October 20, 2020

嫉妬を超えて祝福できるのが、真の友達


6年道徳「コスモスの花」は、初めて見る題材だった。


光村の指導計画には次のように書いてある
 

◆いじめを許さない心
【友達だから】 B(10)友情,信頼  13 コスモスの花

◆いつもは目立たない北山が,花を上手に生けたことで友達から 称賛され,それを快く思わない「ぼく」の姿を通して,友達とは どんな存在なのかについて考えさせ,真の友情を育て互いを尊重し合うよい関係を築いてい こうとする判断力や心情を育てる。
 

★友達とは,どんな存在なのだろう。

1 友達とよりよい関係を築くにはどうすればよいか,「コスモスの花」と「泣き虫」を通して考えていくことを知る。 

2 「コスモスの花」を読み,「ぼく」が北山に初めて抱いた 「北山なんて――。」という気持ちにはどんな思いがこもっているかを考える。

3 「ぼく」は,どうして「やめろよ――。」と言ったのかを考える。

4 友達とは,どんな存在なのかを話し合う。

5 「つなげよう」を読み,友情について描かれた本があることを知る。

6 P92「学びの記録」に記入する。

【道徳的価値の理解を基に多面的・多角的に考える】 

「友達とはどのような存在か」について,さまざまな意見を 聞き,自分の見方を広げている。

【道徳的価値の理解を基に自己の生き方について考える】 

友達とはどのような存在なのかについて自分なりの考えを もち,友達とよりよい関係を築いていきたいと考えている。

https://www.mitsumura-tosho.co.jp/kyokasho/s_dotoku/keikaku/30d_nenkei6.pdf

 

これは「いじめ」を扱っているの?

◆「ぼく」は、最初、北山を批判していたのに、みんなが批判したら急に「やめろよ」って、どういうこと?


という疑問を感じる内容だった。
実習生の授業を見ながら、結局本時では何を教えればいいのか良く分からなかった。
少なくとも、実習生は、ごくありふれた「真の友達」を自由に言わせたかっただけだ。


しかし、この作品を、自分の体験(仮想体験)で置き換えてみたらストンと腑に落ちた。
 

もし、一緒に野球をしている親友がレギュラーになり、自分はなれなかったとき、素直に祝福できるか
 

難しい。
だれにも、嫉妬とかやっかみの感情はある。
友達だけが称賛されているのを見て、心から祝福できるほどの度量が自分にはない。
 

本当の友情とは、「自分より優れた点のある相手を素直に受け入れること」だ。
 

「その子も良さを心から祝福できる、応援できる」そんな自分でありたいと今でも思う。

勝間和代の提唱した「三毒追放」を思い出す。

・妬まない・怒らない・愚痴らない

なるほど、たしかに誰の心にも「妬み」はある。
しかし、それを否定すると、妬みを抱いた自分が嫌になってしまう。
嫉妬した自分を責めるのは、酷だ。
 

「妬み」をゼロにしなくても、「称賛」する気持ちを表に出せばそれでいい。
「withコロナ」と同じ、「with 妬み」。三毒とも共存していけばいい。

元々、人間は弱い存在だ。思っていてもできないことが山ほどある。
 

教科書会社の本意ではないかもしれないが、この資料で友情を扱うなら、自分はそこに焦点を当てるだろうと思った。
 

「困っている時に助けてあげるのが真の友情」


というありきたりのメッセージを送る授業ではなく、
 

「相手の素晴らしさを心から応援できるのが真の友情」


を実感させる授業になるように仕込みたい。

それは多面的な価値を考えさせる授業ではないが、自分の持っていない価値観に触れる授業にはなると思う。
授業をやる以上は、明確な意図をもち、自分の願いをぶちけたい。


 

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October 11, 2020

虚礼は要らないが、ハレの舞台は要る!

