December 19, 2018

間違いを恐れない=正解は1つではない=創造性を育む学級づくり

 1977年向山洋一氏の学級通信「すないぱあ」4月7日号に、次の記載がある。

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 ひとつは教室とは、まちがえる場所だということだ。あらゆる学問は、まちがいの中から発展させられてきた。<自分はできる>と思ったり、<自分はできない>と思っているのは共に錯覚である。どちらにしても諸君が思っているほどではない。

◆黒板に数字を書いて「0(ゼロ)は何を意味するか」を聞いてみた。芝原がさっと手を上げ、他に5.6名いた。芝原に指名すると「何もない事です」と答えた。それをほめ、手を上げたら5.6名を立たせほめた。そして「何故、手を上げない。内心ではそんな事と思ってるんだろう。しかし、手を上げた人と上げない人では天と地ほどの差がある。上げない人は、まちがえたら恥ずかしい、かっこ悪い等とかっこつける事だけ考えていたからだ。天と地ほどの差があるんだ」ときつく言った。
 しかし「ゼロの意味はこれだけではない。思いついた事を何でもいいから言ってみなさい」と言った。名取と伊藤の2名しか手が上がらなかった。名取は「出発点」と答え、伊藤は「0,1,2の0」と答えた。温度計の0度は温度が何もないことではなく、基準である事を話し、その二人をほめた。ゼロはほ他にも意味があるが、省いた。ついでに漢字の「山川」を書き、「読みなさい」と言った所、芝原がさっと手を上げ、4.5名があげた。芝原を指名すると「やまかわ」と答えた。「他にもある」と聞いたが誰一人答えられなかった。「やまかわ やまがわ さんせん」のちがいを説明した。「このように、できるできないといっても差がない。一年生の問題ですらこれなのだ」と話した。「うんとまちがえなさい。まちがいの山をつくりなさい」と言った。
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 「たくさん間違える」と「正解をたくさん考える」は同義ではない。
 しかし、「正解は一つではない」という実例を体感することで、間違いと思っていることが正解だったり、新発見だったする場合もありえることを学んでいく。
 そして、「間違いなんて大したことじゃない」と気楽に構えることを学んでいく。
 
 決まりきった正解しか言えない優等生の存在価値がガラガラと音を立てて崩れていく。
 人と違う意見が褒められていく。
 人と違う発想ができる者が評価を上げていく。

  この「逆転の発想」の講話を始業式の日に仕組む。
  これが41年前の向山実践だ。「そのあと2時間何も手がつかないほど、つかれていた」というほど、周到に仕組んだ出会いの40分の授業であった。

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December 17, 2018

ゼロから新しい価値観を生み出すこと

Elite
先のブログで、アメリカと違って小さなイノベーションが日本には合っていると書いた。
 気になって確かめたら、「ゼロから新しい価値を生み出す人が成功者」を後押しする書がもう1冊出てきた。

「ニューエリート グーグル流・新しい価値を生み出し世界を変える人たち」ピョートル・フェリクス・グジバチ(大和書房)

 グーグル流の仕事術の話題であり、シリコンバレーの話題だから、やはり「ZERO TO ONE」側の発想だ。。
 氏は、かつての三公社五現業のような国が主導する企業・天下り先になっているような企業は危機に瀕していると述べている。1を10にする仕事・既存の仕事を発展させる従来の日本流のビジネスだけでは立ち行かないと言う。「何度も言いますが、要はゼロから1を作るのです」と。

 ところで、ピョートル氏は、ビジネスパーソンを5つの層に分類している。

①変革層
(社会に魔法をかけ、変革を起こす影響力を実際に持っている)

②実践層
(「こうしたら変わるかな」 「やっぱりこうしよう」という実験と
工夫をくり返し実践している)

③変えたい層
(「変えなきゃ」 「どうしたら変われるのかな?」と思いつつも実行力と勇気が足りない)

④気づいた層
(「このままじゃダメだ」 「でもグーグルみたいにはなれないし」
などと、課題を自覚しつつも、半ばあきらめていて行動力も低い)

⑤ゆでガエル層
(現状で満足していて、変化の必要性に気がついていない)

 「このままじゃだめだ」とこぼすだけでは下から2番目のレベルでしかない。
 「ゼロから作らなくてもいいじゃん」「小さなイノベーションでいいじゃん」では、ゆでガエルになってしまうと覚悟すべきなのかもしれない。

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December 16, 2018

2つのイノベーション ~アメリカ型と日本型~

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 2015年度のビジネス書大賞受賞作は、シリコンバレーの起業家、ピーター・ティールによる『ゼロトゥワン 君はゼロから何を生み出せるか』だった。
 アマゾンの商品紹介には以下のようにある。

