October 15, 2017

ワークライフバランスについて (清書版)

 このところ、何度か「ワークライフバランス」について書いてきたが、いったん清書の形でまとめてみる。

 働き方改革は現代日本の直近の課題であり、学校現場でも80時間・100時間といった超過勤務をどう改善するかが課題になっている。
 部活動と生徒指導にあけくれる中学校では、よく「セブンイレブン」と言われてきた。
 小学校でも、8時前に出勤して6時過ぎに帰るのはまだ早い方で、夜7時でもまだまだ帰れない(帰らない)先生が多い。

 教員の場合、残業手当が欲しくて残業しているわけではないので、まずは残業手当はもらえる業種とは分けて考えないといけない。多くの場合は、残業を命じられたわけではなく、今日の仕事の整理・明日の授業準備のような「自主残業」である。保護者対応が、夜になることも、よくあるケースではあるが。

 その上で、本音で言うと次のようになる。

(1)超過勤務は、時間超過ではなくストレス超過で判断すべき。

 勤務時間が終わったからといって、明日の準備が終わっていなければ、それは多くの結局「ストレスの持ち越し」になる。
 今日の後始末と明日の準備を終えてスッキリして帰宅するから、自宅でもしっかりリラックスできる。熟睡もできる。
 「ドラゴン桜」でも似たような指摘があった。
  やるべき課題があるのに気分転換をしたって、気になって楽しめない。だったら、やるべき課題をきちんとやり終えた方が結局は気分がスッキリできるのだと。
 つまり、定時退勤と残業とどちらが「ストレス」かは、個々によって異なるのだ。
 本校でも、土曜・日曜に自分の都合のいい時間にふらっと出勤して残務整理したり授業準備したりして帰っていく先生が多い。
 学校に来て数時間仕事をして、その方がスッキリするなら、それ残業禁止するよりも、むしろ有用なのだと思う。
 体をむしばむかどうかは労働時間で決められるわけではなく、ストレスを感じるかどうかがなのだ。

(2)好きなことに熱中するなら、いくらでもやっていられるし、それは「ノンストレス」である。

 授業の準備が好きな教師、「よりよい授業を創ろう」と日々励んでいる教師にとっては、それは、まさに「ライフワーク」なのだから、ライフとワークのバランスなど無意味である。
 むろん、根を詰めすぎて体を壊してはいけないが、やりたくてやっているのならそれはノンストレスであり、やりたいことを無理矢理制限される方がストレスになるのだ。
 そのことを、落合陽一氏は、「これからの世界をつくる仲間たちへ」(小学館)の中で、次のように述べている。

◆ワーク・ライフ・バランスが問題になるのは、「好きなこと」「やりたいこと」を仕事にしていないからです。
解決したい問題がある人間、僕だったら研究ですが、そういう人は、できることなら24時間、1年365日をそれに費やしたい。
(中略)ワーク・ライフ・バランスなんて考えたこともないし、その概念自体が僕には必要ありません。P164


 「ライフワーク」を検索していたら、「3つのワーク」が出てきた。
 
〇お金のため、ごはんを食べるために働く  [ライスワーク]
〇その仕事が好きで働いてる          [ライクワーク]
〇自分の使命だと思って働いてる       [ライフワーク] 

https://matome.naver.jp/odai/2139626309369150501
http://menzine.jp/job/raisuwaku5575/

 ライスワークなら、定時退社して自分の余暇を充実させればよい。
 ライクワークやライフワークは、時間を気にせずに没頭していたいのだ。熱中してやり続けている人を無理矢理、退社時間で追い出すのは合理的ではない。
 
(3)いやいや仕事を選んだ時点で、毎日がストレスになる。

 興味のないことを強いられると、たとえ1分でも耐えられない。
 ライスワークを否定はしないが、やりたくもないことを仕事にしている人はいくら定時退社を守ったとしてもストレスはたまる。
 好きで教師をやっていれば、家へ帰ってテレビを見ながらでも「あ、これは授業に使えるな」と思う。
 家へ帰ってまで仕事を考えるなんて、という考えもあるが、教職が「ライクワーク・ライフワーク」で、趣味が「教材研究」なら、四六時中「教材研究」について考えることは楽しいことであって、むしろストレス解消につながる。

 やりたくない仕事を勤務時間の範囲内で無理無理こなしている人と、楽しくて仕方ない仕事に没頭している人を同等に扱うことはできない。 
 あえて言うならば、教師という職業を「ライスワーク」で選ぶとしたら、コスパが悪いからお勧めできないということだ
 超過勤務を大前提にするわけではないが、好きでないとやってられない職業の1つではあると思う。