コロナ禍で、多くの学校行事がなくなり、会議や会合がなくなった。
虚礼廃止の意識は、ますます強くなり、形式だけの集会は要らなくなった。

行きたくないのに無理矢理参加させられるような会議や宴会がなくなって、ラッキーではある。

「虚飾」はなくなり、「実」だけが残る風潮だ。

しかし、一方で、何でもかんでも廃止にしてよいのかという疑問もある。

歓送迎会で言えば、退職した先生に最後の挨拶すをる機会がないままになってしまったことは心残りだ。
形式だけの会であっても、そこでしか会えないような方もいて、それなりに価値はあったのだ。

甥っ子は4月に結婚式を挙げる予定だったが、延期したまま保留。
本校職員も来月入籍するが、式は全く未定。
結構式なんて要らないという人にとってはいい風潮だが、きちんと披露したい方にとっては残念だ。


「ハレの舞台(イベント)」というのは、

・子供を成長させる、
・気持ちを切り替える(気持ちの節目をつくる)
・成功体験を積む
・人前に立つ機会を積む


といったメリットがある。
大きな舞台に立った経験があるかないかは、その人の将来に大きな影響を与える。


本校で行った運動会の代替えとなる体育授業参観は、簡素なところが好評であった。
では、次年度も簡素化でよいか、学校なりの「ハレの舞台」を設定しなくてよいか、となると少し迷ってしまう。

少なくとも、高学年の演技を低中学年が見る機会をどこかで設定すべきだった。
参観当日は保護者で埋まるから、他学年は応援できない。
しかし、前日を、全校リハにすれば、子供たちは他学年の演技を観て刺激を受けることができたのだ。

虚礼は要らないが、「ハレの舞台」は要る。
そこはきちんと意識していきたい。

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September 19, 2020

Google for Education 事務局主催の「GIGA スクール構想実現に向けたオンラインセミナー」

Google for Education 事務局主催の「GIGA スクール構想実現に向けたオンラインセミナー」

  〜愛知県春日井市の事例から学ぶ,クラウド活用を点から面に広げる教員研修と授業実践〜  

 
9月19日(土)に開催された。

今日はZOOMではなく、YOU TUBEライブ配信(Google主催だからZOOMのはずはないか)。

発表された先生方、お疲れ様でした。

13:15 - 14:00 愛知県春日井市 事例紹介
14:00 - 14:15 Q&A セッション
14:15 - 14:45 まとめ  東京学芸大学 教育学部 准教授 高橋 純 氏
 

同じ春日井市でも、先進校は


◆1人1台環境が整い、
◆各自がGoogleアカウントを入手し、
◆G Suite、クラスルーム、チャット機能、グーグルフォーム、スプレッドシート、Jamboardを活用している

という様子が報告された。

先進校とはいえ、勤務するのはフツーの先生方だ。手探りで1つずつ実践を積み上げてきたことがよく分かる。
ただ、今後、先進校の実践報告や市の指示を待つのではなく、「できることから学校が独自の判断で進めていく」ことが大切なのだと実感した。先進校を羨ましく思ったって、仕方ないのだ。

市内の通常の小学校は、10月に5・6年生の全児童分のクロームブックが配付される。
どうせ全員分ではないのだからと、他学年の担任が気を緩めていると手遅れになる。
Googleの機能について、できる先生とできる先生の格差が小さい今だから、みんなで、手探り状態を助け合うことが可能になる。

子どもが活用する前に、職員が少しでも触れておき、先進的に取り組んだ先生の実践を共有していければと思う。

ちなみに、ZOOMの職員研修以外には何もアクションを起こしてこなかった本校だが、まずは、「後期児童会役員選挙の立会演説会をオンラインで行う」という企画をきっかけに、職員全員の意識改革を進めていく動きがある。来週、各教室での動作環境を確認することになっている。

「子どもに活躍の場を与えたい」が、職員を動かす格好のモチベーションになっている。

さて、今日の高橋純先生の総括で印象的だったのは、

①「たまに」ではなく「日常的に」
②「1人の先生」「1校」だけ先進的にすることよりも、地域全体での活用を
③高度なICTが日常に溶け込むかどうか、だから「使うか使わないか」の問題ではない。

「トケコミ」というカタカナ表記の言葉に、重みがあった。

一番の学びは、

◆GIGAスクール構想は本来「個別最適化」のためだ。

しかし、すぐに実践で使えそうなのは、「共同作業、共同編集、チャットによる意見交換(感想の添付)」などだ。

ということ。
互いの意見を交換する速度、互いの意見を取り入れて一つにまとめる速度が、圧倒的に変わる。

つまり「集合知」の効率化だ。

1人1台のパソコンが配付されると、ますます他者交流が深まるというのは、逆転の発想だった。

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ITソリューション 堀田龍也先生の講演

9月18日(金)14:00から、幕張メッセで行われたITソリューションの堀田龍也先生の講演に、オンラインで参加した。

ELMO主催の講演であったので、実物投影機の有効活用がメインになった。

この実物投影機の活用を主とした堀田先生のお話は、「IT技術と教育技術の融合」「アナログとデジタルの融合」という点で、すごく良かった。
ただし、翌日視聴した高橋純先生の言葉で言うと「擬似一人一台活用」の産物という点で、実物投影機というツールは、いずれ時代遅れになるかもしれない。
 