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新しい何かを作るより、在るものをコピーする方が簡単だ。
おなじみのやり方を繰り返せば、見慣れたものが増える、つまり1がnになる。
だけど、僕たちが新しい何かを生み出すたびに、ゼロは1になる。
人間は天から与えられた分厚いカタログの中から、何を作るかを選ぶわけではない。
むしろ、僕たちは新たなテクノロジーを生み出すことで、世界の姿を描き直す。
それは幼稚園で学ぶような当たり前のことなのに、過去の成果をコピーするばかりの世の中で、すっかり忘れられている。
本書は、新しい何かを創造する企業をどう立ち上げるかについて書かれた本だ。
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◆ビジネスに同じ瞬間は二度とない。次のビル・ゲイツがオペレーティング・システムを開発することはない。次のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンが検索エンジンを作ることもないはずだ。次のマーク・ザッカーバーグがソーシャル・ネットワークを築くこともないだろう。彼らをコピーしているようなら、君は彼らから何も学んでいないことになる。

・・・マネが得意と言われてきた日本人も、ゼロから何かを創る気概が必要なのだというのが「ZERO TO ONE」の精神だ。

 ただ、「先生、イノベーションって何ですか」伊丹敬之(PHP)を読んで少し考えが変わった。
Ini
 イノベーションには一発ホームランのような「大きなイノベーション」と、こつこつヒットを積み上げるような「小さなイノベーション」があり、どちらにもチャンスはあるので、「大きなイノベーションだけを見るな、と強調する必要がありそうです(P236)」と言う。

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 イノベーションの世界で、インクレメンタル(逐次的)イノベーションとラデイカル(急進的)イノベーションと、二つの種類のイノベーションの区別をすることがあります。逐次的とは、少しずつイノベーションが起きていくことで、改良が進んでいくということです。小さなイノベーションがこのイメージです。急進的とは、一気にジャンプする、不連続なイノベーションで、まったく新しい技術の登場のようなものです。大きなイノベーションのイメージです。
 日本企業は、インクレメンタルな小さなイノベーションをシコシコト積み重ねることが得意だし、このイノベーションは膨大な資源投入は必要ないでしょう。だから、日本に適したイノベーションのタイプ、ということになるでしょう。(中略)大きなイノベーションは、小さなものの中からの突然変異がよくあるんです。
 こうして大きな成果が小さなイノベーションをシコシコやることから生まれ得るのであれば、その技を磨くことにむしろ日本企業は励んだらいい。
 三つのことが大切そうです。第一に、あちこちで、多くの人が小さなイノベーションを目指してがんばること。小さいからといってバカにせずに、努力を惜しまないこと。第二に、それらを積み重ねる、つなげるように心を配ること。ここでは大きな視野で小さなイノベーションをたくさん見ている人が必要でしょう。第三に、大きなイノベーションに育ちそうになったら、そこに資源投入を惜しまないこと。そして、その前提として、大きく育ちそうなものの邪魔をしないこと。P247・248
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 ホンダのオートバイも、トヨタの自動車も、回転寿司のレーンも、繊維産業が盛んな地域の精密な機械づくりのノウハウがあったからこそ成り立った伊丹氏は言う。
 繊維機械の技術の蓄積がなければ、これらのイノベーションはなかったわけで、いつも「ZERO TO ONE」とは言えないのだ。
 ノーベル賞をとるような科学者のほとんどは、決してZEROからひらめいたわけではなく、従来の知見の蓄積とたゆまぬ努力があった。
 「準備ある心の持ち主にのみ、幸運の女神は微笑む」というパスツールの「準備」は、「たゆまぬ努力を続けてきた」という意味であって、漠然と心待ちにしている人に幸運はやってこない。
 そういう意味では、安易にシリコンバレーの企業家が主張する「ZERO TO ONE」という言葉のカッコよさに惑わされてはいけないと思う。
 1冊の書籍でヒートアップしたが、別の書籍に目を通すことで少し冷静になれたといった気分である。
 むろん気持ちを覚まし過ぎると現状維持になってしまうので、常に現状改革の意識はもっていたい。

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最初に実行するから価値がある~「コロンブスの卵」~

 『コロンブスの卵』(Egg of Columbus)の逸話は、「誰にでもできる事であっても、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要だ」ということを示している。
 「逆転の発想」という意味で今日使われており、「ファーストペンギン」に近い意味もある。。

 我が国の「コロンブスの卵」の説話は、なんと戦前の1921年発行の第3期「尋常小学国語読本」第8巻 第19章に4年生用教材として登場し、1933年からの第4期にも第8巻 第22章に収録されていたそうだ(1941年からの第5期には削除されている)。
 1928年版での記載内容は以下の通り。(一部、表記を変更)

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第十九 コロンブスの卵 (「尋常小学国語読本」より)

 コロンブスがアメリカを発見して帰った時、イスパニヤ人の喜んだことは非常なものでした。
一日祝賀会の席上で、人々がかはるがはる立つて、コロンブスの成功を祝しますと、一人の男が「大洋を西へ西へと航海して、陸地に出あったのが、それ程の手がらだらうか」といつて冷笑しました。
 之を聞いたコロンブスは、つと立つて、食卓の上の「うで卵」(ゆで卵)を取り、「諸君、こころみに此の卵を卓上に立ててごらんなさい」といひました。
 人々は何の為にこんなことをいひ出したのかと思ひながら、やつて見ましたが、もとより立たうはずはございません。
 此の時コロンブスは、こつんと卵のはしを食卓にうちつけ、何の苦もなく立てて申しました。
「諸君、これも人のした後では、何のざうさもない事でございませう」

http://takakis.la.coocan.jp/columbus.htm
===================.