 とはいえ、実際は授業作りや学級づくり以外の雑務のような処理に時間がかかることが多い。これは誰にとってもストレスになりやすい。おそらく一番のストレスが生徒指導・保護者対応である。
 クレーム処理は企業では専門部署があるくらい手ごわい仕事である。日々の授業準備や子供への応対に追われる若い先生に、さらに保護者対応まで求めるんは、かなり「酷」なのだと思う。
 ドクターXみたいに、医師免許の要らない仕事は「いたしません」と言い切れたら、どんなにストレスフリーだろう。「ここから先は管理職・カウンセラー・警察・弁護士が対処します」と事務的に切り替えることができたら、どんなにストレスフリーだろう。
 たとえば、自主的に土曜日・日曜日に出勤している時に学校に電話がかかってくることがあるし、平日も朝7時、夜7時に電話があることがざらである。
  勤務時間外の電話は当然無視することもできるのだが、場合によっては職員駐車場や職員室の照明を確認して、いると分かっていて電話をかけてくることがあるので、電話拒否はなかなか難しい。
 「業務時間は終了しました」と断れたら、どんなにストレスフリーだろう。
 せめて学校の電話が「着信履歴」と「留守番電話」があれば、余分なストレスはずいぶん削減できるだろう。地区にもよるだろうが、少なくとも春日井市内の学校の電話にはその機能はない。
 また、銀行のように対児童の業務を3時に終えて、5時までは残務整理に没頭できたら、どんなに効率的だろう。

 教師が本来の業務に集中できるような業務改善を進めてほしい。労働環境がブラックなままでは、人材が集まってこないからだ。

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September 02, 2017

AI時代には、「学び」と「遊び」の区別はなくなる

  「遊び」に向けられた意欲のエネルギーを「勉強」や「仕事」にも転用でいたらいいのに、とよく思う。
 「楽しい」「好き」「フロー」の力は強いのだ。
 「『やる気を出せ!』は言ってはいけない。」石田淳著(フォレスト出版)には次のような記述がある。

◆根本的には、「仕事は面白い」「楽しい」と思わせ、それを習慣化させることが重要なのである。
 部下の行動が自発的になり、それを習慣化していく。これが、行動科学マネジメントの考え方なのである。p73

・・・自分から「やりたい」と思っている社員が成果を上げるのに対して、「ねばならない」と思って仕事をしている社員は成果が上がらない。「行動自発率」が異なるからと言うのが筆者の主張だ。

 さて、ここまでは、昨年度の覚え書きである。
 今夏は、ここに「知的好奇心(中公新書)」を受けての考察が加わった。

 「遊び」には義務はない。それでも夢中になれるのは、「楽しいから」あるいは「自分の役に立つから」だ。
 しかし、学校に通い「学び」が義務になってしまうと、とたんに意欲がなくなっていくことが多い。
 「趣味」を「仕事」にした途端、楽しさが奪われてしまったという大人も多い。
 内発的動機付けの要素で言えば、

(1)そもそも、与えられた「学び」は、「自律性への欲求(自己決定したい)」が満たされない。
(2)自分の興味のない分野で、何かができるようになったとしても「有能感」を自覚できない。

 本来「遊び」と「勉強」は対立しない。
 だからこそ、子どもたちが遊びの中で「面白そうだな」「もっとやってみたいな」と夢中になる要素を分析し、それを授業に生かしていかないといけない。

 リクルート次世代教育研究院が手掛けた5月のシンポジウムの報告の一部を読むことができた。

シンポジウム『人工知能(AI)社会における「生きる力」とは何か?』
https://ring.education/2017/06/06/tokyo_gakugei_recruit_symposium_20170514/

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「教育の未来予想図 〜Life with AI〜」
1. 「生きることを面白くする人間」を育てる
AIに提供されるだけの生活ではなく、AIを使うからこそ「面白い」が未来のトレンド。
今後は、「学び」と「遊び」の区別がなくなり、「生きることを面白くする」姿勢が求められる。

2. 「自己活用力」がこれからの教育キーワードとなる
「自己活用力」とは、状況に応じて自己を活用し、他者と世界を共創する力。
AI時代は、データを読み解いて、自分の視点から考え活用することが求められる。

3. 新たな教育メソッドは”Just in Time Teaching”になる
学習者の主体性を尊重するファシリテータとしての先生像が求められる。
「あれもこれもいつも」から「必要なときに、必要なものだけを、必要なだけ」の Just in Time Teachingへ。