「ITの技術と教育の技術の融合」
 

実物投影機の使用注意でよく言われるのが「MAX ズーム=できるだけ大きく見せよ(余分な部分は見せるな)」だ。

教室の最後尾から見ると文字が小さくて見えない・画面が歪んでいるというのは、いくらITの技術があっても、教育の配慮はない・授業として成立していないことを象徴的に表している。「子供から見たらどうか」の配慮は、ICTの性能云々の問題ではないのだ。

若い先生は、ICTのスキルは高いが、教育的配慮の足りないことが多い。
ベテランの先生は、ICTスキルは低いが、教育的配慮の高いことが多い。
だから、職員研修を深めることで、若い先生がベテランの配慮を学ぶ絶好の機会になる。

「アナログとデジタルの融合」

「テクノロジーは変わっても、学習は変わらない」という指摘も腑に落ちた。

◆「お隣同士でノートを見せ合って話し合う」という学習が、今後PCになるだけのこと。
◆分かりやすくノート(アナログ)でまとめる学習が、今後PCになるだけのこと。

子どもが説明する(言語化する)スキル、人に分かるようにまとめるスキルは変わらない。
ノートや話し合いなどの「学び方習得の指導」は、デジタルになっても変わらないということなのだと理解した。

学び方を身につけさせることは、自分で行動できる子を育てる。まさに「主体的・対話的で深い学び」のできる子の育成だと堀田先生が言われた。
堀田先生が言われた「学び方が身についていれば、オンライン授業が成立する」というのは、裏を返せば「学び方が身についていなければ、オンライン授業が成立しない」という意味でもある。
堀田先生がTOSSを応援する理由がここにある。


※おまけ   過去ダイアリーより抜粋

昨年12月に名古屋で行われた堀田龍也先生の講演。
テーマは「AI時代の学校教育」。
以下、自分の文責でまとめる。

「手書きで書けなくはないよね」「紙でもできるのになぜICTを使わなければならないのか」「ICTを使わなくてもできるよね」と言ってしまったら、何も変わらない。

スマホで利用しているグーグル検索も地図アプリもオンライン予約も、昔はスマホがなくても可能だった。スマホがなくてもできるけど、あると便利。
ICTは、今までできなかったものがやりやすくなるための「道具」だ。

ICTが導入されたから、いきなりスキルが身につくわけではない。
ICTが学力を上げるわけでもない。
タブレットを見ながら相談する授業が成立するには、その前にお隣同士でノートや教科書を見合う授業が成立していないと無理だ。
スクリーンのデータを示しながら説明する授業が成立するには、黒板で説明する授業が成立していないと無理だ。
ICTは道具にすぎない。しかし、それでもICTに取り組む意義がある。

授業のまとめで毎時間PC入力させる学校があったが、もし、入力に不慣れなままなら、5文字打ってチャイムが鳴ってしまう。いつまでも、そのレベルではPCを使う意味はない。
でもやり続けているうちに授業のまとめが打ち込めるようになる。そうなったら、手書きノートとは全く違うさまざまな可能性が出てくる。時間はかかっても慣れてくれば、能力として活かせることができる。それが基盤能力。

使いこなせないうちは、基盤能力にならない。
やっていくうちにリテラシーができる。仕事ができるようになる。生活が便利になる。
だから、「紙でできることも、あえてICTで取り組む」には意味がある。

◆「『これからの教室』のつくりかた」で、堀田龍也先生の見解が示されていた。

こういうタブレットなどについて、「別に紙でもいいじゃないか」という議論は当然あります。もちろん、紙でもいいです。でも、やり直しができなかったり、色が付けにくかったり、あるいは、どのグループがどういう書きぶりで今書いているかを一瞥できなかったりします。タブレットだったら、授業支援システムでパーっと見られたり、ログに残ったり、再利用できたりということができる。そういう意味で、現在は「紙でできることを、何でICTでやるんだ」というひとがいるけれど、これからは逆に「ICTでできることを、何で今も紙でやってるの?」と、そうなると思うんです。(中略)

