクターXみたいに、医師免許の要らない仕事は「いたしません」と言い切れたら、どんなにストレスフリーだろう。「ここから先は管理職・カウンセラー・警察・弁護士が対処します」と事務的に切り替えることができたら、どんなにストレスフリーだろう。
 たとえば、自主的に土曜日・日曜日に出勤している時に学校に電話がかかってくることがあるし、平日も朝7時、夜7時に電話があることがざらである。
  勤務時間外の電話は当然無視することもできるのだが、場合によっては職員駐車場や職員室の照明を確認して、いると分かっていて電話をかけてくることがあるので、電話拒否はなかなか難しい。
 「業務時間は終了しました」と断れたら、どんなにストレスフリーだろう。
 せめて学校の電話が「着信履歴」と「留守番電話」があれば、余分なストレスはずいぶん削減できるだろう。地区にもよるだろうが、少なくとも春日井市内の学校の電話にはその機能はない。
 また、銀行のように対児童の業務を3時に終えて、5時までは残務整理に没頭できたら、どんなに効率的だろう。

 教師が本来の業務に集中できるような業務改善を進めてほしい。労働環境がブラックなままでは、人材が集まってこないからだ。

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September 02, 2017

AI時代には、「学び」と「遊び」の区別はなくなる

  「遊び」に向けられた意欲のエネルギーを「勉強」や「仕事」にも転用でいたらいいのに、とよく思う。
 「楽しい」「好き」「フロー」の力は強いのだ。
 「『やる気を出せ!』は言ってはいけない。」石田淳著(フォレスト出版)には次のような記述がある。

◆根本的には、「仕事は面白い」「楽しい」と思わせ、それを習慣化させることが重要なのである。
 部下の行動が自発的になり、それを習慣化していく。これが、行動科学マネジメントの考え方なのである。p73

・・・自分から「やりたい」と思っている社員が成果を上げるのに対して、「ねばならない」と思って仕事をしている社員は成果が上がらない。「行動自発率」が異なるからと言うのが筆者の主張だ。

 さて、ここまでは、昨年度の覚え書きである。
 今夏は、ここに「知的好奇心(中公新書)」を受けての考察が加わった。

 「遊び」には義務はない。それでも夢中になれるのは、「楽しいから」あるいは「自分の役に立つから」だ。
 しかし、学校に通い「学び」が義務になってしまうと、とたんに意欲がなくなっていくことが多い。
 「趣味」を「仕事」にした途端、楽しさが奪われてしまったという大人も多い。
 内発的動機付けの要素で言えば、

(1)そもそも、与えられた「学び」は、「自律性への欲求(自己決定したい)」が満たされない。
(2)自分の興味のない分野で、何かができるようになったとしても「有能感」を自覚できない。

 本来「遊び」と「勉強」は対立しない。
 だからこそ、子どもたちが遊びの中で「面白そうだな」「もっとやってみたいな」と夢中になる要素を分析し、それを授業に生かしていかないといけない。

 リクルート次世代教育研究院が手掛けた5月のシンポジウムの報告の一部を読むことができた。

シンポジウム『人工知能(AI)社会における「生きる力」とは何か?』
https://ring.education/2017/06/06/tokyo_gakugei_recruit_symposium_20170514/

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「教育の未来予想図 〜Life with AI〜」
1. 「生きることを面白くする人間」を育てる
AIに提供されるだけの生活ではなく、AIを使うからこそ「面白い」が未来のトレンド。
今後は、「学び」と「遊び」の区別がなくなり、「生きることを面白くする」姿勢が求められる。

2. 「自己活用力」がこれからの教育キーワードとなる
「自己活用力」とは、状況に応じて自己を活用し、他者と世界を共創する力。
AI時代は、データを読み解いて、自分の視点から考え活用することが求められる。

3. 新たな教育メソッドは”Just in Time Teaching”になる
学習者の主体性を尊重するファシリテータとしての先生像が求められる。
「あれもこれもいつも」から「必要なときに、必要なものだけを、必要なだけ」の Just in Time Teachingへ。

(後略)
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 29年8月21日付の「教育新聞」に、リクルート次世代教育研究院長小宮山利恵子氏の連載があって、このシンポジウムの内容に触れていた。