・・・今風に訳すと次のようになる。

 新大陸発見後、コロンブスは祝賀パーティーを楽しんでいた。
 すると彼の成功を妬む男が現れ、心ない言葉を吐きかける。
「たかが西へ進んで島を見つけただけじゃないか。そんな事は誰にでも出来る」
 コロンブスは、テーブルの上のゆで卵を手に取って言った。
「誰か、この卵を立ててみて下さい」
挑戦してみるが、誰一人として卵を立てられない。
 それを見たコロンブスはゆで卵をテーブルにぶつけ殻を凹ませて立たせた。
 そして一言、
「言われてみれば、こんなことは誰にでも出来る。しかし、誰かが成した後では何の意味もない」と返した。

・・・誰にでもできる事であっても、言われてみれば当たり前のことであっても、それを最初に成功させるのは難しい。
 コロンブスは卵を使い、それを証明してみせた。
 誰だってファーストペンギンになれそうなものだが、やはり誰でもファーストペンギンになれるわけではない。
 先のブログで本庶佑氏のインタビュー記事を引用した。

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アマゾンやフェイスブックが登場したとき『うまくいくわけがない』『どうやってもうけるんだ』とバカにされた。世界トップの企業になるなんて当時は誰も思わなかった。振り返ってみれば、あれがイノベーションだったと認識される」
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  後からなら何とでも言える。だからこそ、最初にチャレンジすることが大事なのだ。

 授業場面で考えてみると、次のイメージだ。

◆どんな答えだろうと、一番最初に発言した子は褒められる。
◆たくさんの答えを列挙できた子は褒められる。
◆他の子が及ばない発想をした子は褒められる。

 褒められる基準が複数あるから、学級全体に多様性が生まれ、自由度が上がる。子ども達の個性が発揮される。
「みんな違って、みんないい」
「何を言っても許容される」
という学級風土があると、ますます多様性と自由度は高まっていく。

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異端児扱いを恐れない強さ~コペルニクス的転回

 「イノベーション」「フロンティア精神」について書いていて、「コペルニクス的転回」も同じグループだなと思った。

 天動説を否定したコペルニクスは、「千万人といえどもわれ行かん」の代表格だ。
 「コペルニクス」といえば、『社会科教育』(明治図書)2013年1月号に原稿を書いたことを思い出した。
  幸いデータが残っていた。

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 一 抹殺された地動説

 「地球が太陽の回りを回っている」という考え方を地動説、「地球の回りを太陽や惑星が回っている」という考え方を天動説と言います。現代では地動説を疑う人はいませんね。
 しかし、世の中はずっと「天動説」でした。「地動説」が認められたのはいつ頃だと思いますか?
 コペルニクスという科学者が地動説を主張したのが1540年です。それも、地動説がすぐに認められたわけではありません。むしろ猛反対です。コペルニクス説は禁止され、地動説を主張したブルーノは火あぶりにされました。地動説を広めたガリレオも裁判にかけられ、「地動説は間違いだ」と無理矢理言わされました。
地動説は、1687年、ニュートンにより証明されました。今では当たり前の地動説が認められるまでには、100年以上の年月がかかったのです。
 発想を変え、物事の新しい局面を切り開くことを「コペルニクス的転回」と呼ぶのは、このためです。

二 非難を浴びたアラスカの購入

 アラスカを指で押さえてごらん。
 アラスカはカナダ領ですか、アメリカ領ですか?
 アラスカは、ロシアが領有していましたが、クリミア戦争に敗れて財政的に苦しくなったので、1867年、アメリカが買い取りました。
 当時のアメリカではアラスカ購入に批判が多く、購入を進めたスワード国務長官は「巨大な冷蔵庫を買った男」と批判されました。
しかし、その後、金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュに沸きました。1950年代には油田も発見されました。
 スワードは死後、「先見の明があった」と評価されました。現在のアラスカでは、彼の名前をとったスワードという都市があり、「スワードの日」という記念日も制定されています。
  ◆   ◆
 異端児扱いされた人が時を経て評価されることがある。時の権力者に抹殺された偉人の例もたくさんある。
 自分と違う考えだからと排除する行為の愚かさをさりげなく刷りこみたい。
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 「抹殺」というおおげさな言葉を選んだのは『主語を抹殺した男~評伝三上章~』に感化されたからだ。主語を抹殺した三上章は、日本語教育界から抹殺された男でもあった。