(後略)
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 29年8月21日付の「教育新聞」に、リクルート次世代教育研究院長小宮山利恵子氏の連載があって、このシンポジウムの内容に触れていた。

◆AIに提供されるだけの生活ではつまらない。AIを使って「つまらない」のではなく、AIを使うからこそ「面白い」が未来のトレンドになると考えている。
 「面白い」から見れば、「学び」も「遊び」も同じはずで、AI時代には、「学び」と「遊び」の区別はなくなる。そして変化の速い社会で職を得るには、新しいことを学び続ける必要がある。そのような状況を考えれば、学ぶことと働くこととは今後、より密接に結び付き、ほどなく同じものになる。
 つまり、「学び」「遊び」「働く」、これが同時並行的に、一体となって行われるのが普通になる日も遠くないと考えている。

・・・AIを使うことで「遊ぶ」「学ぶ」「働く」が、「面白い」という観点で一本化できるということか。
ただし、これらの記述だけでは十分に理解できない。
AIという言葉に惑わされて、全てを鵜呑みにはできないので、もう少し文献にあたってみないといけない。

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August 27, 2017

「遊び」と「勉強」は対立しない

 昨日、中公新書の『知的好奇心』を取り上げたが、元々は「遊びの効用」についてメモしていたからだ。
 子ども科学教室に参加してる子どもたちは、遊びと学習を区別していなかっただろう幼児は、遊びと学びを区別することなく日に日に知識や生活能力を獲得していく。

◆もともと「遊び」は、新しい技能の獲得や習熟と結びついている。遊んでいる人間や動物にとっては、それは自己目的性を持つのだが、結果として能力がのびていないかぎり、遊びの楽しさは急速に失われれいくらしい。
 たとえば、人間の幼児に新しい技術を獲得するたびに、その技術を用いること、自分の能力を示すことに喜びを感じるかのように、あるいはそれによってもたらされる新しい情報を楽しむかのように。それをあきることなく繰り返す。これは、それに関係した機能にとって、絶好の練習の機会となる。というのあ、この繰り返しが、喜びを持って行われるからだ。
 はじめて自転車に乗れるようになった子どもは、それがうれしくて、どこにでも自転車に乗っていきたがる。これは一つには、人に見てもらいためであろうが、それ以上に自分の獲得したばかりの能力を発揮したいからなのである。だれに注目してくれなくとも、自転車に乗って走ること自体が、その子どもにとっての遊びであり、新しい感覚と有能さの自覚を通して大きな喜びをもたらす。そして、同時に、その子どもの自転車乗りの技術は、いっそう確実な、安定したものになっていく。
(中略)人間が遊ぶ能力を失わない、というのは、こう考えると大変すばらしいことといえる。一方ではそれは、人間が一生涯学習能力を持ち続けることを意味している。また逆に、人間は遊ぶおかげで、種々の能力をますますのばしていく機会を持つことになる。(P73/74)


◆子どもは、適度に新奇な物に出会うと、積極的にそれに近づいていってくわしく調べてみようとする。疑問に感じたときには、それを解決してくれそうな人をさがして質問したり、本をしらべてみようとする。これらは、いいかえれば、知的好奇心をみたしてくれるものへの「好み」といえるだろう。こうして接近した対象が、その後も同じような場面で、いつも知的好奇心をみたしてくれることが多ければ、その対象への「愛着」もあいてこようというものだ(P55/56)。

・・・「遊び」には義務はない。それでも夢中になれるのは、「楽しいから」あるいは「自分の役に立つからか」だ。
しかし、学校に通い「学び」が義務になってしまうと、とたんに意欲がなくなっていくことが多い。
「趣味」を「仕事」にした途端、楽しさが奪われてしまったという大人も多い。
内発的動機付けの要素で言えば、
(1)そもそも、与えられた「学び」は、「自律性への欲求(自己決定したい)」が満たされない。
(2)自分の興味のない分野で、何かができるようになったとしても「有能感」を自覚できない。

 本来「遊び」と「勉強」は対立しないのだから、子どもたちが遊びの中で「面白そうだな」「もっとやってみたいな」と夢中になる要素を分析し、それを授業に生かしていかないといけない。
 と、ここで先のダイアリーの最後に引用した部分と重なってくる。

◆指導するおとな自身が知的好奇心の強い存在になることが必要だ。子どもにいくら新しい物に積極的に取り組むことをすすめても、その当人が、未知の場面、不慣れな場面を避けてばかりいては困る。
おとなのそうした態度は、いつのまにか子どもに伝わってしまうからだ。(P110)