◆AIに提供されるだけの生活ではつまらない。AIを使って「つまらない」のではなく、AIを使うからこそ「面白い」が未来のトレンドになると考えている。
 「面白い」から見れば、「学び」も「遊び」も同じはずで、AI時代には、「学び」と「遊び」の区別はなくなる。そして変化の速い社会で職を得るには、新しいことを学び続ける必要がある。そのような状況を考えれば、学ぶことと働くこととは今後、より密接に結び付き、ほどなく同じものになる。
 つまり、「学び」「遊び」「働く」、これが同時並行的に、一体となって行われるのが普通になる日も遠くないと考えている。

・・・AIを使うことで「遊ぶ」「学ぶ」「働く」が、「面白い」という観点で一本化できるということか。
ただし、これらの記述だけでは十分に理解できない。
AIという言葉に惑わされて、全てを鵜呑みにはできないので、もう少し文献にあたってみないといけない。

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August 27, 2017

「遊び」と「勉強」は対立しない

 昨日、中公新書の『知的好奇心』を取り上げたが、元々は「遊びの効用」についてメモしていたからだ。
 子ども科学教室に参加してる子どもたちは、遊びと学習を区別していなかっただろう幼児は、遊びと学びを区別することなく日に日に知識や生活能力を獲得していく。

◆もともと「遊び」は、新しい技能の獲得や習熟と結びついている。遊んでいる人間や動物にとっては、それは自己目的性を持つのだが、結果として能力がのびていないかぎり、遊びの楽しさは急速に失われれいくらしい。
 たとえば、人間の幼児に新しい技術を獲得するたびに、その技術を用いること、自分の能力を示すことに喜びを感じるかのように、あるいはそれによってもたらされる新しい情報を楽しむかのように。それをあきることなく繰り返す。これは、それに関係した機能にとって、絶好の練習の機会となる。というのあ、この繰り返しが、喜びを持って行われるからだ。
 はじめて自転車に乗れるようになった子どもは、それがうれしくて、どこにでも自転車に乗っていきたがる。これは一つには、人に見てもらいためであろうが、それ以上に自分の獲得したばかりの能力を発揮したいからなのである。だれに注目してくれなくとも、自転車に乗って走ること自体が、その子どもにとっての遊びであり、新しい感覚と有能さの自覚を通して大きな喜びをもたらす。そして、同時に、その子どもの自転車乗りの技術は、いっそう確実な、安定したものになっていく。
(中略)人間が遊ぶ能力を失わない、というのは、こう考えると大変すばらしいことといえる。一方ではそれは、人間が一生涯学習能力を持ち続けることを意味している。また逆に、人間は遊ぶおかげで、種々の能力をますますのばしていく機会を持つことになる。(P73/74)


◆子どもは、適度に新奇な物に出会うと、積極的にそれに近づいていってくわしく調べてみようとする。疑問に感じたときには、それを解決してくれそうな人をさがして質問したり、本をしらべてみようとする。これらは、いいかえれば、知的好奇心をみたしてくれるものへの「好み」といえるだろう。こうして接近した対象が、その後も同じような場面で、いつも知的好奇心をみたしてくれることが多ければ、その対象への「愛着」もあいてこようというものだ(P55/56)。

・・・「遊び」には義務はない。それでも夢中になれるのは、「楽しいから」あるいは「自分の役に立つからか」だ。
しかし、学校に通い「学び」が義務になってしまうと、とたんに意欲がなくなっていくことが多い。
「趣味」を「仕事」にした途端、楽しさが奪われてしまったという大人も多い。
内発的動機付けの要素で言えば、
(1)そもそも、与えられた「学び」は、「自律性への欲求(自己決定したい)」が満たされない。
(2)自分の興味のない分野で、何かができるようになったとしても「有能感」を自覚できない。

 本来「遊び」と「勉強」は対立しないのだから、子どもたちが遊びの中で「面白そうだな」「もっとやってみたいな」と夢中になる要素を分析し、それを授業に生かしていかないといけない。
 と、ここで先のダイアリーの最後に引用した部分と重なってくる。

◆指導するおとな自身が知的好奇心の強い存在になることが必要だ。子どもにいくら新しい物に積極的に取り組むことをすすめても、その当人が、未知の場面、不慣れな場面を避けてばかりいては困る。
おとなのそうした態度は、いつのまにか子どもに伝わってしまうからだ。(P110)


 教師自身が、さまざな事象に挑戦し「面白そうだな」「もっとやってみたいな」という意欲を持っていないと、子どもを夢中にさせる術は持てないということだ。
 教師は「知りたがり・やりたがり」であるべきなのだ。