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 三上は今でこそ、とくに日本語教育界で優れた文法家と見なされるようになったが、生前は偏見と差別で苦労が絶えなかった。三上の著書と論文に対する当時の国語学会の反応は、じつに興味深い。(中略)1953年6月に50歳の三上が初めて上梓した『現代語法 序説』は、当初かなり注目された。
 しかし、反響は一時的なものでしだいに下火となる。それだからこそ、当時からさらに半世紀を経た2006年の現在でも「学校文法」は十年一日の如く「文には主語と述語がある」と教えているのだし、海外の「日本語文法」でも「、「日本語では主語がよく省略されます」と説明される「第二英文法」のままなのだ。
 けっきょく三上文法はどう評価されたのか、と言えば、「一介の高校数学教師の奇説」として、国語学会はまともに相手にしなったのである。「一介の」という表現が三上文法を語る際に、枕詞のように使われた。 ふたたび山口光の言葉を借りれば、「主語抹殺論以下の数多くの問題定義が、結局は黙殺された。」P175/176
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 先にも書いたが

 人と違っても堂々と行動できる強さ。
 向山学級で言えば、

◆一匹狼のたくましさ
◆千万人といえどもわれ行かん

の精神の大切さをひしひしと感じている。

 「抹殺」の背景には差別がある。
 差別を憎む学級づくりと「多様性」「イノベーション」はリンクしている。

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一歩踏み出す勇気を育てる学級づくり~ファーストペンギン~

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 「ファーストペンギン」という言葉はについては、数年前のNHKの朝ドラで言葉は知っていた。群れの中で先陣を切って飛び込む勇気あるペンギンのことだ。

 「創造する脳」(茂木健一郎)PHPの一説に「ファーストペンギン」の詳しい説明がある。非常に感銘深い文章だった。

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(前略)何時までも飛び込まずにためらっているわけにはいかない。いつかは危険を冒してでも海の中に飛び込まなければ、餌をとれずに死んでしまう。餌がとれるか、それとも食われてしまうのか、避けることのできない不確実性の名の下で、いつかは決断を下し、飛び込む・・海の中に真っ先に飛び込む「最初のペンギン」がいるからこそ、全体にとっての事態が切り開かれるのである。
 英語圏では「最初のペンギン(first penguin)と言えば、勇気を持って新しいことにチャレンジする人のことを指す。そのような概念、それを表現する言葉があるということは、それだけ、不確実な状況下で勇気をもって決断する人が賞賛される文化があることを示している。
 未来を見渡せないままに不確実性の海に飛び込むと言うのは、創造性の発揮において、人間がまさに行っていることである。創造的な人間は、不確実な状況下で海に飛び込むという「決断」を下すペンギンと、生物の進化の歴史を通してつながっている。不確実性に直面し、それを乗り越えるための脳の感情のシステムの働きを通してつながっているのである。(中略)
 今日の昼食を何にするかというような小さな問題から、人生を左右するような大きな問題まで、私たちが人生で直面する殆どの問題は、確実な答えがわからない不確実なものである。そのような場面で確実な答えだけを求めていたら、かえって判断を誤る。たとえ確実なことは判らなくても、自分の直感を信じて行動することで道は開ける。
 もちろん、その結果、失敗したり、痛い思いをするかもしれない。しかし、それこの世界に生きている以上仕方がないことである。人間だけでなく、生物は皆不確実な世界の中で生きている。不確実さを徒に避けたり、確実な正解があるはずだと思いこむことの方が、よほど危険である。肉食獣が闊歩しているからといって、何時までも洞窟に隠れていては飢え死にしてしまう。P89/90
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 人と違っても堂々と行動できる強さ。
 向山学級で言えば、

◆一匹狼のたくましさ
◆千万人といえどもわれ行かん

の精神だ。

  創造力を伸ばす教育というのは、

◆何を言っても許容される学級、
◆人と異なる意見が褒められる学級

でないとうまくいかない。

 これからは創造力が必要だというなら、「どう授業するか」「どんな学級経営をするか」 まで考えないと絵に描いた餅で終わってしまう。

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ノーベル賞・本庶佑氏「ばかげた挑戦が革新生む」

日本経済新聞に本庶佑氏のインタビュー記事がある。

「ノーベル賞・本庶佑氏「ばかげた挑戦が革新生む」

科学&新技術 2018/12/3 6:41日本経済新聞 電子版
https://id.nikkei.com/lounge/auth/password/proxy/post_response.seam?cid=1386056

 本庶佑氏が、イノベーションを生むための政府や企業の役割、若手研究者の支援に向けた取り組みなどを語っている。一部抜粋する。

◆イノベーションとは何ですか。

「イノベーションとは結果だ。とんでもないと思うようなことから始まって、結果として世の中を大きく変える。アマゾンやフェイスブックが登場したとき『うまくいくわけがない』『どうやってもうけるんだ』とバカにされた。世界トップの企業になるなんて当時は誰も思わなかった。振り返ってみれば、あれがイノベーションだったと認識される」