 教師自身が、さまざな事象に挑戦し「面白そうだな」「もっとやってみたいな」という意欲を持っていないと、子どもを夢中にさせる術は持てないということだ。
 教師は「知りたがり・やりたがり」であるべきなのだ。

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「知的好奇心」 中公新書

Ti
 今日の夕方のニュースで、子ども科学教室のようなイベントの紹介があって、楽しく学ぶ子供たちの様子を流していた。
 『知的好奇心』(波多野誼余夫・稲垣佳世子著 中公新書1973初版)を久しぶりに読んで「楽しく学ぶ」についてメモしていたところだったので、タイムリーな映像だった。

 自由な探索の過程で自分の能力に合わせて挑戦することが興味を維持し学習効果を高める。
 その一例として「磁石」の学習場面が挙げられている(P104~107)。
 向山実践の「じしゃく」が、いかに「知的好奇心」を喚起する授業であったかがよく分かる。

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 たとえば、磁石を使って、どういう物がすいつき、どういう物がすいつかないかを子どもに知らせる場面を考えてみよう。このとき、どういう性質の物が磁石につきやすいかがよくわからないうちに砂鉄や石(磁鉄鉱)を出して、「さあ、おもしろいですよ。これもすいつきますよ」といった導き方はあまり好ましくない。子どもにとっては、そのおもしろさがわかりにくい。彼のそのときに持つ「知識」に挑戦する対象として砂鉄が示されたのではないからだ。
 このようなときには、まず最初のうちは、子どもに自由に磁石をいじらせる。彼は自分のまわりの物に対して手あたり次第磁石をつけてためしてみようとするだろう。多くの場合、磁石にすいつくか否かに関して典型的な事物が試されるだろう。そうしているうち、木製の物はすいつかない、つくのは金っ気のあるもの、ピカピカ光る物らしい、という予想が形づくられるだろう。
 しばらくいろいろためしていて興味がやや低下したとみられるところで、彼らの予想に「挑戦する」事物を与えてみるのである。たとえば、メッキされたアルミニウム製の物と、メッキされた鉄製の物を準備したり、磁鉄鉱や砂鉄を用意したりする。あるいは、棒磁石、大小のU字型磁石、電磁石などを用意するのである。
 みかけはピカピカに光っていても、磁石につく物もあれば、つかない物もある。石や砂など磁石につくものか、と思っていたらすいついた。これらは、子どもを驚かせ、さらに探究することを動機づけるだろう。また磁石を近づければ、近づけるほどそれからはなれようとすることがある。スイッチを押すと磁石のようになるが、スイッチをはなすとそうでなくなる物がある・・・。これらはさらに事物のいろいろな側面を綿密に探索することを動機づけるかもしれない。」
==============

(1)自由試行させる(飽きるまでの体験させる)。
(2)予想させ、自我関与させる。
(3)固定概念を崩すような難しい課題に挑戦させる。

などのポイントが読み取れる。
 

◆磁石は、他の物にくらべ、環境の「応答性」を増幅する。子どもの反応に応じて、つまり、子どもが磁石を事物に近づけるのにしたがって、事物がすいついたり、すいつかなかったり、はっきり「応答」してくれるからだ。(P107)

◆子どもの疑問に、はじめからていねいに答えすぎない、ということだ。もちろん、子どもの疑問を無視したり、適当に答えてその場をやりすごしてしまうことは好ましくない。
しかし、あまりに完全な答えを与えすぎるのも問題だ。むしろなるべくヒントを与えるなどして、まず子ども自身に自分で考えさせようとすることが大切である。(P108)

◆自由な雰囲気の中で、子ども同士の積極的な相互交渉を奨励することも大切である。(P108)

などの記述を元にすると、以下のポイントも読み取れる。

(4)「応答性」のよさを心掛ける。
(5)教えすぎない。
(6)子ども相互の関わり合い(集合知)を活かす。

 そして、次の指摘は耳に痛い。
 知的好奇心のない者には知的好奇心の旺盛な子どもは育てられないということなのだ。、

◆子どもの遊びや学習上の困難の解決に援助を与える、あるいは、たえず気を配って、子どもが次の活動のために必要としているらしいものを周到に準備しておく、集団での話合いの司会をする、彼らの役目である。
 この場合、指導するおとな自身が知的好奇心の強い存在になることが必要だ。子どもにいくら新しい物に積極的に取り組むことをすすめても、その当人が、未知の場面、不慣れな場面を避けてばかりいては困る。おとなのそうした態度は、いつのまにか子どもに伝わってしまうからだ。(P109/110)。