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「知的好奇心」 中公新書

Ti
 今日の夕方のニュースで、子ども科学教室のようなイベントの紹介があって、楽しく学ぶ子供たちの様子を流していた。
 『知的好奇心』(波多野誼余夫・稲垣佳世子著 中公新書1973初版)を久しぶりに読んで「楽しく学ぶ」についてメモしていたところだったので、タイムリーな映像だった。

 自由な探索の過程で自分の能力に合わせて挑戦することが興味を維持し学習効果を高める。
 その一例として「磁石」の学習場面が挙げられている(P104~107)。
 向山実践の「じしゃく」が、いかに「知的好奇心」を喚起する授業であったかがよく分かる。

============
 たとえば、磁石を使って、どういう物がすいつき、どういう物がすいつかないかを子どもに知らせる場面を考えてみよう。このとき、どういう性質の物が磁石につきやすいかがよくわからないうちに砂鉄や石(磁鉄鉱)を出して、「さあ、おもしろいですよ。これもすいつきますよ」といった導き方はあまり好ましくない。子どもにとっては、そのおもしろさがわかりにくい。彼のそのときに持つ「知識」に挑戦する対象として砂鉄が示されたのではないからだ。
 このようなときには、まず最初のうちは、子どもに自由に磁石をいじらせる。彼は自分のまわりの物に対して手あたり次第磁石をつけてためしてみようとするだろう。多くの場合、磁石にすいつくか否かに関して典型的な事物が試されるだろう。そうしているうち、木製の物はすいつかない、つくのは金っ気のあるもの、ピカピカ光る物らしい、という予想が形づくられるだろう。
 しばらくいろいろためしていて興味がやや低下したとみられるところで、彼らの予想に「挑戦する」事物を与えてみるのである。たとえば、メッキされたアルミニウム製の物と、メッキされた鉄製の物を準備したり、磁鉄鉱や砂鉄を用意したりする。あるいは、棒磁石、大小のU字型磁石、電磁石などを用意するのである。
 みかけはピカピカに光っていても、磁石につく物もあれば、つかない物もある。石や砂など磁石につくものか、と思っていたらすいついた。これらは、子どもを驚かせ、さらに探究することを動機づけるだろう。また磁石を近づければ、近づけるほどそれからはなれようとすることがある。スイッチを押すと磁石のようになるが、スイッチをはなすとそうでなくなる物がある・・・。これらはさらに事物のいろいろな側面を綿密に探索することを動機づけるかもしれない。」
==============

(1)自由試行させる(飽きるまでの体験させる)。
(2)予想させ、自我関与させる。
(3)固定概念を崩すような難しい課題に挑戦させる。

などのポイントが読み取れる。
 

◆磁石は、他の物にくらべ、環境の「応答性」を増幅する。子どもの反応に応じて、つまり、子どもが磁石を事物に近づけるのにしたがって、事物がすいついたり、すいつかなかったり、はっきり「応答」してくれるからだ。(P107)

◆子どもの疑問に、はじめからていねいに答えすぎない、ということだ。もちろん、子どもの疑問を無視したり、適当に答えてその場をやりすごしてしまうことは好ましくない。
しかし、あまりに完全な答えを与えすぎるのも問題だ。むしろなるべくヒントを与えるなどして、まず子ども自身に自分で考えさせようとすることが大切である。(P108)

◆自由な雰囲気の中で、子ども同士の積極的な相互交渉を奨励することも大切である。(P108)

などの記述を元にすると、以下のポイントも読み取れる。

(4)「応答性」のよさを心掛ける。
(5)教えすぎない。
(6)子ども相互の関わり合い(集合知)を活かす。

 そして、次の指摘は耳に痛い。
 知的好奇心のない者には知的好奇心の旺盛な子どもは育てられないということなのだ。、

◆子どもの遊びや学習上の困難の解決に援助を与える、あるいは、たえず気を配って、子どもが次の活動のために必要としているらしいものを周到に準備しておく、集団での話合いの司会をする、彼らの役目である。
 この場合、指導するおとな自身が知的好奇心の強い存在になることが必要だ。子どもにいくら新しい物に積極的に取り組むことをすすめても、その当人が、未知の場面、不慣れな場面を避けてばかりいては困る。おとなのそうした態度は、いつのまにか子どもに伝わってしまうからだ。(P109/110)。