・・・インタビュー冒頭のこの回答に本庶氏の思いのすべてが集約されていると思う。タイトルの「バカげた挑戦が革新生む」も見事な要約だ。
 周囲がうまくいかないと思っていることこそ、イノベーション。誰もがうまくいくと思うなら、それは「想定内」に過ぎないからだ。
 本庶氏は、このあと「月にロケットを上げるような、計画を立てて金をかければできることはイノベーションではない。金で解決することとイノベーションは次元が違う」と述べている。
 計画が立てられること・予算が組めること・お金で解決できることは、しょせん「想定内」だから、イノベーションではないということなのだと思う。

◆イノベーション創出に向けて産業界に何が必要ですか。

「日本の大企業は政府がつぶさないようにてこ入れするため、新陳代謝が起こらないのは問題だ。米国のトップ企業は若く、新陳代謝が起こっている。森では大木がいつか朽ちて、下から芽が出て新しい木が生える。大木がいつまでもはびこっていたら下に光が届かず、若い芽が育たない」

・・・新陳代謝、新旧交代、「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という新約聖書の言葉が思い出される。
 旧態依然とした組織では新しい発想はスポイルされてしまう。
 物事が180度変わる様を天動説から地動説への転回にたとえて「コペルニクス的転回」と言うが、まさに常識をひっくり返すような出来事がイノベーションだ。

 「今の産業界はおいしい果実がいくつかできた段階から初めて金を出す。厚かましい」とインタビューの言葉は結ばれている。
 冒頭で「イノベーションは結果だ」と言う一方で、いい結果が出てからしか金を出さない産業界に苦言を呈している。
 サントリー創業者鳥井信治郎氏の有名な言葉「やってみなはれ」が思い出される。

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 創業者鳥井信治郎は、どんな苦境に陥ちこんでも自身とその作品についての確信を捨てず、そして、たたかれてもたたかれてもいきいきとした破天荒の才覚を発揮しつづけた人であった。 それを最も端的に伝える言葉として彼がことあるごとに口にした日本語が『やってみなはれ』である。
  冒険者としてのチャレンジング精神がサントリーのDNAとして創業100年以上経た今もなお、生きている。現状に甘んじることなく、異分野・新しいことへの挑戦を続ける。
 ここに、「結果を怖れてやらないこと」を悪とし、「なさざること」を罪と問う社風に根ざした主な商品をご紹介します。(以下略)
https://www.suntory.co.jp/company/research/history/frontier.html
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・・・「フロンティア精神」をもじったであろう「フロンティア製品」という言葉が痛快である。
「結果を怖れてやらないこと」を悪とし、「なさざること」を罪と問う社風とは、驚くばかりだ。

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アルゴリズムは「拡散的思考」

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 学校の図書館にあった「アルゴリズムえほん」全4巻(フレーベル館)。
 なるほど、この絵本を読んで「プログラミングを学ぶ前にアルゴリズム」という意味が少しだけ分かった。

 第一巻は「アイデアはひとつじゃない! アルゴリズムって、こういうもの」

◆水たまりをどう渡るか、道にいるカエルを踏まないで進む方法など、小学生が実際に出会いそうな問題場面を取り上げ、3姉弟がそれぞれのアルゴリズムによって解決したり、目的をかなえたりする展開になっており、目的に対していろいろなアルゴリズムを考え、どれが一番よい方法かを考えられる。
というのがアマゾンの紹介コピー。
 
 絵本を読んだ後は、特に「目的に対していろいろなアルゴリズムを考え、どれが一番よい方法かを考えられる」の部分が腑に落ちた。
 最初のページは、3姉妹が雨上がりの朝、学校へ向かう道の大きな水たまりを避けて、どう渡るか、考えている場面。

①石をおいて渡る
②跳んで渡る
③靴を脱いで渡る

と三者三様の方法を考えて

◆そう、「これが、それぞれのアルゴリズム」
◆つまり、アルゴリズムは、目的をかなえるための方法のこと。

と解説されている。

◆コンピューターを動かすプログラミングは論理的につながらなければいけませんし、目的と結果を考えたプログラミングでなければ、実行する意味がありません。

といった部分だけを取り上げると、プログラムは最適解、つまりたった1つの方法を導き出すようなイメージにもつながりやすい。
「論理的」とは1対多対応でなく1対1対応であるからだ。理詰めで考えたら、答えは1つに確定できると判断してしまいがちだ。

 ところが、次の解説があって、うなってしまった。

◆コンピュータは、命令通りにしか動けない。だから、人間が前もってアルゴリズムをいくつも考え、「プログラム」として組み立て、コンピュータに覚えさせる必要があるんだ。

 人間が多様な解法・多様なアルゴリズムを考え、それをプログミングする。
 コンピュータは覚えさせられた命令通り動くのだけなのだから、人間の多様性・創造性の方が価値が高いのだ。最初から最適解を決め打ちして1つの解法しか思い浮かべないのは、人間らしい思考作業ではない。
そのことを「アイデアはひとつじゃない!」という本書のタイトルが端的に示している。