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August 20, 2017

道徳授業の予備知識 ~「思いやり」を例に~

(1)「行動」の定義

 行動分析学(応用行動分析学)が定義する「行動」の条件は、次の2つである。それぞれのチェックを「死人テスト」「具体性テスト」と呼び、双方をクリアしないと「行動」とみなされない。        
①死人にはできない
・・・「~しない」というのは死人にもできるので「おしゃべりしない」「動かない」「人を叩かない」などは、「行動」と言えない。

②具体性がある。複数の人が見て(録画してみて)、それと分かる。
・・・「深く考える・反省する・楽しむ」のような心情的・内面的なものは「行動」と言えない。

参考 http://aba-airi.hatenadiary.com/entry/2016/09/05/220352

(2)if-then計画

 「思いやりの心」は、具体的な行動が問われる
◆ごみ箱のごみがあふれている時に、こぼれたごみを拾ったり、ごみ箱をぎゅっと押さえて捨てやすくしたりできる。
◆給食当番で自分の分担が終わったら、ためらいなく他の子の仕事を手伝える。

 「あかじめ○○になったら△△をする」と決めて実行することで、行動を自動化しようとすることを「if-thenプラン(条件型計画)と言う。
 しつけも、行動規範も、「こういう時は、こう動く」という「if-then計画」の積み重ねなのだと言えるのだが、道徳も同じと言えるのかどうか自信がない。

(3)「具体化」と「一般化」(汎化)

 if-then的に具体的な行動を習得するだけでは、新しい場面で動けない。
 一方、抽象的に「思いやりの行動をしよう」と唱えているだけでは、具体的な場面で動けない。
 「ごみ箱があふれていたら、どうすればいいかな?」のような具体的な場面でのシュミレーションを行うとともに、「このように困っている人を見かけたら、自分ができる支援策を考えて実行する」という総括的な心構えとをしっかり結びつけていくことが道徳の授業の大事な役割だと思う。
 だから、道徳授業の基本的な1時間の枠組みは、前半は資料の中の出来事に合わせて考え、後半は自分たちのふだんの生活に置き換えて一般化するようになっている。
 ただし、この指導過程は理に適っているものの、もはや形骸化してしまっている。

(4)「思いやり」は「想像」であって「看取り」とは違う

 国語辞典で調べたら、「思いやり」の2番目の意味が「想像」であった。
 ということは、目に見える相手を助けるのは「思いやり」ではなく「見取り(看取り)」にすぎないということになるだろうか。
 低学年の「思いやり」なら目の前の人への支援でいいと思うが、高学年にとっての「思いやり」は

◆「この切符を落とした人、今ごろ困っているだろうな」
◆「同じ地球上で、学校に行けずに辛い思いをしている人に何かしてあげたいな。」

というように、目に見えぬ人に思いをはせることであり、それは、やっぱり「看取り」とはレベルが違う。
 授業者が「看取り」と「想像」の違いを自覚しないと、高学年で「看取り」の授業をしてしまうかもしれない、
 
 さて、「想像」と言えば、ジョンレノンの「イマジン」が思い浮かぶ。世界の平和は、まず「想像」から始まるのだ。

Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
 僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

 想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
 さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

 僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ
http://ai-zen.net/kanrinin/kanrinin5.htm


 「私たちの道徳」(中学年)には、「だれかの生活をささえられる人に」と題して、まどみちおの詩が紹介されている。

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朝がくると とび起きて
ぼくが作ったものでもない 水道で 顔を洗うと
ぼくが作ったものでもない 洋服をきて
ぼくが作ったものでもない ごはんを むしゃむしゃたべる

それから ぼくが作ったものでもない本やノートを
ぼくが作ったものでもない ランドセルにつめて せなかにしょって
さて ぼくが作ったものでもない 靴をはくと たったかたったか でかけていく
ぼくが作ったものでもない 道路を
ぼくが作ったものでもない 学校へと
ああ なんのために

いまにおとなになったら ぼくだって ぼくだって
なにかを 作ることが できるように なるために
===================

・・「モノ」の向こうにいるはずの「人」に思いをはせることで、関係が広がり、関心が広がり、想像が広がり、思いやりの心が広がっていく。 
 この詩が中学年で紹介されているということは、中学年で「看取り」ではなく「想像」まで指導せよということにもなるのかもしれない。