お互いの情報や考えていることを共有する。これは、ちょっと前まではこのように紙でやっていたわけですね。だから何も変わらないんですよ。この画像の左奥の子はタブレットでやっているんです。つまり、どっちでやってもいいんですよ。
ただ、タブレットでやると記録が残り、再利用ができるということですね。「前の理科の実験でも似たようなことがあったな」って言って、それを探して、「あのときこうだったよね、今回もこういうふうにやればいいと思います」みたいなことを、子どもが仮説的に言ったりするようなことが出てくる。「一人一台タブレットを持っていた方がいいんじゃないの?」と言われる所以は、過去の学習内容と今の学習をつなげて考えていくことがしやすくなるからです。
p82~84

・・・自分のうまく伝えられなかったことを、こんなにきちんと表現していてスッキリする。次ページには次のような発言もある。

ICTのほうが全然便利なのに、それをしないことを良しとするみたいなことがある。このことは若干、罪ですよね。だって子どもたちは日頃、デジタルコンテンツをたくさん触っているのに、学校に来たときだけ昭和のやり方をしなきゃいけないんですから。p86

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September 18, 2020

教育における「父性」と「母性」のバランス

 

「学校でもっと厳しくしてほしい」と保護者から言われることがある。
 
「父性」と「母性」の発揮の仕方が問われているのだと思う。
 
父性度の高さは例えば次のような傾向に現れる。
①妥協しない。簡単に許さない。
②ルールは厳正に守らせる。
③子供が乗り越えるための壁になる。
 
母性度の高さは例えば次のような傾向に現れる。
①まずは受け止める。受け入れる。
②厳しく叱らない。
③教師の穏やかで優しい対応が、しなやかな学級を育てる。
 
それぞれ短所もある。
 
父性的な先生は、大声で叱責し、威嚇するから、子供が怖がっている」というような苦情を受ける。
母性的な先生は「優柔不断で結局許してしまうから、しまりがない。子どもがわがままになってきた」というような苦情を受ける。
 
自分の傾向を知り、両方を使い分けることが大事だと言われているが、どの先生も自分の逆の立場からの批判を受ける可能性があると覚悟しておくとよいのかもしれない。
教師がチームになって、父性と母性の役割分担をすることが大事だと言われるが、学校の傾向としても、我が校が父性的か母性的か、分かれるのではないだろうか。
 
子供を受け入れて安心させる母性型の指導は、子供に嫌われることもないので実行しやすい。しかし子供が好き勝手するようになると歯止めがきかなくなる。
 
小学館の「小三教育技術」2017年10月号では次のような注意事項が述べてある。
 
【父性タイプの教師】
×強すぎる大声は子供を委縮させる。
×厳し過ぎるとクラスのムードがピリピリすることも。
×最近の子供は忍耐力がないので要注意。
× 干渉しすぎも子供が嫌う。
 
【母性タイプの教師】
×まずルールの守れないような子供にしてはならない。
×見守りすぎて手遅れにならないように。
×ときには理屈も出さないと、信用されない。
×許してはいけないことを見逃さない。
 
・・・バランスの問題ではあるが、今回は、保護者から担任の対応が「甘やかし」との批判を受けた。
「父性」の指導が足りなかったのだ。
 
厳しい保護者が求めるような「力の指導」をしろということではない。
 
向山洋一氏の言葉で言えば

「子供の中に権威を打ち立てよ」

だ。

「権威である。権力ではない。権力(たとえば腕力で)打ち立てた力は弱くもろい」と但し書きがある。
 
◆アドバルーンを叩く
◆ダメな場合はきちんとやり直しをさせる
 
といった指導の一貫性をこころがけ、子どもに不安や不信を抱かせないようにする。
その程度の「父性」を発揮しなくては、教室を統率することはできない。
なめられるような行為を繰り返せば、子どもが「この先生は、なめてかかってもいい」と誤学習するのは当然なのだ。

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September 09, 2020

2つ以上の例を調べないと、科学ではない。

算数の授業参観ダイアリーの続き。

平行四辺形の特徴を調べるために、教科書には2つの図形が示してある。
計測結果を書き込みできるようにと準備したプリントにも2つの平行四辺形が載せてある。
子どもには2つの平行四辺形について取り組ませていたが、教師がまとめる段階では1つの図形しか扱わなかった。