 息子が小学校時代に作っていたサッカーロボも、高等専門学校のロボットコンテストも、目的(テーマ)は1つだが、アプローチ(アルゴリズム)は多様なので、様々なロボットが製作される。
 ロボコンの大会の様子を見れば、「アイデアは1つではない・アプローチは多様で、最適解は簡単に決まらない」ことがよく分かる。

 今のカーナビも決して1通りのルートを示すわけではなく、有料道路優先、一般道路優先、道路幅優先などニーズに合わせたいろんなルートを示す。
・さまざまなルートがある
・さまざまなアプローチがある
・さまざまなアルゴリズムがある

が、同義なのだと大雑把に理解している。
 また、算数の解き方も決められた1通りというケースが多いが、本来、数学の解き方は多様なのだと理解している。
 これも、アプローチはさまざま=アルゴリズムはさまざま、ということなのだと理解しています。
 アルゴリズムは多様であり、ゴールに向かうアプローチは、いろんな方法があってよいというスタンス。
考えてみれば、その通りなのだ。
 しかし、これまで「プログラミング的思考」というと、論理的思考のニュアンスが強くて、一つの正解に向けて最適解を見つけ出すようにとらえていた。

 それがけっして1人よがりな考えではない証拠が、手引きの以下の記載内容だ。

◆プログラミング的思考
自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組み合わせが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組み合わせをどのよう改善していけば、より意図したした活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力。
「小学校プログラミング教育の手引き第2版」文部科学省 4ページ

・・・この記述を見ると、やっぱり、プログラミングは1つの結論に収束されていくように読めてしまう。
でも、先のアルゴリズムの解説を読むと、プログラミングは実に自由度が高く、創造的で拡散的である。

無論、そこは活動の場面の違いがあって、アプローチ(アルゴリズム)を考える場面は創意を生かし、プログラミングを行う場合は正確に緻密に論理的に取り組む。
 まずはどんなアプローチ(アルゴリズム)を考えるか、その創意工夫が先だと思う。創意のないプログラミングなんて、やらされているだけでつまんない。

 とにかく、「プログラミング的思考」は、「収束的思考」ではなく、「拡散的思考」だというのは、新鮮な驚きであった。

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November 11, 2018

昭和44年のNEW THINK 「水平思考の世界」

New_think
「水平思考の世界」NEW THINK

エドワード・デボノ著 白井實訳(講談社)

「新しい考え方」というこの本の第1刷は、昭和44年9月。

春日市の図書館で借りたのは昭和44年10月の第3刷。

副題が「電算機時代の創造的思考法」。「電算機」って言葉がすごい。
ちなみに歴史的ヒットとなった12800円の電卓「カシオミニ」の登場が唱和47年(1972年)。
トランジスタから、IC、LSIと進化して、小型化・定価価格化が進んでいった頃だ。

デボノがこの本を出したのは1968年。この段階で、すでに「これからの時代は創造的思考が求められる」と主張している。

冒頭に次の言葉がある。

NEW THINK
The Use of Lateral Thinking in the Generation of new Ideas

和訳すると「新しい考え方 新しいアイディアの創出に向けた水平思考の利用」。

裏表紙には、次の紹介文がある。

◆自分のカラを破れ!
現代のようなコンピュータ時代にこそ、人間の創造的機能が大いに発揮されなければならない。
なぜならば、新しいアイデアを生み、新しい角度からものをみる頭脳、能力が、進歩成長の原動力となっているからである。
「水平思考とは問題解決のために”想像力ゲーム”を意識的に使うことである。
つまり、直線的なロジックでは見落とされてしまう新しいアプローチをみつけることである。
”水平思考の世界”は、読者を自分のカラから脱出させるための得難い本である」

非常に分かりやすい。
そして、AI時代の今もなお「創造的思考(水平的思考)が必要」と、同じことが言えるところに驚いてしまう。

前書きでは「新しい思考法」の解説が続く。

◆ソロモン王の時代から使われ、偉大な科学者や天才的発明家たちはこの思考法を用いてきたこと。
◆論理的思考・分析的思考は深く掘り進むので「垂直的思考」と呼び、別の場所に穴を掘る発想を「水平的思考」と呼ぶこと。
◆論理的な思考は、既成のアイデアの発展には役立つが、新しいアイデアを生み出すためには役立たないこと。

・・・新しいアイデアを生み出し、新しい角度から物事を見るのは、水平思考・創造的思考の役割なのだが、垂直思考(論理的思考)が不要なわけではない。

◆水平的思考は、垂直的思考にとって代わるものではなく、むしろそれを補うものであることを忘れてはならない。つまり、両者はコインの表裏のようなものであって、お互いが補い合うという関係にある。水平的思考が新しいアイデアを生み出し、垂直的思考がそれを発展させるのである。P13

◆閉鎖された多くの社会では、科学者も産業人も、きわめて似かよった考え方をもつようになるものである。そんな時、新しいものの見方を提供できる第三者が現れれば、新しいアイデアを生む刺激がもたらされるかもしれない。P53