 さて、冒頭の話題に戻るのだが、「イマジン」やまどみちおを詩を読んで「想像する」だけでも、道徳になるのかなという思いがあって、現在困惑中である。
 「想像」は、目に見えないから行動でない。
 「想像」してみたところで、これからどうすればいいか、全然具体的でない。

 それでも、「想像」するだけでも、子どもの人生に何か影響があるかもしれない。
 道徳は「心」を扱う。「行動」を扱うのは生徒指導と言わることに、反発したくなるのだが、やっぱりそうなのかなと思ってしまう。
 道徳は、やはり奥が深いのだ。

 ※むろん、「想像」だけでは授業にならないし、評価もできない。
 想像したことを発表させたり、ノートに書かせることで視覚化させる。
 想像した内容を話し合いの形で相互交流させることで視覚化させるといった授業の工夫が必要である。

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August 12, 2017

結果ではなく努力を褒めるのがスタンフォード流

 「結果ではなく努力を褒めるのがスタンフォード流」というネットの記事(無料で閲覧できる)
http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160314/biz/00m/010/001000c

 キャロル・ドゥエック教授の講義内容が紹介されており、「『やればできる』の研究」の復習になった。
 ちなみにドウエック教授の「やればできるの研究」については、かつて書いたことがある。

http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2016/07/s-88fe.html

 今回のネット記事は非常にコンパクトにまとめられているので、そのまま引用するだけで済んでしまうが、さらにまとめてみる。

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「硬直マインドセット」をもっていると、「自分は勉強してもムダだ」と自ら限界を決めてしまいがちで、学習意欲が著しく低いまま。
一方「しなやかマインドセット」が高まると、「今はまだできないだけで自分も能力を伸ばすことができる」と捉え、勉強に取り組む勇気や活力がわき、実際に成績が向上する。

◆「まだ」というのが魔法の言葉です。
知らず知らずのうちに、子供は「いつかはちゃんとできるのだ」と自分を信じる力がつきます。
この自分を信じる力こそ、しなやかマインドセットであり、挑戦し続ける気持ちなのです。

◆しなやかマインドセットの割合が高い人は、目の前の課題や挑戦的なことに対して前向きに、積極的に取り組みます。
その結果、失敗しても、「『今』の私は失敗したけれど、もう一度トライすれば成功できるかもしれない」と気持ちを切り替えて、その経験を肯定的に捉え、次の課題に挑むようになるのです。こうした心持ちになり、それを維持していくには、周囲の人たちや保護者との接し方、特に「言葉がけ」が大きく影響します。

◆褒める際は大げさにせず、結果ではなくプロセスを評価していました。
さらに、その子の持つ能力や才能ではなく、努力したことについて褒めるのが大切です。

◆(悪い言葉かけ)・・子供を大げさには褒めてはいけない
例えば、テストで100点満点を取った子供を「○○ちゃんはすごいね!」と大げさに褒めれば喜ぶかもしれません。
ただ、こうした大げさな褒め方をされると、自分はすごいのだ、できて当然という心持ちになり、さらに自分はすごくなくてはいけない、という考えに縛られます。
すると、自分がすごいという思いを維持するために、難度の上がったテストを受ける際、100点満点が取れないとわかった時点で、取り組むのを放棄したり、諦めたり、言い訳を探し始めたりするのです。子供なりに自尊心が傷つくのを避けるための行為だそうです。
また、自分の「すごさ」を認識するために、他者との比較に頼りがちになります。自分のテストの点数に向き合うのではなく、自分より点数の低い子を探し回ることも少なくありません。

◆(よい言葉かけ)・・次の目標につながる言葉をかける
テストで100点満点を取ったのであれば、「がんばったね」などと声をかけがちですが、子供の受け取り方はさまざまです。
もし、あまり勉強せずに100点をとれた場合、子供は無意識に「これくらいが、がんばることなのだ」と考え、それ以上の努力をしなくなる可能性があります。
つまり、子供がどの程度勉強したかという努力を褒めるのです。
このような場合、「このテストでは物足りなかったかな? もっと難しいことに挑戦しよう」などと、次の目標を提示すると良いでしょう。
もちろん、これ以上できないほど勉強して100点を取った場合は、最大限の褒め言葉をかけてあげましょう。
どの程度勉強したのかがわからなければ、「勉強でどんな工夫をしたの?」などと聞き、子供の話す工夫について、「その方法がよかったのね」といったように、努力や工夫することを後押しする言葉をかけます。
満点が終着点なのではなく、学びの通過点であることを伝えるのが大切です。