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August 20, 2017

道徳授業の予備知識 ~「思いやり」を例に~

(1)「行動」の定義

 行動分析学(応用行動分析学)が定義する「行動」の条件は、次の2つである。それぞれのチェックを「死人テスト」「具体性テスト」と呼び、双方をクリアしないと「行動」とみなされない。        
①死人にはできない
・・・「~しない」というのは死人にもできるので「おしゃべりしない」「動かない」「人を叩かない」などは、「行動」と言えない。

②具体性がある。複数の人が見て(録画してみて)、それと分かる。
・・・「深く考える・反省する・楽しむ」のような心情的・内面的なものは「行動」と言えない。

参考 http://aba-airi.hatenadiary.com/entry/2016/09/05/220352

(2)if-then計画

 「思いやりの心」は、具体的な行動が問われる
◆ごみ箱のごみがあふれている時に、こぼれたごみを拾ったり、ごみ箱をぎゅっと押さえて捨てやすくしたりできる。
◆給食当番で自分の分担が終わったら、ためらいなく他の子の仕事を手伝える。

 「あかじめ○○になったら△△をする」と決めて実行することで、行動を自動化しようとすることを「if-thenプラン(条件型計画)と言う。
 しつけも、行動規範も、「こういう時は、こう動く」という「if-then計画」の積み重ねなのだと言えるのだが、道徳も同じと言えるのかどうか自信がない。

(3)「具体化」と「一般化」(汎化)

 if-then的に具体的な行動を習得するだけでは、新しい場面で動けない。
 一方、抽象的に「思いやりの行動をしよう」と唱えているだけでは、具体的な場面で動けない。
 「ごみ箱があふれていたら、どうすればいいかな?」のような具体的な場面でのシュミレーションを行うとともに、「このように困っている人を見かけたら、自分ができる支援策を考えて実行する」という総括的な心構えとをしっかり結びつけていくことが道徳の授業の大事な役割だと思う。
 だから、道徳授業の基本的な1時間の枠組みは、前半は資料の中の出来事に合わせて考え、後半は自分たちのふだんの生活に置き換えて一般化するようになっている。
 ただし、この指導過程は理に適っているものの、もはや形骸化してしまっている。

(4)「思いやり」は「想像」であって「看取り」とは違う

 国語辞典で調べたら、「思いやり」の2番目の意味が「想像」であった。
 ということは、目に見える相手を助けるのは「思いやり」ではなく「見取り(看取り)」にすぎないということになるだろうか。
 低学年の「思いやり」なら目の前の人への支援でいいと思うが、高学年にとっての「思いやり」は

◆「この切符を落とした人、今ごろ困っているだろうな」
◆「同じ地球上で、学校に行けずに辛い思いをしている人に何かしてあげたいな。」

というように、目に見えぬ人に思いをはせることであり、それは、やっぱり「看取り」とはレベルが違う。
 授業者が「看取り」と「想像」の違いを自覚しないと、高学年で「看取り」の授業をしてしまうかもしれない、
 
 さて、「想像」と言えば、ジョンレノンの「イマジン」が思い浮かぶ。世界の平和は、まず「想像」から始まるのだ。

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
 僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

 想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
 さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

 僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ
http://ai-zen.net/kanrinin/kanrinin5.htm


 「私たちの道徳」(中学年)には、「だれかの生活をささえられる人に」と題して、まどみちおの詩が紹介されている。

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朝がくると とび起きて
ぼくが作ったものでもない 水道で 顔を洗うと
ぼくが作ったものでもない 洋服をきて
ぼくが作ったものでもない ごはんを むしゃむしゃたべる

それから ぼくが作ったものでもない本やノートを
ぼくが作ったものでもない ランドセルにつめて せなかにしょって
さて ぼくが作ったものでもない 靴をはくと たったかたったか でかけていく
ぼくが作ったものでもない 道路を
ぼくが作ったものでもない 学校へと
ああ なんのために

いまにおとなになったら ぼくだって ぼくだって
なにかを 作ることが できるように なるために
===================

・・「モノ」の向こうにいるはずの「人」に思いをはせることで、関係が広がり、関心が広がり、想像が広がり、思いやりの心が広がっていく。 
 この詩が中学年で紹介されているということは、中学年で「看取り」ではなく「想像」まで指導せよということにもなるのかもしれない。

 さて、冒頭の話題に戻るのだが、「イマジン」やまどみちおを詩を読んで「想像する」だけでも、道徳になるのかなという思いがあって、現在困惑中である。
 「想像」は、目に見えないから行動でない。
 「想像」してみたところで、これからどうすればいいか、全然具体的でない。