◆間違えることに喜びを見出すといったら、へそ曲がりにみえるだろうが、間違いをすることは、古いアイデアから抜け出して、新しいものの見方をつかむことを意味している。間違わないというには、たんに自尊心を高めるだけであって、むしろ失敗した時にこそ、しばしばアイデアの改善がはかれるものである。P54

・・・発明王のエジソンが、失敗を失敗と思わない前向きな発想をもっていたことは必然であったことが分かる。今なお新鮮な指摘ばかりである。引用するときりがない。

◆一般に、問題に取り組む場合、はじめから問題の解決が存在する範囲を設定して、その枠の中で論理を積み重ねる方法がとられるものである。しかし、その枠は、その人の想像にすぎず、実際の解決は、しばしばその枠外にあることが多い。
 たとえば、コロンブスの卵がそのよい例だろう。(中略)友人達は、卵を割ってはいけないという仮定の枠に縛られていたから、その問題を解けなったのである。
(中略)
 こうした水平的解決は、垂直的思考家からみれば、いかさまのように見えることもがあるが、逆にいえば、水平的思考がいかに有用かを証明するものである。いかさまだという避難が、強ければ強いほど、批判者たちが、実際には存在しない厳格なルールと仮定にいかに強く縛られているかと言うことを、暴露しているにすぎない。こうして、新しいアイデアへの道は、間違った仮説によって阻まれてしまう。
 P129

・・・「頭の体操」の問題を解いて、こんなのズルじゃんと思うことがあったが、それは常識に縛られているからで、そこで怒っても仕方ないのだということが分かる。
 失敗や偶然も含んで、常識を超えた発想を目指すのが「水平的思考」だから、垂直思考は多数派、水平思考は少数派。むしろ誰も考えたことのない発想が大事で、真似や応用というよりは「ZERO TO ONE」の心意気が大事だということも分かる。
 支配的なアイデアに固執するのは怠慢だとも書いてある(P54)。
 「自分でアイデアを創りだすよりも、できあいの組織化されたアイデアを受け入れる方が、はるかに楽である(P54)」の指摘は耳に痛い。

◆だから、垂直的思考家たちは。こうした厳格なルールが存在しない、すべてのものがいつも疑われているような流動的な状況をきわめて不愉快に思う。ところが、それが無限の無秩序の状況だからこそ、そこから水平的思考によって新しいアイデアが生まれうるのである。
 いろいろなものの見方を採るということは、頭脳にとっては不自然なことである。だからこそ、意識的にそう努力しなくてはならない。P129

◆垂直的思考の第一の欠点は、結論を出す方法が見つかったら、それ以上よい直接的な方法をさがす必要がなくなることである。しかし水平的思考では、要点をつかんだあとでも、確実な方法を求めることができるにちがいない。一部分だけ適切だという方法には固執しないから、もっといい方法が見つかるだろう。P138

・・・脳科学的に言うと、人は安定を好むので、意図的に新しいことに取り組まないと退化を始めるのだということに通じる。
 「ひらめき」と言えば、努力は要らないと思えそうだが、常識を超える・自分の殻を破るには努力が必要だ。エジソンも99%の努力を主張している。
 水平思考だから勉強しない・常識を学ばない・論理を無視していいというわけではない。先にも引用したように垂直と水平はコインの裏表なのだ。
 130ページには、その努力の方向が示されている。この4つの方法を具体化すると「オズボーンのチェックリスト」につながっていくことがよく分かる。

(1)ものの見方の数を3つなり5つなりあらかじめ決めておく。(最初から解答・解法を1つだときめてかからない)
(2)ものの関係を意識的にひっくり返す。太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っていると見るように。
(3)状況を扱いやすいように変えてみる。(シンプルに考えてから、最初の状況に当てはめてみる)
(4)問題の力点を別の部分に移してみる。(まったく違う観点で問題解決に取り組んでみる)

 「水平思考の世界」=「ラテラルシンキング」=「創造的思考」の奥は深い。

新しいアイデアを生みだすための「偶然」は、「遊び」から生まれることが多いとデボノは言う。

◆ものごとを論理的に割り切る大人が、遊びを無益なものと決めつけ、大人とは責任を持って行動する人であると定着してしまうと、遊びはまったく興ざめになってしまう。
(中略)別にこれといったアイデアをが浮かばなくとも、遊び回っている状況に十分慣れ親しんでいれば、そこから将来アイデアが生まれる基盤ができる。
 偶然(チャンス)の相互作用でアイデアを促進させるもう1つの方法は、”ブレーンストーミング”という古い手である。つまりたくさんんの人が一堂に会し、日頃の論理的抑制を止めて、みんなが思いつくままのことを述べ合うことである。どんな的はずれなばかげたことを言ってもよい。こうすれば論理的な思考を抜きにして意見を発表でき、他人の考えを批判することをさし控えるようになり、大変よい頭の体操になる。
このようにしてお互いが刺激し合って多くのアイデアを生み、相互作用の偶然性によって、参加者が誰も思いつかなかった新しいアイデアを生みだす可能性が出てくるのである。P161~162