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 子どもの努力を褒めるということは、その結果が「努力に値するかどうかを把握する」ことであり、点数で測るより、はるかに難しいことだ。
 当たり前だが、努力を褒める・努力していなければ褒めないためには、日頃の子どもの様子をしっかり看取っている必要がある。
あるいは、「どんな工夫をしたの?」というような対話をする必要がある。
100点取ったから褒めるのは簡単だが、それ故、シロウトの行為にすぎないのだ。教師のやることではないと自制するとともに、日々「次の目法につながる言葉かけ」を模索し、体得していかねばならない。

◆疑問や問題を抱えた子供に対して、先生は、「友達に聞く」「前に自分がどうやったかを思い出す」「周囲に目を向ける」の三つのことを繰り返し促すそうです。こうして子供たちは、自分とその周囲の友達や物事から答えや解決策を見つけるようになるのです。
http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160229/biz/00m/010/008000c

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大事なのは「自信」

 「オズの魔法使い」

 白黒の映画を観たことがあるが、はっきりとストーリーを覚えていない。
 異国に舞い込んだ主人公ドロシーが、様々な困難を乗り越えて自宅へ戻る。その間に、桃太郎の「猿・雉・犬」のごとく「ライオン・案山子・ブリキの木こり」がお供をするといったところだろうか。

 この「ライオン・案山子・ブリキの木こり」について意識してなかったのか、忘れてしまっていたのか、たまたま詳しいストーリーを知って新鮮な驚きがあった。

 ウィキに載ったあらすじから抜粋すると

◆魔女は一行をズタズタに切り裂くため狼たちを送るが、ブリキの木こりが斧で殺す。
魔女は一行の目を潰すため野生のカラスを送るが、カカシが彼らの首を折って殺す。
魔女は一行を刺すため黒い蜂の群れを集めるが、カカシのわらがドロシー、ライオン、トトを隠し、ブリキには刺さらずに蜂は死ぬ。
魔女はウィンキーの兵士たちを送るが、ライオンが直立すると恐れて引き返す。
ついに魔女は黄金の冠の力を使い飛ぶ猿を呼び集め、ドロシー、トト、ライオン、カカシを捕まえ、ブリキの木こりをへこませる。
魔女はドロシーの銀の靴を手に入れることを企て、ドロシーを自分の専属奴隷にしようとする。
悪い魔女はドロシーを騙して銀の靴の片方を脱がせることに成功する。
怒ったドロシーは魔女にバケツの水を思い切りかけると、魔女が溶けてドロシーは驚く。
(中略)
一行がオズの魔法使いに再会した時、トトが王座の隅のスクリーンを倒してしまうと魔法使いが現れる。
彼は平凡な老人の詐欺師で、だいぶ前にネブラスカ州オマハから気球でオズにやってきたと申し訳なさそうに語る。
魔法使いはカカシに糠、ピン、針を詰めた頭を、ブリキの木こりにはおがくずを詰めたハート型の絹の袋を、臆病なライオンには勇気が出る薬を与える。
彼らは魔法使いの力を信じているため、これらをもらって喜ぶ

・・・「ライオン・案山子・木こり」は、オズから魔法をもらう前に「勇気・知恵・ハート」を発揮している。
元々魔法を持たないオズは、この3人に偽物の魔法で自信を与えたにすぎない。まさに「プラシーボ効果」だ。

 次のサイトでは、3人は既に「「勇気・知恵・ハート」を持っているのだが、自信を持たせるためにオズが手を打ったと説明している。

◆オズは、かかしが賢く、木こりに心があり、ライオンが勇敢なことを知っていたので、彼らの願いを聞く必要はないと思いましたが、3人は願いを叶えてくれと聞き入れません。
そこでオズは一計を案じ、彼らに作り物の脳みそや心を与えて、自信を持たせてあげました。
いまだオズの魔法を信じている3人は、オズが願いを叶えてくれたことに満足し、自分たちの脳みそ、心、勇気にすっかり自信を持つようになりました。
http://karakuchi-info.net/education/novels/oz/

◆しかし、オズの魔法使いはカカシ、ブリキのきこり、ライオンに、欲しがっているものは、もうすでに持っているということに気づかせてあげます
3人に足りないのは、知恵、心、勇気ではなく、それらを自分が持っているという自信でした。
オズの魔法使いはそれを目に見える形にして与えたことで、自信を与えたのです。
http://akinori-entame.net/wp/2016/08/15/oz/