 それでも、「想像」するだけでも、子どもの人生に何か影響があるかもしれない。
 道徳は「心」を扱う。「行動」を扱うのは生徒指導と言わることに、反発したくなるのだが、やっぱりそうなのかなと思ってしまう。
 道徳は、やはり奥が深いのだ。

 ※むろん、「想像」だけでは授業にならないし、評価もできない。
 想像したことを発表させたり、ノートに書かせることで視覚化させる。
 想像した内容を話し合いの形で相互交流させることで視覚化させるといった授業の工夫が必要である。

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August 12, 2017

結果ではなく努力を褒めるのがスタンフォード流

 「結果ではなく努力を褒めるのがスタンフォード流」というネットの記事(無料で閲覧できる)
http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160314/biz/00m/010/001000c

 キャロル・ドゥエック教授の講義内容が紹介されており、「『やればできる』の研究」の復習になった。
 ちなみにドウエック教授の「やればできるの研究」については、かつて書いたことがある。

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2016/07/s-88fe.html

 今回のネット記事は非常にコンパクトにまとめられているので、そのまま引用するだけで済んでしまうが、さらにまとめてみる。

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「硬直マインドセット」をもっていると、「自分は勉強してもムダだ」と自ら限界を決めてしまいがちで、学習意欲が著しく低いまま。
一方「しなやかマインドセット」が高まると、「今はまだできないだけで自分も能力を伸ばすことができる」と捉え、勉強に取り組む勇気や活力がわき、実際に成績が向上する。

◆「まだ」というのが魔法の言葉です。
知らず知らずのうちに、子供は「いつかはちゃんとできるのだ」と自分を信じる力がつきます。
この自分を信じる力こそ、しなやかマインドセットであり、挑戦し続ける気持ちなのです。

◆しなやかマインドセットの割合が高い人は、目の前の課題や挑戦的なことに対して前向きに、積極的に取り組みます。
その結果、失敗しても、「『今』の私は失敗したけれど、もう一度トライすれば成功できるかもしれない」と気持ちを切り替えて、その経験を肯定的に捉え、次の課題に挑むようになるのです。こうした心持ちになり、それを維持していくには、周囲の人たちや保護者との接し方、特に「言葉がけ」が大きく影響します。

◆褒める際は大げさにせず、結果ではなくプロセスを評価していました。
さらに、その子の持つ能力や才能ではなく、努力したことについて褒めるのが大切です。

◆(悪い言葉かけ)・・子供を大げさには褒めてはいけない
例えば、テストで100点満点を取った子供を「○○ちゃんはすごいね!」と大げさに褒めれば喜ぶかもしれません。
ただ、こうした大げさな褒め方をされると、自分はすごいのだ、できて当然という心持ちになり、さらに自分はすごくなくてはいけない、という考えに縛られます。
すると、自分がすごいという思いを維持するために、難度の上がったテストを受ける際、100点満点が取れないとわかった時点で、取り組むのを放棄したり、諦めたり、言い訳を探し始めたりするのです。子供なりに自尊心が傷つくのを避けるための行為だそうです。
また、自分の「すごさ」を認識するために、他者との比較に頼りがちになります。自分のテストの点数に向き合うのではなく、自分より点数の低い子を探し回ることも少なくありません。

◆(よい言葉かけ)・・次の目標につながる言葉をかける
テストで100点満点を取ったのであれば、「がんばったね」などと声をかけがちですが、子供の受け取り方はさまざまです。
もし、あまり勉強せずに100点をとれた場合、子供は無意識に「これくらいが、がんばることなのだ」と考え、それ以上の努力をしなくなる可能性があります。
つまり、子供がどの程度勉強したかという努力を褒めるのです。
このような場合、「このテストでは物足りなかったかな? もっと難しいことに挑戦しよう」などと、次の目標を提示すると良いでしょう。
もちろん、これ以上できないほど勉強して100点を取った場合は、最大限の褒め言葉をかけてあげましょう。
どの程度勉強したのかがわからなければ、「勉強でどんな工夫をしたの?」などと聞き、子供の話す工夫について、「その方法がよかったのね」といったように、努力や工夫することを後押しする言葉をかけます。
満点が終着点なのではなく、学びの通過点であることを伝えるのが大切です。

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 子どもの努力を褒めるということは、その結果が「努力に値するかどうかを把握する」ことであり、点数で測るより、はるかに難しいことだ。
 当たり前だが、努力を褒める・努力していなければ褒めないためには、日頃の子どもの様子をしっかり看取っている必要がある。
あるいは、「どんな工夫をしたの?」というような対話をする必要がある。
100点取ったから褒めるのは簡単だが、それ故、シロウトの行為にすぎないのだ。教師のやることではないと自制するとともに、日々「次の目法につながる言葉かけ」を模索し、体得していかねばならない。