「そうだね、向かいあった辺の長さは同じだね。」
「向かい合った角の大きさも同じだね。」

・・・これは科学的におかしい。

1つの図形の辺と角を調べて、平行四辺形の普遍的な特徴を断定できるはずがない、
たまたまその図形だけに言える特徴かもしれないからだ。
2つの図形で計測するから、共通した特徴を見出すことができる。

「あ」の図形で言えた特徴を、「い」の図形でもあてはまるかを検証するから、意味があるのだ。
「あ」と「い」の2つの図形でも信じられなかったら、別の図形を持ってきて検証すればいい。

教科書にある「2つの図形」には意味がある。

時間の都合で1つで終わらせてはいけないのだ。

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「調べる」を「見える化」する

4年生の算数の授業を参観した。

「平行四辺形の辺や角の大きさを調べ、性質について理解する」

本時の目標は「辺や角に着目して、平行四辺形の性質について調べたり説明したりしている」

黒板に書いた本時のねらいも「辺の長さや角の大きさを調べて、平行四辺形のとくちょうを見つけよう」

2つの平行四辺形の載ったプリントを配付して作業を促した。

プリントの図形に計測した数値を書き込むものと思っていたが、多くの子は、その書き込みがなかった。

指導案では「特徴を調べる」「特徴についてみんなで話し合う」とあり、「計測する」と明記してない。

つまり、先生自身も「計測させる・計測した数値を書き残す」という強い意志がなかったのではと思う。

辺の特徴を調べるのに、定規ではなくコンパスを使わせていたが、これは、数値の計測より、どこが等しいか調べることが主眼だったからだ。

この授業における「調べる」は、次の3点が主になる。

①計測する 

②計測した数値を見比べる 

③計測した数値から言えることを考える 

 記入された数値をみれば、同じ数値があるから、色分けしたり丸で囲んだりすれば、個々の「気づき」を促すことができる。

 

本時の「調べる」行動を「見える化」するには、まずはプリントに「計測した数値を書き込む」が必要だった。

全員に数値を記させて、全員に気づきを考えさせる・・これが、本時の「全員の原則」だ。

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学習のまとめは「わかったこと」しかダメなのか?

ある学年の理科の学習プリントを見たら、実験の後に「わかったこと」を書くことになっていた。

記入内容は「わかったこと」でなくてもよいのでは? と思う。

①分かったこと。

②分からなくなったこと。

③疑問に思ったこと・解決してみたいこと。

④家で調べてみたいこと。

⑤今度の授業で実験したいこと。

などを書いても良いことにすればいい。

 

「分かったこと」だけを書かせると、お利口さんしか活躍できない。

「分かったこと」以外に、面白い疑問や課題を書いた子がいたら、みんなの前で発表してあげれば、他の子にも波及する。

 

せめて 記入欄を「分かったことなど」にして、思ったことも含めて自由に書かせると、人と違った発想をする子が活躍できる。

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August 14, 2020

「想定外を生き抜く力」は教育によって培われる 〜情報リテラシー〜


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2011年5月の雑誌WEDGEが出てきた。東日本大震災を扱った1冊で、特集タイトルは「『想定外」を生き抜く力」。

◆岩手県釜石市では、市内の小中学生、ほぼ全員が津波の難を逃れた。多くの者たちは、これを「奇跡」と呼ぶ。しかしそうではない。教育で子供たちが身に付けた対応力が「想定外」を乗り越えさせた。

という片田敏孝氏の特集記事は

「奇跡」という言葉は「思考停止」につながる

ことを教えてくれた。いつか来る災害に備えて防災教育を重ねてきたからこそ、多くの学校で避難ができた。
そのことを、今の「コロナ騒動」に置き換えたら、何が言えるだろうか。

(1)新型コロナウイルスについては、当初より「正しく恐れる」と言われてきたが、今は明らかに「正しく恐れる」を逸脱している。大半が無症状の感染者数なのに、連日の数の多さに大騒ぎしている。死者や重症患者の数で言えば熱中症の方が心配ではないか。