◆さまざまなものの見方の練習をしていると、与えられた僅かな情報から、その意味をつかみとる能力が、だんだん増大するものである。水平的思考に慣れると、偶然によって情報をつかむことができ、偶然によってアイデアを関連づけることが、ますます上手になってくる。アイデア自体が変わるのでなく、アイデアを”収穫”することに慣れるのである。P169

◆新しいアイデアはたいてい、まともに探し求めたことによってでなく、むしろまったく無関係なことからヒントを得たり、推し進められるものである。
 このアイデア開発の思考過程は、ものごとを遂行する方法としては回りくどいので、論理的方法でやれば、もっと直接的に達成できるといえるかもしれない。しかし、論理には、それが働く方向が要求される。
ところが、アイデアというものは、大半、一定の型にはまった方法に固執しなかったからこそ生まれてきたのである。P195

◆型にはまった教育をいくら受けても、水平的思考の習慣は開発されない。新しいアイデアを生む能力は、長年にわたる垂直的思考にも染まることにない、生来の適性の問題である。だが、水平的思考にある程度熟達すれば、それが役立って、誰でも新しいアイデアの開発ができるようになるだろう。P213・214

◆水平的思考は技術の習得でなく、むしろ一種の頭脳の習慣である。この習慣は、特殊な訓練で体得できるし、意識的な方法でできるはずである。P215

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October 28, 2018

創造力の重要性はいつから話題になっているか?

論理力も大切だが、論理を超えた発想力も大切である。

(1)耳の聞こえない人のために音が鳴ると同時に光って合図する電話を作ったが、役に立たなかった。なぜか?

(2)100円玉1個、50円玉2個、10玉3個で、何通りの金額の支払いができるか?

(3)私は3000万円の家を2割引きで買った。その後、知り合いに買い値の2割高でゆずった。私はいくら得したか、あるいはいくら損したか?

・・・(1)は、「電話が光ってもに気づかないことがある」だと考えた。
正解は、いくら電話に出ても、相手の話が聞こえないから。これが「そもそも耳が聞こえないなら、電話が利用できない」という事実を忘れてしまうと正解にたどりつけない。
このパターンなら着信をバイブで知らせても役に立たない。

・・・(2)は、総額230円だから、おつりをもらうことを考えたら1円から230円までの支払いが可能というのが正解。
100円+50円+10円2枚というような組み合わせで考えたらアウト。

・・・(3)は、2400万で買って、その2割高で譲ったのだから2割分の480万の得。
最初の3000万円という数値を無視できないとアウト。

 これらは多湖輝氏の「頭の体操(5)」の問題からの引用(改作)。
「頭の体操」には、明らかに論理的に解くものもあるが、時々ひっかけのようなものが含まれている。
 ひっかけを含んだ幅広い思考力・発想力・問題解決力・常識を疑う能力は、最近のクイズ番組でも求められている。暗記力の勝負だけでは視聴者も満足しないからだろう。
 たとえば、「東大ナゾトレ」のシリーズが書店に並んでおり、キャッチコピーは以下の通り。

◆「頭がやわらかければ小学生でも正解できるが、頭が固ければ大人でも苦戦してしまう問題が満載。試されるのは、あなたの知識ではなくひらめき力です!」

・・・「ひらめきが大事で、クイズやパズルが大流行」というのは今に始まったことではない。
1966年に発刊された多湖輝の「頭の体操」は20集までシリーズ化され、第1集だけでも250万部を超えたと言う。

1999年に復刻された第1集(光文社)のまえがきには次のようにある。

◆当時と比べると時代はすっかり変化し、隔世の感がある。しかし、政治、経済等どの分野をとってみても、今の日本には型破りの発想をするエネルギーが感じられない。
 いやむしろ今の人のほうが「常識」や固定観念に縛られているようにさえ思える。既成の枠にとらわれていたのでは新しい変化に対応できないことはいつの時代でも同じである。

・・・1999年はAIに代替えされる心配など全くなかった時代だが、やはり、既成の枠にとらわては新しい変化に対応できないことが問題視されていた。 
しかし、20年前の多湖氏の指摘は今なお同じだし、ますますニーズが高まっている。
「発想力」「独創力」「ひらめき」「柔軟な思考」「やわらか頭脳」など言い方は様々だが、いずれにしても、今話題の「AIに代替えされないために人間に求められる能力」と同じ意味である。
「既成概念にとらわれない柔軟な発想を」という提言は、実はもっともっとルーツは古いのかもしれない。
 思いもよらぬ発想力・アイデア・独創力はどうやって指導していけばよいのだろうか。
 暗記力だけを評価していないか。
 論理的思考だけを評価していないか。
 そんな点も留意しながら、深堀りしてみようと思っている。
 1960年代に話題になったという「水平思考」にまでさかのぼる必要がある。

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