・・・自分が持っている長所、自分が獲得した長所なのに「まだまだ自分には足りていない」と思えることは多い。
自分の長所に無自覚なのはもったいない。
 だから、暗示的なアドバイスでもいいから、第三者がうまくその気にさせてあげたい。「オズの魔法使い」には、そんなメッセージもあったんだな。

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August 04, 2017

「わたしのふつうはあなたと違う」

Photo

愛知県の人権啓発ポスターが、職員室の入り口扉に掲示してある。
 いい内容だなと前から気になっていた。
 漫画仕立てになっていて、教室内で次のような会話が交わされる。

「ひとりだけ丸がり頭だ~!」
「仲間外れだ~」
「でも、あなただってひとりだけ左利きよね」
「きみはひとりだけメガネだよね」
「そういうわたしは、太ってるわ」
「僕は背が低い」
「ほんとだ みんな違うじゃん!」

「わたしのふつうはあなたと違う
 それをわたしたちのふつうにしよう」

http://www.pref.aichi.jp/soshiki/jinken/281118.html

・・・「みんな違ってみんないい」という金子みすずの詩と共通する世界観だ(正確にはちょっと違うけど)。

わたしと小鳥と鈴と

わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。」

・・・ネットで検索してみると、人権啓発ポスターは、全部で7種類あることが分かったし、結構注目されていることが分かった。
 中でも、このポスター(1)は、分かりやすくていいなあと思う。

 君にはこんなマイナスがあるね。
 そういうあなたにもこんなマイナスがあるね。
 あれ? じゃあ、どれもちっともマイナスじゃないじゃん。

 自分たちがひけめに感じていることが、何でもないことを笑いあえたら、すごく楽になるんじゃないか。
人権意識とは、他人の違いを受け入れることなんだと感じさせるポスターで、この1枚をきっかけに人権啓発の1時間授業を創ってみたい。
ただし、「無断転載はご遠慮ください」とのことです。


※関連サイト

https://feely.jp/57403/
http://grapee.jp/265781/2
http://niko25niko.xyz/jinken

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June 17, 2017

まとまった時間の確保

 忙しい人の仕事術として、スキマ時間の活用や複数案件の並行処理などが推奨される。
 しかし、それは、変化球に過ぎないとの指摘があった(復習案件の同時処理は、かえって効率が下がるとの指摘は前からあった)。
 ドラッカー氏の「新訳 経営者の条件」にあるらしい。引用は「日経アソシエ」6月号p37より。
〇成果を上げるには自由に使える時間を大きくまとめる必要がある。
〇多忙なビジネスパーソンはスキマ時間を活用して成果を上げようとするが、それだけでは目的を達成できない。
〇細切れ時間で対応せず、そのために集中できるまとまった時間を思い切って確保しなさい。
〇時間が何にとられているかを明らかにすることからスタートする。

・・・なるほどなー。
 思い切って長い時間を確保するには、当然、時間捻出のマネジメントが必要になる。
 それを怠ってスキマ時間で対応しても負けは見えているわけだ。
 場所の確保も同様で、きちんと一定時間集中できる場所を確保しないと成果を上げられない。

  猛省します。

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June 03, 2017

若い世代の台頭は、元気をもたらす

 将棋の史上最年少棋士・藤井聡太四段(14)が、6月2日の棋王戦予選6組決勝で、澤田真吾六段(25)を155手で破り、デビュー以来無敗の連勝記録を「20」に更新した。

 卓球のアジア女王で平野美宇(17)は、6月2日の世界選手権(デュッセルドルフ)女子シングルス準決勝進出を決め、同種目では48年ぶりとなるメダルを確定させた。

 同じく卓球の男子シングルス2回戦で、張本智和(13)が、6月1日、リオデジャネイロ五輪銅メダルの水谷隼をで破った。

 サッカーの久保建英は、4月15日、15歳10カ月11日でJリーグ最年少得点記録を達成した。

 水泳の池江璃花子(16)は、現在14種目の日本記録を保持しているが、中学3年の時点で 全日本初制覇・世界選手権初出場・3種目の日本記録保持者になっている。


・・・彼らは、若いなりに「1万時間のルール」を越えたのだろうか。一万時間に満たなくても一流になれた天才なのだろうか。
練習を苦とも思わない「努力の天才」なのだろうか。

 それにしても、若い選手の活躍は、若い世代のさらなる活躍を促す。

 スポーツに関心がなくても、将棋に関心がなくても、世界で活躍する同世代の若者がいることを伝え、自分の長所を伸ばす活力を与えたい。

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