(2)今のような「コロナ騒動」を防ぐには「情報リテラシー」が必要である。
  「正しく恐れる」ができないのは、「ペスト流行」や「魔女狩り」まで遡るから、日本だけの問題ではないし、今に始まったことではない。動物は噂に惑わされないから、これは人間にとって極めて根源的な問題なのだろう。今回だって、マスク、トイレットペーパー、ヨードうがい薬が品切れになっており、いかに情報リテラシーが欠けているかがよく分かる。

(3)ネットでは「芸能人のコメントはいらないから専門家の見解を聞きたい」とか「こういう(逆の)意見があることをマスコミはきちんと流すべきだ」というコメントがある。マスコミの報じ方がバランスを欠いているのだから、我々は自衛策を取らねばならない。
 先の「WEDGE」には「ハザードマップを信じるな」とも書いてある。P33

防災教育の総仕上げとして子どもや親に教えた事は、端的に言うと「ハザードマップを信じるな」ということだ。ハザードマップには、最新の科学の知見を反映させた津波到達地点や、安全な場所が記されているが、これはあくまでシナリオに過ぎない。最後は、自分で状況判断し行動し、行動することの大切さを伝えたかった。

・・・トレースしたら「マスコミ報道を信じるな」となる。マスコミの情報に惑わされるのも自己責任だが、少なくとも芸能人コメンテーターの言葉を疑ってかかる世の中でありたい。

(4)だからこそ、教育の重要さ(批判的思考力の重要さ)が問われている。
「教科書や資料集、教師の言うこというが全て正しい」などと教えてはならないし、重要な話題については多面的に情報を収集する習慣を教えねばならない。

WEDGEには、次のような記述もある。P33
 
◆どれだけハード整備しても、その想定を超える災害が起きる。最後に頼れるのは、一人一人が持つ社会対応力であり、それは教育によって高めることができる。

「教科書だってあてにならないぞ」という小さい頃の体験があれば、テレビや新聞の報道もちゃんと疑ってかかることができる。
「正しく恐れる」が可能になる。

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新学習指導要領が求める「クリティカル・シンキング」

出口汪氏が「メデイア・リテラシー」について書いた記事のコピーがある。

◆世の中で起きていることを、テレビや新聞、インターネットなどを通じて知るわけですが、このメディアから送られてくる情報には必ず発信者がいます。発信者の背後には、ときには何らかの権力構造が存在したり、巨大なスポンサーの力によって支配支配されていたりして、様々な形で情報ソース情報操作が行われ、情報の受け手をミスリードしようとすることがよくあります。それをそのまま受け入れてしまうと、その人の人生に禍根を残すことにもなりませんなりかねません。
 
メディアから送られる情報を無防備に鵜呑みにせず、その真偽をしっかり確かめて、必要な情報を取捨選択する能力、つまりメディアリテラシーがこれからの社会には大切であって、これも子供の頃から教育する必要があります。
 「小四教育技術」2017年2月号。


この記載の前段階として、今の学習指導要領で求められている「思考力・判断力・表現力」にどう対応するかの主張がある。

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◆文部科学省が従来からモデルにしている欧米の考え方「クリティカル・シンキングとは、ある問題について、主観を交えずに客観的に様々な角度から分析して、複数の可能性から相対的に適切なものを選ぶ能力のことで、次期学習指導量ではこの要素がさらに強まるとされています。文部科学省はとくに、答えのない問題への対処や、複数の正解があり得る問題で最適解を導き出す能力などを重視するということですね。
 
つまり、教科書に答えがあって先生が教えてくれることを何ら疑うことなく頭に入れて答えればいいという、これまでのやり方とは真逆な教育になるということです。

自分自身で考えていく過程で、ひょっとしたら答えが見つからないかもしれない。あるいは複数の答えが現れるかもしれないという学習が導入されるわけですが、こういう事は現実社会で生きていると当たり前に遭遇する問題ですよね。世の中で起きている事柄、我々が直面している問題には絶対的な正解は存在しないわけですから、極めて現実的な学習であるといえます。
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 メデイアリテラシーの根本は「クリティカル・シンキング」だ。

「三密を避けよ」は正解かもしれないが、そんなの関係ないという人もいる。
「パチンコ・満員電車は危険」は正解かもしれないが、お互い黙っていれば大丈夫という人もいる。

 ロジカルに考えられないと、主張の矛盾を見抜けない。 クリティカルに考えられないと、特定の情報に踊らされてしまう。
「木を見て森を見ず」では、さらに大きな危険を招いてしまう。

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