◆疑問や問題を抱えた子供に対して、先生は、「友達に聞く」「前に自分がどうやったかを思い出す」「周囲に目を向ける」の三つのことを繰り返し促すそうです。こうして子供たちは、自分とその周囲の友達や物事から答えや解決策を見つけるようになるのです。
http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160229/biz/00m/010/008000c

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大事なのは「自信」

 「オズの魔法使い」

 白黒の映画を観たことがあるが、はっきりとストーリーを覚えていない。
 異国に舞い込んだ主人公ドロシーが、様々な困難を乗り越えて自宅へ戻る。その間に、桃太郎の「猿・雉・犬」のごとく「ライオン・案山子・ブリキの木こり」がお供をするといったところだろうか。

 この「ライオン・案山子・ブリキの木こり」について意識してなかったのか、忘れてしまっていたのか、たまたま詳しいストーリーを知って新鮮な驚きがあった。

 ウィキに載ったあらすじから抜粋すると

◆魔女は一行をズタズタに切り裂くため狼たちを送るが、ブリキの木こりが斧で殺す。
魔女は一行の目を潰すため野生のカラスを送るが、カカシが彼らの首を折って殺す。
魔女は一行を刺すため黒い蜂の群れを集めるが、カカシのわらがドロシー、ライオン、トトを隠し、ブリキには刺さらずに蜂は死ぬ。
魔女はウィンキーの兵士たちを送るが、ライオンが直立すると恐れて引き返す。
ついに魔女は黄金の冠の力を使い飛ぶ猿を呼び集め、ドロシー、トト、ライオン、カカシを捕まえ、ブリキの木こりをへこませる。
魔女はドロシーの銀の靴を手に入れることを企て、ドロシーを自分の専属奴隷にしようとする。
悪い魔女はドロシーを騙して銀の靴の片方を脱がせることに成功する。
怒ったドロシーは魔女にバケツの水を思い切りかけると、魔女が溶けてドロシーは驚く。
(中略)
一行がオズの魔法使いに再会した時、トトが王座の隅のスクリーンを倒してしまうと魔法使いが現れる。
彼は平凡な老人の詐欺師で、だいぶ前にネブラスカ州オマハから気球でオズにやってきたと申し訳なさそうに語る。
魔法使いはカカシに糠、ピン、針を詰めた頭を、ブリキの木こりにはおがくずを詰めたハート型の絹の袋を、臆病なライオンには勇気が出る薬を与える。
彼らは魔法使いの力を信じているため、これらをもらって喜ぶ

・・・「ライオン・案山子・木こり」は、オズから魔法をもらう前に「勇気・知恵・ハート」を発揮している。
元々魔法を持たないオズは、この3人に偽物の魔法で自信を与えたにすぎない。まさに「プラシーボ効果」だ。

 次のサイトでは、3人は既に「「勇気・知恵・ハート」を持っているのだが、自信を持たせるためにオズが手を打ったと説明している。

◆オズは、かかしが賢く、木こりに心があり、ライオンが勇敢なことを知っていたので、彼らの願いを聞く必要はないと思いましたが、3人は願いを叶えてくれと聞き入れません。
そこでオズは一計を案じ、彼らに作り物の脳みそや心を与えて、自信を持たせてあげました。
いまだオズの魔法を信じている3人は、オズが願いを叶えてくれたことに満足し、自分たちの脳みそ、心、勇気にすっかり自信を持つようになりました。
http://karakuchi-info.net/education/novels/oz/

◆しかし、オズの魔法使いはカカシ、ブリキのきこり、ライオンに、欲しがっているものは、もうすでに持っているということに気づかせてあげます
3人に足りないのは、知恵、心、勇気ではなく、それらを自分が持っているという自信でした。
オズの魔法使いはそれを目に見える形にして与えたことで、自信を与えたのです。
http://akinori-entame.net/wp/2016/08/15/oz/

・・・自分が持っている長所、自分が獲得した長所なのに「まだまだ自分には足りていない」と思えることは多い。
自分の長所に無自覚なのはもったいない。
 だから、暗示的なアドバイスでもいいから、第三者がうまくその気にさせてあげたい。「オズの魔法使い」には、そんなメッセージもあったんだな。

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